35.密告者-2
アランは、去って行こうとするフェルナンにこう声を掛けた。
「どうして話してくれたんだ」
「べつに……ただの気まぐれだ」
ただの気まぐれで小切手を手放せるものかとアランは思う。
これが恋なのかどうかは定かではないが、ルイーズという存在がひとりの男までもを変えたことは間違いない。
おそらく、もう2度と見ることはないであろう彼の姿を見送り、アランはひとつのキャンバスに眼をやった。
そこにはルイーズが、天使の如く柔らかな笑みを浮かべて佇んでいた。
*
屋敷の庭園を歩きながら、ルイーズはアランと初めて会った日のことを思い出していた。
あの時は、まだお互いのこともよく知らなくて、つまらない皮肉を言い合っていたっけ……。
咲き始めた花たちの間を、小さな虫たちが飛んでいる。この春の訪れのように、自分とアランも徐々に距離を縮めていったのだ。
そんな風に以前の2人を懐かしみながら、久しぶりに心に余裕と安らぎを感じていた。
しかしそこへ、前方から彼女がやって来るのが見えた。
「お姉さま……」
一気に、ルイーズの動悸が早まる。踵を返して逃げ出したかったが、立ち竦んで身体が動かなかった。
ルイーズの方に近付いてくるアネットの顔は“無”だった。怒りも悲しみもない、無。
「ルイーズ、アラン様と婚約を破棄しなさい」
「っ……」
それか開口一番に言うことだろうかと、ルイーズは目の前が真っ暗になりそうだった。アネットが自分に最も望んでいるのは、アランと結婚しない。ただそれだけだった。
「フェルナンとの事があって、ミシュレだけでなくルヴィエ家の名まで汚すことになったのですもの」
「違います! あれは断じて私の意志でしたことではありません! お姉さまが……」
「私?」
「あれは、お姉さまが計画されたことではありませんか……?」
勇気を振り絞り、ルイーズは予てから抱いていた疑いを投げかけた。
その言葉に、アネットは弾けるように高笑いした。何が可笑しいのか分からないが、表しようのない怖さを覚えた。
「私が何をしたっていうの? 証拠は?」
「それは……」
「ただの憶測で私を犯人にするつもり? やっぱりお前のように卑しい女はアラン様の結婚相手に相応しくないわ」
「アラン様は、私を信じると言ってくださいました。私の気持ちも変わっていません! 何があってもアラン様と結婚します!」
「黙りなさい!」
自分の思い通りにならない頑ななルイーズ。
ついにアネットは激情を露わにして彼女の襟元を乱暴に掴んだ。
「今すぐここで婚約破棄すると誓いなさい!」
「死んでも嫌です!」
「お前は部屋の中にずっと閉じこもっていれば良いのよ!」
ルイーズもアネットの肩を握って彼女から離れようとするが上手くいかない。
自分はいつも姉の存在に怯えていた。でも今、アランという愛する存在を見つけて、もう自分は彼女に立ち向かっていけるとルイーズは確信していた。
そうしてしばらく揉み合っていると、誰かが彼女たちのもとへ駆けつけて来るのが見えた。
「2人共やめないか!」
そう言って勢い良く2人の間に割って入ったのは、やはり彼だった。
それがアランだと気付いた時、まるで冷水を掛けられたかのように、一気に彼女たちの頭は冷静になっていった。
「ルイーズ、大丈夫か?」
「ええ……」
すぐにアランはルイーズの肩を抱き寄せると彼女を気遣うような仕草をする。それを目の前で見せつけられ、アネットは堪らなくなる。
「アラン様、こんな女があなたの結婚相手だなんて信じられません! あなたの評判だって落としかねないのに」
「アネット、それ以上言うな。もう真実は全て明らかになった」
アランは静かにそう言うと、まっすぐアネットの眼を見据えた。
「フェルナンを操り、ルイーズの名誉を傷つけたのはあなただろ、アネット」




