最初のお話(1)
「おじさーん、お蕎麦おかわりー!」
「あいよっ、替え玉一丁!」
太陽がカンカンと照りつける真夏日でもお江戸の町は平常運航で、日の本一の活気を吹きあげていた。
大八車がガラガラと駆けていくのに飛びつこうとした悪ガキが、母親のげんこつを貰ってしょぼくれる。そんな平穏な日常風景が暖簾の向こうにある蕎麦屋。一人の少女が威勢良く、空のセイロを突き出していた。
禿頭にねじり鉢巻きの店主が、氷水で冷やした麺を大盛りにしてつっ返す。受け取った少女はすぐさま麺をつゆにひたし、景気良くずるずると音を立ててすすった。
店内に居並ぶ客は、どいつもこいつも図体のでかい、むさくるしい男ばかり。仕事の合間をぬって腹を膨らましに来た為か、むせるような汗の臭いすらある。そんな連中の横に座っているこの少女は、背丈は五尺(150cm)前後の色白の、そして細っこい娘であった。
「ぷはー……ごちそうさま! お代はいつもの所ねー!」
「はいはい、『錆釘』にツケておくよ」
ものの二分か三分。セイロはすっかり空になり、麺つゆも随分薄まってしまっている。脇に座る大男が一杯平らげる間に、少女は二杯の蕎麦を食べ終わり、町の喧騒に負けぬ高い声を張り上げた。
この店の常連にしてみれば、この光景はもはや夏の風物詩と言っても良い。三年前、外来船と共にこの江戸に流れ着いた少女は、今ではいい歳をした男どもの娘扱い、癒しとなっているのである。
どこの生まれかは誰も知らない。灰色の髪と、目鼻立ちのはっきりした顔は、日の本の生まれではないとだけ予想がついた。
十四になっても人懐っこさと愛嬌を失わないこの少女は、気難しい年頃の子どもを抱えた父親連中には、確かに心の慰めとなるのだろう。
「それじゃ、行ってくるねー!」
「えぇ、おいおい、気が早いじゃねえか! 急ぎの用でも有るのかい?」
「用もそうだけど喧嘩! 速くしないと終わっちゃうじゃない!」
さあとやってきてさあと立ち去る、にわか雨にも似た有り様。名残惜しげな男どもの声を背に、少女は通りへ飛び出していく。
「……うーし野郎ども、見に行くぞ!」
「おうっ!!」
遅れること二十数え。店主以下九名が、少女の後を追って走りだす。
火事と喧嘩は江戸の華。花は桜木、人は江戸っ子、武士なぞ物の数でなし。開国より五十年、江戸の町の気風は何も変わらず、寧ろ庶民を中心に、より『粋』を好む風潮が広がっていた。
そも遡れば吉宗公の御世、日の本は、国をひっくり返さんばかりの大騒動に見舞われた。東の海より江戸に辿り着いた巨大黒船と、その船員達の持つ摩訶不思議な力に、である。
指先から火を起こし、生身で空を飛び、空の器を水で満たす。いかな奇術大道芸よりも珍妙で、かつ種も仕掛けも見受けられない技に、人々はおそれおののいた。その力を盾に迫った列強が開国を要求したのは、今は別な話として置いておく。
人が生まれながらに持つ『魔力』をよろずの用途に使う、算術にも武術にも似た新たな学問、『魔術』。それは勤勉な日の本の住人には、非常にしっくりくる分野であったらしい。
十年で、全ての藩に、魔術を扱う専門の藩校が作られた。更に十年で、庶民の中の富裕層が、教養として魔術学を修めるに至る。その後三十年の間には、魔術は庶民の一般常識として、母親が子供に教える程にまで広がったのだ。
天下泰平の江戸の世、悪さに魔術を使う輩はあれど、与力お奉行十手持ちに至るまでも、やはり魔術を身につけている。全員が力を持っているから、なんやかんやで釣り合いは取れているのだった。
「やっほー、私にお仕事が入ったんだって?」
「受付前で騒がんでおくれ……ああ、そうそう、あんたをご指名だとさ」
さて、また話は変わって、喧嘩見物も済んでの事である。
少女の職場は『錆釘』と呼ばれる人材派遣業だった。
カタログと呼ばれる冊子に顔写真(これも黒船から伝わった舶来物)と名前、得手とする分野を記述し、無料であちらこちらに配る。何らかの人材を必要とする者はそれを見て連絡を取り、一定期間の雇用契約を結ぶのだ。
先に語った魔術が関係してくるのもこのあたりからで、『錆釘』は魔術の指導に力を入れているのだ。
即戦力に出来ない人間であろうとも、教育次第では優秀な術者になり得る。そして、教育に掛かった費用は、後々に色々な名目で中抜きをして回収する、という寸法である。
中にはこの少女の様に、魔術の心得が薄い者もいるのだが、その場合はまず確実に、常人では持たぬ何らかの技術を身につけているのが通例だ。
以上の様に、派遣する人材の質の高さから、『錆釘』の評判はすこぶる良い。短期間の子守りから、場合によっては長期にわたる大店の番頭代理まで引き受けている。
洋風御殿の玄関ホール、片手間に縫物をする受付のおかみさんから、少女は辞令を受け取った。
「ええと、何々? 品川宿は達磨屋二階……岡場所の宿じゃない。え、本気?」
「うちは身を売れなんて無茶は言わないよぉ、そこのお客さんが呼んでるのさ。なんでも探し物だそうでね、ならあんただろうって話が決まったわけ」
「ああ、びっくりした……でもあの町、空気が馴染まないんだよねー。ま、行くけどさ。日時とか内容は?」
「それが、なぁんも聞かされてない。使いを走らせてきて、『来られる時によこせ。見てから細かい事は決める』だそうな」
「結構無茶苦茶だね、その人」
「無茶苦茶だろう? だったらあんたの領分だ」
『錆釘』での辞令は、石灰で板に文字を書いただけのもの。令を受けた本人が閲覧すれば消され、また受付の壁にぶら下がる。
「おもいっきり景気よく行っておいで。最初の挨拶が肝心だ、いいね!」
「らじゃー!」
西洋被れと揶揄される事もある挨拶で、弾けるように駆けだしていく少女。自慢の健脚、目的の宿まで四半刻とかかるまい。結いもしない灰色の髪が、夏の暑さを緩和するようにそよいだ。
「さ・て・と。こーいうところは、あんまり慣れてないんだけどなあ。臭いもキツいし」
行き交う人の数は、先程の通りに比べれば少ない。だが、それも日中だけの事。ここは岡場所品川宿、夕暮れから夜に掛けて賑わう町だ。
蕎麦屋の通りは汗や煙の臭いがするが、この町は白粉やお香の匂いが、宿の柱にまでしみついている。深呼吸などしようものなら咳き込みそうだ。
地図はなくとも、近隣の町の屋号くらいは覚えている。中でも達磨屋といえば、ひときわ大きな宿。探さずともすぐに見つかった。
「いらっしゃー……い? おいおい嬢ちゃん、ここは普通の宿じゃないぜ、他を当たんな」
客寄せの男が、宿の看板を見上げる少女に、気取った声を掛けてくる。
「知ってるってば! あのね、お仕事で来たの」
「仕事ォ!? ぶったまげたぜあんた、んな若さでここまで身を落とさんでも」
「ちーがーう!」
客寄せの男も、分かって言っているのだろう。芝居がかった動作で顔を覆い、世の不条理を嘆くように首を振る。飄々とした態度に、思わず彼の頭をひっ叩いてしまう少女。
「あのね、私は『錆釘』の人間なの!」
「おー痛ぇ……で、二階の御大尽様のおよびだろう? 話は聞いてるさ、上がって上がって」
「……なんだ、知ってるんじゃない。それじゃお邪魔しまーす!」
叩かれた場所を撫でさすりながらも、客寄せの男は少女を招き入れ、丁寧に階段の下まで案内してやった。
「一番奥の襖だぞ、部屋ぁ間違えんなよー……いやまあ、今はお客人は他にいねえけどよ」
「そりゃ良かった、ありがとう。只今まいりますよお客様ー」
とんとんとん、小気味良い音と共に、少女は二階へ上がっていく。
照明器具など夜間にしか使わない。灯り取りの窓は有れど、やはり薄暗い。立地条件は良いようで、真夏日の今日も風が入り、達磨屋の中は非常に涼しかった。
左右に襖の並ぶ廊下の最奥―――障子を使わないのは、影が映るからだろうか――の前に、少女は行儀よく両膝を付いて、
「『錆釘』よりお呼びに預かりまして、村雨、只今参りました!」
定形の口上と名乗り。廊下に声がくわんと響き、また静けさが数瞬。
「入れ」
たった一言を返したのは、吹きこむ風のように涼しげな、女の声だった。
「失礼します。さっそくですが、雇用条件についての説め―――」
灰色の髪の少女――村雨は、こうべを垂れたまま襖を開け、深く一礼する。顔を上げ、職務内容である雇用契約の締結を行おうとした村雨は、口を半開きにしたまま表情を凍りつかせた。
知識として理解していた事ではあったが、そういう実例を目にした事はない。そして、目にしたとしてすぐに納得出来る程には、村雨は柔軟な頭をしていなかった。もう少し世慣れた者であったのなら、驚愕を表に出す事もなく、ただ目を伏せるに留めただろう。
端的に言うならば村雨は、この町を訪れるにあたり、少々覚悟が足りなかったのである。
「……ああら、もうお仕事でありんすか……? もう、数日は泊まると言ってくださいましたのに……」
暗い八畳部屋の中央には、布団が一揃いだけ敷かれていた。そこに、人の影が二つ。
寝乱れた緋絹を引っかけただけの女が、男を絆す猫撫での甘え声で、もう一つの影に纏わりついている。禿童が髪結いをせぬまま育った様な長い髪は、露わになった肩や胸に被さり、肌を覆い隠していた。
だが、その麗しの黒髪さえ、『彼女』と比べれば劣っただろう―――『彼女』だ、『彼』ではない。
美しい黒髪を、烏の濡れ羽色と呼ぶ。『彼女』の髪は、まさしく若烏が水を浴びた後の、闇との境目さえ知れぬ黒だった。上体を起こして尚、敷布団の上に広がる程に長く。指に取れば水のように零れ落ちるだろうと信じられる程に、三尺の髪に一つのクセもない。
「すまんな、今日は外へ出る。……なあに、明日の夜にはまた来るとも。それでよかろう?」
「いいえ、許しんせん。嘘つきの主様でありんす、明日もわっちは待ちぼうけでありんしょう」
「そうむくれるな高松、私も夜明けが憎らしい。だが、もう日は高いのだ」
「言い訳など聞きたくありんせん、やはり主様は――――――、あ、ん……」
両肩に乗せた黒襦袢と己の長髪で、『彼女』は、高松と呼ばれた女――言葉遣いから知れるだろう。遊女である。岡場所の安遊女にしては堂に入ったものだ――を胸に掻き抱き、長かむろの髪に指を通す。そっぽを向いた高松の顎に指を引っかけ、上を向かせ、不平零す口を唇で塞いだ。
村雨は、まず目を擦って、眼前の光景が真実かを確認した。間違いない、人の体温はそこにあるし、生きている人間の匂いがする。だから次は、この光景に理屈をつけようと、知識を可能な限り並べて、筋道を立てようとした。
そうすればする程に、暗い部屋の中で睦言を交わす女達を、目に刻まれる。見るまいと思えども、眼球が横へ動かず、瞼が降りようとしない。ぽかんと口を開けたままで、村雨は、二人の黒髪が重なり合うのを見ているしかなかった。
男と女がそうしていたのならば、村雨はこうまで思考を痺れさせ、身を硬直させずに居られただろう。片方が醜女か、そうでなくとも平凡な顔立ちであったのなら、目をそむけて事務的な態度に徹する事ができた筈だ。
高松という遊女は、少女の目から見ても鮮やかな、色香の漂う女だった。細くしなやかな腕、括れた腹、舐る様な言葉回しは、同性の村雨をして赤面させる程である。
だが、それ以上に村雨を惑わせたのは、塗れ羽烏の髪の『彼女』だった。
「どうした、説明をするのではなかったか?」
「――え、ぁ……あ、はい! 説明させていただきます! まず私ども『錆釘』は……―――」
言葉を続けるよう促す『彼女』に、答えた村雨の声は裏返っていた。咳払いも出来ず、常よりも早口に、少女は頭の中に用意した台本を読み上げていく。その間も『彼女』の顔が、目が、村雨の心を萎縮させ、同時に惑乱させてもいた。
意思が強く、キツそうな目だ。柳眉に沿って目尻は上がり、目を身開くだけで何かを睨みつけているようにさえ感じられる。然し、不思議と恐怖心はない。表情は薄く、だからこそ高松に向けた僅かな笑みさえ、多大な慈愛の発露に思えた。
説明を聞いている間、『彼女』は一度も、村雨から視線を外さなかった。氷像の如き面貌は、心中に抱いた思いを僅かにさえ零さない。
「……成程、良く分かった」
「はい……以上で、説明は終了でございます、ます……」
『彼女』が言葉を発するまで、村雨は、自分が語るべき全てを語り終えた事にさえ気づかなかった。
ただ、部屋が暗いな、と。その為に、『彼女』の黒髪が良く見えないと残念がった事だけ、後に思い出せた。
「よし、立て。気を付け」
「は、はいっ!」
村雨は火が付いた栗のように立ち上がり、両手を伸ばし、直立する。『彼女』が高松を布団に下ろし、すうと立ちあがった。
「動くなよ」
「は、ひ? え、わわ、わっ!?」
『彼女』が肩に掛けた黒の襦袢は、その肩と背だけを覆う。肌の殆どを隠すのは、長く伸びた彼女自身の黒髪だ。五尺七寸の背の腰を過ぎるまで。それは、烏の羽のようにも見えた。
襖を開けたまま敷居の前に留まっていた村雨の前に、『彼女』は音もなく歩み寄った。古傷に塗れた無骨な手が、村雨の肩を、膝を、首を掴む。
「ふむ……腕、良し。脚、良し。首も頑丈……腹はどうだ、それから……」
「ひゃ、くすぐった、やめ、止めて! 止めてくださいー!」
懇願虚しく、腹、脇腹、胸、二の腕、腿、脹脛……衣服の上からとは言え、村雨は体の殆どの部位に触れられた。痛みを覚悟して強張らせた体は、予想外の擽ったさに驚き、逃げようにも雇用主の命令が―――いや、『彼女』の命が有った。
腹を抱えて笑い転げる事も出来ないのは、きっと中々に苦しい事だったに違いない。
「……悪くないな。少し細いが、育てば骨も太くなるか……? 良し、最後に一つ確認させろ」
「ぜー、はー……。 あ、か、確認ですか?」
呼吸を整える村雨。橙黄色の村雨の瞳を、『彼女』の黒い瞳が見下ろす。
「誰かを殺した事はあるか?」
それは、本当に簡単な問いだった。
「……必要なだけの生き物を、食べる為に殺しました」
これだけの答えが、生き方を変える理由になるなど、誰が思っただろうか。
「……雪月 桜だ、暫く私の仕事に付き合ってもらう。昼食は済ませたか?」
「はい。 ……つまり、契約成立という事で構いませんね?」
「それでいい。もう少し口調は崩しても構わんぞ、固っ苦しい。半刻で外へ出る」
「畏まりまし―――うん、分かりました!」
雇い主は『錆釘』と派遣された者に金銭を支払い、雇われる側は契約の範囲内でその指示に従う。この時、村雨と桜の間に交わされた契約は、『とある刀の行方を捜す』というものだった。
雇い主の意向に従い、可能な限り普段の調子を取り戻そうとした村雨だったが、
「ああそうだ、晒を巻くのを手伝ってくれんか? 一人では少々面倒で―――」
「そこの人に頼んでください!」
この程度の命令無視は、契約違反にはならない筈。そう思い、後ろ手に襖を閉じたのであった。
2012/3/19、不要と思われるエピソードをごっそり削除。補間するように文章を追加した為、差し引き1000字くらいしか文章は減っていない。
2013/5/18、行間を開けてみた。