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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
品川夏空模様
11/187

化けて出たお話(3)

 日が傾き始め、日本橋の通りも、交通量が増してきた。風俗街ともなれば、やはり賑わうのは夜なのである。

 派手と伊達で名を売った大店、大紅屋は、今日も格子窓の向こうに陰間を並べ、道行く者に声を掛けさせていた。

 だが、もしもここで常連が、ふと立ち止まって眺めたならば、馴染みのない顔をそこに見つけただろう。


「似合ってるよ、とても。それどころかほら、鏡をごらん、これなら此処に座ってても恥ずかしくない」


「それ、全然褒め言葉になってない……うー、幾らなんだってあんまりだー……」


 村雨は、涼しげな青に鵲を描いた振袖を着て、結い髪のかつらを被って座らされていた。

 着飾るのが嫌なのではない、寧ろ少しばかり楽しんでいる。普段は決して縁が無い上質な着物に袖を通すのは、少女には心躍る事だった。

 嘆くべくは二つあり、一つには、自分が着せ替え人形の様に扱われた事である。犯人は当然ながら雪月桜。あれは雰囲気が合わない、これは髪と色が釣り合わない、とっかえひっかえ試着した数は十以上。あからさまに桜は、これと決めるのを遅らせていた。

 それでもまだ、完成した姿が場に馴染んでいた為、一度は村雨も機嫌を直した。が、真に悲しむべきは、事情を説明してもらった上で、通りに面した控室に入ったその時に起きた。

 自分がその中に紛れ込んでも、あんまりに違和感が無さ過ぎたのだ。主に胸回りが、である。周囲に比べて骨格の華奢な村雨は、成長期に差しかかる前の少年の様な、中性的な風情を醸し出していた。が、胸まで中性的と言うのは、これは女として辛い、辛すぎる。別に晒で潰していたりする訳でもないのに。


「これは私の心を折る為の桜の罠に違いない……いいや、きっとそうだ、そうなんだ。心の隙間に付け込むつもりなんだ……」


 目が虚ろである。現実を直視したくない場合、人はこのような目になるのかも知れない。自らの圧倒的な敗北を刻まれて、心を痛めつけられた、悲しい目だった。


「あはははは……いや、その、君はまだ十四歳なんだからさ、これから先に幾らでも可能性は有る訳で――」


 男の場合は兎も角、女で十四となれば、既に大方、将来の体つきなど決まった様なものである。男と女の成長期はずれているのだ。こればかりは、女の姿を真似る燦丸も、気を回せない所である。取り繕う言葉も見つけられず、燦丸は乾いた笑いを上げるばかりであった。


「――ん、いらっしゃったみたい」


 笑いが止み、燦丸は格子窓から通りを覗き込む。果たして、問題の人物がやってきたらしい。打ちひしがれる村雨も、頭を仕事の用途に切り替える。


「……お供は居た?」


「いいや。いつも通りにお一人だ、お連れは居ない。震えてるのも、何時もの通りだね」


 燦丸の横に並び、村雨もその男――垣右衛門を見た。陰間遊びに狂ったのは四十過ぎと聞いていたが、既に総髪白く、皺も深い。五十と言われても素直に頷けるざまである。

 膝が思うように伸ばせないのか、僅かな距離を進むにも難儀しているようだ。杖を持つ手はひっきりなしに震え、支えとしては酷く不安定なものでしかなくなっている。落ちくぼんだ目、黒々とした隈。男の形相は、幽鬼と見紛うばかりであった。


「あれで、その……大丈夫なの? 下手なことしたら、本当にぽっくり逝っちゃいそうで怖いんだけど……いや、生きてるとしたら、だけどさ」


「酒毒に浸かった人と同じ、いざとなると震えが収まる。不思議なものだよね……さ、お仕事お仕事っと」


 あの死人面に愛を囁き、色を売って金を取る。陰間もまた、騙す事を生業とする役者なのだと、村雨は改めて思い知らされる。玄関先から燦丸の、待ち人来たりと歓喜に咽ぶ熱演が聞こえた。垣右衛門に肩を貸し、燦丸が店の奥へと完全に消えてから、村雨は振袖の裾を捲って行動を開始した。




「おや、村雨のお嬢さん、よくお似合いで。部屋追いだされたんで見られませんでしたが、こういう格好も悪うござんせんねぇ」


 店の奥、厨房まで入ると、でんと太った中年の女が、村雨に声を掛けてきた。口調から察するに源悟であろう。料理、配膳と一通りこなした後は、時間潰しに厨房を手伝っているらしかった。


「ほんっとうに多芸だね……それよりさ、どうだった?」


「ああ、ありゃ間違えねえ。仕入れ問屋の垣右衛門だ……ちくしょう、思い出したらまたぞろ寒気がぁ……」


 死んだ筈の人間が、確かに目の前に居たという事実に、源悟はがたがた震えている。生きている相手には強気に出られるのに、幽霊かも知れないとなれば、くたびれた白髪男にすら怯える。その不安定さがどうにもおかしくて、村雨はつい噴き出してしまった。


「笑いごとじゃあねえんですよぉ、垣右衛門は半年前に死んだんだ。親戚連中掻き集め、馴染みの女まで呼んで、合わせて五人がとこに確認させたんだぁ……ああ、なんまんだぶなんまんだぶ。仏様仏様、どうかあたしをお守りくだせぇ……」


「あのねぇ……怖がってても仕方ないでしょ、しっかりしないと後で桜に殴られるよ」


「ひえぇ、そいつぁもっと怖え! 働きます、働きますから!」


 宥めすかすまでもなく、この男を動かすには、たった一言で済むから楽なものだ。肥満体の女性の姿そのままで、源悟は村雨の一歩後ろを付いて歩き始める。横へ並べ、とまで非情な事は言わない。この程度の怯えは妥協していいだろう。


「して、こっからあたしはどうすりゃいいんで?」


「燦丸に言われた通り、店の中を一通り回るかな。その間に、事情を知らないお客さんとかに会っちゃったらさ、ほら、上手く誤魔化してちょうだい。私が下手にしゃべったら、何かボロが出そうな気がして……」


「ふむふむ、確かにその鈴の様なお声じゃあ、少年にしても高すぎますからねぇ。おうさ、引き受けました。この源悟の舌三尺、どうぞご期待下さいますよう」


「長い長い長い、垢舐めじゃないんだから」


 陰間茶屋は、他の遊女屋に比べ、陰間による料金の格差が小さい。遊女屋の場合、二百文そこそこで遊べる者もあれば、累計五十両以上も出して、やっと一回の床入りが許される高級遊女も居る。一両はおおよそ四千文だから、実に千倍もの開きが有るのだ。それに比べれば、陰間遊びは料金が安定している。一昼夜借り切りで二両から三両、安くはないが、これが極端に跳ね上がる事がない。

 なぜかと言えば、陰間茶屋では基本的に、まずは客人に酒食を振舞うからなのである。遊ぶ為の料金には、食事・酒・酌代、更には三味線や舞いの見料が含まれているのだ。この為、下級の陰間であろうが上等の陰間であろうが、客さえ付けば平等に、相応の儲けは出るのである――見方を変えれば、陰間の方が最下層の質が高かったのだろう。ただ抱かせればよいというものではなく、飲み食いの時間を楽しませなければならないのだから。

 ところで、大紅屋は、食事の内容にこだわりが有る。味にではない、少量で満腹になるかどうかに、だ。請求金額の内訳は、客には知らされない。ならば食事は見た目だけ整え、少しでも利益を大きくしようというのである。白米は常に大盛りで、安酒を水の様に飲ませるのもその為だ。

 このやり方には副産物が有る。ことに及ぶまでの時間が短縮される為、客の回転速度も上げられるのだ。先にお代を受け取ってしまえば、早く終わろうが客の不甲斐無さが故か、或いは腕利きの陰間の証。働き者の陰間なら、儲けも増えて万々歳である。

 こうして長々と大紅屋の仕組みを述べたのは、つまり食事に費やされる時間は短いのだという事を示す為である。飲食が終わればその後にする事は決まっている訳で、完全に日が沈むころには既に何人かの客が、馴染みの陰間と床に就いているのだ。


「………………」


「……あー、あの、お嬢さん……いやですね、世の中は色々と珍しいものも有るもんでして」


 店の中を探って歩きまわる村雨と源悟は、非常に気まずい雰囲気に包まれていた。襖が閉じた部屋へ近づく度、村雨が耳を塞ぐからだ。この店で襖を閉ざすのは、立ち入ってくれるなという意思表示である。


「……ここも、何も無し。次行くよ」


「へ、へえ……後は向こうの廊下くらいでしょうか……」


 言葉少ない村雨だが、その顔はもう、ほおずきも形無しの朱に染まっている。人間の手は薄すぎて、聞こえてくる音を断ち切るには物足りない。意識するまいとすればする程、床の軋みやら荒い息遣いやら、方々から聞こえてしまうのだ。

 本当なら、全力で走って早々に調べを終え、控え室か厨房にでも逃げ込んでしまいたい。が、騒ぎを起こさない為の幽霊騒動調査で、そんな事をしては本末転倒だ。足音一つ立てないように、そろり、そろり、村雨は進むしかなかった。着物を着ると重心の位置が低くなり、洋装と同じようには歩けないのだ。

 そこを通り過ぎた人間の臭いを探る為、廊下にしゃがんで鼻を動かせば、化粧の臭いがいくつも流れてくる。そして当たり前の様に、交合の末の臭いも、だ。村雨でなくとも、少々鼻の利く人間なら、人ごみの中で嗅ぎとれる程度には強い臭いなのだから。


「……源悟ぉ」


「そんな顔をされても、あたしゃなんとも……」


 村雨は、もう泣きそうな顔である。いや、既に大きな目一杯に涙を湛え、しゃがめば振袖にそれが落ちる程だ。女中姿に化けた源悟は、心中を察する所はあれど、どうする事も出来ずに目を逸らすのだった。

 大陸より渡ってきた村雨は、同性同士など異常な事と思っている。この国の価値観には馴染んできたが、まだ同性愛が一般的である事を受け入れられない。店の何処へ行っても、その異常から逃げられないのだから、当惑の大きさは如何程だろう。村雨の涙は羞恥と混乱の混ざったもので、この場所を歩かされている境遇への悲しみではない。

 が、怒りなら幾分か混ざっていただろう。そもこんな事になっているのも、自分の雇い主のせいである。今朝も遊女を相手にあの調子、昼まで起きてこない。良く分からない話を軽々しく引き受けて、そのとばっちりは村雨に回される。いや、同性愛への忌避という問題からすれば、あの川辺での一件は――


「ううぅ……うー、うー……!」


 あれやこれやと思い返すと、あらん限りの言葉を以て、桜に文句を叩きつけてやりたくなった。叫びだしたくなる所を、毛を逆立てた猫の様に唸って耐える。何時もの癖で髪をかきむしろうとして、かつらを被っていた事を思い出す。


「おや、こんなところに可愛らしい子が……どうしたんだね?」


「――――!?」


 壁に向かって蹲り唸る村雨に、背後から声が掛かる。源悟も、どうやって村雨を宥めようか考えていた為、うっかりそれに気付かなかったのだ。

 そこに居たのは、いかにも遊び慣れていそうな、品と恰幅の良い男であった。身に付けた衣服は、上方で流行りの洋装である。明るく派手な色使いだが、それに飲まれて道化にならない程度に、男は優れた遊び人らしかった。

 鼻をぐすぐすとさせながら、村雨は立ちあがるより先に振り替える。男は目が良くないのか、村雨の顔を近くで眺めようと腰を折った。


「……ほう、挨拶程度の冗談だったのだが、本当に可愛らしいね。初めて見る顔だ……新入りかい?」


「あ、あー……あぅ、うぅ……」


 感情がぐしゃぐしゃに混乱している状況だった為か、村雨は目に見える程に取り乱す。新入りという事にしては居たが、その為の口裏合わせなど全く行っていなかったのだ。涙を拭く事も忘れて口をぱくぱくさせる村雨は、どうやら一部の趣向の人間には、気に入られやすい顔をしていたらしい――雪月桜を筆頭とする、一部の加虐趣味的人間に。


「こっ、この子は、はい、新入りでございます! こちらで引き受けていただけるやもと、大紅屋清重郎様に顔見せの帰りでございまして!」


 第一声が裏返りながらも、落ち着くのはやはり源悟の方が早かった。すかさず横から割り込んで、会話の対象を自分に移そうとする。


「そうかいそうかい、何時から店に出るんだね? 今日は別な子と遊んでいるが、その時には私が――」


「はい、それが、その――少々、この子は問題が有りましてですね、預かって頂けるか分からねえんです」


「問題? 見た所では、そう困る事があるようにも見えないが……」


 一部だけ素を出しながらも、源悟は外見相応、よく喋る中年女中と言った口調を保つ。言い訳に悩んでの表情が、この裕福な客には、本当に複雑な事情を抱えているように思えたらしい。村雨から一度離れて、源悟の方に一歩だけ寄り、続きを静聴する姿勢を取る。


「この子は……この子は、先程お聞きの通り、口が利けないのです。かれこれ数年前、流行り病で両親を亡くしてから……昔は、良く笑う明るい子で、聡明な少年でございました」


「なんと……」


 なんと、とは村雨が言いたい事だった。どうやら源悟、この短時間で村雨を、悲劇の主人公に仕立て上げようという腹らしい。が、与えられた台本が、言葉を発せずべそべそ泣いていれば良いものだったから、異論は差し挟まない、差し挟める状況でもない。出来る事は、精いっぱい瞼を開いて目玉を乾かし、涙を絶やさないようにする事である。


「父も母も言葉を無くして、頼る者は無く……私も手を尽くしましたが、引き取ってくれる者も無し。喉だけでも癒してやりたいのですが、その為の薬は、お大尽様とて容易く手が出るものではなかったのです。十四になってもこの白さ、細さ、力仕事など出来ません、まして幼い頃に戻った心……もう、働ける場所はここしか……」


「……っ、そうか、それは……辛かったね……」


 裕福そうな男は、本当に善人であるらしい。源悟が語る村雨の境遇(の作り話)を聞いて、心から同情の涙を流している。いたたまれなくなった村雨は、あぁ、とかうぅ、とか適当な声を出しながら、振袖の袂で顔を覆った。男があまりに人が良いので、眩しくて直視できなかったのだ。


「世間の風は辛うございます、恐ろしい目にも遭いました。例えどれほどお情けを掛けられようと、知らぬ顔を見れば慌てふためき、これこの通り。お願いでございます、旦那様、どうか今宵ばかりはお目こぼしを……」


「……すまなかったね、知らない事だとは言え……ああ、私はもう行くよ」


 相手の事情を知らず、ずけずけと踏み込んでしまった(と思わされた)男は、深く頭を下げてから懐に手を入れ、一分判(四分の一両)を二枚取り出した。


「だっ、旦那様!? それはいけません、私らの様なものに、その様な過大な……」


「いや、良いのだ。私は十分に富を持っている。必要な所にこそ金は行くべきなのだよ」


 恐れ入る源悟の手に無理やり一分判二枚を押しつけると、男は盛大に鼻を啜りながら、座敷へ戻っていってしまった。


「あんら、まぁ……」


「えぇー……お金持ちって、本当に居る所には居るんだね……」


 足音と臭いが遠ざかり、泣き真似を止めた村雨。一分金を手に大弱りの源悟と顔を見合わせた。


「源悟、あれはやりすぎだってばー……」


「だってお嬢さん、ここは陰間茶屋でござんすよ? こういう話は下駄を履かせて、何倍も盛ってると受け取られると思い……そ、それに元は、お嬢さんが喋ったらばれると思ったからで……!」


「う……それは、否定出来ないけど……でも、ばれなかったじゃない! ほら、結構近くで見られたけど、結局最後まで男だと――う、うわーん! みんな大っきらいだぁー!」


 小声で責任の押し付け合いをしていた二人だが、最終的には村雨が、自分の言葉に傷ついて折れてしまった。そうまで自分は女らしくないのかと、僅かな矜持が根こそぎ持っていかれたのである。涙の理由に言い様の無い悲しみまで加わって、本当に泣き出してしまった村雨。


「うぅ、ひっく、ぐす……――、ん、え?」


 それが、弾かれた様に顔を上げる。きょろきょろと顔を動かし、何かを見つけたかの様に、ある方向だけに目を向け――


「――源悟、桜を呼んで。先に行ってるから」


「へえ、分かりやした。急ぎます」


 振袖が動きにくい。音を立てない事は諦めた。どうせ此処から屋内劇場まで、あまり距離は開いていない。

 そう、異変は屋内劇場の方向から。鼻程ではないが鋭敏な村雨の耳は、人が争う様な音を聞いたのだ。



「やめてください、垣右衛門様! 放して!」


「燦丸、燦丸! 迎えに来たのだぞ、半年も待ったのだぞ、何故躊躇うのだ!」


 廊下の奥の戸の先は、劇場を囲う開けた空間。村雨が飛び込んだ時、燦丸は、垣右衛門に腕を掴まれ引きずられていた。


「……っ、何をしてるっ!」


「寄るでないわぁっ!!」


 もう、こうなってしまえば隠すも何も無い。狭い部屋ではないのだ、外へ漏れる声が少量である事を祈るしかない。垣右衛門に飛びかかろうとした村雨は、彼が左手に短刀を構え、燦丸に突きつけているのに気付き、動く事ができなかった。


「冷たかったぞ、川の水は。寒かったぞ、土の下は! ようやく、ようやく這い出してきたのだ! 邪魔などさせるか! 私と燦丸の間に、何人たりと踏み入らせるか!」


 口角泡を飛ばす垣右衛門の形相は、知性ある人間の物とは思えなかった。妄執に取りつかれた果ての凶行か。


「そうだ、迎えに来たのだからな、もう一人ではないのだからな。行こうぞ、共に行こうではないか、燦丸、燦丸!」


 玄関先で見たような手の震えも無い。短刀の刃は良く手入れされている、喉を裂くなど容易い事だろう。誰かを殺すのに、あの短刀は十分過ぎる凶器だろう。

 村雨は、かちんと来た。垣右衛門が亡霊かどうかなど、この際どうでも良くなっていた。


「……何がしたいのよ、あんたは。好きだ好きだ言ってる相手に、そんなものを向けて……」


「連れていくのだ、連れていくのだ! 暗い路を、あの暗い路を、私は一人で帰りたくない! 燦丸があの日に共にあれば、冬の川の寒さなど知らずに済んだのだ! お前に分かるか、顔の肉が一寸刻みに削がれる苦痛を! 我が身が腐敗し膨れ上がり、崩れ落ちていくおぞましさを! 今生の栄華の全て、あの苦痛を逃れる為ならば捨てさっても良いのだ! ……ああ、だから燦丸が居なくてはならない。燦丸さえ居れば寒くない、暗くないのだ! 分かるか、お前の様な小娘風情に分かるかぁっ!?」


 燦丸の腕を引き、立たせ、喉に短刀を突きつける垣右衛門。寄らば刺す、刺して殺す、そう言っているようだった。尚更、余計に腹が立つ。


「知るかそんなもん! 好きな相手殺そうとする馬鹿の事なんか、何十年考えても分かる訳ないでしょうが!」


 好きだ好きだと言うくせに、垣右衛門の情愛は全て、我欲と共に有る様に思えた。自分の苦痛を和らげる為、寂しさを埋める為、誰かを求めているだけに思えた。そんな事の為に誰かを殺そうというのが許せなかった――自分が、それが気まぐれな物だとは言え、欲も慈愛も向けられているが故に。


「わ、分からぬと!? 私の愛を理解せぬのか!? 私と燦丸の絆を、その様な低俗な言葉で愚弄するか!?」


「だったら! どうしてあんたは、燦丸が泣いてるのが見えない!?」


「――――!?」


 その言葉は、鞭のように、垣右衛門の背を打った。喚き散らす垣右衛門が、来店した時の様に震え始める。短刀の切っ先が燦丸の肌に触れそうで、気が気ではない。


「……燦丸、お前は。お前は、私を――」


 愛しているか、と、口の動きだけが問うた。声が出なかったのは、見てしまったからなのか。


「垣右衛門様、やめて、助けて……」


 涙が薄化粧を溶かし、美しい顔を滑稽に飾っている。怯え竦み、泣き崩れた燦丸の顔は、とても美しいとは言い難かった。艶然とした微笑みで人を惑わす毒華はそこになく、ただ踏みにじられた雑草の様な少年がいるばかりだった


「……ああ、あああ……そんな、嘘だ、そんな……」


「分かったでしょう、それを捨てて。もう、そんな事をしてても、誰も――」


「嘘だ、嘘だっ! そんな事は無いのだ! 有り得ないのだ! 嘘だぁっ!!」


 垣右衛門の狂は、その火を一層強めた。血も吐かんばかりに叫び、天井を仰ぐ。だん、だんと床を踏み鳴らし、首を振り回し――不意に、燦丸を連れて走った。


「しまっ――――!」


 垣右衛門の立っていた位置は、屋内劇場の扉の手前。一方で村雨は、空間に踏み入って直ぐ、動けずに立ち止まっていた。間合いは数間、詰めるにはどうしても三歩掛かる。二歩手前で扉が閉まり、一歩手前で内側から閂が掛けられ、村雨は肩から扉にぶち当たり、弾きかえされた。


「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ有り得ぬ有り得ぬ有り得ぬ! 燦丸、何故だ! 永遠にと誓ったではないか!? ああ、ああああああっああああ!!!」


「垣右衛門様、お気を確かに――うわ、あああっ!?」


「っく……開けろ、開けろってば!」


 頑強な扉だ、村雨がの力では、蹴りつけてもびくともしない。体当たりを仕掛けようが、少し閂が軋んだ程度で、弾力で村雨は弾かれる。劇場内で繰り広げらる狂乱も、伝わるのは声ばかりだ。がん、がんと聞こえてくるのは、何を床に叩き付けているのだろうか。


「あああああ、嫌だ嘘だ嫌だ嘘だ嫌だ、ああああっ、燦丸!! ああああああああああああぁっ!!!」


 寒気がする。人はこうまで狂えるのか。愛とやらに溺れて、獣に堕ちる事ができるのか。早く黙らせてしまいたくて、村雨は扉に体を打ちつけ続ける。


「垣右衛門様、垣右衛門様ぁ―――!」


――その内、妙な事に気付いた。もう、垣右衛門の声は聞こえないのだ。聞こえてくるのは、燦丸の声だけなのだ。


「え、あれ……?」


「どけ、村雨!」


 何が起こったか分からず、立ち尽くす村雨。体が横に引っ張られたと思ったら、目の前の扉が、破裂したように道を開けた。桜の拳が外側から衝撃を貫通させ、閂を砕いていたのだ。

 直ぐに、我を取り戻す。源悟が屋内劇場へ飛び込むのを見た。村雨も後を追う。


「……おい、どういう事だ、これは」


「か、垣右衛門様が、目の前で、僕の目の前で……」


 劇場の中では、桜が、源悟が、床に座り込んだ村雨の前に立っていた。動こうとしない。何が起こっているか、二人とも把握出来ていないのだ。

 劇場の中には、四人しかいなかった。入った順に、燦丸、桜、源悟、村雨である。


「垣右衛門様が、消えた……」


 吠え狂っていたあの男は、劇場の何処にも居なかった。元からそこに居なかったかの様に。或いは、この世から消え失せたかの様に。

 あの叫びがもう一度聞こえた様な気がして――村雨は、誰もいない背後を振り返った。

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