第3話
「おはよう、ああ、お腹すいたー。」
台所の前を通りながら和人は母・由紀枝に言った。
「あら、早いわね。でも夕べあんなに食べたのにお腹すいたなんて、もしかしてあんまり寝てないんじゃないの。」由紀枝がいぶかしげに言った。
「いや、その顔は十分に寝たっていう顔だな。」
居間に座っていた父・正和が顔の前の新聞紙を下げながら、話に割って入った。
「今日からテストなんだろ、どうだ自信の方は?」
「うん、けっこう自信あるよ。」和人がすぐに答えた。
「ほう、めずらしいな。和人がそんなに言うなんて。」
父と母は顔を見合わせた。
「さすが私の息子だわ。私も試験のとき、問題が配られるまでは自信満々だったのよ。」
由紀枝が少しおどけて言った。
和人は一人っ子だ。
普通男の子が中学3年生にもなると、親とあまり話をしなくなりがちだが、和人はそうではなかった。
いつも冗談を言い合える雰囲気がこの家にはあった。
父は小学校の教員で、母は近所のデパートのパート社員だ。
父も母も仕事の話は極力家庭に持ち込まないようにしていたし、この家ではいつも和人を中心に物事が決められていた。
「さあ、今日は純日本風の朝食よ。」お母さんがテーブルに料理を運んできた。
ご飯、漬物、味噌汁、焼き魚、生卵、いつもの朝食だ。
「”今日は”じゃなくて、”今日も”だろ。いただきま~す。」
言うが早いか、和人はがつがつとご飯を食べ始めた。
「それじゃお父さんも、いただきま~す。」
お父さんが和人の真似をして言った。
すると「お母さんもいただきま~す。」と続く。
いつもの橘家の朝の風景だ。
和人は試験の日の朝だというのに、とても落ち着いていた。
昨夜はかなり勉強したし、睡眠も十分とった。
止めた時間は正確にはわからないが、だいたい24時間くらいだと和人は計算していた。
その間は食事もした。
食パン1袋とリンゴ2個だけだった。
パンを焼こうとしてオーブントースターを使おうとしたが、電気が働ないらしく熱が発生しなかった。
止まった時間の中では電気製品は使用できないらしい。
水道の蛇口をひねってみた。やはり水は出てこなかった。
圧力も止まった時間では作用しないということか。
重力は、おそらく自分の体にだけしか働いていないのだろう。
何しろカラスが宙に浮いていたくらいだから。
和人はものすごくお腹がすいていたので、すぐに食事を終えてしまった。
「ごちそうさま。」そう言って、部屋に戻り制服に着替えると、和人はすぐに家を出た。
クロベエのワンワンと吠える声が響いた。
「今日はいつもより早いんじゃないか?」
「きっと学校で試験前に勉強したいんじゃない?」
父と母はそう会話した。
でも和人の狙いはそうではなかった。
昨日携帯電話を拾った場所に、もしかしたら落とし主が来ているんじゃないか。
或いはこの時間にはいなくても、昨日探しに来た痕跡があるんじゃないか。
例えば電柱にでもチラシが貼られているような。そんな気がしていたのだ。
和人はその場所にやってきた。
でも探し物を見つけているような人はいないし、チラシなんかもなかった。
いつもと変わったところは何も感じられなかった。
他人の物を拾って持っているということに、罪の意識がないわけではなかった。
でも試験期間中だけ借りていたいと和人は思っていた。
(試験が終わったら交番に届けよう、その日別の場所で見つけたことにして。)
今ここにきて、誰もいなかったことでその思いはさらに強まった。
和人はそのまま学校へと向かった。
しばらくすると前方に英の姿が見えてきた。
和人は早歩きで歩き、やがて英に追いついた。
「よっ、英。今日はサッカーボール持ってないんだな。」
いつもサッカーボールを手放さない英が、なぜか今日は持っていなかった。
「えっ?」誰が話しかけてきたんだ?とでも言うように、英が振り向いた。
そして2秒間ほど和人を見つめて、今度はほっとしたような感じで「ああ、和人か。」とつぶやいて歩きだした。
「ああ、和人か、じゃないよ。どうしたのお前、何かあったのか?」
「いや、何もないよ。全然、ほんとに、まったく、何にもございませんぜ、橘の旦那。」
英がにっこり笑って答えた。
「じゃあサッカーボールはどうしたんだよ。」
「サッカーボール?ああ、今日はサッカーボールの日だよ。知らなかった?イギリスでサッカーボールが誕生した記念の日。だから、特別に休ませてるってわけ。」
「はいはい、まあ、どうでもいいや。ところで少しは勉強した?」
「勉強?この天才が家で勉強なんてするわけないじゃん。まっ、平凡な頭脳を持つ君たち庶民にとっちゃあ、羨ましすぎるだろうけど。」
「じゃあ、全くやらなかったのか?実力テストの前日だって言うのに。」和人が呆れたように言った。
すると、英が急に立ち止まった。
「実力テスト?おい、今日は実力テストがあるのか?」
「昨日部活が休みだったのは、何のためだよ。」
「・・・」
「別にいいじゃん。クラスで最下位のポジションは誰にも譲れないんだろ。」
「・・・」
「どうしたんだ?やっぱりちょっとおかしいぞ。」
和人がいぶかしげに顔をしかめた。
「・・・いけねえ、どうやら俺は記憶喪失になったみたいだ。先生わかってくれるかな。」
「きっとわかってくれるよ。」和人が突き放すように言った。
学校に着いた。和人は下駄箱で室内用のシューズに履き替えようとした。
だが、なぜか隣のクラスの英が和人にくっついてくる。
「お前は2組だろ。」と和人は2組の下駄箱の方を指さした。
「おう、そうだった、そうだった。俺は2組だったのね。」
と言いながら英はそちらに向かっていった。
和人は気になって英を見ていた。
英の下駄箱は棚の左、一番下の段だったのだが、英は上の段の方を片っぱしから眺め始めた。
その次に真ん中の段、最後に一番下の段に目をやり、やっと自分の名前を見つけたような素振りをした。
英は和人が自分の方を見ていると気づいていたのだろう。
自分の下駄箱を見つけた後、和人の方を振り向き右手の親指を突き出してニコッと笑った。
「記憶喪失ねえ。ちょっとやりすぎなんじゃないの?」
和人は小さな声でつぶやいた。