雪中夢のお話(6)
あれよあれよと、日は進んだ。
青前の村は、本当に一日も、珍しい事が起こらない村だ。夜に雪が積もり、少し昼に融け、また夜に積もり直して。人が付けた足跡をそっくり消して、元の様に巻き戻してしまう。
良く言えば、平穏な日常の続く村。悪く言えば、何も変わらない、停滞した姿。京や江戸と比べれば、時間の流れは何十分の一にも感じられるだろう。
とは言え、この数日ばかり村人の心に刻まれた熱気は、この夜、最高潮になる筈で――
「……ううむ、静かだ」
「たーいーくーつー……なんで皆寝てんのよぅ!」
――日も高く上がった、日中。青前は村を挙げて眠っていた。
さとがぎゃんぎゃんと喚いてはいるが、何故眠っているのかと問えば、その答えは一つしかない。よっぴて祭りを楽しむ為に、皆が仕事を放りだしているのだ。
村の広場の大石の上、日光浴とばかりごろんと仰向けになっている桜は、ゆるゆると吹く風に、髪を一房遊ばせていた――残りの殆どは、さとの玩具に召し上げられている。
冬の空気は透明で、不純物が際立つ。鼻腔を凍らせる冷気の中に混ざって、油の臭いが目立ったが、それは夜を待つ松明の香りであった。広場をぐるうりと取り囲む、幾本もの松明は、小さな林の様に突き立っている。
その上に、ぽつんと止まる虫が居た。小さな、かなぶんに似た虫である。この季節では虫も慎ましいようで、己が居る事を詫びるかの様に、静かに、羽音も立てずに居た。
「お前も寝たらどうだ、折角の祭りなのだろう?」
「お祭りって言っても、どんなことするのか知らないしー……」
「ふーむ、そんなものか。余程怠け者の神なのだなぁ、江戸なら数か月ごとに祭り騒ぎだというのに」
江戸と比べても仕方が無いかと、呟きと共に、遠くの樹木に目を向けた。ずっと高い所を飛ぶ鳥の群の、一羽が疲れを癒そうと降り立って枝を揺らす。はらりと枯葉の一枚が落ちて――何枚残っているか数えようと目を細めた所で、頭皮が髪にぐいと引っ張られて、桜はそちらに意識を向けた。
「……江戸って、そんなにお祭りばっかりなの?」
「大なる祭りは年に三度か四度。小さな物は月に一度か二度。特に夏は凄いぞ、花火が幾つも夜空を埋めて、路地に隠れた顔まで照らす」
「そんなに凄いの!?」
小さな体を目一杯、感情を表すのに使って、さとは驚愕の色を出した。
さとの脳裏には、夜中だというに日中程も明るくなった、江戸の町の幻想が映っているのだろう。まだ見ぬ土地への思慕は誰もが持つ――尤もさとの知識では、夢想する元の光景さえが無いのだが。
江戸は広いと聞いてさえ、きっと思い描く光景は、三倍か、良くて五倍に広がったこの村で――本当に目にしたのなら、目を見開いて、瞼が下りなくなるに違いない。
「……連れて行ってやろうか?」
「えっ……?」
「江戸だ。やがて春が来て、花が咲く。夏の祭りを見て、それから戻ればいい」
桜は、女が誰も、強く生きられるのではないと知っていた。
たとえ村長の家に生まれ、奔放な性に育てられたとしても――夫を持ち、子を為せば、土地から離れるのは難しくなる。この村を愛し、この村に骨を埋めるつもりで居るにせよ、その生の一度として、外の世界を知らぬ生き方など――
数十年の生の間に、たった数か月でも。知らぬ世界を見せてやりたいと、桜は思ったのだ。
「あの町なら、十の子供でも仕事を見つけられる。畑を耕すのに比べれば、掃除も洗濯も、さして大変な仕事ではあるまい……口利きくらいはしてやれるしな。
……そうだ、髪結い、髪切りの師匠でも探してみるか? いい女を知っているぞ、話は小粋で腕も良い」
「私が、江戸に……」
それはさとに取って、思いもせぬ誘い文句で、否も応も、考えた事さえ無かった。自分はなんとなくここで育ち、ここで終わるのだろうと思っていた少女は、今日初めて、自分が異郷の地を踏む事を想った。
髪を結って戯れる手が止まって――桜は、立ち上がって、さとを抱え上げた。雪に慣れたさとではあるが、なんとなくここ数日で、運べる時は桜が運ぶ様に、関係が定まっていた。
「世は広いぞ、江戸でさえ小さい。何処かでは死ぬなら、それまでに多くを見ておいて損は無かろう。なぁ?」
穏やかな光を浴びながら、空を仰いで桜は言う。常の無表情に差す光は眩く、さとは目を細めて、桜の口元を見た。浅く描かれた弧が、きっと微笑みを示しているのだろうと分かる程度には、その顔を眺め続けた。
そして、夜が来る。
寒気は愈々強さを増して、村人は皆、蓑を二つも被っていた。
ひょうひょうと甲高く鳴る風が、雪の粉を撒き散らして、藁蓑へ雪を白く積もらせる。笠を被っても、顔の横へ垂らした髪が、ぱきぱきと凍り付いて、体温で溶けて水を流した。兎角、寒い夜であった。
だが、誰の顔にも苦しさは浮かばない。それどころか皆が皆、嬉々として外へ出て、村の広場に集まっていた。期待をたんと込めた笑みで、集まっていた。
組み上げられた櫓――小さなものだが、その上に立ち、笛を鳴らす少年が一人。狩りに出ていた者達の中でも、最も年若い少年だった。
まだ十四の未熟な狩人は、狩装束そのままに櫓の上に立っている。羚羊の革の上着、麻布の山袴。毛足袋に、はばきと、山を歩く為の姿に――手だけは、手袋をせずに居た。
骨も育ちきらぬ体だが、丸みの消え始めた顔には既に、将来の偉丈夫の面影が映る。端正と言うのもまた違うが、見ていて気持ちの良くなる様な、粗削りの美男子であった。
彼も晴れの場と浮かれているのか、音色まで浮足立っているが、元より完璧を求める祭りでも無い。いっそほほえましいものと、老人達は笑って音曲を楽しむ。
櫓を挟んでは、二つの大太鼓が置かれていた。熊の毛皮で飾り立てられた太鼓は、寒風で皮をこわばらせているからか、常程に通る音は出ない。だが、寒風の中に汗を流す打ち手二人は、天候を覆す力でばちを振るい、太鼓を鳴らした。どん、どんと繰り返すそれは、心臓の音にも似て、村人の逸る気持ちを増々煽り立てた。
村人は皆、思い思いの場所に座っていた。上座も下座も無い。櫓を取り囲み胡坐を掻いて、原始的な音に戯れ――そして、手に手に酒を飲む。
若い女が幾人か、柄杓を持って、村人の間を歩き回った。酒を運び、柄杓が空になれば、座の端の樽まで戻り酌み直す。老いも若きも幼きも、此処では皆、濁り酒に舌鼓を打った。
と、突然に風が吹く。幾人かの酔いが、顔色に現れた頃合いの事であった。
「おお」
「おお」
さざめきが伝播する。風が運んだのは、人ならぬ身の女であった。
雪の白、蓑の藁色を、たった一人塗り替えたは常盤の着物。枯れて落ちた褐色の枝を、折りもせず踏み締めて、彼女は歩いた。
袖ははためかず、結わぬ髪も雪に濡れない。絵の中に、別な絵を貼り付けたかの様に、彼女は――八重は、雪景色から浮いていた。浮いていたのに、彼女の纏う緑は、そこに似つかわしいのだ。
炎の橙は、命を焼く色だ。雪の白、影の黒は、既に死んでいる色である。八重の着物の緑は、いのちそのものの色合いをして、死人の黒の中に浮かんで、炎に照らされていた。
雪に足跡も残さず、櫓の前に舞い出でる。手にした扇に触れる雪の粒は、全てが宙に在るまま制止して、小さな星の様に瞬く。夜空を地上まで引き下ろした様な眩さだった。それはまるで、夏の夜を飛ぶ蛍のようだった。
通り過ぎた空間に雪を留めて、居並ぶ者達の周りを、八重は幾度も幾度も歩いて回った。常盤――不変の緑、不変の若さ。それを纏う八重もまた、幾百年を経て若く、然し慈母の如き顔をする女だった。
やがて八重は、村人達の合間を歩きながら、一人一人の肩に手を置き始めた。雪の夜に在りながら、暖かい手であった。
誰もが皆、母を想った。母が居る者も、既に失った者も、誰もがである。山とは、大地とは母親なのだと、誰も言葉にしないまま、誰もが知った。
「たそ、かれぞ」
八重は、問う。
「さよばいに」
答える声が有った。
広場の南口より、雪をざくりと踏みしめて、歩いてきた者がある。その、朗と遠くまで響く、強い声であった。
緋紅の水干、白い直垂――白拍子を模した姿をしていた。古式ゆかしく烏帽子まで被って、顎の下で紐を結んでいた。白と赤の衣裳に、背を覆い隠す三尺の黒髪は、良く映えた。
並の男より背は高く、また、己の姿を誇る様に背筋を伸ばしている。男装が似合う女であった。
「さよばいに われが来たれば さ夜は明け」
詠うのは、雪月 桜だった。肩を揺らさず桜は進み出て、背負った鞘から黒太刀を引き抜く。刃渡り四尺の分厚い刃は、夜闇に紛れて尚、鋼の光沢を以て健在を示す。青前の村人が知らぬ、人を斬る為の凶器の光であった。
虚空を切り裂いて、桜は舞った。真っ直ぐな太刀筋を、目に映るよう、一つ毎に留めて。静から始まり、さあと動いて、また止まる。伏せながら斬り上げた切っ先は、高く天頂までを貫かんばかりであった。
老人達は、この舞いを知っている。青前に伝統の、〝山ン主〟へ捧げる舞いである。神刀を横へ払い、縦に払い、地に伏せ、跳ね起きる、豪壮な舞いであった。
然し、古より誰も、これを本当に舞えた者は居なかったのだろう――そう思わん程の〝粋〟が、そこに有った。
〝ただ切っ先を素早く運ぶ〟ではないのだ。斬る――木かも、獣かも、或いは人かも知れない。兎角、斬る為に桜は刀を振るい、虚空を斬りながら舞った。
八重が、それに戯れた。刃の下に伏せて、はたまた切っ先の僅かに届かぬ距離に立ち、峰に触れる。桜の肉体が描く円弧の内に、八重もまた身を置いて、重なる様に四肢をはためかせたのだ。
それは、指の一本さえ触れ合わぬ〝まぐわい〟であった。襟一つ乱さぬ二人は、舞いを通じて肌も肉も、ともすればその奥にある魂のようなものまでを、村人達の前で重ねた。少年の笛が色香に当てられて、艶めいた音色を奏で始めた。
陶酔が広がってゆく。酒精が生んだ昂りを淫祠が煽り、そして共同体は同化する。二人の舞手の何れかに、集団は己を重ねて、共に舞った。
集団陶酔――その原因の一端に、酒に含まれた薬草の、酩酊効果が有る事は否めない。村全体が、神を降ろす巫女の様になって、がくがくと首を振り回していた。
笛がきぃきぃと悲鳴のような音を上げ、太鼓はやたらに打ち鳴らされて、音曲がただの音と化した頃。八重と桜はそれぞれに舞を止め、三間を開けて向かい合った。
「この夜は明けぬ 入りて開かせ」
桜は、黒太刀を振り降ろした。熱風が八重の頬を撫で――着物の帯が、真っ二つに斬り降ろされた。
着物にも、その下の肌にも、一筋の傷さえ無い。桜はただの一歩も近づく事無く、八重の帯だけを斬ったのだ。
そして、それが呼び水となる。男衆は己の子を抱え、女衆は子に言い聞かせ、ざんと立ち上がった。一部の――十三歳から十九歳の、若者達を残して。
「そうら、お山へ上がるぞぅ! 登れ! 登れ!」
村長の晟雄が、松明を持って先導し、立ちあがった村人達は一列に並び、山へと登っていった。老いも若きも、男も女も――夜には立ち入るべからずと、女人禁制とされている山に。祭りの夜ならでは、であった。
桜もまた、晟雄の直ぐ後ろに、八重と並んで山道を歩く。舞いに昂った体の、首筋に汗が伝っていた。




