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初陣(4)

「……嘘だと言ってくれよ、お-い」


「ウソもシジュウカラも居やしない。残念ながら現実だよ、これは」


 八島の泣き言を、窘める左馬さえ、声に力が無かった。

 眼前に連なるのは、高さ十丈を超える堅牢な城壁。石を積み上げて造ったか――それにしては継ぎ目も見えない。

 生半の砲撃では傷もつかぬだろう堅壁が、視界を右から左に横切っているのだ。

 城門と思しき箇所には、人が並んで十人は通れそうな扉が備わっている。こちらもまた、攻城戦を想定してか、鋼を存分に用いて造られていると見えた。


「……こりゃあ、俺もちょいと考えてなかったぞう。どっから登れってんだ」


 数間前方では、先に行った筈の薊が立ち止まって、首を傾け城壁を見上げている。

 この城壁を見て、退こうという考えが浮かばないのは、やはり功を急ぐ思考が故だろうが――然しこればかりは、攻め手の一つも見つからない。


「大陸の城に良く似てるね。巨大な城壁を連ねて、居住区域を丸ごと囲んでしまう。必然、住民全てを兵士に出来るし、住民全てを守れるって訳だ」


「あんたは向こうに行ってたんだっけ? 経験者さんに聞きたいけどよ、それじゃあどーすりゃ良いのよ俺達」


 火縄のうち二丁を城壁に向け、八島は瞼を絞り、見えぬ敵に狙いを付ける。そうしながら問うのは、攻城の策というよりも、此処からの行動方針である。

 現在の位置から見える城壁の高さ、角度、加えて頭に叩き込んだ地形図を鑑みるに――恐らくこの城壁は、集落一つを囲むだけの広さを持っているだろう。つまり、城壁の無い場所まで歩くというのは、非現実的な案となる。

 かと言って、飛び越える乗り越えるというのは、飛翔を得手とするものならば可能だろうが、卓越した術者はそう居ない。単身で城内に乗り込めば、矢の雨で剣山が関の山だ。


「どうするにもこうするにも、味方を待つ他は無いだろう。多勢に無勢にも程がある。……村雨、友軍の臭いは?」


「えーと……ん、近くには……すいません、分かりません」


 村雨の鼻には、戦場の変化が感じ取れない。

 四方八方に人間と鉄の臭い、敵味方の区別が付かないのも無理は無い。

 〝自分達〟と〝それ以外〟の種族の争いならば良い。同種間の、大規模な殺し合いは、野生が好むものではないのだ。人間同士の闘争で、彼我の区別を付けられる程には、村雨はまだ人間に馴染んでいなかった。


「してどうする、わっぱどもよ。此処ならあれらの矢は届かんが、俺らの刀も届かんぞ」


 遠い城壁を指さして、老人は緊張感の無い口調で言う。言葉とは裏腹、さして困りもしていない風情である。

 誰も答えは返さないが、取るべき手は決まっていた――待つか、退くかだ。

 敵が出撃してくるか、自分達の味方が追い付くかを待つ。或いは後ろを向いて、真っ直ぐに山を駆け下りる。何れも能動的に攻め上がるものではなく――


「まどろっこしい! 俺が一っ走り、あの扉をぶち割れば良い。城内に踊り込みゃあ独り舞台よ!」


「あの扉を? ……貴方の図体なら出来るかも知れませんね、確かに」


 好戦的な二人は、それを良しとしなかった。

 城壁の上には、きっと弓兵も並んでいるだろう。後方の援護を期待できぬまま、飛び込んでいくのは自殺行為にも等しいが――薊と離堂丸の二人に、その様に冷静な判断は出来ない――しようとも考えない。各々獲物を構えたまま、固く閉ざされた城門へ近づいていく。

 五十間の夜の平地を、二人は真っ直ぐに走って行き――妨げには、終ぞ出会わない。あと三十歩という距離に迫った所で、城門は向こうから口を開けた。

 城内は煌々と松明が灯っているのか、昼と見紛う明るさだ。刀身や鎧が跳ね返す朱色を後光に、一人の少女が進み出た。


「あっ……!」


 村雨は、思わず声を上げる。懐かしいと言う程親しくは無かろうが、それでも久方振りに見た顔――礼を言わねばならぬ顔だった。

 あまり背は高くない。離堂丸より手の平一つ、薊と比べれば幼子にさえ見るような体躯で、線も細い。

 然し、眼光は強かった。左目の黒は夜に紛れるが――右目の紅は、紅玉よりも尚赤く、これから見るだろう血を、既に映しているかのようだった。


「……女首は、手柄としちゃ弱えんだよなぁ」


「ひとかどの首なら、男も女も関係ないでしょう。そこの人、お名前は?」


 眼前の二人は、自分を殺そうとしている。知らぬ訳ではなかろうが、そしらぬ顔で煙を吐いて、


狭霧さぎり 紅野こうや。喜べ、大将首だよ」


 長槍一振りをひゅうと鳴らして、何がおかしいのか、ふふと笑った。






 成程、大将と自ら言うだけはある。狭霧紅野は戦場ながら、見事な女伊達を見せていた。

 槍の柄は八尺、背丈より三尺近くも長い。そんなものを箸か何かの様に、重さも感じさせず振り回す。

 靴も脚絆も小袖まで、白一色の死に備え。重ねた羽織がただ一つ、派手に緋色に染められている。

 腰に吊るした煙管は、先程まで吹かしていたと見えて、煙が未だに漂ったまま。その煙より白い長髪は、頭の後ろで束ねられ、額を広くさらけ出させていた。


「大将首が女か……ちっ、安く見られちまわぁな」


 不満を口にしながら、薊は大刀を、高く大袈裟に身構えた。巨体の利を全て用いる攻撃的な型――手心を加えるつもりなど、まるで無いのだ。


「そうか? 値踏みするのは兵部卿だろう。あれは聡いよ、何せ私の親父だ」


 言葉で侮られようと、最上の礼は伝わったものらしい。紅野は槍の穂先を、薊の喉へ向けて構える。


「ならば」


「ああ、来なよ」


 互いに殺す価値有りと認めた――これよりは一対一の殺し合い。そう決めていた二人の間に滑り込み、離堂丸が紅野に斬りかかったのは、まさに一瞬の事であった。

 〝十連鎌〟――農耕用の鎌と金属の棒を、鎖の様に交互に繋いだ奇妙な武器。普段は輪にして運んでいるそれを、一本の鞭状に伸ばせば、射程は優に三間にも及ぶ。中程を受け止めても、残りが撓って回り込み切り付ける――厄介な凶器を、紅野は地に伏せて回避した。


「ふふ……ずるいですよぉ。二人だけ恋仲みたいに分かり合って、見せつけて……妬いちゃいます」


「おい、女は下がってろ。俺の手が――」


「向こうも、女でしょう。つり合いは取れますし、何よりも」


 空を切った鎌が戻ってくる。器用に左手で受け止めながら、離堂丸は背後の薊に、艶やかな流し目を向けた。


「あの髪、ざっくりと切りたいのです……駄目?」


「ぐ……っ、かぁっ!」


 何故やら、薊が吠えた。巨躯をひん曲げて狼狽する薊の顔は、面白い様に赤く茹で上がっている。

 妨げる者のいなくなったのを良しとして、離堂丸が跳ねる。足首を返すだけの僅かな動きで高々と跳躍――優に二間は跳ね上がっただろうか。その頂点から、十連鎌を振り下ろした。

 腕の動きに従って、連ねられた凶器は波を打つ。それは、巨大な蛇が鎌首をもたげるにも似た有様で――だが、届かない。

 紅野は槍の石突を地面に突き刺し、体を後方に突き飛ばす様にして大きく交代していた。三間の間合から丁度逃れて、髪一筋を切らせる程度の距離。紅野は瞬きもせず、凶器を振り回す狂人を観察していた。

着地に合わせて横薙ぎ、右から左。紅野の左脇腹目掛けて、草刈り鎌の刃が迫る。

槍の柄で受ければ、連なる残りの刃が回り込み、肉を抉る。体ごと避けねばならぬのは明白だが――紅野はこれを、敢えて体に当てさせた。


「あら……? 細かい悪戯をしますね」


「そりゃなぁ、〝そのまま〟で戦地には出られないよ」


ぎん、と音がして、鎌の刃は弾かれる。軽く棚引く緋色の羽織は、その実、鋼の鎧の如き防御を誇っていた。

 防がれた離堂丸も、然して意外そうな顔はしない。予想していた訳でもなかろうが、この程度で驚愕を見せないのは、彼女自身が魔術師であるからだ。

そう、手品の種はやはり魔術。羽織の布を瞬間的に変質、硬質化させ、鎌の刺突を防いだのだ。

 離堂丸が十連鎌を引き戻そうとする――鞭上の重量物は、手の動きに僅かに遅れて戻る。

それを見逃さず、紅野は一直線、離堂丸の懐へ飛び込んだ。

僅か一足にして三間の間合を詰める脚力もさる事ながら、眺める者の意表を突いたのは、長柄の武器を用いる彼女が、刀さえ翳せぬ距離に踏み入った事であった。


「ふふっ……真っ直ぐな手ですね」


「馬鹿正直とも言う、ってか?」


 当人同士には、全く意外など無かった。長大な武器を用いる離堂丸は、懐に潜り込もうとする敵など、それこそ何百と殺して来た。紅野とて、殺人狂が手招きしているのに気付かない程、のんきに生きてはいなかった。

 離堂丸の靴が、紅野の腹を蹴り上げる。爪先が鳩尾に届いたが、やはり金属的な音に防がれて無益に終わり――そう思う間も無く、爪先が爆ぜた。

 目を焼く灼光、耳をつんざく轟音。範囲を極限まで狭め、一寸足らずの空間に威力を集中させた魔力爆発。強化された羽織が皮膚を守ったが、紅野の体が浮かぶ。

 浮いた相手が地に着く前に、離堂丸は再び跳躍し、間合を広げた上で、今度こそ十連鎌を手元に引き戻す。それから、手元の鎖と先端の鎌をつなげ、十連鎌を円状の形態に切り替えた。


「あー、くそ痛……お。なんだ、逃げるのは諦めたか」


「……貴女の口振り、なんだか嫌いになって来ましたねぇ」


 離堂丸が武器の形状を切り替えたのは、接近戦が避けられないと悟ったから――つまりは、速度において紅野が己を上回ると認めたからである。図星を突かれて離堂丸は、目に見えて不機嫌な顔をした。

 先手を取る側が入れ替わる。紅野の長槍が唸りを上げて、離堂丸の心臓を狙った。

 切っ先が届く前に、刃の横っ腹を蹴り飛ばそうと、離堂丸の靴が迫る――槍の穂先は翻り、狙いを下腹部に変える。それを弾けば今度は、喉を目掛けて切っ先が突き出され、離堂丸は身を仰け反らせて避けた。


「ああ、苛立たしい、楽しい、楽しい……ふふっ」


 皮膚を風が撫で、思わず離堂丸は身震いする。躊躇わず急所から急所へ、絶えず狙いを変え続ける槍は、変幻自在を冠するに相応しい。気を抜けば体に風穴を開けられそうだ。

 然し、恐れるには足りない。ただの達人であれば、如何様にも欺き殺す手を、離堂丸は身に着けていた。

 金属棒と鎌の輪を、体の周りで激しく回転させながら、離堂丸は自ら攻め込む事を捨てた、後屈気味の構えを取る。回避行動の合間、ほんの刹那ばかり心臓を開けた防御を取り、そこを槍が狙うように仕向けた。

 瞬き一つで命を奪い合う攻防、その中に生まれた致命的な隙だ。紅野は見逃さず、そこへ槍を突きだし――


「……取った!」


 槍に絡み付く十連鎌。鎖が槍の穂先を包み込み、鎌の刃が鎖に引っ掛かり――結果、紅野の槍の先端は、芋虫が蛹でも作ったかのような有様に変わった。


「うお、っちゃあ……」


「いらっしゃいませ、此方へどうぞ……!」


 刺突武器が鈍器に化けた。これでも人は殺せるだろうが、殺傷能力は数段も落ちる。何よりも――手で掴めるようになる。離堂丸は槍の先端、鎖で覆われた部分を素手で引っ掴むと、思い切り自分の方へと引いた。

 身長の差故に、体重差も大きい。紅野はあっけなく引き寄せられ、離堂丸の両腕に強く抱きしめられる。


「おいおい、当世じゃ流行りはこういうのか? 黒八咫といい、あの狼といい、全く……」


「冗談の言い納めがそれも味気無い……『往ける者よ、彼岸に往ける者よ、菩提よ』」


 軽口を叩きながらも、紅野は渾身の力を込めて腕から抜け出そうとする。だが、離堂丸の腕はまるで緩まない。

 鋼の如き強度で喰い絞められた両腕は、捉えた敵を抱き殺そうとするかのように、愈々万力染みて閉ざされる。


「『捧ぐ。血肉の赤を受け取りたまえ――呪拝唱しゅはいしょう!』」


 離堂丸の詠唱が完了した瞬間、ゴキン、と鈍い音が響いた。何か、硬質の物体が砕け散ったかのような――

 つまりは、抱き潰されたのだ。女の細腕では到底適う筈も無い芸当であったが、戦場に如何なる不思議も無い。狭霧紅野の細い骨は、内臓ごと砕け散った――かに、見えた。


「ふっ、ふふふふふうふふふふふうふ……ああ、いい感しょ――くぉっ!?」


 紅野の右膝が、離堂丸の股間を強く蹴り上げた。薄い肉の上から骨盤を強打――女だろうが、痛い物は痛い。緩んだ腕から紅野は抜け出し、離堂丸の足を払った。

 破壊音を上げたのは、彼女の骨ではなく、硬化の術を掛けた羽織。中の紅野は、両腕を軽く突っ張って、離堂丸の腕を押し留めていた。


「ぅ、あ、が……ひぐ、うぅ、……ぅ」


「おーやだやだ、強姦魔はこれに限るなぁ――よいしょ」


 股を抑えて蹲った離堂丸を、足で押し倒し馬乗りになる。この体勢になってしまえば、勝負は決まったも同然だ。

 拳が三つ、顔では無く喉に落ちる。呼吸を阻害して動きを止め、決して抵抗できぬ様にした上で、腰から短刀を一つ引き抜く。逆手に構え、底に手を添え、心臓目掛け振り下ろし――


「ぬがああああアアアァッ!!」


 薊の大刀が突風を連れて、紅野の胴を両断せんと振るわれた。

 紅野は猫のように身を捻って、大刀の下を潜りぬける。離堂丸の体から転げ降りると、十連鎌を蹴り飛ばし、槍だけを拾い直した。


「ちっ、一騎打ちに横槍――いやさ横刀とは。つまらない男だな、名前は?」


 両手で槍を持ち、半身に。完全に正道の構えを見せる紅野。


「俺は薊、〝首飾り〟の薊! うつけだろうが武士ならば、聞いた名前の筈だろう!」


 離堂丸を拾って、味方の方へぽいと放り投げ。薊は地を揺らす程、太い声で吠えた。






 一騎打ちは戦場の華――されどその間、全てが静止している訳ではない。


「師匠、どうしましょうか……とと、と」


 薊に投げ寄越された離堂丸――未だに苦痛で動けない彼女を横たえながら、村雨は師に行動方針を問うた。


「さあて、ね。逃げるべきか、留まるべきか……お前の鼻はどう言っている?」


「……まだ、なんにも」


「そうか、では留まろう」


 豪傑二人の一騎打ちを遠目に見ながら、自分達が取るべき行動を探る。大量の人間と金属の臭いは、近づいてきているのは確かだが、それがどちらの味方かは未だに判断が付かない。

 近づいているのが味方ならば、流れに便乗して攻め上れば良い。敵であるなら、早々にこの場から逃れるべきだ。左馬の考えは単純で、可能と判断すれば即座に実行できる程度のものだった。

 然し左馬は、分からぬならば分からぬままで良いと、一騎打ちから視線を外さずに言うのだ。


「見ておけ、村雨。ああいう殺し合いもあるんだ……ああ、そそるなぁ」


 照明は星明りと、遥か城壁の上に設置された松明ばかり。常人の目に映すには、光源が不足した戦いだ。だとしても、人外たる村雨の目は、薊の大刀の軌跡を、紅野の槍の穂の白銀を、確と捕捉している。

 薊の技は、巨体の利を最大限に生かしたもの。大上段から振り下ろし、振り上げる――単調とも取れる。ただ受けようとするだけならば、目を瞑っていても軌道に槍の柄を割り込ませられるだろう。

 だが、紅野はそうしない。体ごと全て、大刀の軌道から逃れさせる。そうせねば槍ごと自分の体を、真っ二つに叩き割られると知っているからだ。

 誰にも受けられぬ怪力で、尋常ならざる切れ味の武器を、並みの兵士の数倍の剣速で振るう。もはやそこに些細な技など必要は無い。体力は無尽蔵、疲労で倒れるのは必ず、必殺の剣撃から逃げ惑う敵。これが薊の、必勝の手立てであった。


「どうした大将首、命が惜しいか!」


「当たり前だろ、煙管が吹かせなくなる……はっ!」


 対する紅野は、槍の射程のぎりぎりから、踏込と同時の突きを繰り返す。

 狙いは正確無比に急所から急所。離堂丸を相手にしていた時より尚も速度は上がり、ひゅおうひゅおうと風が鳴く程である。

 然し薊は、獣の如き反射神経だけでそれを避け、或いは鎧の端に掠めさせながら、自分が一方的に攻勢を続けるのだ。


「……凄いですね」


「腹立たしいが、確かに。ああいう奴は居るものだ、お前の連れも似たようなものだろう」


 剣術には疎い村雨だが、薊の凄絶さには見覚えが有った。

 化け物じみた身体能力に任せ、他者の技術を捻じ伏せる様は、桜の剣術にも似ている。違う所は、桜は持てる技術を敢えて用いず、薊はそもそも技術を必要としていない点だ。


「どんな世界にも、何人かああいう奴が出る。体格も、力も、目も、生まれつき良いものを持って居る奴が。あの隆々たる双肩を維持する為の訓練なんて、きっと薊には必要が無いんだよ」


 ついに、紅野が捕まった。

 真っ直ぐ振り下ろされた片刃の大刀。横へ避け、心臓を狙って踏み出した紅野の右側頭部を、大刀の峰が狙った。渾身の踏込を上回る暴風の剣――防がんと翳した槍の柄が、飴細工の如く砕け散った。


「っふ、はっはぁーぁあ!」


「うおっ……! かぁ、また折れたか……」


 八尺の槍は半ばから圧し折れ、破片も散って、紅野の手に残ったのは三尺少々の短槍。数歩飛び退りつつ継戦の意思を見せる紅野だが、もはや勝敗は明らか――後は結果を為すだけであった。


「終わったな。見るんだ村雨、これからあの女が首を取られる」


「っ、!? ……は、はい」


 この夜だけで、人が死ぬのは幾つも見た筈の村雨だが――仮に麻痺していたとしたら、それは見てきた死が、〝どこかの誰か〟のものだった事に尽きる。

 恐怖に涙しようが震えようが、所詮はここまで見た死人は、全てが赤の他人。同情など瞬き程の時間で忘れる。

 対して、これから死ぬ筈の少女は――桜と村雨を助けた、数日とはいえ深い恩の有る相手だ。看過できる筈が無い。村雨の本心は、止めさせたいと叫んでいる。

 だが――それが許されない理屈など理解している。ここは戦場で、狭霧紅野は敵だ。味方が敵を殺すのを邪魔する――それは単なる裏切りに過ぎない。そんな事をするなら、最初から戦列に立たねば良いのだ。


「……良いんだね?」


「私は……、私は、逃げませんでしたから……!」


 逃げる時間を与えられた。それでも留まったのは自分の意思だ。誰に文句を言う事も出来ない。歯をガチガチと鳴らしながらも、丸い目を更に見開いて見届けようとして――すうと歩いて行く、老人の姿を目に止めた。

 老人――名前を聞いていなかったと、村雨は思い出す。呼び止めようとしたのだ。だが叶わず、彼はすうと滑るように夜の戦場を歩いて――いや、歩くかの如く静かに馳せている。

 老境とは思えぬ健脚。刀一振りで戦地に立ち、戦う姿を見てはいたが、やはり彼も達人であろう。感心してしまったのは、本当に束の間の事であった。

 左馬が老人を追う。二歩も行くより早く、老人は抜刀し、薊の左腕を切り落とし――


「お――お、ぉ?」


 何が起こったか分からぬまま、薊は大刀を取り落とす。次の刹那、紅野は折れた槍を投擲し、薊の胸を貫いた。

 巨体がゆっくりと傾いて――己の鮮血に、薊は顔を沈めた。

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