第1話
(なんだったんだ、今のは。こんなことが、こんなことがあるなんて。)
橘和人は歩道の真ん中に突っ立っていた。目は見開いているが、何も見えていないようだった。左手には携帯電話。口がぽかんとあいている。後ろから来ていた女の子2人が、まるで危ないものを見るかのように、無言のまま追い抜いた。
和人はごくんと唾を飲み込んだ。そして息を大きく吸い込み、ゆっくり「ふうっ」と吐いた。家へは5分ほどで着く。とにかく落ち着いて頭を整理したかった。和人は、携帯電話を握りしめ一目散に走った。
「ワン、ワン、ワン」
玄関脇でクロベエがしっぽを振って出迎えた。クロベエは和人の父が3年前に友人から譲り受けた黒いシェパードで、年齢は5歳だ。
「ただいま、クロベエ。今日はお母さんと散歩に行けよ。」
そう言うとじゃれてくるクロベエを無視して玄関を開けた。
「ただいま。」
「お帰り。走ってきたの?何かあった?」
「別に、何もないよ」お母さんの問いかけを遮るように、和人は自分の部へと急いだ。
ドアをあけ、鞄を下ろし椅子に座る。
そして左手のこぶしを机の上に置き、そっと手を開いた。
手の上には携帯電話。
その携帯電話をじっと見つめながら、先ほどの鮮烈な出来事を思い返した。
橘和人は、市立緑丘中学の3年生。サッカー部に所属しているが、その日は2学期の期末テストの前日ということで、授業が終わるとすぐに下校した。
「はあ、明日からテストか。」
和人の成績はいつも上位だった。だが、最近は部活でくたくたになり、家での勉強がおろそかになっていた。よほど勉強しないと、クラスで5位以内に入るのはむずかしいだろう。
「よっ、早く帰って猛勉強しようと企んでるな。むだなあがきはやめなさ~い。」
と言いながらお調子者の園山英が後ろから近寄ってきた。右手にサッカーボールをかかえている。園山英も同じサッカー部の3年生だ。
「部活と勉強の両立?男なら一つのことに打ち込むべきだろ。俺なんか勉強したいのを我慢して寝ても覚めてもサッカー一筋だぜ。」
「いいよな、クラスで最下位が定位置のやつは。それ以上落ちないんだから。」
「なあ和人、30分だけ付き合えよ。パスくらいやんねえと体がなまっちまって熟睡できねえんだ。」
「悪いけど、俺まじで追い詰められてんのよ。へたすりゃ徹夜なんだから。」
「ちぇっ、つまんねえの。今日から2日間パス五郎と練習か。」
パス五郎は英の家の塀に描いた絵で、緑丘中学校サッカー部のユニフォームを着ている。キャプテン翼の日向小次郎がモデルだが、あまりにも似ていないのでパス五郎と名づけた。英と和人の共同作だ。英は暇なときはいつもパス五郎とパスの練習をしていた。
「じゃあな、勉強しすぎて熱出すなよ。熱出して学校休んだら最下位になるぞ。」
「へえ、やさしいじゃん。」
「最下位はおれのポジションと決まっているの。おれのポジションを脅かすやつは、何人たりとも許さねえ。じゃあな。」
英は笑いながら前川サイクリングと書かれた店の角を左へ曲った。和人の家はそこを曲がらずに横断歩道を渡って行った1キロ程先にある。
「じゃあ。」和人は英の後ろ姿に声をかけた。そして横断歩道を渡りしばらく歩いた。
すると、10メートル程前の歩道で何かがきらりと光った。
近づいてみると、それは見たことのないタイプの使い古したような携帯電話だった。
和人はそれを拾ってみた。
(めんどうだな、交番はちょっと遠いし、かといってここに置いておくわけにもいかないし・・・)
和人は迷い、何気なくその携帯電話を開いた。
液晶画面は電池とアンテナのマーク、その下に日付と時刻が表示されているだけの極めてノーマルなものだった。
(あれ、これは何だ?)数字の「0」のボタンの下に、四角く真っ赤なボタンがあった。
ボタンの表面には黒い文字で「STOP」と書かれている。
和人はその文字にちょっとした違和感を感じた。
そもそも赤い色に黒の文字なんて読みにくい。
その他のボタンは白地に黒で表示されているのに、なぜこのボタンだけ読みにくくしたのか。
その文字をじっと見つめる和人の目が大きく見開いた。
よく注意してみないと気付かないのだが、その「STOP」という文字はボタンの少し左側に寄っていた。しかも他の文字と比べて少し太いような気がする。
和人は何気なくそのボタンを押してみた。
しかし液晶画面は何も変化が起きなかった。さらに3回押しても変化はなかった。
(何かの操作をした時に、それを取り消すためのボタンだろうか。)
そう思いながらもう一度そのボタンを押した。
その時どこからか救急車のサイレンが聞こえてきて、和人はボタンを押したまま顔をあげた。
左手の遠くで聞こえてきたようだったが、3秒くらいするとサイレン音がピタッと消えた。
しかも―
サイレン音だけではなく、すべての音が消えたように急に静まり返ったのだ。
何が起きたのか。
和人は手に持っていた携帯電話に目を移した。
なんと液晶の画面が眩いばかりに白く光っている!
そしてその画面の中に、赤い文字でこう表示されていた。
「Time must stop!」
(「時間よ、止まれ!」ってとこか。本当にそんなことが起きればいいけどな。)そう思いながら和人はふと道路側を見た。
すると…
横を通過しようとしていたはずの車が、止まっている。
運転手は前方を見つめてピクリとも動かない。
次に後ろを振り向いた。
20メートルほど後ろを歩いている女の子2人が、不自然に止まっている。片足は地面から浮き、少し前かがみに、そして顔はお互いに見合わして一人の口は横にあいている。それはまるで、話をしながら歩いている二人の体が、突然固まったかのようだった。
(止まっている。
確かに止まっている。
時間が…止まっている!)
和人は恐ろしくなり、すぐに携帯電話のSTOPボタンをもう一度押した。
すると、・・・ 時が、動きだした。