雪中夢のお話(7)
それからは、ただの馬鹿騒ぎである。
前日に男衆が用意してあった箇所まで赴いて、設置された鍋で雪を溶かし、湯を沸かして、熊やら鹿やら猪やらの肉を投げ込む。氷室に眠らせていた野菜も投げ込んで、米も別に焚いてからぶち込んだ。とにかく、喰えるものは何でも放り込んだ。
鍋の巨大な事と言ったら、江戸の銭湯の風呂釜のようである。小さいとは言え、まがりなりにも一つの村だが、その大半に行きわたる量を作るからには、化け物の様な鍋でも当然であった。
雪を押し固め、倒木を椅子に、村人達は浮かれ騒いだ。櫓の前で飲み交わした様な、おかしな薬草混じりのものとは違う、真っ当な酒である。健全な酔いに身を任せ、美味をたんと貪った。
〝山ン主〟たる八重と、その〝夫役〟を務めた桜は、一番の上座に在った。ごった煮鍋とは別に、二人には『熊の掌』が備えられていた。蜂蜜のたんと沁み込んだ熊の掌は、肉の柔らかさや一頭から取れる部位の大きさもあり、この雪国では馳走であった。
「露骨な祭りだなぁ」
熊の肉ばかりか、肉の内側の指の骨までを噛み砕きながら、桜はさも楽しげにそう言った。
露骨というのは、先程まで自分が為していた、舞いの事を差している。
勇壮な剣舞であった。だが、同時に淫らな――〝見立て〟の舞いである事は、太刀を振るう桜こそが、最も明瞭に理解していた。
身を伏せる様は、横たわる娘のようである。伸び上がる様は、覆いかぶさる男のようであった。胸の内に八重を呼び寄せて、抱きしめるように腕を閉じた事もある。八重はその時、屈みながら頭を桜の腹に預け、脚に触れながら、するりと腕から逃れた。
四肢を躍動させて衆目に晒す〝舞い〟は元より淫猥な性質の動作であるが、二人が身体を近づけて、同じ終わりの為に進む――夫婦の舞いは、尚も過剰に、情欲そそる仕草であった。
「分かり易い事を、好む者もおおいのよ。誰もが平安、平城のように、秘すが華と生まれたと思うでないわ。
寧ろいにしえの、夏の盛りに祭りをしていた頃合いは、尚も酷かった。男が耐えられんでの、あの場で交わり始める事まで有ったわえ」
「獣のようで増々結構。私も慎ましいとは言わんが、そこまで乱れた記憶は無いぞ? 全く僻地の奇祭とは、及びもつかぬものばかりだな……」
「他の事例を知ったような口よの?」
「奇妙という事だけならば、雪上を裸形で駆けまわる祭りを見た。毎年毎年、誰かは死ぬので、何年か後には無くなっているのではないか? 後は……ああ、そうだ、熊追い祭り」
「熊追い?」
「うむ。遥か西の国で、牛追い祭りなる奇祭が有ると聞く。それを真似しようとした阿呆が、大陸に居たのだ。何処からか捕まえて来た熊を、腹を減らすまで待って檻から放った」
たった今、二人が喰らっているのは、日の本に住む小さな熊の掌だ。比して、大陸の熊は〝でかい〟。
背の高さもそうだが、とかく骨が分厚く、肉も多い。そして恐るべきは、身に纏う大量の肉が、贅肉ではなく筋肉であるという事だ。
人の頭など一撃で叩き潰す前腕と、巨重を木の上に運ぶ頑強な爪。殴られても蹴られても、場合によっては銃で撃たれてさえ致命傷にならぬ体――そんなものを、〝速く走る〟という一点に絞るとどうなるか――これがまた、とんでもない事になるのだ。
平地ならば、馬とまではいかぬが、下手な犬より速い。無論、人の足ではまるで及ばない。そして何より、牛ならば角で突き上げるだけに留まるが――いや、それはそれで死ぬ危険は有るが――熊は爪と牙で、容赦無く人を襲う。
「……酔狂じゃのう」
「ただの狂人の気まぐれだった。死人が出る前に、私の師が熊を三つに切り分けたが、さもなくば何人が死んだ事かな……あれより酷い祭りは知らんが、此処もまあ、中々だ」
とんでもない昔話をからからと笑い飛ばして、桜は酒を飲む。杯の様な洒落た道具は無く、椀に注いで、雪の粒と共に呑み干すのだ。良く冷えて、美味であった。
「して、これで終わりではあるまい」
「うむ」
八重は、立ち上がりながら答えた。その目が一度、飲み騒ぐ村人達をぐうるりと見渡した。
誰も誰もが沸き立っている。大人も老人も、子供まで、椀を傾けては鍋の肉を喰らい、雪の上で騒いでいる。鍋をつつく者は例外なく顔を綻ばせているが、然程の美味かと問われれば実際の所、桜にはそうも思えなかった。
何せ、舌が肥えている。美女を抱き、美酒を煽り、そのついでに美食を楽しむ。その生き方を、江戸の町で続けてきた女である。
だが食物の味とは、単独で決まるものでもない。夜空までを焦がさんばかりの熱気は、ただの煮汁をして、料亭の吸物より尚も上等な味わいに変える。村人が喰うのは鍋だけでなく、祭りの臭いそのものであるのだ。
その幸福を耳で楽しみながら、八重は、ここまで登って来た山道をまた、真っ直ぐ逆に降り始めた。
「何処へ行く?」
「村よ」
後を追った桜に、八重は振り向かずに答えた。
「今宵の祭りを、遂げるのよ」
青前は、広い村では無い。
山間の小さな集落であり、大江戸八百八町や洛中の様に、近代的な建物の一つも無い。夜間を照らす街灯の、一つとて有りはしないのだ。
今、大人や老人、それから幼い子供は、皆が山へ登っている。残されているのは、十三歳から十九歳の若者達だけである。そして――その誰も、家の外には出ていないのであった。
月の無い夜である。色濃い雲が空を、雪が地表を覆っている。ごうごうと寒い、夜であった。
だが、冬の夜は、雪を知らぬ人が思うより明るいものだ。僅かな灯りも逃さず、白と銀色の間くらいになった雪が拾って、照らし返すからだ。
その『僅かな光源』とは、家々の窓の隙間から零れる、炎の色であった。
暖を取り、室内を照らす為、竈を燃しているのかも知れない。それは、踏み入ってみなければ分からない事だ。だが、室内が外よりは明るく、だが互いの顔を眺めるには、鼻先が触れるまで近づかねばならぬ程度には暗いと、その事は、覗き見をする八重にも、そして桜にも良く分かった。
「無邪気なもの、よのう」
「そうだなあ……いや、そういう問題か?」
村の広場からそう離れていない一軒の窓を覗いていた八重は、さも愉快という顔をして離れる。そうして出来た空間に桜が割り込んで、同じように、家の中を覗き込んだ。
そこでは、一組の男女が交わっていた。
男女とは言っても、どちらもまだ、幼い体つきである。桜は二人を、何れも十四か十五と見定めた。特に女の側は、体は丸みを帯び始めたが、まだ脂肪が足りていないように見えた。髪は短く、首の後ろで纏めてあった。
二人は睦言を交わす事も無く、必死に体を重ねていた。恋仲の二人であるように見える。互いに背に回す腕が、少し赤くなるほど、力が込められているのが分かった。
「無邪気と言うて、おかしな事があるかえ? 見よ、獣も鳥も虫も、あのように真剣な顔はせんわえ。子を為せば良しとする禽獣と、こればかりは、はて、随分違うものよのぅ」
「悪趣味な事だ。……あっちの娘、見覚えあるな」
桜は、抱かれている娘の顔を思い出そうとして、暫し目を閉じた。村を訪れてからの、そう長くない日数の中で、何度か見た顔だった。村長の家から数間離れた所にある、他より少し広い田を持つ家の、一人娘だと気付いた。
「女から、夜這いか」
「好いた側から、よ。どちらという決まりも無い、定める意味さえが無い。好いて、己から迫るのが男だけとは、つまらぬ道理ではないかえ?」
「ふむ」
「何百年とこの村は、このやり方を続けてきた。実に獣染みた生き方と、外の目から見れば思うやも知れぬ。然しのう、人と獣の間に、どれ程の違いが有ると見る?
骨の上に肉が有って、肌が張っている。毛の濃さはまちまちではあるが、それは些細な事よ。人が言葉を使うように、獣も吠えるぞ? 何より――」
「人も獣も、生きて、死ぬ、か」
「上等」
言葉を交わしながら、二人は歩いた。そして道中の家々を覗き込んでは、何もせずにまた目を離す。
村は程良く淫猥で、しかも活気に溢れていた。生きている気配が、そこらじゅうに有った。桜は、己もまた獣の一頭に成り下がったように思いながら、浮かれた様に歩いていた。
面白いかと聞かれたら、桜は困った顔をしただろう。この感情は、そういう理性的な所から湧いたものでは無いのである。ただ、暗がりの中で動く二つの体を覗き見ていると、酒と薬草で昂った体が、何か古い感情を思い出すのだ。
「然し、良いなぁ」
「ほほう」
それは、懐かしささえ伴って、桜の腹の内側を、ぐいぐいと引っ張るようであった。腹の底から上る声も、自然と上ずっている。
「江戸の女を、思い出したか?」
「それも有る」
肯定し、桜は歩く。歩幅は狭く、足音は無い、ゆったりとした歩き方だ。
明瞭でない肯定を八重は受け取り、また先へと歩いた。
何処へ向かっているのか、桜はなんとなく感づいた――が、気を回して、一つ、問う。
「さきが、おらんか?」
「いいや、おらぬ。左手の家を覗いてみよ」
どれ、と桜は右目を瞑り左目は細めて、扉の隙間から、八重が言う家の中を覗いた。
「おう、こっちに居たか」
「村長の家は空家よ、邪魔立ての懸念は無用ぞ」
左手に有った家の中では、さき――村長の娘姉妹の姉と、祭りの始め、櫓の上で笛を吹いていた少年が逢引をしていた。
妹の影に隠れて、大人し過ぎるきらいの有るさきが、今は情熱的に愛を囁いて、手足を少年に絡めている。
そういえば、山小屋に閉じ込められた村長の晟雄を助け出した時、晟雄の目もはばからず、あの二人は抱き合っていたように思う。父親、狩人の棟梁が苦々しい顔をしながら、それを咎めなかった事も思い出した。憎からず思い合っていた二人が〝そういう祭り〟に投げ込まれたら、確かに〝そうなる〟のも頷けた。
「あの、さきがなぁ」
「いずれそうなる日が、今宵であったというだけのことぞ、のう?」
それにしても、と。桜は馬鹿に真剣な顔で、覗き見を続けて居た。
さきは一体痛みを堪えているものか、それとも笑っているものか分からぬ顔であった。家の中が暗いのも祟った。夜目は利くと自負する桜だが、流石にこの月も無い夜、全てを見通す事は叶わなかった。
それでも、微かに聞こえてくる声は、喜色が濃いと思えば、桜は自然に笑っていた。愚弄するでもない、愉快と思うでもない、ただ笑っていた。
「して、八重よ。これだけの為に、ではあるまい」
「左様、左様」
八重は、やはり雪上に足跡を残さぬままで、村長の家へと入る。桜もまた、後を追って留守宅へ上がり込んだ。
十日ばかり居候をした村長の家は、桜にはもう、すっかり馴染みとなってしまった空間であった。
然程高くも無い天井と、家の全てに暖気が通るよう、一段低くなったところに作られた竈。壁は厚く、窓は板張りで、外から蓋をするように板がもう一枚。戸も二重で、煙が逃げる道の他には、隙間も無い作りであった。
案外に暖かく、そして明るい。火が、ごうごうと強く燃えているのであった。
家主の留守の間も燃されて居た炎を見れば、『村長の家』がどうして、逢瀬の場となっていなかったかも理解できる。山ン主の為に、空けてあるのだ。
山から降りてきた神が、人と交信する神殿として、村長は家を提供する。そう考えれば成る程、村長とは、司祭か神官のような役割なのかも知れない。
法や利益でなく、もっと古臭い〝信仰〟によって結びついた共同体、それが青前であるらしかった。
「どうであった」
「猥雑で、心地良い。常がこれではかなわんが、時折触れるならば、良いな」
「そうよのう。此方とて、毎年これではたまらぬわえ。無精が故、でないとは分かろう、の?」
全く、と桜は頷いた。毎年こんな祭りが有っては、参加させられる側も楽でないだろう。馬鹿になって浮かれ騒ぐのは、何年に一度かで十分だと、桜は思った。
「祭りも愈々、終わりか」
「そうさの。明確に終わりはあらねども、火が消えるが如く、自然に立ち消える。明日の一日は酒を抜いて、明後日からは元の日々よ。……我らは未だ一つ、やり残しがあるがの」
そう言って八重は、枕の一つを肘掛に、ぐうと肢体を流すように座った。
見返せば、美しい女である。頬が紅をさしたように、うっすらと赤い。目つきは穏やかな母のようであった。幼いのか若いのか分からぬ顔だが、少なくとも老いては見えない。常緑の葉のように、幾年を経ても容色衰えぬ〝人外〟である。
床に無造作に投げ出された脚に、土の跡や肌の傷、その他、傷の一つも無い。生活の気配を感じさせぬ姿だが、だが肉の下に熱い血が流れていることを、日差しを知らぬ白肌が、ほんのりと色付いて知らせていた。
帯は無い――祭りの始めに、桜が切って落とした。留めるものの無い着物は、重さに従って左側が開いて、八重の胸も腹も、炎の影に舐めさせている。橙と黒の舌は、ちろちろと踊って、汗も鳥肌も無い肌を、殊更艶やかに彩った。
八重は、右膝を上げた。足首が左膝に重なるように、脚を組み替えた。また着物が着崩れる。桜は、目の前に居るのが〝女〟なのだと、もう一度知る。床に胡坐を掻いて待った。八重は立たず、語り始めた。
「その昔――そうさの、もう何百年も前になるか、或いは千年以上も前やも知れぬ。この村に名は無く、此方もまた、大仰な名は無かった」
「昔話か」
「昔々の、おとぎ話よ。そもこの村、古は日の神と雨の神を祀り、崇めておったのよ。そして神に平伏す者の常として、曇れば嘆き、降れば嘆き……兎角、己らに都合が悪い全てを、神の怒りとして嘆いておった。おお、おお、人はまるで変わらぬものよ、獣の方が可愛げが有ろうとも」
くすくすと、喉の奥を鳴らすようにして八重が笑う。桜は黙って掌を向け、話の先を促した。
「……神の怒りを宥めると言うて、何故人は、生贄を選ぶのかのう。人間の屍など受け取ったとて、喰うて楽しむ気にもならぬわえ。――が、人は兎角、己の気が済めばそれで良いもの。一年に二人、必ず、女童を殺しておった」
「おお、勿体無い」
「まーったく。然しの、その時は、それが普通だったのよ。誰も疑問に思わず、毎年二人、或る程度に育った女が殺された。籤を引いて、当たれば神の元へと栄光を得る。それがこの村では、素晴らしい事であった。
ところがの、聡い娘がおった。『私の首を切り、頭は男である日の神へ。体は女である雨の神へ引き渡せ』との」
「……既にもう、聡いのかどうか分からんぞ」
桜は渋い顔を作る。光景を想像するに、合理精神の持ち主である桜には、納得のいかない事であったらしい。
「娘はすっぱと首を切られて、言葉の通り、別々に捧げ物にされた。頭は日の神の元へ行き、やれ腹が減った乳を飲ませろ、退屈だ、遊べと一昼夜喚き続けた。一方で雨の神にささげられた体は、どたばたと走り回っては家具を壊し、機織り機を踏み壊し、禅を引っ繰り返し、抱き留めようとした雨の神を引きずって走った、と。こうして青前の神の二柱は、生贄を求むるを止め、代償も無しに光と潤いを齎しておるのだとよ……っくく、間抜けな神よのぅ?」
「どこにも奇妙な話はあるものだ……それが、この村の神話か」
「神話にして、実話。虚構に塗れて捻じ曲がった、作り事ではあるがの」
肘置き代わりの枕に手を突き、八重は体を起こして、桜と同じように胡坐を掻いた。着物の裾は、左右とも開く方向に払った。
そしてまた、くくと籠らせて笑う。笑う八重の表情は、それが心底おかしいとは、微塵も感じていないように見えた。寧ろ、何かを懐かしむ色が濃いのだと、桜は思った。
「空事か……そのような神など、居なかったと」
「如何にも。事の真実はの、空事よりも尚、寓話にあらまほしき事ぞ。
単純な事よ、その年は、籤を引く娘が少なかった。神にささげられるのは、八つを過ぎて十にならぬ娘ばかり――丁度二人しかおらなんだのよ。そうなれば無論、二人とも贄となる筈であったが――その内の片方は、村の長であった。可愛い盛りの娘を、手放したいと思わなくなった――その頃の考えとすれば、まっこと世迷いにも等しい事だがの。兎角、村の長は、娘を殺せなかった。生贄一人を、二つに斬り分けて使った、それだけの事……それだけの、のう。
それっきり、贄の風習は途絶えた。幼子の首と胴を、一刀では断つ技量が無く、二度も三度も山刀を振るって落とした村長の鬼の形相を、誰も好ましいとは思えずに。その後も、日の光、雨の雫の恩恵は、何も変わらなかったのが、まことに愚かしい」
かか、かかと、八重の笑声が少し明るくなった。堪えきれぬ、という風であった。
「それが、此方よ。大仰に神を名乗るは、哀れな小娘の成れの果てが、時を経て変じた化け物に過ぎぬ。此方に豊作を呼ぶ力は無く、雨の一雫、日が刺す一刻とて産みはせぬ。然しこの青前は、此方がおらぬとあらば、三千石を産む土壌は枯れ果てるであろう。何故か、分かるかえ?」
否も応も、桜は言わない。ただ、黙って右瞼を引っ掻いて、頭を斜めに傾けながら頷き、
「そう、信じているからだろう。つがい、子を為し、喜び、泣く。これは獣でも出来ようが、信じ仰ぐのは人だけだ。この村は〝それ〟で出来ているから――労は報われ、怠れば咎むると信じているから、よく働き、よく生きるのだろう。神とは〝そこにいればよい〟ものだ。何かを為すという性質ものではないのだ」
二十年には足りぬ短い生の中では、ついぞ気付かなかった事を、言った。
神はいないか、居ても役に立たぬ代物だと、桜は殊更に不敬に生きていた。熱信を騙れる程に蓄えた知識を以て、寧ろ神の矛盾を暴こうとさえしていた。裏を返せばそれは、神に怒りを覚えていたか、落胆していたからやも知れない。
桜は、ウルスラの事を思い出していた。神が在る事を強く信じて、己の罪と、何時か降り注ぐ罰に怯えていた少女を。桜はウルスラに聖書を説いたが、こうして見ればウルスラの方が、自分より神を知っていたのかもと、桜はおかしくてならなかった。
「……やれ、歳を取ったかなぁ」
「此方の数十分の一も生きぬで、何を戯れ事を」
「いやいや、心の問題だ。年寄りの言うことに頷くようになったのなら、それはもう年寄りではないか。今になって年寄りの言う事は、正しかったのだと思うてなぁ」
「年寄り、年寄りと言うてくれる。老いさらばえた姿に見えるかえ――」
二人して一通り笑った後で、八重は不意に、体を起こした。姿勢の変化に伴い、着物の合わせ目が一度閉じて、上体を完全に起こすとまた開く。
立ち上がり、竈の周りを歩きながら、腕を着物から抜く。衣を脱げば、神も、人の女も変わらない。ただ美醜の差だけが有り、そして八重の肢体は、雪景色が霞むような美しさであった。
柔らかい肉を、程良く纏った手足――けれども、腹は縊れている。抱きしめればきっと、羽毛の布団のような心地だろう。赤みの差した肌は、暖かいに違いない。
八重は、桜の目の前に膝を着くと、髪を払って首筋を見せた。首を落としたという傷は何処にも無い。うなじに生えた産毛まで、薄闇の中でも、桜にははっきりと見えていた。
「のう。此方を、抱くか?」
「抱かれたいのか」
桜の胸に八重がしな垂れかかった。常とは別の白い衣に、白い指が重なって這い上がる。布の下の豊かな膨らみを上って、鎖骨へ、喉へ頬へ――
「一夜の夫、一夜の妻、一夜の交わり……それが、青前の祭りよ。当代の村長も、村の長老も、何十年も何百年も、此方は一夜限り、妻として身を許して来た。一人を通じて、村は神と交わる。そなたは一夜、村を背負えば良い。
数百年の内に一度は、女が舞う事もあった。女を知らぬ身では無い故――愉しみ方も、愉しませ方も、心得ておるわえ」
覆い被さる体――受け止めて、桜は背を床に着けた。胸に圧し掛かる程良い重さ、体温、そして、何より柔らかかった。自分より小さな体を預けられているのに、桜は寧ろ、自分が抱きしめられているようにさえ思った。いや、本当に腕が回されていた。
しゅるしゅると、八重の肌に、桜が纏う白衣が擦れた。首を抱かれて、桜は顔を起こす。
薄闇の中で近くに見る八重の顔は、怖気が来る程に艶めかしい。酒の為か、あの薬草の為か、そう感じる事が自然だと、桜は何処かで自分を、冷静に認識していた。唇が僅かに開いて、それが近づいてくるのまでを、確かに目に留めていた。
その頭を、桜が手で挟む。引き寄せて――唇を重ねた先は、八重の唇では無い。頬であった。
「……むぅ」
八重が、不服そうに唸る。拗ねたように拳を作って、桜の顎を打った。頑強な首は揺らぎもしない。
「軽く頬に口付ける――大陸風の、親愛の情の示し方だ。長く生きようが島国の女、こんなやり方は知りもするまい?」
祭りの熱と美酒に酷く酔いながらも、桜は八重を押し留めて、抱えたままで体を起こす。手を伸ばし、常盤色の着物を引き寄せると、布団代わりに体に被せた。
「お前は魅力的だとも。昔なら躊躇わぬし、攫って江戸まで連れ帰ったかも知れんな。だが――今の相手程、美しいとは思えん」
「……惚気たのぅ」
声は静かだが、強かった。あまりに強く言われたので、八重も気勢を削がれたか、言葉を発するまで暫し掛かった。
「私の女は、悋気持ちだ。街を歩く時に、横へ視線を向けているだけで頬を膨らます。下手に他の女を褒めてみろ、あの丸い目をぐうと細めて、今にも噛み付いてきそうな顔になるのだ。おまけに鼻が利いてなぁ、お前の臭いを沁み込ませて帰っては、それこそ食い殺されてしまう。
……この村の在り方を、否定するつもりは無い。だが、私は無理に従うつもりも無い。抱かれたいというならそれも良いが、私は応えてやる気は無い。一晩の浮気で、延々と恨み言を綴られる愚は冒せぬからな」
体の上の重みを、横へ降ろしてやる。着物一つを掛け布団にしながら、桜は己の左腕を、八重の頭の下へ入れた。
「が、枕くらいは貸してやろう。夜も遅いぞ、そろそろ寝ろ」
「本当にそなたは、我が道をのみ行くのう……良い、良い。乙女に恥をかかせた罪業、その剛毅を以て由しとする」
腕を枕に、横の体に手足を預け。八重は不満そうな顔をしながらも、諦めたように目を瞑った。
眠るまでの間、桜は幾度か、深い呼吸を繰り返して心を落ち着かせた。夜気を吸いこんで、頭が冷えてゆく。
今はただ、眠ろうと思った。目を覚ましてから、先の事を想おうか、と。
消えそうな火に薪を投げ込んで、桜は目を瞑った。冬だろうが、暖かい室内であった。




