第57話
駈け出した徹也と和人の行く手を、信号機が阻んだ。
「ちくしょう、こんな時に・・・。和人、何とか渡れないかな。」
「無理だ。交差点だというのに車のスピードが速過ぎるよ。」
二人の視線は70メートル先のビルの上に釘付けだった。
「和人、さっきよりずれが大きくないか?」
「ずれも傾きもだ。本当に、本当に落ちるかもしれない。」
和人の全身に鳥肌が立った。
右手はジャンパーの内ポケットの携帯をつかんでいる。
「信号早く変われ。」
徹也が小さな声で呟く。
その時鉄筋の縛り目がスーッと中央の方へずれ、鉄筋が大きく傾いた。
「わっ!」
強く短い徹也の叫び声。
数本の鉄筋が一度に縛り目から抜け出た。
信号待ちをしていた人々が徹也の視線の先を一斉に見る。
和人は、携帯電話のストップボタンを、押した。
間に合ったのだろうか。
道行く人で和人の位置からは、70メートル先の路上が確認できなかった。
和人はぽかんと口を開けたまま、ゆっくりと走りだした。
(もしも間に合っていなかったら?)
和人の頭には、背中に鉄筋が突き刺さり、血が噴き出している人や、肩に鉄筋が食い込み苦悶の表情をしている人の姿が浮かぶ。
激しい鼓動が和人を襲った。
「頼む。頼むから間に合っていてくれ・・・。」
和人は少しうつむき加減でそのビルへと急いだ。
ビルの下に着くと和人は目をつむり、息をふーっと大きく吐き出した。
おもむろに目線を上げる。
和人は前を見つめたまま動かない。
5秒間ほどしてもう一度息を吐き出すと、和人の顔は笑顔に変わっていた。
「危なかった・・・。」
和人はゆっくりと前方へ歩き出した。
8本ほどの鉄筋が、道路の上2~4メートルの空中にほぼ固まって浮かんでいた。
その下には何と5歳ほどの男の子が一人いる。
男の子の周囲5メートル以内には、誰もいなかった。
もしも時が止まるのが0.5秒でも遅かったら、和人は無残な光景を見ることになっていただろう。
和人は辺りを見回した。
男の子の前方で、母親らしき人が振り向き、手招きをしている。
他にも男の子のほうを向いている人はいるが、おそらくぼんやりと視界に入っている程度だろう。
和人は男の子を抱えあげると、母親の後方約5メートルの位置に、母親の方を向けて立たせた。
この位置ならば、他の人の視線から外れていると思われたからだ。
「ここはこれでよし、次は上だな。」
和人はビルの屋上に向かった。
階段は狭く、工事用の道具やコンクリートの塊がいたるところに置かれている。
屋上へ出ると、作業服を着ている人が3人、クレーンの方に向って走っていた。
クレーンのフックにはまだ30本ほどの鉄筋が残っている。
そしてそのうちの3本がずれ、今にも落ちそうになっていた。
和人は、鉄筋がある道路側の端へ立つと、上へ手を伸ばした。
3本の鉄筋に十分届く。
「うわっ、怖いな。」
下をのぞいた和人は、目がくらみそうになった。
そこで、落ちていた細いロープを拾うと、ロープの端をクレーンに結んだ。
そして、反対の端を腰にまわし、自分がビルの端に立った時にロープがぴんと張るように結んだ。
「頼むぞ命綱君。」
和人はもう一度ビルの端に立ち、手を伸ばすとずれていた鉄筋を一本ずつ抜きとり、下におろした。
長さ5メートルの鉄筋は思っていたよりも数段重く、危険な場所での作業とあって、やり遂げた頃には腕と脚の筋肉がパンパンに張っていた。
時間も30分くらいはかかっていただろう。
「なんで俺がこんな目にあうんだよ・・・。」
和人はロープを外し、疲れた表情で階段を下りた。
徹也がいる横断歩道の前に着くと、和人は大事なことに気がついた。
時を止めた時の自分の場所がわからないのだ。
もちろんおおよその見当はつく。
しかし完璧には再現できない。
後方には10人ほどの人が立っており、和人の姿のブレを感じる人がいるかもしれなかった。
「仕方がない、走ってごまかすか。…再起動だ。」
和人は内ポケットの携帯を掴むとストップボタンを押した。
ガラガラガラッと大きな音がし、キャーという悲鳴が聞こえた。
「徹也、信号が青になったぞ。」
和人は徹也の手を引っ張り走り出した。
「和人、聞いたか?鉄筋が落ちたぞ!」
「聞いた!」
二人は走った。
ビルの下では一人の女性が口を押さえ立ち尽くしていた。
「隆志・・・、隆志・・・。」
あまりのことに足がすくんで動くことができない。
と、肩にかけているショルダーバッグが、ぐいぐいと下に引っ張られた。
「お母さん。」
小さな男の子が傍らで見上げている。
女性はペタンとその場に座り込み我が子をぎゅっと抱きしめた。
「隆志!まあ、隆志!」