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雪中夢のお話(4)

 桜は猛っていた。獣一頭を狩るだけの戯れが、こうも心躍る事だとは。

 思うに、競う事は誰も好むのだ。群れの狩りと、自分のやり口と、どちらが上か、桜は比べたがっている。

 一対一の戦いならば、まるで勝負にもならない相手だが――十六人の狩人の力の結集は、はて、どれ程の物かと。

 まずは獲物を探す。追うべき熊は何処に居るか。山は広く、闇雲に当たれば何時までも辿り着けない様に思えるが、雪原に育った桜である。

 雪を避ける為に獣が何処へ伏せ、何処を歩くかなど、直感で知っている。それこそ熟練の狩人と同じ様に――やがて足跡を見つけた。


「……浅いな、小柄な奴か……」


 熊の足跡である事は間違い無いが、雪上に残る痕跡の深さを見れば、若い個体である事は伺いしれた。

 手ごわい獲物とならないのは不満だが、桜には少しばかり期待が有った。歳を経ていない個体は、〝敵〟の恐ろしさを知らず、無謀な生き方をしている事がままある。

 即ち、隠れもせず、怯えもせず。出会う者全てを弱者と見下して、傲慢に。闊歩する生き物であったのなら。


「おお……いたか、来たか」


 出くわしても、直ぐには逃げないでくれるのだろうなとの期待は、果たしてこの日は叶った。

 立ち上がれば寧ろ桜より背は低いだろう程度の熊――日の本の、本州の熊など、こんなものである。

 とはいえ腕の一振りで、人間の頭蓋を歪ませる程度の力ならば有る。常人ならば正面に立つのは、死を意味する行為だ。


「ほれ、来い来い。快癒の祝いをしてくれんか」


 子供を呼びつける様な口振りで、桜は、この山の新たな支配者――きっと大猿去りし後は、この若熊はそう自負していただろう――を招く。人語を解する訳でも無かろうが、腹を立てた様に、若熊は二本の脚で立ち上がり、前足をこれ見よがしに振りかざした。

 振り回される右前足――爪は馬鹿げて鋭い。桜は爪では無く、熊の掌に肘を打ち込んで防いだ。

 若熊は掌の痛みに、ほんの僅かに怯む。だが、自分の力を疑った事の無い若熊である、すぐさま逆の腕を振るった。


「おお……これは、これは」


 頭を狙った熊の左手を、桜は右肘でまた打ち返す。感心した様な声は、これは若熊に捧げられたものではない。己の身が傷まぬ事が、随分と懐かしかったのだ。

 数度繰り返される攻防を、桜は鼻歌混じりにやり過ごす。本州の熊はか弱いなと、戯れに吐いた言葉を、さて誰が頷けるかと言えば――この日の本に、数人も居るのかどうか。

 遂に若熊も、己の思い違いを悟ったか、前足を振るうのを止め、一歩退いた。その頃には既に、掌は内出血で無残に腫れ上がっていた.

 獣の体重を支える前足が、である。


「なんだ、もう終わりか。では……」


 獣は己を大きく見せる為に構えるが、桜は基本的に、一定の構えを取らない。ただ、大太刀の切っ先を地面に引きずらない様に、軽く手首を曲げる程度のものである。

 それが――両手を、高らかに掲げた。

 す、と一歩進み出て、息を止める。渾身の力で握りしめられた柄は、主の剛力の再来に感動し、きしきしと鳴いた。

 真っ向から振り落とされる刃が、若熊の頭に沈み込み,

 背骨を唐竹割にして、尾?骨までを両断する。軽く振るって血を落とし、剣閃に送れる事、数拍。若熊の胴は間二つに分かれ、血で雪を染めた。


「……しまった。運びづらいな」


 持ち上げれば臓腑が零れる様な斬り方をしてしまった事、桜はここに来て漸く気付いた。

 他人の山だ、屍を無益に捨てるも行儀が悪いかと、運ぶ術をあれこれと思案して、思いつかぬ。


「止むを得ん、待つか」


 両断した屍を、生前の形をなぞる様に重ねて、近くの木を背凭れに寄り掛かった。

 山の木は、強い。獣の爪を受けてさえ揺るがぬ根を張っている。桜一人が体重を預けても、揺らぐ様子は見られない。だが、末端の枝は雪を背負って、頭を低く垂れている。

 それが少し、猫じゃらしを差出された様な気分になって、桜は黒太刀で、枝の先を斬った。

 一つ斬るとなんとなく、次へ。また次へ。動かず届く範囲の枝先を、あらかた落として、また手持無沙汰。自分から歩いて行くのも面白くなくて、腕を組んで目を閉じれば――


「おお、欲の浅い事よ。慎みを弁えたかえ?」


 頭上から、声がした。

 見上げずとも声質から、何が居るかは分かっていた。だから桜は、組んだ腕を解かず、目も開けずに答えた。


「私には無縁の言葉に聞こえるが、はて、な」


「慎み深いとも、手の届く所に満足しよる。……いいや、その割には長大な刃。本質的にはより遠くを、欲している様に思えるがのぅ」


 八重は樹上から雪の上に、足跡も残さず飛び降りた。紅葉の様な小さな手で、剥き出しの刃に直接触れ、熊の血を指で拭い取る。

 長大な刀身に、強く握り込む為の柄は二つ握り。合わせると八重の背に近づく長大な凶器に、か細い指は親しげに戯れて赤黒く染まる。幼げな顔に合わぬ年寄りめいた口振りが、桜にはやけに気に掛かった。


「言わんとする所は分からぬが、間合いが遠いならば、それに越した事もあるまい」


「左様左様。剣士ならば、そう願う事は何も間違っておらんとも。さりとてそなたの剣は……〝刃の届く所を〟斬るものであろう?」


「おう。手の届く範囲、斬れぬものは――まあ、一つくらいはあったが、殆ど無いぞ」


 問われた言葉は、まるで不思議が無い様に、桜には思えた。

 剣士と名乗るのもおこがましいが、剣を扱うものは、なべてそれが理想形であろうと。

 刀の刃の届く範囲、全て斬りたいものを斬り捨てるのが、剣術の果てなのだろうと、桜は認識していた。


「それこそ、欲が浅いのよ。手が届く範囲だけ斬れればよいなどと、欲深いそなたに似合わぬ言ではないかえ?」


「……なるほど」


 だから、それを真っ向から覆す言葉に、桜は妙に納得がいってしまった。

 確かに、手の届かない所まで斬れるのならば、そう出来る方が良い。だが――


「で、どうするのだ?」


 そも、出来るのならばやっている。そんな芸当を聞いた事も無いから、桜はそうしていないのだ。

 菓子や風車を前にする子供染みた目で、桜は八重に顔を寄せた。

 額がぶつかる程まで近づけば、血に汚れたままの手で押し返される。


「気が短いのぅ。ま、ま、見やれ」


 小さな手は、雪上に落ちた枝の一本を拾い上げると、両手で正眼に構える。

 然程の心得がある様には見受けられなかったが、すうと構えた刃の向こう、八重が見据えるのは、雪で下がった一本の枝。数間先にある木から、だらんと頭を垂れている。

 目を動かさぬまま、腕を掲げて、進み出ると共に振り下ろす。たったそれだけの簡単な挙動で――ぱしっ、と小さな音がした。


「……む?」


 風も無しに、枝が撓る。積もった雪が落ちるのを見て、桜は左目だけを大きく見開いた。明らかにその枝だけが、何らかの衝突音と共に打たれたのを見て取ったからだ。


「おい、なんだ今のは。見た事も無い芸当だぞ、おい」


 当然、数間の間合いを詰めた訳では無い。八重は刀を振るっただけで、遠方になんらかの効果を及ぼした。概念の外に有る技を目撃して、いよいよ桜の昂揚は、雪を溶かさんばかりに熱くなる。

 真似して黒太刀を振るってはみても、当然だが、同じ様にはならない。風斬り音がひゅうひゅうと鳴るばかりだ。


「魔術とやらが蔓延って後、狙うてやろうというものもおらなんだ、この技は。根幹は同じじゃがのぅ。

 似た技を探すなら、打の道の……〝遠当て〟か。あれはの、魔術なる技に、実はよう似たもので――」


 刀に見立てた木の枝を、今一度、八重は高くかざす。ゆったりと蠅が止まるような速度で振り下ろせば、再び数間先で雪が爆ぜるが、先程より規模は大人しいものだった。


「これ、この通り。剣速に鋭さこそ左右されるが、此方程に生きれば、刀の素人でも為せる業よ。

 単純に言うとの、刃に魔力を乗せ、遠くに飛ばす。攻性魔術とやらには侭見られるが、これに得物を介在させる術は――そうよの、この国ではまだ見た事が無いわえ」


「この国では?」


「五指龍の帝国では、稀にの。あの国の武の歴史は長い、魔術が学問となる前から、似たような技を見つけていた者もおる」


 ふむ、と頷いて、桜は己の黒太刀を眺める。これが届かぬ所まで斬撃が届くのならば、確かに大した革命だ。銃器に刀は取って代わられるだろうと認識している桜だが、戦場を逆に刀が埋めるとなれば、これは愉快な光景だろう。

 然し、八重の説明を聞いていれば、どうにも一つ疑問が生まれる。


「……私に、魔力などは欠片も無いのだが。つまり、出来ぬという事か?」


 桜は、俗に〝代償持ち〟などと呼ばれる種別の人間だった。

 魔力を僅かにも身に帯びず、だから魔術など、幼子程にも扱えない。そんな人間が、八重の言う様な芸当を、真似など出来よう筈も無いだろう。桜自身はそう思って、眉根を下げて残念がる。


「否。確かに、そなたには魔力が無いが、だからと出来ぬとは言い切れぬ。代用品は、それ、その目に眠っておるじゃろう?」


「目……これか?」


 桜の左目を指さす八重。言わんとする所は直ぐに知れて、桜は適当な木の枝に焦点を合わせた。

 ごうと立ち上がる炎の壁は、雪を瞬時に水に変え――そして、直ぐに消える。雪山で長く出しておくものでも無い、と思ったのだろう。

 こんなものが、先程の八重の技とどう関係あるのか。それが、桜には推測も出来なかったが――


「魔力を刃に乗せるも、〝干渉の結果〟を刃に乗せるも、大差はあるまい。試した事は無いのじゃろ?」


「……まあ、それはそうだな」


 確かに、試した事など無いのだ。どうせ然したる労力でも無いし、実際に八重の技は魅力的だ。真似できるものならばやってみたいと、桜はそう考えた。

 それでは早速とばかり、黒太刀を掲げようとした所、ざかざかと足音が聞こえてくる。人の気配と分かって、一度、桜は黒太刀を鞘に納めた。


「おう、やっと追い付いた。あんたは足が速すぎ……んなんだこりゃ」


「すまん、運ぶ事を考えていなかった。肉と骨は私が担ぐ、臓腑の使う部分だけ取れ」


 雪を掻き分け桜に追い付いた晟雄達は、両断された熊の屍を見て、呆れたような感心したような声を上げた。本来、獣はこうして仕留めるべき生き物では無いと知っているからである。

 一方で桜は、これが当然だと信じているが為に平然と構えていて、なんとも対照的な光景が展開されていた。

 一先ず、無為に凍らせておくのも惜しいと、後続の者達がどうにか、皮袋に内臓を取り分けていく。その様を八重は、何時の間にか樹上に登って眺めていたが――


「これ、村長むらおさ。十日の後、夜、村の者を山に上げい」


「は? ……ありゃ、あんたか。何を言い出す……ん、いや、ひょっとすると?」


 ちょうど真下を通り抜けようとした晟雄を呼び止め、何事か伝えた。

 この短い言葉だけで、晟雄には真意が伝わったものだろう。皺の刻まれた顔が、にいと口を裂いて笑う。


「如何にも。〝祭り〟を開くぞ、十日の後に。月の無い夜は篝火が映えようとも、ああ好ましや、好ましや」


 何処から取り出したものか、扇でぱたぱたと雪を仰いで、八重もまたころころと笑う。

 一方で、晟雄の後に付き従ってきた他の者達は、歳若の幾人かを除いては、期待も不安も入り混じった奇妙な表情で顔を見合わせる。

 余所者の桜としては、彼等の感情の理由は分からなかったが――言葉の響きの心地良さに、同じく昂揚は見せる。


「祭りか、良いな。然し遠い、それまでに私は」


 然しながら、桜にこれ以上、この地に留まる理由も無かった。

 一宿一飯の恩を狩りで返せば、後は再び京に舞い戻るのみ。そう考えていた桜の言葉を、八重が半ばで遮る。


「留まれ、人よ。呪いは一つに非ず。もう一つの呪いは、そなたを蝕むものではないが……この侭にするならば、そなたは再び死の淵に立つであろう」


「随分と断定する。確証が有るのか?」


「無論よ。古老の蛇の悪辣な呪が、そなたの刃に纏わりついておるわえ。此方を信じよ」


「……?」


 まるで分かり易さを感じない言ではあるが、桜は頷くより他に無かった。

 十日、たったそれだけならば。この地に留まり、身を休ませて、それから立ち返っても遅くは無いのだろう、と。

 それに――祭りとやらも、含みのある言い回しも気にはなるが。


「信じてみても、損は無い、か」


 今一度、黒太刀を振る。視線の先の枝は動かない。

 八重の言葉を思い出して虚空を睨む――立ち上がる炎の壁。其処へ、斬撃を通す。

 過去にも幾度か、己が生んだ炎の壁を貫く事は有った。その時の様に、壊すばかりでは無く――飽く迄心がけるだけではあるが、刃に乗せ、遠くまで届ける様に。

 所詮は思い描く虚像の形なれど、そう念じて横へ刃を振るえば――


「……ほう、成程」


 遠くの枝が、雪を溶かした。

 雨水の如く滴り落ちた水が、枝の直下の雪をも濡らす。その様を確かに見届けた桜は、内臓を抜かれた若熊の躰を両肩に担ぎ上げ、


「いやはや、信じてみるのも良いものだ。なあ、八重とやら」


「此方をなんと心得る。此が山の神ぞ、人よ」


 桜は山を降りる間、再び此処へ登る事ばかりを考えていた。

 いっぱしの技を身に着けるというのは、幾つになっても心が躍る事であると、指が疼いてならぬのだ。

 片や、山の主は母親面をして、獲物を祝う狩人達が、村へ知らせを届けるのを見守る。

 〝祭り〟は十日の後、新月の、きっと寒風荒ぶ夜となるのだろう。

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