第32話
翌日は大雨。
和人は玄関から出たものの、あまりの土砂降りに立ちつくした。
(ちぇっ、小降りになるまで待つか。)
だが、もう一度玄関を開けて中に入ってはみたものの、5分たっても雨は衰えない。
父は30分ほど前に出勤している。
和人はため息をつき、玄関のドアを開けようと手を伸ばしたが、あるアイデアがひらめいた。
(そうか、瞬間移動だ。あれを使えば濡れずに学校へ行ける。)
和人はカバンの中から携帯電話を取り出した。
「時間よ止まれ。」
小さな声でそう言いながら、和人は「STOP」ボタンを押した。
まばゆい光とともに、(あれほど大きな雨音がすっと消え)静寂が和人を包んだ。
自分の耳が聞こえなくなったような錯覚。
「よーし。」
微笑みながら玄関を開けた和人は、目を見張り立ち尽くした。
無数の小さな雨粒が空中に浮いている。
「うわあ、すげえ!」
雨粒は細くもなく、イラストで描く涙のような形もしていなかった。
完全な球体。
それが空中にぎっしり浮かんでいた。
和人はそっと手を伸ばし、そのうちの数滴を押してみた。
するとその雨粒は球体を維持したまま、押されて止まった。
「へえ~、おもしろいな。」
ふうっと息を吹きかけてみると、小刻みにぶれながら後退する。
和人は手を伸ばし傘をさしてみた。
パラパラパラ、と雨粒が傘に当たる音がする。
傘を閉じてみると、傘を開いていた場所には雨粒がなく、ちょうど透明な傘がそこにあるような感じがした。
「よし、行ってみるか。」
和人はもう一度傘を顔の前にさして歩きだした。
パラパラパラ、雨粒を押しながら前に進む。
膝から下の部分は傘でカバーできないため、雨粒が足に当たる。
雨粒はズボンにはしみ込まずにやはり移動するのみだ。
歩くうちにだんだんと傘の受ける抵抗が強くなってきた。
おそらく傘の前にぎっしりと雨粒が重なっているに違いなかった。
和人は傘を少しすぼめながら歩いてみた。
すると急に傘にかかる圧力が弱くなった。
「ようし、このまま進もう。」
前川サイクリング店の前の交差点に差し掛かった。
信号は赤だが関係ない。
車と車の間を歩いた。
「今、時が動き出したらアウトだな。ノーブレーキの車にはねられちまう。」
そこから少し行くと、徹也の姿が見えた。
傘をさし、カバンを脇に抱えているが、両足が地面についていないところを見ると走っているということだろう。
歯を食いしばり、顔をしかめている。
「ははは。」
その顔を見て、和人は笑ってしまった。
「がんばれよ、徹也。俺は先に行かせてもらうぜ。」
徹也を追い越そうとしたとき、ふと和人は気づいた。
横を走る車のタイヤのところから、徹也の体のすぐそこまで水がきている。
おそらく水たまりを車がはねたのだろう。
このままだと確実に徹也の胸のあたりまで水がかかることになる。
「俺と出会えてラッキーだったな。といってもお前は俺のことを見ることはできないけど。」
言いながら和人は徹也に降りかかりそうな水を、傘を使って徹也の後方に移動させた。
「これは”貸し”だからな、徹也。いつか礼をしてもらうぜ。」
それから10分ほどが経ち(時計は動いていないが)、和人はようやく学校へ着いた。
後ろを振り向くと、和人が歩いてきたところだけぽっかりと雨粒がない。
まるでトンネルができたみたいだ。
「あそこを戻れば、簡単に家に帰ることができるんだな。ま、戻る必要もないけど。それにしても早く着きすぎた。せっかくだから受験勉強でもするか。」
和人は上履きに履き替えトイレに向かった。
そしてトイレに誰もいないことを確認して、「STOP」ボタンを押した。