第94話
時が止まった。
だが和人は眼をつむったまま。
和人の顔からは血の気が引いていた。
携帯電話の「STOP」ボタンを長押ししている1秒ほどのわずかな時間に、車の急ブレーキの音が聞こえ、そして、・・・ドッという鈍い音も聞こえたような気がした。
(間に合っていてくれ!)
和人は恐る恐る眼を開け、交差点を見つめた。
「ああっ!」
下腹から振り絞るような声が思わず出た。
そこにはピタッと止まっている車と、そして・・・その車のフロント部分に横向きでくっついている千波の姿があった。
和人はゆっくりと交差点に向かって歩き出した。
前を走っていた英は、交差点を凝視し、眉を吊り上げ、口をこれ以上は開けられないほどに開けていた。
今までに、これほどの恐怖の表情した人を見たことがあっただろうか。
和人はふうっと深呼吸をして、歩き続けた。
交差点に近づくにつれ、千波の姿がはっきりとしてきた。
車のバンパー部分に右足のひざのあたりが直撃し、横に曲がっている。
つまり完全に、折れているのだ。
体も横に「くの字型」に曲がり、右ほほが車のフロントガラスに打ちつけられている。
まさに千波の体が車に衝突した瞬間だった。
和人は交差点に到着すると、こわばった表情で千波の顔を覗き込んだ。
両目をしっかりとつむっている千波の顔は、無残にも右ほほが変形していた。
英は千波の右足が一生治らないと言ったが、頭は、脳は、大丈夫なのだろうか。
「ごめん。千波ちゃん。本当に・・・。」
和人の体は脱力感に苛まれていた。
もし、ほんの数秒でも早く時を止めることができていれば、千波を救うことができたのに。
そう思うと悔んでも悔やみきれなかった。
千波の左の耳にイヤホンが見える。
そのイヤホンのコードは上着のポケットに続いていた。
おそらくMDウォークマンを聴いていたのだ。
だから車の音も、英の声も聞こえてはいなかった。
「もっと早く時を止めていれば、千波ちゃんは助かったのに。」
和人は力なく道路に座りこんだ。
涙がとめどなく流れた。
和人に残された道は二つしかなかった。
一つは、このまま何もせず、元の場所に戻って時を動かす。
当然、千波の体は跳ね飛ばされ、大けがを負う。
つまり、英が見た夢の通りになるということだ。
もう一つは、千波の体を別の場所に移し、怪我を最小限に食い止めること。
幸い和人以外にこの場にいるのは千波、英、車の運転手の三人しかいない。
車の運転手はハンドルをしっかりと握り眼をつむっているから、千波の体を路上に横たえたとしても気づきはしない。
千波も同じく目をつむっている。
問題は千波自身が瞬間移動したことに気づくかどうかだ。
おそらく違和感は残るだろう。
しかし、車に撥ねられたこの恐ろしい状況であれば、一時的に記憶が飛ぶことは十分に考えられる。
和人は、千波も運転手同様それで問題は無いと判断した。
あと残るは英一人だ。
英はしっかりとこの場面を凝視している。
だから距離が離れているとはいえ、瞬間移動をはっきりと目撃することになるだろう。
和人は眼をつむりじっと考えた。
約5分後、和人は眼を開け手の甲で涙をふくと千波のほうへゆっくりと近づいた。
そして抱きかかえながら千波の体を車から引き離そうとした。
ふしぎと千波の体からは重さを感じない。
だが、時が止まった状態から何かを動かそうとすると、元に戻ろうとする力(抵抗力)が働く。
そのことはこれまでもたびたび体験していたので、人間の体もそうなることは予想できた。
和人は硬直している千波の体をそうっと抱きかかえ、車の横(英から死角になる位置)に横たえさせた。
「すぐに・・・救急車を・・・呼ぶから。」
和人は、千波の顔を見つめそう言うと、打ちひしがれたような表情で、時を止めた場所に歩き始めた。