雪中夢のお話(2)
真に迫った夢の中で、桜は何をして良いか分からなくなっていた。
見渡す限りの敵意――良く見れば、知った顔ばかりだった。魚売りの棒担ぎの中年、宿の呼び込みをする若い男。あちらで挟を構えているのは、西洋帰りの理容師の女。江戸に居た頃合いは、その女以外に髪を切らせはしなかった。
話が面白い女だった――口説いて、幾度かは抱いた。商家の男との婚姻の際は、祝いの宴席に酒樽を担いで行ったものだ。
「誰も、覚えておらんのか」
皆が皆、見知らぬ化け物を見る様な目で、桜を睨みつけている。
手足の震えは見て取れた。抜き身の刀を持つ〝人殺し〟を前にして、堂々と立ち向かえる連中で無いのは知っている。それでも、或いはだからこそ、彼等の壁は分厚かった。
「覚えている筈も有るまいて。そも、そなたを誰も知らぬのだからのぅ。彼等の知人、友人とは、それ即ち全てが〝龍堂 沙華〟の知人であり友人。そなたは唯の人殺しよ」
「あれらを殺すつもりは無いぞ」
そう言いながらも、桜は刀を納めない。寧ろ右手の握りを強め、高々と刃を翳し――飛来する三本の矢を、それぞれに切り落とす。
矢の狙いは正確だが、弱い弓から放たれている。射手の非力が分かり、桜の心中はまた、粘泥の如く重苦しくなっていく。
矢を放ったのは誰か、探せば直ぐに見つかった。近くの民家の屋根の上に、弓道場の道場主が陣取っている。嗜み程度に習いに行って、数日ばかりで免許皆伝を言い渡された、そんな事を桜は思い出していた。
「退け! その矢は私には当たらんぞ!」
答えは無く、代わりにもう一矢。眉間を狙った矢を、桜は容易く掴み取った。
屋根の上の射手は矢を撃ち尽くしたらしい。飛び降り、向こうの通りへ消え――ついでまた幾人か、見知った顔が、刀を抜いて駆け寄ってきた。
「沙華さん、如何なさんした!?」
「おうおうおう、何処の女だかぁ知らねぇが、いい度胸してやがんじゃねえか!」
所謂、ヤクザ者と呼ばれる類の男達だった。桜が江戸に来て直ぐ、少しばかり揉め事になり、そして少しばかり荒っぽく扱った所、懐かれてしまった連中だ。
この夢の中では懐く相手が変わっているらしく、怯え竦む沙華を庇い、そして桜を害する為に立ちはだかる。
抜き身の刀が幾ら向けられていようと、桜に負ける気遣いは無かった。己の刀は左手に持ち、地面に引きずらせ、ヤクザ者達へ近づいて行く。
「……何が目的だ、何が見たい!」
「さあ、のう。それも含めて、問いじゃわえ」
首を、胸を、腹を狙って突き出される刃。衣服を掠める程度に避けて、手刀でヤクザ者の手首を打つ。鈍い音がしたが、骨が折れてはいるまいと、一瞥もくれず桜は先へ進んだ。
良く考えれば、自分が何故、自分と同じ顔をした女を追っているのか、それさえも分からなくなる。
見える所で蹲り、子供に庇われている沙華。走れば直ぐにでも届く距離だが、桜の歩みは亀よりも遅い。足が思う様に動かないのだ。
「然し、愉快よの。あの女傑も女か、日頃の強さは何処へやら。そなたはあの様に、弱みを見せた事は?」
「さあな」
また何処かから、幾つかの足音と、殺気を孕んだ視線。そちらへ視線はやらぬまま、背後の声に辟易しながら答える。
「見せられぬのじゃろう、そも」
遅々とした歩みが、遂に止まった。だが振り向きもせず、桜はただ、刀に目を落として立ち尽くす。
「あれは人として〝良い〟。仮に腕を落とそうが目を失おうが、集まる人数は変わるまい。たとえその力の恩恵に与る事が無くとも、皆があれの為に戦い、或いは死ぬじゃろうの。翻って、そなたはどうかの?」
言わんとする事は――もう、分かっている。他人に言われる事も無いと、耳を覆っても良かったが、手が塞がるのでそうはしなかった。
「そなたの周りに集まった人間の、どれ程が利の為に居る者か、そなたは分かるか? 分からぬじゃろう、人の心は読めぬ者。愛を謳う遊女の不誠実は、そなたの良く知る所じゃろうて。
利は分かりやすい。そなたの目が死に、腕が落ちたとあらば、はてどれ程の人間が傍に残ると思う?」
戦えぬ臆病な女を守る為、立ちふさがる非力な町人達。あそこで震える女が、もし自分であれば――桜はその光景を思い描く。
容易く浮かんだ。一人、膝を抱えて蹲りながら、誰にも守られず捨て置かれる姿が。振り払うように顔を上げると、また懐かしい顔がそこにいた。
「おう、源悟か……そうか、お前も」
「あたしを気安く呼ぶんじゃねぇや」
だぼだぼの羽織姿――化けるのだなと、見て取れる。八百化けの源悟の特異能を、桜も幾度か見た事は有った。
眼前で人間の骨格が組み代わり、七尺超えの巨漢が現れる。振りかぶられた拳の軌道は、過たず顔面を狙っていて、
「そういえば、お前に殴られるのは初め――」
言い切る前に、拳が降り抜かれる。両腕を交差して受け――桜はそのまま、五間は優に跳ね飛ばされた。
源悟は岡っ引きであり、その主である同心の傘原も、荒事を躊躇わぬ平和主義者。殺さず済むならそれで良いと考え、罪人相手にも手心を加えるのが常であるが――その加減を怠れば、こうなる。
「……何だお前、意外に強いな」
内部まで染み渡る左馬の打撃とも、表層を鋭く斬りつける刃物とも違う、肉を外部から抉るが如き拳。洛中で鬼とやり合った事を思い出す。
然し、幾ら源悟が殺害を前提の拳を振るおうと、桜を仕留めるには足りない。寧ろ桜を斬り付けたのは、その後の源悟の言葉だったのだろう。
「姐さん、ご無事ですかい。一先ずあたしだけ突っ走って来ましたが、っちゃちゃ、しぶてえ」
「……げ、源悟さん……? 危ないです、逃げて……」
「そうはいかねぇ、あたしもいっぱしの男でさぁ!」
源悟は基本的に、誰とでも親しく成り得るし、必要ならば酷薄に接する事も出来る。だが、表面上の付き合いに留まる事も多い中、桜には〝姐さん〟と呼びかけ、また良く従った。
一つには桜の力を当て込んで、荒事の解決に役立てたいのも有っただろう。だが、桜とて愚かでは無い。飲み交わし、夜っぴて二人歌い通せば、相手の感情の一端は掴める。友情とは呼び難いが、源悟と桜には、ある種の信頼関係が有った。
今、源悟が姐さんと呼んでいる相手は桜では無い。そればかりか――源悟が沙華に向けている目は、本来自分に向けられる筈の視線より、数段も熱かった。
「よう、押し込み強盗たぁふてえ野郎、いや女郎だ! 首を川原に晒す覚悟は出来てやがんな!?」
「……こうも変わるものか、相手が違うだけで」
自分の為に、源悟は命を賭けるだろうか。きっとそうはしないだろう、桜はそう信じている。命を賭けねばならぬ女になった時、雪月桜が源悟と親しく有る為の条件は失われるのだ。
然し、例え幼子より非力な存在となろうと、龍堂 沙華は、命を賭けるに値する人間、命を捨てるに足る女なのだ。
端的な答えであった。今、桜へ敵意を向ける者の全ては、だからこそ立ちはだかっている。己が賊徒の凶刃に果てようと、恩人を、或いは片恋の相手を、生かす事が出来ればそれで良いと、彼等は信ずるが故に――
「沙華さん、下がってて! 私達だって戦えるんです……!」
十か十一か、まだ手に丸みの残る少女達が、真剣を手に沙華を覆い立つ。
「老い先短いとな、殺すってえ言葉なんざ脅しにもならねえのよ!」
腰の曲がった老人――何処かの大家だった様に思う――が、埃の被った槍を引っ担いで進み出る。
何十人と、何百人と、人が集まって行く。彼等が呼ぶ名は全てが〝沙華〟、〝桜〟では無い。見知った人の群れ全てが、自分を知らぬ者と、おぞましい敵と蔑視している。
気付けば桜は、一歩引き下がっていた。束になっても自分を殺せぬ様な弱者の群れが、数千の矢より恐ろしい。いや――本当に恐ろしいのは彼等そのものではなく、彼等に否定される事なのかも知れなかった。
数百の敵意の群れが、一歩前に出る。合わせてもう一歩、引き下がり――誰かに背をぶつけて漸く、背後に立たれていた事に気付く。
「……誰だ」
どうせ知った顔だろうが、振り向く前に誰何する。
「てめぇこそ誰だ、ガキ」
桜はまた、逃げるように飛び退いた。飛び退き、しゃがれた声の主を見る。
「爺……ああ、そうだろうな、お前もだろう……!」
刀匠・龍堂玄斎――黒太刀『斬城黒鴉』、脇差『灰狼』を打った男。桜が初めて弔った男でもあった。
赤熱した金槌を手に、鬼神の如き憤怒の形相。たじろいで引き下がれば、背後の数百人に飲み込まれそうになる。
進むも退くも出来なくなって、桜は刀さえ構えずに立ち尽くす。空だけが広いから、知らず、上を見た。天気は良い筈だが、視界はいやに滲んでいた。
こうまでなろうとも、だが桜の武は衰えない。意気は地に落ち、心は寒風に凍り付こうとも、何も感じぬままに戦う事は出来るだろう。彼等が己を害するならば、皆殺しにしてでも生きる覚悟は有った。
「沙華! ああ、沙華……怪我は無い!?」
夢は、その覚悟さえ砕こうとする。
男女二人が人の群れを掻き分け、沙華へ駆け寄り、その手を取った。
中年か――男は白髪が目立つが、剣を嗜むのか、背は曲がっていない。女は化粧さえしていないものの、円熟した美しさを備え、優しげな声をしていた。
「……これ以上は、流石に私も泣くぞ……っ!」
二人の為に、皆は道を開ける。その光景に、桜は気付く――気付いてしまった。
「父上、母上……ごめんなさい、私は……」
父に、母に支えられ、沙華がすっくと立ち上がる。そして桜は、膝から崩れ、地面に手を着いていた。
名も知らず、顔も思い出せぬ父母――幼い頃より幾度も夢に見て、だが一度とて声を聞く事も無かった両親。
骨格や鼻筋は父親に、目元や髪の質は母に似ている。そんな事さえ、桜は今まで知らなかった。誰に言われる事も、自分で見て思う事も出来なかったからだ。
最も古い記憶にさえ、両親の姿は無い。だが、両親が恋しいと、嘆かずに育ったのではなかった。自分には親が居ないのだと、朝まで嘆き続けた事とて有ったのだ。
そうまで焦がれた姿が、そこに立っている。これが本当に夢ならば、桜はその胸に顔を埋めたいとさえ願って――二人が正眼に構えた打ち刀は、そんな感情を、振るわぬままに斬り捨てた。
「何者とは知らぬ。が、名乗るな……決して名乗るな! 名も無いままに首を晒せ!」
父の――いや、沙華の父の、怒りは激しい。人間を斬る事に、微塵も躊躇いを抱かぬ声音だ。
「沙華、下がっていなさい。私達に任せて……貴女より、こういう賊の相手は慣れてるわ」
母が――沙華の母が、静かに微笑んだ。気丈で、優しげな笑みで、そのままに人を斬る事が出来るのだと思うと、そら恐ろしくなる程だ。
「いいえ、父上、母上……私が、私がやります、戦います!」
父母に励まされ、数百の目に背を押され、ついに沙華も心を決める。きっと迷いは無いのだろう、彼女には支えが有るのだから。
仮に今日、人を殺し、その罪を背負う事になろうと――龍堂 沙華と罪を分け合いたい、そう願い生きる者は何人もいる筈だ。
「……何を見たい、何を知りたい……?」
もう、顔を上げる事も出来ない。そこへ居るのだろう八重に、桜はか細い声で問う。体を震わせるのは、出所も分からぬ寒気であった。
「そなたは、ああ成れた。それを教えてやりたくての」
八重は変わらず、そこに居ながらにして〝居なかった〟。誰に見咎められるでも無く桜の横に立ち、扇で口元を隠し、ほくそ笑む。
「あれもそなたも、元は同じ。たとえ不幸にして、決定的に違う育ち方をしたとて、そなたはああも成れたのじゃ。誰にも好かれ、誰にも愛され、命を投げ出しても惜しくないと、焦がれる者が数多と集う女に、のう。
利害など何の意味も無い。たとえそなたが刀を捨てたとて、そなたの存在こそが利。故に離れ行く者も無い。羨ましかろう?」
否とは言えなかった。言えないから、桜は立てないでいる。
幾百の友人に必要とされながら、その全てに支えられ、立つ。おおよそ人として、これほどの喜び、そうは見つかるまい。
まして桜が、涙腺が焼け付く程に妬ましいのは――父母に見守られて、戦える事だった。
「やり直せるのならば、どうする?」
数拍を開けて、八重が問う。聞くも虚しいと、常ならば取り合わぬ問いだった。
「……どういう意味だ」
「そのままよ。そなたとあれの生が割れた、十五年前。その時分に舞い戻り、そしてそなたの父母の気が変わったとしたら……?
そなたは違わず、龍堂 沙華と同じ生を歩む事じゃろう。父母に孝を尽くし、人に慕われ、そして誰を殺す事も無い生を。今のそなたの様に、力を失えば何も残らぬ、修羅の生とは異なる道じゃ」
取り合わぬ筈の問いを、桜は受け止めてしまった。意識に留めれば、心も揺らぐ。
そうだ、桜とて安寧を望まぬではない。殺生を愉しむ殺人鬼では無いのだ、殺さずに生きられるならその方が良い。まして八重が語る生は――幼少より恋い焦がれた、肉親の愛と共にある。
「どうする?」
「……出来る筈もあるまい」
「此方ならば、出来るとも」
時間はさかしまに進まない、死人は決して生き返らない。桜はそう知っていたが、八重はただ一言で否定した。
「ただの一度、人間一人。それならば此方の力で、出来ぬ事も無い。二度三度と繰り返すのならば、それは厄介な相談じゃがのぅ。そなたさえ望むのならばくれてやろう、日々の平穏も、無償の親愛も、一度は失った肉親も。
……さあ、どうする?」
もう一度、八重が問う。きっとこれが最後の問いだろうと、桜はうっすらと感じた。
己を愛する者達に囲まれ、沙華の目は強く輝いている。怖れを感じつつ、それ以上に湧く勇気に肩を支えられた、幸福感と昂揚の混じった目。
美しいと思った。かく在りたいとさえ願ってしまった。叶うならばあの様に、澄んだ目で世を見渡したいと。
「私は――」
刀を手放し、涙を拭う。早鐘の如き鼓動を抑える為、口を大きく開き、深く何度も呼吸を繰り返す。それでもまだ、胸に錘を乗せられたような息苦しさは消えない。
「――私のまま、生きる」
らしくも無く泣き、地に崩れて。それでもなお桜は、雪月桜そのものであった。
「ほう、何故に。求めた全ては、あれの隣に立っているというに、なぁ?」
「いいや、全てでは無い」
寒気が止まぬのだろう。脚を、肩を震わせながら、桜は立ち上がった。
弱弱しい目ではあったが、火は消えず。いや寧ろ、一度崩れる前よりも、内なる炎は強く燃え盛っている。
「あの中に、村雨はいない。大陸で出会った者達も、東海道で通り過ぎた者達も、洛中で擦れ違った者もいない! 例えあの様に生きられるとして――それは、世界を知らぬ生でしかない」
長い生では無い。だが、見てきたものが違い過ぎる。
きっと沙華は江戸で育ち、江戸で生涯を終えるのだろう。旅に出たとしても、沙華は一つ、帰る場所が有る。
桜は流れて生きて来た。大陸から日の本へ渡り、江戸に滞在はしたが、洛中へ向かい、何の因果か今は奥州。やがて大陸へ戻るかも知れない。或いは四国、九州から琉球へ渡り、そのまま南の島国へ向かうやも知れない。
沙華も、そう出来る筈だ。だが、そうしたいとは思わないだろう。彼女の世界とは大江戸の八百八町であり、それで満ち足りているのだから。
満ち足りぬから、流れた。一つ、心を満たすものが見つかったとて、流れの本性はもはや変わらない。桜はきっとこれからも、留まらず生き続けるのだろうし――
「元より、何百と引き連れて生きるなど性に合わん。私の隣には、たった一人がいれば良い!」
――愛した女以外の誰にも、身と心を尽くすつもりなど無いのだ。
地が爆ぜ、砂埃が巻き上がる。陣風を払って桜は馳せ、人の群れを脱し、手近の屋根に飛び乗った。
成程こうして見下ろせば、数百の威容は恐るべし。あれが全て自分の敵で、自分と同じ顔の女に心酔していると思うと、心安らかには居られない。
だが、その群の中に存在しない顔を、桜は幾つも思い出せた。そして何時しかその顔は――
「グゥゥゥウウウウウオオオオオオォッッ!!」
雄叫びと共に並んでいた。
獅子が、熊が、虎が。鷹が、蛇が、蜘蛛が――クズリが、人の姿を為している。亜人の群れが桜を取り巻き、群を為していた。
〝人〟の群れに動揺が伝播する。嫌悪感と恐怖と入り混じったどよめき――その理由を、桜は知っている。先祖より伝えられた、亜人を蔑み恐れる感情が、彼等を脅かしているのだと。
「よう、息災か?」
多種多様の鳴き声が、無病を答えた。桜は笑って、近くに立つ毛むくじゃらの肩を叩いた。
眼下の数百を威嚇する、数十の獣人達。我が事ながら他人事の様に見つつ、桜はふと、考えた。
「お前達だけではあるまい……っはは」
亜人ばかりを選んで、交友を広げてきたのではない。だのに殊更、彼等ばかりが――不条理の夢とはいえ――立ち並ぶのか。
きっと彼等は、〝桜〟と交友を結ぶ事は出来ても、〝沙華〟と相容れない生き物なのだ。
「如何にも、左様左様。善良な娘は親を疑わぬ。先祖伝来継がれた言葉を、あれは終ぞ疑わなんだ。故に龍堂 沙華は善人でありながら、日の本の保守的な者どもの様に、亜人とは害獣であるとみなしておる。
あれの価値観では、それこそが正しい。人間の女を攫い、家畜を襲い、或いは夜道に旅人を喰らう、これを憎まずに居れようか」
「全くだ、酷い話だな」
桜は一度、八重に同意した。確かにそういう事は昔から有ったのだし、今もきっと、何処かで続いている事だろう。
「だが、それが全てではない」
「しかぁり。なれど人の目は二つ、見えぬ物は見えぬ。あれの世界の全ての亜人は、そういう生き物であるからこそ、人の領域より追い払わねばならぬ――殺さぬのは、けだものにも慈悲を向けるのじゃろ、ほほ」
知る事は容易いか? 否、ただ一所に留まる者に、多くを知る事は出来ない。龍堂 沙華は正しい人間だ。だが、その正しさとは、古来よりの慣習から作られたものであり、儒家の書物に記されたものであった。
だから、誰もが沙華の横に立つこの夢でも、桜の隣に立つ者が居たのだ。例えば、亜人。例えば、正しく生きられぬ者――盗人や博徒、花魁、夜鷹。生業として人を殺める者。人を殺めるに後悔なく、ただ我道を貫く者。
何時しか出来上がっていた人垣は、いかがわしさと物騒な気配に満ちて、とても穏やかなものではない。善良な民衆の数百と向かい合うには、太陽が眩し過ぎて、目もろくに開けられぬだろうに。
「貴女はやはり、苛烈でした。今の姿も、そう在ったかも知れない姿も」
「そうか? まだ私には自覚が持てんのだ。未だにな」
聞き覚えのある声がした。顔を見ずとも誰かは分かる。振り向かずに答えた。
「ええ、とても。ですが苛烈であったとしても、その火は私を焼かなかった。きっと彼女の善良さでは、私は何時か焼け死んでいたでしょう。貴女が貴女であった事、私は感謝しています」
振り向いた所で、そこには誰の姿も無い筈だ。風の流れを留める、不可視の人体――見ぬまま、頭を撫でてやる。
「十分だ、行こう」
桜は屋根を下り、ただ真っ直ぐに歩いた。数百の人垣は、預言者の奇跡が如く二つに割れ、同じ顔の女の元へ、一本の道を為す。
高々と掲げられる『斬城黒鴉』――殺すと決めたその時だけは、奇しくも桜と沙華の構えは同一。得物の重量に己の腕力を合わせ、最大の効力で敵の頭蓋に叩き込む、大上段の構え。
桜は刀も抜かず近づいていく。一歩、また一歩、間合いは狭まり、空気は張りつめていく。
周囲の誰もが、息を殺して見守った。接触の瞬間にどちらかが死ぬのだろうと、固唾を呑んで目を見開いた。たった一人、当事者たる桜だけが数間の道程を、楽しげに歩いて行くのだ。
「っ、しぃいいいいっ!!」
振り下ろされる大太刀。初動、切っ先が一寸動いた時点で、風が斬られて悲鳴を上げた。横ではなく縦に人体を両断せんばかりの一刀――桜はそれを、右手で容易く掴み取った。刃の腹に指を当てて受け止める白刃取り――片手でなされるべき技では無い筈だった。
振り下ろされる大太刀。初動、切っ先が一寸動いた時点で、
そして、風鳴りも止まぬ間に振るわれた左拳。もはや妨げるものは何も無く、それは過たず、沙華の右肩を殴り砕いた。
力が抜け、腕が落ちる。大太刀の柄から指が離れ、愕然と膝を着く、有り得たかも知れぬ己の姿。桜は微塵の興味も見せず背を向けて、
「無いものねだりも僻みも、もう終いだ」
後方に待つ、雑多な人間やら人間以外の群れと、同じ高さに立とうと跳躍する。屋根の瓦を踏みつけた時、視界がぼうと霞み始めた。
ああ、そういえば夢だった。今更に思い出して、桜はくすりと笑う。気付かぬ内に右目だけ、零した涙も乾いていた。




