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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
品川夏空模様
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化けて出たお話(2)

 大紅屋は、老朽化した歌舞伎の舞台を中心に、外側から壁と屋根を追加して作った建物である。その為、一階建てだが恐ろしく屋根が高く、中央の広間には別な建物が丸々一つ入っているという、非常に奇怪な構造をしている。

 ところで、こんな奇妙な作りにした理由というわけでもないが、陰間茶屋は歌舞伎と非常に縁が深いのだ。


 歌舞伎役者を志す少年には、女形を務める為の修行として女の心を知る為だろうか、色を売る慣習が有った。元々が見目好く、また舞台に立つ為、演技力も声も磨いている少年たちである。田舎上がりも多い江戸者の男が、一部の寡婦が、魅了されない理由は無い。その内でも、舞台に出る事なく座に属して身を売る者を陰子、陰間と呼んだ。役者を務めながら色を売るのは色子、舞台子である。

 歌舞伎役者が身を売るというのは、江戸時代初期、女歌舞伎の頃からまま見られた事である。風紀を乱すとの理由で禁じられれば、前髪を残した少年の若衆歌舞伎が。それさえ禁じられれば、月代を剃った野郎頭の役者演ずる、野郎歌舞伎が隆盛となる。歌舞伎役者の売春が分業化され、制度として機能し始めたのはこの頃だと言う。

 室町以前と比べ江戸時代は、経済活動が更に自由になり、日本の広い範囲を金銭が流通するようになった。だが貨幣経済が発展する一方で、幕府は旧態依然とした米本位の財政管理を続けた。外へ金が流れ出さない鎖国下にあり、上が貧しくなれば下は富むものだろう。富裕層が増えた事により生まれた、町人の生活の余裕が、風俗文化の発展を推し進めた事は想像に難くない。

 その流れの中で、男娼を専門に扱った売春宿という需要が生まれ、供給が成立していく。舞台に立たず身を売る陰間の名を取って、それが陰間茶屋と呼ばれたのだ。京・大阪の上方から生まれた流行は西進し、吉宗公の改革の頃、江戸で花開いた。かれこれ五十年ほど前、丁度開国の頃には、十数か所の茶屋宿屋町に、二百を超える陰間・色子が属していたと言われている。

 言い添えておくが、江戸の遊び人に於いては、男も女も同様に抱いてこそ粋という傾向が有ったのだと言う。両性愛者は珍しくなく、妻子持ちが陰間茶屋に通うのも良くある事だったとか。五代将軍綱吉公など、伽の相手の若衆を百五十人も抱えていたという話が有るのだから(真偽のほどは定かではないが)。

 元服前の髪型を真似た若衆の風体は、それが禁じられた野郎歌舞伎の時代に有っても、付け髪を用いて再現される程、客に強く望まれるものであった。しかしながら時代が流れるにつれ、陰間茶屋の客は少年達に女性性を求め、少年達はそれに応えるように色香を湛えていく。髪を伸ばして結い、振袖を纏いしなを作る。流行の規模を言うならば、少年愛の傾向は、今この時代こそが頂点だった。



 さて、燦丸さんまる少年も時代に逆らわず、女装姿の陰間である。彼は大紅屋に在籍する中で、一番稼ぎが良い陰間だった。そうなったのも一年前から半年間、ほぼ毎日通ってきた、当の男が理由である。懐は潤い、振袖は他の誰より艶やかになり、髪結いも化粧番も腕利きを雇う事ができた。おかげで良客が頓死してからも、入れ替わり立ち替わり、上客には事欠いていない。

 そんな彼の功績に店も応えようとしたのだろう。与えた部屋が、あの建物内に強引に取り込んだ舞台である。それが一つの部屋であると見るならば、客席に花道、舞台、舞台裏、広さは他の客室の比ではない。役者が立つ筈の舞台にどっかと座り、客席を見下ろしながらの酒食はまた格別であろうが――問題は、広すぎる事だ。大勢人が詰めかけるならば兎も角、燦丸と客とで一対一では、この空間は広く、その為に寒い。蝉の鳴くこの季節は良いが、冬になったら部屋を変えてもらおうと、燦丸は心に誓っていた。

 その空間が今、生臭な人間には非常に居心地悪く作りかえられている。客席の四隅に置かれた香炉から、線香の煙が天井へ昇る。歩いていると、偶にザリと音がして、足の下を見ると塩を踏みつけているのだ。大扉や舞台が濡れているのは、桜が自分で作ったとかいう聖水を、枡でばしゃばしゃと撒き散らしたからだった。


「……ねえ、桜。一応聞いておくけれど、これは何なんだい?」


「魔よけだ。そっちの香炉と線香は適当な寺で借りてきた。塩は近所の神社の住職に清めさせてある。十字架の付いた教会は少し遠かったから諦めたが、まあ不信心者だろうが祈りの効力は変わるまい」


「僕はだね、君のそういう無意味な行動力が好きではあるんだ。尊敬はしていないけれど」


 信じてもいない神への祈りは知っていて、身近で有る筈の念仏は全く知らない友人に、燦丸も呆れるばかりだった。成程、これなら幽霊は寄ってくるまい、まともな人間が寄り付きたがるとも思えないが。水に濡れた舞台の上で舞いなどすれば、すてんと引っ繰り返る事請け合いである。


「よおし、これで亡霊だった場合の対策は出来た。後はのんびりと待つばかりだな」


「上手くいきそうな気がしないなあ……」


 掃除の手間が増すばかりと燦丸は嘆息し、舞台から降り、客席で座布団を掻き集め始める。それとほぼ同時、この奇妙な空間の扉が開いた。




 僅かに時は遡って、大紅屋の正面。村雨は、岡っ引きの源悟を連れて、この巨大な宿を見上げていた。


「はりゃあ……凄いね、達磨屋よりまだ大きい」


「変わった造りをしてますからねぇ。建物の上に被せて建物作りゃあ、そりゃ馬鹿でかくもなりまさぁ。屋根が高い割に二階が無いんで、思ったより中身はすかすかだってえ話も聞きますが」


「入った事は?」


「残念ながら。そういう趣味はござんせんし、揉め事も起こさない所ですからねぇ。しっかし幽霊騒ぎたぁ、ちゃちゃちゃ、頭の痛え話だ」


 常日頃、縁の無い場所である。物見遊山なら風情も有ろうが、ここに咲くのは何れも毒華、愛でようならば中毒にもなろうというものだ。場違いを自覚する村雨と源悟は、何故かしゃんと伸びた背のまま、大紅屋の門を潜る。


「ごめんなすって、ごめんなすって。桜の姐さんと燦丸さんに呼ばれて参りやした、お取ち次ぎお頼み申します」


「おや、岡っ引きさんかい。これは有りがたいね、ささ、ずいと奥まで」


 源悟は身分証明の代わりに十手を懐から覗かせながら、何時もの様に惜しみなく頭を下げ、玄関先にいた男に取り次ぎを願った。人の良さそうな、だが影の薄いその男は、会釈をしながら二人を迎え入れた。


「傘原様のお預かり、源悟と申します。どうもわざわざ、お忙しいところを出迎えていただいて」


「いえいえ、こちらこそお手を煩わせて申し訳ない。大紅屋清重郎でございます」


「おっと、こりゃ失敬、まさかご主人自らのご案内たぁ……」


 片方が頭を下げる、それに返してもう片方が頭を下げる、またそれに頭を下げて返す。釘を打つように頭を上下させている源悟と大紅屋主人の姿に、これはきりが無いと村雨は確信した。


「ええと、大紅屋さん? 案内の次いでで良いんですけど、幽霊っていうのは……?」


「ああ、こりゃ申し訳ない! いや、うちの子達も怯えてしまいましてね。私としましては、店の決まりを守って遊んでくださる以上はお客様。あまり大騒ぎもしたくないんですが……」


 案内を催促しつつの質問に、主人はやっと歩き始め、同時に喋り出す。腹の据わった人物の様で、困りはしても動転している様子は見受けられない口調だ。


「幽霊だ幽霊だと騒がれれば、取り憑かれた店だと悪評も立つ。気持ち良く遊んで頂くなら、そういう噂が心の端でも引っ掛かっているのはいかんのですよ。どうにか、あのお客様が幽霊ではないと証明する手立てはないものでしょうか……」


「ご主人のお見立てはどうなんで? そのお客――仕入れ問屋の垣右衛門は、本人だと?」


「でしょうな。少々様子がおかしいところは有りましたが、顔も声も間違いなく。豪勢な遊び方もそっくりそのまま、半年前と変わりません」


「ほう、おかしい所……そいつぁ、どういう事でしょう」


 大紅屋主人は、燦丸がするのと同じように、首を傾げて口を閉ざした。黙り込む時間は燦丸より短く、三歩進んだ所でまた口を開く。


「震えていたのですよ、この暑いのに。汗は掻いているくせに、ぶるぶるがたがた、歯の音も定まらぬ程。燦丸の部屋へお通しすると、ぴたりと震えは収まるのですがね」


「……垣右衛門が死んだのは、如月の雪盛りでしたっけねぇ……うえぇ」


 怖いでしょう、と付けくわえながら振り返り、眉の端を下げる大紅屋主人。源悟は主人の言葉に釣られて、きゅうと体を縮こまらせた。冬の川の水の冷たさを想像してしまったのだろう。源悟の顔色は、目に見えて青くなる。


「ねえ、源悟……もしかして、幽霊とか苦手?」


「ひいぃ、あたしゃ縄で括れない奴ぁ駄目でさぁ……」


 心配する村雨にも、泣きだしそうな声でしか答えられない源悟。大紅屋主人は苦笑いを浮かべながら、歩く速度を少しだけ緩めた。


「早い時間に来て下さるので、他のお客様とはお顔を合わせられないから助かっていますが……人に口に戸は立てられぬ、いつまでも隠しおおせるとは思えません。どこからか話が流れだすのも時間の問題、その前に何らかの形で決着を付けられれば……と、いう訳ですよ」


「……どうしたらいいんだろうね、この場合」


 村雨は、随分難しい探し物を任されてしまった、と心中思わざるを得なかった。大紅屋主人の望む方向で解決を図るなら、垣右衛門が生きた人間である証拠を見つけるか――或いは、永遠に大紅屋と関わらせない手段を見つけるか、だろう。臭いが無いものを探すのは、村雨の専門外である。


「うーん――ん、あ。へぇ……」


「ほおう、こいつぁお見事。捨てられたボロ劇場と聞いちゃいましたが、中々どうして風情の有る」


 悩みながら廊下を進んでいくと、大きく開けた部屋に出た――いや、ここを部屋と呼んでいいものか。小さな歌舞伎座一つを丸ごと飲み込んだ部屋は、天井の高さも広さも、ここまでに見たどの部屋とも比較にならなかった。天井の重さを支える為に、等間隔で並んだ朱塗りの柱が、和の中に大陸風の印象を与えている。


「驚いていただければ本望です、私も江戸者、見栄が有る。敷地の半分を使う割に、肝心の部屋として使える部分は少ないのですがね……見世物としては前例も有りますまい。何せ本物の歌舞伎舞台の仕掛けを、一つ残らずそっくりそのまま残して、お客様に開放しているのですから――相応のお代と引き換えに、ですがね」


 屋内に、屋根と壁を持つ建物が存在する、酔狂だけで作られた空間。これが無ければもう少し客も入るだろうと村雨は思うが、これが有る故に大紅屋は、押しも押されぬ大店なのだ。誰も真似出来ぬ粋を体験する為ならば、江戸者はいくらでも金を出す。初物食いの為に家財を質に入れるなど、当然の様に行われるのである。


「一目見たいというお客様はあれど、借り切ろうとするお客様は数える程……そういう方は殆ど決まって、ここで一番美しい陰間を指名します。つまり燦丸ですな。おかげでこの屋内劇場は、燦丸専用の部屋と言っても過言では有りますまい……さあ、どうぞ」


 三段程の段差を上り、無人の受付を通り過ぎると、客席部分へ続く大扉がある。大紅屋主人はそれを開け、一歩横へ逸れ、村雨と源悟を先に行かせた。



「おお、来たか。厄払いは殆ど済んでいるぞ」


「ああ、有り難え、有り難え、これなら亡霊なんぞ寄りつきゃすめえ!」


「うわ……何これ、すっごくお寺臭い」


 屋内劇場へ足を踏み入れた村雨は、四隅から漂ってくる線香の臭いに、思わず鼻を摘んだ。坊主を二十人も集めた様な臭いがしたからだ。それもその筈で、四つ配置された香炉は、全てに線香が十本以上ずつ突き立てられ、もくもくと煙を立てていたのだから。


「やあ、村雨に……そっちの彼が、源悟かな? ようこそ、この成仏してしまいそうな空間へ。僕もう泣いていい?」


 客席の座布団を幾つか並べ、燦丸は横になり、ころころと転がっていた。床に散らばっている塩を指先に付け、ふうと吹いて飛ばしている。一方で桜は、やけに満足げな顔で、水がぶちまけられた舞台の上に立っていた。


「はは、は……燦丸や、私はあまり口を出さないが……その、ね。掃除が必要になったら呼びなさい、人をやるから……後は任せるよ」


「ありがとう、旦那様。僕は悪くない、悪いのはこの傍迷惑な友人です」


 自慢の屋内劇場の、惨状とまではいかないが涙が出そうになる有り様。大紅屋主人は見事に朗らかさを崩さず、問題を燦丸に一任して立ち去った。村雨は、良心の呵責に襲われながら、『私も悪くない』と内心で言い訳をしていた。


「しっかし姐さん、こりゃまた随分と気合が入ってますねぇ」


「いや、な。最初は私も、香を少し焚いて清めの水を撒いて、で済ませようと思っていたのだ。だが、一度始めると興が乗って興が乗って……」


「幽霊追い払うんだか虫を追い払うんだか分からないんだけど……効き目は有るの?」


「知らん。駄目だったら坊主と神主に文句を言え。水の方は素人仕事だから気休めだ……それよりも揃ったぞ、燦丸。お前の案を聞かせろ」


 水に濡れた舞台は居心地が悪いらしく、桜もまた、客席の方へと降りてくる。座布団を何枚か積み上げてその上に胡坐を掻くと、幽霊対策などもう忘れてしまったかの様に話題を転換した。


「そのつもりだとも、お集まりいただいて恐悦至極。八百化やおばけの源悟さん、特に貴方が来てくれたのは嬉しいよ。噂は桜から常々聞かされている」


 話を促され、燦丸も体を起こす。女性より女性らしい艶やかな笑みを浮かべ、源悟に握手を求めた。


「へへへ、そう言われると嬉しいですねぇ。して、あたしゃ何を務めりゃあ良いんで?」


 源悟の方は、言葉は浮かれている様にも聞こえるが、表情はしゃんと締まっていた。先程、店の主人の話で怯えていたのに比べると、随分男前になっている、と言える。


「貴方には、配膳担当に化けて、店の奥まで入り込んでて欲しいんだ。見たところ、大概の事には慣れていそうな顔だ。こういうお店の雰囲気も、そう馴染めないものじゃないだろう?」


「まあ足のある相手なら、姐さん以外は怖かねえですが」


「話に聞いた通りの人だね、貴方は。……幽霊かどうかは兎も角、いざとなったら何が有るか分からない。その時に、出来るだけ手際良く、店の者も他のお客さんも遠ざけたい。そういう気の利いた芸当は、そこの脳筋じゃあ無理だろう?」


「否定はできんな、残念ながら」


 混乱した集団とは厄介なものだ。火事の現場などでは、地上が近く見える錯覚の為に、三階から路上に飛び出す者さえ出てくる。恐怖に思考力が麻痺した人間は、誰かが誘導してやらねば危険なのだ。その点では、十手持ちという身分は適役だろう。治安維持の側の人間がいる、それだけでも混乱は幾分か沈静化するに違いない。


「……出来るのなら、何か起こっても上手く誤魔化して欲しいな。厨房が燃えたとか何とか言いくるめて」


「幽霊が暴れた、なんざ言えねえですしねぇ。あいよっ、確かに承りました」


 どんと胸を叩き、源悟はきっぷ良く言い切った。幽霊を怖がっていようが、具体的にやるべき事が有るのなら、この男は優秀な部類である――少々の詰めの甘さを除けば。


「桜は、当たり前だけど荒事要員。どうしようも無くなった時に出てきて、しっかりと仕留めてくれれば良い。いや、生きてる人間だったら、改めて幽霊にする必要は無いんだよ?」


「なんだ、駄目なのか? ……冗談だ、冗談。動けない程度にすれば良いのだろう?」


「最悪の場合、ね。無事に成仏して頂くか、生きているとはっきり証明できれば良いんだけど、後者は証拠の見つけようがないからさ。半年前の死体を、今から検分しなおすのは無理だろう?」


「火葬してしまっただろうからなぁ、壺に収まっているのでは検分も何も有るまいて」


 桜は、やはりと言おうか荒事の担当である。この役目は、そもそも機能しない事が望ましいのだが、行動の読めぬ相手には用心を重ねても損はするまい。行動指針が単純になり、桜は俄然いきいきとしてくる。

 さて、燦丸は除いて、残るは村雨である。三者の視線が集まって、暫し沈黙が漂った。源悟と桜は静聴の意、燦丸は何かを言おうとして、喉に引っかけて止めている様な顔である。


「……ええと、それじゃあ私はどうしたら?」


 堪りかねた村雨が、自分から話を進めようとすると、


「君には……うん、入口の近くにいて、垣右衛門様の臭いを覚えていて欲しい。桜が言うには、かなり鼻が利くんだろう?」


「臭いを?」


 思っていたよりも随分と簡単な内容の指示を出された。多少身構えていただけに肩透かしを食らった様で、村雨は少々力が抜ける。


「そう、臭いを。それでね、店の中を歩き回って、その臭いが残っている場所を可能な限り探して欲しい。垣右衛門様がお店の中を動き回った形跡が有るかどうか、確認したいんだ。……いや、無いとは思うんだよ? 何時も僕の所にいるんだから、そんなもの無い筈だけど、念のためさ。垣右衛門様が本物だとしたら、何故半年も顔を出さないで、今更また通うようになったのか……理由が分からないだろう?」


「何か理由が有ると仮定して、その手掛かりが見つかるかも知れない、って事でいいのかな」


 出来るかどうか、まず間違いなく可能な内容だ。連れの者がどれだけ居るかにもよるだろうが、意識して三間程にも近づけば、人間一人の臭いを覚える程度は訳無い。建物一つ程度の広さなら、何も考えず歩きまわるだけで、捜索には十分だろう。指示の内容を口の中で復唱し、実行の手順を組み立てている――と、ふいに村雨は嫌な予感がして、自分に向いている視線の一つを辿った。


「燦丸よ、悪くない案では有ると思うが……よもや村雨を、この格好のまま、玄関先に置いておくのか?」


 桜が、笑いを堪えている人間に特有の頬の上がり方をしている。良からぬ事を考えているのは確実である。


「……ええと、別にいいんじゃないのかな? ほら、少し物陰にでも入るとかして、目立たないようにすればさ」


 冷や汗が背を伝いながらも、村雨は無駄だと分かっている抵抗を試みた。然し、桜の頬は吊り上がったまま、普段の氷の無表情に戻ろうとしない。


「そうはいかんだろう、ここも商売だぞ? 万が一にも目に付く所に、場違いな格好の者がいては、客の覚えも悪かろうて。私達は商売の邪魔に来たのではない、円滑な商売ができるように助けに来たのだ。これは、どうにかせねばなあ……」


「ええと、結論はどういう事でしょうか、桜さん」


 敬語になってまで自らの待遇を確保しようとした村雨を余所に、桜は燦丸の方に顔を向ける。燦丸の肩に手を置き、心晴れ渡る様な笑顔を浮かべた。


「燦丸、村雨に着物とかつらを用意しろ。こいつなら、陰間に紛れこんでも分かるまい」


「僕の振袖で構わないね? 少し丈が長くなるだろうけれど、それもご愛嬌という事で」


 桜の意図は明白である。自然さ云々ではなく、自分が見て楽しみたいだけだ。こういう単純な欲の話になれば、決して譲らないのが桜という人間である。


「ああ、やっぱりねー! そういう事だよねー!」


 半ば予想出来てしまっていた村雨は、半ば自棄になりながらも覚悟を決める。実害は無いのだ、実害は無いのだ。自分に何度も言い聞かせるのであった。

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