第60話
和人が行く西城高校の寮は「御萩野寮」という名前だった。
高校から徒歩で10分ほどの位置にあり、近くにはコンビニや喫茶店もあるなかなか便利な場所だ。
その御萩野寮に、和人は父とともに下見に来ていた。
寮の門をくぐると、60歳を少し過ぎたくらいの人の良さそうな男性が出てきた。
「私はこの寮の管理人をしている青山と申します。まあ、困ったことがあったら何でも言って下さい。生徒たちは私のことを『おやっさん』と呼んでくれているから、君も遠慮せずにそう呼んでくれ。生徒は君たち新一年生を入れて全部で16人、その他には私と私の家内がいるだけだよ。」
食堂に案内されると、丸々と太った女性が台所で食器を洗っていた。
「おい、新入生の橘君とお父さんがみえたぞ。」
『おやっさん』がそう呼ぶと、その女性は太った体をゆすりながら足早に和人たちに近づいてきた。
「まあまあ、よく来ましたね。橘君はたしか緑丘だったかしら?」
大きな元気のある声だ。
「橘です。息子がお世話になります。今住んでいるのは緑丘ですが、住吉の方へ私の転勤が決まっておりまして、もうすぐ引っ越しなんです。」
浩一郎が丁寧に挨拶した。
「まあ住吉にね。じゃあ通ってくるわけにはいかないわね。私のことは『おかみさん』って呼んでくれるとうれしいわ。え~と、食事は私たち夫婦が全部作っているのよ。私は栄養士で旦那も一応調理師の免許を持っているわ。ちゃんと栄養のバランスを考えたメニューになっているから安心してね。あっ、私の体型は気にしないで。私の場合はつまみ食いのしすぎだからね。あっはっは。」
『おかみさん』の豪快な笑い声がこだました。
「いつもこんな調子ですよ。ですからまあ、さほどホームシックにはならないかもしれませんね。それから、半年前まではここで犬を飼っていたんですが、高齢で死んじゃったんですよ。寮の生徒たちも結構悲しがってくれましてね、また犬を飼ったらどうかって言われるようになったからもしかしたら犬を飼うかもしれないけど、橘君は犬は大丈夫?」
おやっさんのこの言葉に、和人と浩一郎は目を見合わせた。
そして、
「それならうちの犬を連れて来てもいいですか?5~6歳のシェパードでクロベエという名前なんですが、残業が重なると散歩にも連れて行ってやれなくなるので、かわいそうだと思っていたんですよ。」
と、浩一郎が切り出した。
「それは願ったりだ。こちらからお願いしますよ、なあ。」
「そうですとも、あんた言ってみるもんだね。シェパードならきっとお利口さんだよ。」
こうして、クロベエの転居が決まった。
それから30分ほど寮の中を案内してもらい、規則や当番などの説明を受けて和人たちは御萩野寮を後にした。
緑丘駅へ着くと、時刻は夜の6時を回っていた。
和人たちは駅前の食堂に入った。
「良さそうな寮だったじゃないか。クロベエのこともこれで心配ないし、管理人さんも良い人そうだ。」
「うん、少し安心した。」
注文したラーメンを食べながら、和人は笑顔を見せた。
「卒業式が終わったら、少しずつ荷造りを始めよう。お父さんが引っ越す時が和人の寮生活の始まりでもある。最初は少しさみしいかもしれないが、すぐに慣れるだろう。お互いにな。」
「うん。」
和人はできるだけ不安な顔をしないようにしていた。
そして今の家で父と過ごす短い時間を大切にしようと思っていた。
おそらく父も同じ気持ちだろう。
それにしても、いろんな事があった1年だった。
時を止められる携帯電話の発見。
英のサッカー技術と精神力の目覚ましい進歩。
千波への恋心。
母の死。
西部地区対抗戦での優勝。
大けがの桑田を助けたこと。
高校受験。
そして自分以外に時を止めることができる者の存在を知ったこと。
これから高校生になる自分に、どんなことが待ち受けているのだろうか。
不安がないと言えばうそになる。
でも不安なのは自分だけではない。
お父さんだって新天地の生活は不安なはずなのに、自分のことばかり心配してくれている。
負けてられない。
御萩野寮のおかみさんの笑い声がいつまでも耳から離れなかった。
暖かいラーメンを食べながら、和人は自分の体に力がみなぎって来るのを感じていた。