29.秘密の刺繍
アランの母、オルガから「美味しい茶葉が入ったので飲みに来ませんか」という旨の手紙を受けたのは突然のことだった。
幼き頃から面識があったとはいえ、ルヴィエ家に嫁ぐ身でありながら未来の義母となる人と久しく顔を会わせていなかった自分を恥じ、ルイーズはすぐさまその非礼を詫びて招待を受ける手紙を送った。
そして今日、春の訪れを思わせるような麗らかな日差しが入り込むオルガの私室にルイーズは招かれていた。
出されたお茶は渋みが少なく、それでいてコクのある味で舌に柔らかく馴染んだ。外国から輸入された茶葉で、入手困難とされるほど貴重なものなのだそうだ。
「お気に召したかしら」
「ええ、とても美味しいです」
オルガの優しさがそのまま詰まっているような味に、ルイーズは心が温かくなる。
「本当に、素敵な女性に成長しましたね。
まだハイハイしかできなかったあなたに、私もダミアンもそれはもうメロメロだったわ」
「そんな、とんでもないです……私もオルガ様のような素晴らしい方の娘になれるなんて本当に幸せですわ」
「あんな息子だけど、どうぞよろしくお願いしますね」
そう言いながら彼女がアランによく似た眼を細めると、それは可憐な花のようにこの場を明るくした。
「ところで、ルイーズ様はルヴィエ家の紋章をご存じかしら」
「はい、印璽で見たことがあります。鷹があしらわれていたかと」
「そうです。それで、実はルヴィエ家の当主が着るシャツの袖に紋章を刺繍するのは、代々妻の役目と決まっているのです」
ルイーズはルヴィエ家の紋章を思い浮かべる。細部まで複雑な形のそれは、刺繍が得意な自分でもかなり難易度が高そうだった。
「今は仕立屋に全て任せていますが、いずれあなたもこの役目を負わなければなりません。
それでさっそく、練習も兼ねて一枚刺繍してみてはどうかと思って」
オルガはそう言うと、真新しいシャツと刺繍の図案を取り出してルイーズに手渡した。
「私にできるでしょうか……」
「大丈夫、あなたならやれるわ。アランもあなたの刺繍の腕には太鼓判を押していたんですもの」
オルガに力強く言われ、ルイーズも「やってみます」と頷いた。そしてこれから自分に課せられる妻としての役目なら、どんなことでもやり遂げようと思うのだった。全ては未来の夫であるアランのために。
「ルイーズ!」
と、そこへ突然、乱暴に扉が開けられたと思いきや、やって来たのはアランであった。
「え、なぜここに?」
「まったく、どういう登場の仕方なのかしら」
驚くルイーズに呆れ顔のオルガ。アランは迷わず愛しい婚約者の隣に腰を下ろした。それも1ミリの隙間なく。
「なぜって、せっかくウチに来てるのだから、一目でも会いたいと思うのが普通だろう? レナルドは今カンカンだがね、そんなことは関係ないさ」
そう甘い声で言うと、ルイーズの小さな手を握りそこへキスを落とした。
それだけで、電流が走ったように彼女の身体はびくりと震える。
「あ、あのオルガ様の前ですから、そういうことは……」
あのキス以来会うのは初めてだったが、いつも以上に前のめりのアランにルイーズも落ち着かない。
「親の前だろうと何だろうと僕は何も気にしないよ」
「自分の事じゃなくてルイーズ様を見なさい、困ってるわよ。自分の息子がこんなに無節操だとは思わなかったわ」
そんな母親の言葉も耳には入っていないようで、ちゃっかりとアランはルイーズの肩を抱き寄せる。
そしてふと、彼女の手元に目をやった。
「これは僕のシャツじゃないか。何をするんだい?」
「えっ、これは……」
ルイーズは慌てて刺繍の図案をさり気なくシャツの下に隠す。
そしてオルガと悪戯っぽく微笑み合った。
「まだ秘密です」