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雪中夢のお話(1)

 雪月 桜は、床板に伏していた。

 松明も消えて光は無く、外気に冷やされ、寒さ染み渡る空間――桜の頬は、己が流した血に浸り、暖かかった。


「心臓、肺腑。此方の太刀に狂いなし、じゃのぅ」


 倒れ伏す桜に寄り添って、八重――山ン主が微笑む。刀の腹に手を触れて、胸の傷口まで指を滑らせ――背に貫通した切っ先を、口に含んで血を啜る。

 桜は、己が何をされたのか、暫くは分からなかった。当然の事だが、心臓を貫かれた経験は無い。そして――これから死に逝く経験など、有る筈も無い。

 何をすると、声を上げようとした。肺が空気を取り込まず、喉は声の代わりに血を吐く。


「覚悟は良いと、のたまったじゃろ? 今さら悔やむとも思えんがのぅ。いや仮に悔やんだとて」


 血が流れ落ちる。八重はその上を、水音も立てずに歩き回る。脚先で桜の体を引っ繰り返し――刀身が邪魔で、横を向くに留まるが――胸の刀を、荒っぽく引き抜いた。

 痛みが無い事が、桜は――怖かった。過去、一般的に重症と呼ぶ類の怪我をした時は、必ず痛みが有った。きっと生きている限り、痛みは付き纏うものなのだろうとさえ思っていたというのに。

 今は、それが無い。


「血の色は誰も変わらぬわえ。獣も人も等しく赤。虫の血ばかりはそうならぬが、奇妙と言えば奇妙よな?

 然し、人よ。この赤を、河を染める程に流して、今更仏心を出すとは片腹痛い……本質がそうも、容易く変わるかえ?」


 血刀を翳す八重は、鉄の臭いに酔うかの如く頬を染め――


「暫し戯れようぞ、人よ。その果てにそなたがどうなろうと、それもまた一興、一興……よな?」


 嗜虐的な笑みと共に、桜の首目掛け、血刀の刃を振り落した。






 夢とは、脈絡のない物ばかりだ。桜は、夢ともつかぬ夢を見ていた。

 先程まで死に進んでいた筈の体が、今は何故だろうか、軽い。


「……右目も見えるな」


 両手でひゅうひゅうと風を切り、拳の素振りをする。心身全てが万全だ。

 短いながら、己の両手には情けない思いをさせた。今ならば、誰に負ける気遣いも無いと思った。立ちふさがるもの全て、容易く捻じ伏せて見せられよう、と。


「で、此処は何処だ」


 此処は――何処かの道場、の様に見えた。

 高い天井、固い床。広くは無いが、動き回れぬ程に狭くも無い。壁には誰かの達筆で、健全な標語の掛け軸が吊るされている。

 居心地は悪くない。桜の定義で道場とは、他者の努力を蹂躙する華舞台。久しく腫らせなかった鬱憤を、満足に腫らす機会であろう、と。


「で、私は何をすれば良い?」


 夢の中ではあるのだろう。だが、桜は次第に趣向を理解し始めていた。

 神話やら童話やらで良くある話だ。神とやらが人間を試すのに、試練と称して座興に耽るのは。大方そんな所であろうと。此処で誰かを討ち果たして魅せれば、気まぐれな神は満ち足りるのだろうと。


「趣味が悪いぞ」


「言いよるのう。その悪趣味に殺されてみるかえ?」


「私は殺されない」


 桜は何の疑いも無く答え――そも、その声が何処から聞こえたかを、疑問に思う事は無かった。


「死んだとも。そなたも獣も、虫も等しく。懸想する娘も等しく、何時かは死のう。そして今、そなたは死んだ」


「……は?」


 それに対して〝声〟は――紛れもなく八重の声だが――普段の桜なら笑い飛ばすだろう言葉を、戯言らしく吐いた。

 雪月 桜は死んだ、と言った。桜は自分の手を見て、自分が此処に居る事を確かめた。八重が、その様を嘲笑った。


「何を驚く。心の臓を刃で抉られ、放っておかれれば誰でも死ぬ。同じやり方で幾人と、そなたは殺してきたのじゃろう? 今更、自分だけが例外と思うなど愚かしい……ほっほ。

 なあに、たかが死んだだけの事。嘆くまでもあるまい? それよりも、此方を楽しませてたもれ」


 これは――夢ならば、何が起ころうとも、不思議ではない。だから、彼女の言を信じても良いのだろう。いや、信じても良いのか? 自分が死んだなどと誰かに言われて、それがたとえ夢だと思っていても、信じられるものか。

 然し桜は覚えていた――自分の心臓が、確かに刺し貫かれた事は。それで生きていられる筈が無いと、重々理解は出来ているのだ。


「疑うか?」


「……当然だろう」


 思考が堂々巡りを起こす。当然だと答えながら、桜は己が死んだと、少しばかり信じ始めていた。


「じゃろう、じゃろう。じゃがの、そなたに思い悩む暇などないぞ。何せこれより死合うのは――」


 と、と柔らかい足音がした。板張りの床を足袋で歩く音だ。桜は、他人が近づくのを、〝気配〟より〝音で〟先に気付いた――曲がりなりにも気配を消した相手だ。

 その音は、桜の背後、三間の距離を取って立ち止まる。正座をし、深々と礼をして、右足から音も無く立ち上がった。


「行儀の良い事だ。何処の道場剣術のお嬢様だ?」


 女だけにある独特の体臭を、女好きを自負する桜が間違えはしない。敵の性別をとやかく言う好みは無いが、腰の刀に手を掛けて振り向き――


「……お前は」


 美しい女だった。そして桜には、その女に見覚えがあった。

 背丈、日の本の平均より遥かに高く。四肢頑強、ゆったりとした衣服に隠れるふくよかな胸。

 〝本来〟あるだろう姿より、幾分かは細見だが――それはきっと、主戦術の違いによる体型の差異。彼女はきっと力より、敏捷性を武器とするものなのだろう。

 涼やかな目は、ともすれば冷酷にさえ感じられるが、彼女は柔らかく微笑んでいる。化粧気は無いが、日焼けの無い顔――日差しを遮っていたのは、三尺を過ぎる黒髪。


「――己と殺し合う。楽しかろう、のう?」


 桜の前には〝雪月 桜〟が――いや、〝龍堂りゅうどう 沙華さやか〟が、振袖の帯に刀を差して座っていた。その刀にさえ見覚えが――己の愛刀、『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』だと気付いた時、


「看板を御所望との事ですが……貴女にお渡しは出来ません。どうか力にて、お引き取りを」


「……相っ当に悪趣味な見世物だな!」


 桜は無名の刀を抜きながら、大きく舌打ちをしていた。





 二人は理由も無く、真剣を手に向かい合う。

 桜は右手に無名の打ち刀を下段に、左手は拳を作って腹の前に構えた。対する相手――沙華は、黒太刀を正眼に、これ以上も無く真っ直ぐな構えを取る。この時点で二人は違っていた。


「型に嵌った構えだな、見事なまでに」


「型稽古を馬鹿にしてはいけませんよ。その果てが、ほら」


 初動――予兆が無い。沙華は肩の高さもそのまま、滑る様に踏み込み、太刀を振るった。上段から下段までの切り降ろしは、恐ろしい程の重圧を伴って桜を襲う。

 軌道だけは読みやすい。だが、並みの剣士であるならば、防ごうとする間も無く切り伏せられていた筈だ。桜にしてからが、余裕を以て避ける事は出来ず、打ち刀で防ぐに留まる。

 重い。然し力ならば桜が上だ、押し返せる。なかごを軋ませながらのつばぜり合いに持ち込んで、桜は初めて、敵の情けに気付いた。


「……おい、どういうつもりだ」


「貴女を殺害するつもりはありません。これは飽く迄、腕比べ。そうでしょう?」


 桜が食い止めたのは、黒太刀の〝峰〟だった。

 認識に相違が有った。真剣を抜いて向かい合って、片方は殺し合いを、片方は試合をするつもりだった。

 桜は笑い、笑いながら歯軋りをする。自分がこうも甘く見られた――しかも自分と同じ顔に――腹立たしい事だ。怒りに任せ、つばぜり合いを力任せに押して解き、自分から斬りかかった。

 下段からの斬り上げ、勢いを殺さず首狙いの横薙ぎ、突き。何れもが必殺の一撃となりうる剣。沙華はその全てを、黒太刀の刀身で側面に滑らせ、力を使わずいなしてのけた。

 改めて桜は、己の得物の化け物振りを知る。

 人外の粋に達する桜の力を、流してはいても受け続ければ、並みの刀はなかごが折れる。刀身から柄まで一体型、総金属の斬城黒鴉に、その惧れは微塵も無い。

 刃渡りも長大で、桜が手にした打ち刀の倍は有る。得物の長さの差は、即ち先手を取る猶予。桜より一足早く、沙華の斬撃は敵を捕らえるのだ。

 更に刀身の長さは、手首の小さな動きを、より増幅して切っ先に伝える。力で上回る桜だが、刀の切っ先の速度で比べれば、現状、沙華に一歩譲っていた。

 慣れぬ刀で斬りかかる。手の中で、柄が軋む音を聞きながら、脇腹目掛け渾身の斬撃を打ち込んだ。受けた刀を押し込み肋を圧し折る筈の一打を、沙華はたたらを踏みつつも堪えて、留まって見せた。

 反撃はやはり、無拍子の斬り降ろし。意識を防ぐ事に集中せねば、頭に峰打ちを受けかねない。さりとてただ受けたのであれば、脆い刀を圧し折られる。受ける瞬間に僅かに刀を引いて、衝撃を殺しながら、桜は耐えた。


「技量は同等じゃのう。いや、愉快愉快。なれば勝つのは――」


 技の冴えは、八重の見立ての通り、双方ともに同等。であれば、得物の差異を鑑みて、優位に立つのは沙華に見えた。

 然し、実際はそうならなかった。


「ええい、同じ顔がこうも温いとはなぁ……」


「くっ……相当の手練れですね。称賛に値しますよ!」


 技量が同じ――だが、殺し合いの経験は、圧倒的に桜が多いらしい。

 まず、刃物に対する反応が違う。余裕を持って大きく避けようとする沙華に対し、桜は自分の体に触れねば、頭髪の数本程度はくれてやるとばかり、紙一重で避けようとする。

 攻めに転じる際も、桜は容赦無く切り捨てに掛かるが、沙華は無意識の内に、相手を慮って加減をしてしまっていた。

 防いだ黒太刀が舞い戻るまでの僅かな間に、桜は可能な限り間合いを詰める。自分も刀を触れない程の間合いから、鍔迫り合いに持ち込んだ。弾かれたが、桜は体勢を崩す事無く、逆に沙華は反動で、よろけながら後退した。


「――やはりのう、こうなろうと言うものよ。敢えて戯れにと、惑わす言葉の一つも吐いたが、いや道化はよう踊りよる」


 何処からの声かは分からない。桜は八重の声に取り合う事も無く、壁へ追い詰めた沙華に、再度のつばぜり合いを図る。

 沙華の力も、女とは思えぬ剛力である。二人の力を受けて、床板も壁もきしみをあげる。然しこの形となって、桜が敵を仕損じた事など無かった。


「人よ。殺し合いとは言うたがの、果たしてその女をどうする気かえ?」


 捻じ伏せ、首を取るのみ。後はそれだけという所で、八重が問う。


「殺すのか。所詮は夢じゃろうとも、然し殺すのか。弱い仏心じゃな、人よ」


「……何だと?」


 何時の間にか桜の背後に、八重が扇を翳して立っていた。壁に押し込まれている沙華の表情から、きっと彼女にもその姿は見えているのだろう。


「気まぐれに、あの猿を見逃したのう。そしてまた今、たかが此方が唆したというだけで、その娘子を殺そうとする。何がしたい?」


「……」


 扇で煽がれ、頬を風が撫でる。汗の粒が軌道を歪めて、顎の先を伝って落ちた。

 桜は答えられない。今回に限って言えば、何も考えていなかった――夢か、山ン主とやらの座興かと思ったのだ。

 だが、道理かも知れないと思った。殺したくない、殺さないと、自分は偉そうに言った記憶が有る。だのに今、自分と同じ顔の女にしようとした事は――

 考えつつも、桜は手を緩めない。思考と腕を乖離させる程度の技量は、とうの昔に身に着けていた。幾つの修羅を潜ったか、数えられぬ程なのだから。


「さて、娘子。そなた殺されるぞ、この女に。哀れよの、ただの道場破りと思うて迎え入れたが、実は血に飢えた獣だったとは。よもやこの女、亜人とやらかも知れぬなぁ……?」


「ひ……ぃ、や……」


 対する沙華は――同等の敵と当たった事さえ無い。死を賭した戦いに赴いた事も無い。

 他者を殺した事は愚か、四肢一つを切り落とした事さえ無い。人に真剣を用いる時は、必ず峰打ちで優しく気絶させてきた。

 そんな女が、初めて自分を上回る敵に、命を狙われて――冷静で居られるものだろうか。


「や――きゃあああぁっ!?」


 女の様な悲鳴――少なくとも、桜なら決して上げぬ様な悲鳴と共に、沙華は桜を蹴り飛ばす。

 威力は有るが、それで桜を仕留める事は出来ない。寧ろ狙いは、背後の壁の破壊にあった。木造家屋の壁など、彼女〝達〟の前には、障子の薄紙程の妨げにもならなかった。

 外へ転がり出て、沙華は走り、逃げる。追って桜は外へ出て――


「おう、懐かしい」


 言う程に長く離れた土地でも無いが、壁の向こうは江戸の町であった。


「助けて――助けて、殺されるうっ!」


 道行く者が足を止め、刀を抜いた桜を見やる。己へ向かう視線の、込められた敵意の強さを感じて、桜はたじろぎ、口元を捻じ曲げた。慣れ親しんだ町の人々を――桜はその時、初めて見たように感じたのだ。


「あれは、そなたじゃ。分かっておろう? つまりそなたは、誰でも無い」


 八重の言葉の選びは、分かりやすいとは決して言えなかったが、端的に事実を語っている。


「あの黒太刀は、あの娘子が祖父より与えられたもの。道場は、あの娘子が己で勝ち取ったもの。

 性情、善良。良く鍛え良く学び、誰の言葉にも耳を傾け、誰にも等しく力を貸す。金になる程の武芸、生来の無欲、財は有るが他者の為に使う事を惜しまず。生まれてこの方負けは無く、故に誰からも深く信頼されて、そして皆がこう思うのじゃ」


 それは大した人間だ。桜はそう、声にならぬ声で呟いた。己と同じ顔が善人などと、考え辛い事だった。


「多くの者がこう言うぞ。〝いつか沙華さんに恩を返そう〟〝沙華さんの為なら一肌脱ごう〟〝沙華さんの為には命をも惜しまない〟……そなたに、そう言うてくれる者がおるかえ?」


「さあ、な」


 一人二人は居るだろうなと、桜は頭の中で人を数えた。誰かを殺せば、その誰かの敵には感謝される。そう思わずに売った恩を、律儀に返そうという者は居るだろう。

 だが――今、桜が受けている敵意は、目に映る全ての人間より向けられていた。風車を持って走り回る子供さえが、沙華を背に庇い、石を拾って構えていたのだ。


「せいぜい頑張るのじゃな、〝人殺し〟」


「……最悪の気分だ」


 早くも十手持ちが集まり始めた。

 早足の者が呼びに行ったにしても早すぎる。やはりこれは夢なのだと思いつつも、桜は心が冷たくなっていくのを感じた。

 あまり縁が無い筈の、悲しみという感情だった。

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