雪中夢のお話(3)
再び目覚めた時、桜はまだ、山小屋の中に居た。
外は暗く、夢に落ちてより些かも、時間は過ぎていないように思える。
桜は、自分が両の足で立っている事に、まず奇妙を覚えた。
「気分は、どうじゃ」
「肌寒い。人肌恋しくなるな」
床に広がった筈の血が、無い。胸に触れてみれば、刀はおろか、突き刺された傷跡も無いのだ。
右手には刀――の、刀身。首に向けて振るわれた刃を、桜は意識の無いままに掴み取り、圧し折っていたらしかった。
「……ふむ」
砕けた刃を投げ捨て、両手を虚空に向け、手刀を振るう。ひょうと鋭い音を上げ、五指がそれぞれに風を斬った。
その背に、八重が石を投げつける。二間と開かぬ距離からの投石は、振り向き様の蹴上げに弾かれて天井に当たり――
「はっ!」
吐気、一閃。脇差『灰狼』による居合は、その石を全く二分し、吹き飛ばさずに落とした。
体に痛みは無い。四肢の動きに淀みは無い。こう動きたいと考えた事を、過不足無く実現出来る。桜は己の完治を悟り――ただ一点の違和に、右目の瞼を引っ掻いた。
「これは、どうにもならんのか」
「ならぬ。死人は帰らぬ、時は戻らぬ。此方が為すは奇跡に有らず、たかだ
か解呪が手一杯よ。不足かえ?」
「いいや。然しお前が虚言癖持ちだとはよーく分かった」
からからと笑いながら、桜は床に胡坐を掻いて、夢の中の出来事を揶揄する。改めて思えばおかしな事であるが、この時の桜は、それを不思議とは思えずに居た。
死人は帰らない。過ぎた時は戻らない。それを、誰が疑うだろうか。
いいや、疑いもしない。人に限らず獣、鳥、虫に至るまで、それが理であろう。
「で、私があそこで応と言えば、どうなった?」
「さてのう。その時の事は、その時にならねば分からぬわ。然し確実に言える事は――」
八重は、桜の正面に回り、同じ様に床に座る。両脚をそろえて横に流した座り方に、何処の姫君の真似事かと、桜はからかいの言葉を向けたくもなった。
「虫とて、死ねばそれっきり。無数に湧くものと思う勿れ、あれも親が有り子が有るものじゃ。体躯の大小で命に貴賤を記すとは、余程の傲慢とは思えぬかの?
さりとて、だからと虫も殺さず生きるのは、それはそれで命の有り方として不自然よ。何も殺さず生きるなど、それもまた、己を全能と見る傲慢に過ぎぬ」
「ならばどうする。殺せば良いのか、殺さねば良いのか」
「その問いが既に過ちと、もう分かっておろう?」
うむ、と桜は深く頷いた。三尺の黒髪が肩を過ぎ、胡坐を組んだ足の上に広がる。
「ただ、生きれば良い。私は私だ、今更どうにもならぬ。ならぬなら、何も変えはせぬ。
結局の所、無理に殺そうとする事も無ければ、殺すまいと肩肘張る事も無い。誰かを羨むのも無益、益体無い思いに耽るならば、酒でも飲んであれを抱いている方が良い。
思うが侭に酒色に溺れ、美食を喰らって方々を巡り――そんな私で良いのだろう」
人は、心持ちで強くも成り、また弱くも成る。雪月桜はきっと、江戸よりの旅で――弱くなったのだ。
良い恰好を見せたいと、不殺を己に課しての、慣れぬ戦い方。そんな技術的な点では決して無く、殺すまいと――或いは殺そうと、そう考える事が、既にこの女〝らしからぬ〟事だった。
殺したくないと思ったのなら、その時はそうすれば良い。殺す必要があるというなら、思う様に殺せば良い。それが出来ると知った上で、殊更に決めて掛かる事も無い。
事態がどう転がろうとも、いずれかを選ぶだけの力は有る。誰にはばかる事無く、我意を貫く力――生物としての強さを誇っている。
それが、雪月桜だ。〝過去にそうだった〟女であり――今また己の在り方に〝立ち返った〟女だった。
「良い、良いのぅ。そなたはやはり獣に近い、故に獣に惹かれるのじゃろ。そなたはもはや、そなた以外の何者でも無い。存分に意思を張り通せい!」
八重が、珍しく音声を張り上げた。頬へ向けて振り抜かれた手は、あっさりと桜に受け止められ、
「……なんじゃ。そこは大人しく打たれておくべきではないかの?」
「いや、反射的に」
少しふてくされた様な顔で、八重は床に横になる。頭を桜の足に乗せ、自分の袖を掛けもの代わりにした。
「ん?」
「夜、ぞ。人は夜は寝るものじゃ。早う寝い、明日は村に下りる。……やれ、此方は何時もは昼まで寝ているというになぁ」
「夜の山は、お前の領域では無いのか?」
かか、と短く刻んだ笑い声。八重は扇の骨で、桜の額を打ち、
「山は山。鳥獣の巣以外の、何かが有るか?」
「いいや、無いな」
それから直ぐに、すうすうと寝息を立て始める。寝つきの良さにあきれつつ、桜も気付いてみれば、胡坐の姿勢のままで眠りこけていた。
日も高くなって、青前村は、普段の静けさも何処へやらと喧しかった。
あちらこちらで男衆が顔を突き合わせ、喧々諤々議論を交わしている。女達はそれを、呆れたような小馬鹿にしたような目で見ながら通り過ぎるのだ。
議論に耳を傾けてみれば――昨夜、無事に山を下りた者達を、老人が非難しているらしい。
曰く、夜の山を歩いたからこうなった。冬の山に、しかも夜に、村の外の女を、山に踏み入らせた、それも許されない事だ。これからこの村に災いが訪れるだろう――老人達の主張は、こんな所であった。
「だから長老様、今回はどうしようも無かったんだって、な?」
「いいや、なんぼ理由を並べても、なんねえものはなんねえ。おめは村長だ、それがこったらごと……」
村長の晟雄が、老人達を宥めようとしているが、老境の頑固は耳を貸さない。長老と呼ばれた髭の翁を先頭に、数人の年寄り達が、こだまのように〝なんねえ〟と繰り返す。
老人達が何を咎めているのか――それは、晟雄が何人かを連れて、再び狩りに出ようとしていたからだった。
山に入る前後一週間に、村の外の女を見るのは不吉。この村の言い伝えの一つであり、老人達もまた、固くそれを信じている。ましてやつい昨日は、〝山の怒りを被って〟狩人の一人が死んだばかりなのだ。
これ以上、若い衆を殺してはならない。老人達は飽く迄善意で、狩りに出ようとする彼等を引き留めていた。
「そんな事言ってもよぅ、冬はまだまだ長いんだぜ。穴無しがやせ細る前に仕留めちまわないと、春までろくに肉も食えなくなって」
「分がんねえな、こら! 七日先まで山に入るはなんねえ、でねぇば山ン主様が――」
村長たる晟雄にしてみれば、山の怒りなどはつまらない迷信以外の何物でもない。自然は冷酷かも知れないが、決して残忍ではないのだ。
それに、女にうつつを抜かして注意力が散漫になるような未熟者を、山に連れていくつもりは元より無い。老人達の懸念も、度を過ぎれば貧困しか生まないのだからと、晟雄は頭を悩ませていた。
「――此方が、何だと言う。妬み嫉むとでも言うかえ?」
老人達の背後から、不機嫌そうな声がした。
「……なんじゃい、このちんまいのは」
「知らね、余所者が?」
振り返ってみれば、雪の村には似つかわしくない常盤色の着物。足袋にわらじで雪上を歩き回る女を、余所の女かと訝ったのは、それ以外を思い描けぬ老人ならばである。
だが、一人ばかり、青い顔をしていた。他ならぬ長老と呼ばれた老人は、女の姿を見て目を見開き、
「は、ははぁーっ!!」
雪の上に膝を着き、顔を伏せる。晟雄はその様を、何とも言えぬ笑い方をしながら見下ろしていた。
「六十年前の紅顔の少年も、今は枯草の老人とはの。あの折りの無暗な反骨、決して正しいとは言えぬが、然し嫌いではなかった。今のそなたはどうか、大した思い違いをしておるのう……此方が、他の女に妬くとは」
昨夜、山に居た者達もまた、晟雄を残して雪上に平伏す。その姿を見て漸く、他の老人達は、この女が誰なのかを悟った。
山ン主――八竜権現、八重。山の神は女だと言うが、成程確かに女の姿をしている。あまり威厳は感じられぬ顔立ちのこの女は、平伏する長老に歩み寄り――その頭を、足蹴にした。
「おぶっ……!」
「権蔵、この顔を見忘れたとは言うまいな。いいや、夢にまで見た顔じゃろうて。何せ六十年前の祭りの夜、そなたを男にしてやったはこの八竜権現なるぞ。
月の無い夜とて、大松明が三つ、四つ……此方の顔が見えなんだと、そうぬかすかえ?」
「い、いや山ン主様、決してそんだた事は……!」
雪には足跡も残さない癖に、八重のわらじは最長老――権蔵の後頭部をぐりぐりと踏み躙る。額が雪に埋まりながらも、権蔵は恐縮しきって悲鳴混ざりに言葉を返した。
「ならば、ようも言うたのう! 女が山に入れば山ン主が怒ると! 外の女に目をやれば、山ン主が嫉妬に狂うと! そなたはこの八竜権現を醜女とぬかすかっ!」
「お、お許しを! 八重様、お許しくださいぃっ!」
傍から見れば、奇妙な光景である。平伏す老人の頭を、若い女が激怒しながら踏みつけているのだ。音が軽い上に、老人の声が十分に強いのと、加えてこの女が山の神だとすれば、止めに入って良いものか、場に居合わせた者達は顔を見合わせて悩む。
「図体ばかり育ちよって、心根はまるで育っておらぬと見える! 見得ばかり膨れおって、胆は一物並に縮んだか!? 何とか答えてみぃ、鈍間豚の権蔵めが!」
「へへぇっ、申し訳ねえです、申し訳ねえです! おらぁ鈍間の豚で、目も霞んじまって駄目だぁす……!」
「……楽しそうだなぁ、二人とも。……おうし、皆行くぞ! 籠り損ねを取りに行く!」
晟雄が、溜息を吐きながら言う。最長老がこうも大きな声で、誰かに詫びるなどは聞いた事が無い。
が、生き生きとした声だった。だから、きっとそれで良いのだとも思った。止めようとはせず、妨げになるものも地に伏しているので、山へ登ろうと歩き始める。
すると、すうと横に並ぶ者が居た。見れば、昨日己の命を救った客人、雪月桜だった。
「おんや、何処に行ってた?」
「山に。八重に足を枕にされてな、動くに動けず昼近くまで」
「ああ……癖が抜けてねぇなぁ」
若き日を懐かしむように目を細めながら、晟雄は足を止めず、桜も歩調を合わせて歩く。
「で、何か用か?」
「狩りに出るのだろう、つれていけ。屋根と竈を借りる代金だ」
「んなもんは要らねえよ、あんたは命の恩人だ」
遠慮の言葉を向けながら、然し晟雄が足を止めないのは、この女の答えを予想出来ているからだ。ほぼ初対面の相手だとて面構えを見れば、そして昨夜の顛末を考えれば、その気性は十分に推し量れる。
「いいから連れていけ、この地の狩りを知りたいのだ」
「銃は貸すか?」
「要らん、手と刀がある」
「おうし、あんたは受手を任す。暫くは勢子に任せてくれ」
山と村を分かつ柵の前で、晟雄率いる狩人の群れは立ち止まり、深々と礼をする。桜もそれに習い、山へ向かって頭を下げた。
「何に祈っているのだ?」
「爺様方は、恵みを与える山ン主様と、俺達を食わせる獣達、その全てに祈るんだと言ってる。
俺は、そうだな。特に何かに祈ってる訳じゃあないが、山ン主様に感謝はしている」
背後を振り返り、また深く頭を下げる。これはきっと帰りを待つ、村の者への礼だろうと考えて、桜はこの行動の意を聞かなかった。
頭を上げ、今一度、村の景色を目に刻もうとする。見れば視線の丁度先には――
「聞こえぬわ、短小不能の愚図がぁっ! 小汚い舌を突き出して鳴け、許しを乞えい! 数十年変わらぬ無能があっ!」
「ああっ、お許しくだせぇっ! も、もう止め、いや止めないで、おねげえしますぅっ!」
何かに憑かれたように虐待を乞う権蔵と、その頭を踏み続ける八重の姿が有った。
「……あれに感謝をするのか?」
「いや、まあ、その……あれで良い人――良い神様なんだ、ほんと。趣味が悪いだけで」
山を登る一行の背に、哀れな権蔵の悲鳴と、悦に入った八重の叱咤が。そして、その二者を必死に止めようとする、老人達の懇願が聞こえている。暫くは止まらぬだろうなと、桜はなんとなく思った。
冬の山は、日中ならば見通しが良い。木々の葉が落ちて、視界を遮るものが無くなっているからだ。
その上に、冬は音の通りが良い。遠くの物音まで聞き取れるので、山の獣を追うには最適の時期である。尤も、肝心の獣が少ないのも、また冬であったが。
獣の足跡さえ見つかれば、それを追いかけていけば良い。昨夜より気温は低く、雪は少なく、天は味方に付いているのだ。
然しながら山は広いし、人の視界は案外狭い。歩の速度を緩め、目の神経に力を注ぎ、一行は静かに山を行く。
戯れの言葉は口にしない。初めて狩りに同行した桜も、常のように軽口を飛ばしはしない。これが山の流儀なのだろうと考えて、何を言われるでも無いが従った。
静寂さも、山の中では心地良い。風の音やら小動物の動く音、それに自分の足音、呼吸音。一つ一つはただの雑音だが、重ねて聞いていれば、一つの音曲とも紛う響きに変わる。
そして――その響きに色を添えるのが、狩りの獲物である。
山で得物を追うのは、桜も初めてではない。が、この国で、この地では、初めての経験である。どれ程の大物が見つかるかと、内心はすっかり昂っていた。
だからだろう。実際に足跡を見つけた時、桜は心の内で酷く落胆していた。
勿論、本州に住まう月の輪熊が、巨体の持ち主で無い事は知っていた。だが、狩りの昂揚で忘れていたのだ。足跡を見るに、恐らくは五尺と少々――そう大きい個体でも無い。
一行は足跡を追い、進む。小高い丘を過ぎ、まばらな木々の間を抜け、暫くは歩き続ける。
獣の行動範囲は広い。肝心の姿は中々捉えられないが――先頭を行く晟雄が手を掲げると、追随する皆が、その場に伏せた。一瞬遅れて桜も、その様に習った。
「…………」
無言のまま、ついと晟雄が指を向けたのは、数十間先の川の畔。果たして足跡の主は、そこで水を飲んでいた。
好都合にも、熊が居たのは風上。音さえ殺せば、近づく障害は無い。
晟雄が指を立て、くるくると回す。狩りの一行は桜を除いて十六人だったが、三人ずつの組が四つに分かれて散開する。その何れもが、位置関係は風下に保ちつつ、緩やかに熊を包囲する形を取っている。
熊は堂々としていた。鬼赤毛の狒々が消えてより、この山に敵は居ないし――きっと鬼赤毛とて、肉に臭みのある熊よりも、きっと鹿や猪を喰らうだろう。己が命を狙われる事など無い――たった一つの例外を除いては――と、熟知しての尊大だった。
流れに口を浸し、下顎で掬い上げ、喉の奥に落とす。悠々と喉を曝け出す様は、中々に美しいものと、桜にはそう見えた。
「……応!」
景観の美は、晟雄の号令によって崩れ去る。熊は顔を上げ、確かに晟雄の姿を捉え、威嚇せんと立ち上がり――
「ホリャ、ホリャ、ホリャ、ホリャ、ホリャ!」
「ホリャウ、ホリャウ、ホリャウ、ホリャウ、ホリャウ!」
突如沸いた十二の声が、抵抗の意思を噛み砕いた。
十六人の内、勢子を十二人も置いたやり口は、これも晟雄が従来の手法を変えて造ったもの。その狙いは、熊を狙った方向へ追いやる事だ。
これが子連れの熊であれば、死にもの狂いで向かってくる。一つや二つの銃弾を受けたとて、その足は止まらぬだろう。だが、腹を減らした隠れ家も無い熊は――
「ゴッ、ゴホオッ!」
唸りを上げて、熊は逃げ始める。十二の声は扇型に広がっており、熊が目指すのは声が聞こえない方向だ。
だが――その方角こそ、晟雄達が熟知している狩場。急な上り坂と断崖のある、川の狭まった土地なのだ。
「ホウ、ホウ、ホウ!」
晟雄も奇声を発しながら熊を追う。勢子程遠くまで行ってはいないが、森の中で熊の足には及ばない。みるみる内に引き離されて――狩りが算段通りに進む事に、してやったりと笑みを見せた。
熊は、これ以上進めない――人間ならば進めない所まで追い詰められた。砂利と岩、そして川、身を隠す木々は遠い。となれば――?
昇る。急な断崖を、カモシカばりの健脚で、だ。図体がでかく脚が短いとはいえ、野生の力は常に、余人の上を行く。
とはいえ、これは狩人たちの予想までは超えらえなかった。どう、どうと四発、銃声が響いた。射出点は、熊が目指す断崖の上――先に回り込んでいたのだ。
四つの弾丸を頭に撃ち込まれ、熊は瞬時に絶命。脚の力は抜け、断崖の下、沢に転落する。丁度そこへ晟雄が追い付き、一声高らかに、狩りの成功を皆へ告げた。
「どうだ、見事なもんだろう」
沢に転落した熊を追い、勢子が全て追い付いた頃。晟雄は桜に、己の村のやり方を誇った。
「ああ、見事だ」
偽らざる本心で、桜は称えた。一人一人の戦力は、月の輪熊一頭に遠く及ばない。然し各々が配置通りに動くだけで、もはや言語による意識の統一さえ無しに、誰一人傷付かず獲物を仕留めた。
秩序立った狩りは、野生の獣にも似ている。それよりも数段上の統率振りは、山の順列を僅か数百も数えぬまでに崩し去った。
桜は、余程興が乗ったらしい。背の大太刀の蝶番を開き、黒太刀を右手に。そして脇差を左手に引き抜くと――
「次は私の番だ。大陸の――ロシアの狩りを見せてやろう」
ざあ、と木々を揺らして走って行く。忙しい事だと、晟雄が呆れて首を振った。




