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20.不穏な取引き‐1



「疲れたかい?」

「ちょっとだけ……でもそのお陰で素晴らしいものが見れましたから」


 花畑からの帰り道、待たせていた馬車に2人は揺られていた。

 のどかな景色はすっかり夕焼け色に染まろうとしている。


 その途中、馬車は作業着姿の男とすれ違った。その男性に気付いたアランは、すぐさま手綱を握る御者に「すまない、止めてくれないか」とすばやく指示する。


 何なのだろうとルイーズが思っていると、アランは窓からひょこっと顔を出して後方に向かって叫んだ。


「ラクールさん!」


 そう呼び止められた男はこちらを振り返ると、すぐにそれがアランだと分かったのか馬車の方へと近付いてきた。


「これはこれは。ごきげんよう、公爵」

 ラクールと呼ばれたその男は日焼けした顔でアランを見上げながら脱帽した。


 中肉中背で歳は50代半ばといった所だろうか。細められた瞳は春の温かさのように穏やかで、人の良さが滲み出ているような男だった。

 

「棚の掃除は終わったんですか?」

 アランのこの問いで、ラクールが葡萄農家の男だということにルイーズはようやく気付いた。


 ルヴィエ家が代々管理しているこの領地では葡萄作りが盛んだ。主にワインなどの加工品を全国へ出荷していて、この地に住む人々にとって貴重な収入源にもなっている。


 だからアランも葡萄園を束ねている農家を定期的に訪ねては意見交換したり情報収集したりするのが大きな仕事でもあるのだ。


「掃除はこの前終わりましたよ。今年は去年のような事にならないように祈るばかりで……」ラクールの表情が途端に憂いを帯びる。


“去年のような事”とは、昨年この地方を襲った害虫の大量発生のことである。

 なす術もなく収穫量は激減し、葡萄園や醸造所に破壊的な打撃を与えたのだった。この事はアランにとっても自分の無力さをまざまざと感じさせる出来事だった。

 だからこそ、使命感を抱く彼は一つの提案をしたのだった。


「近頃開発された殺菌剤をご存じで?」

「はあ……話には聞いてますけど」

「実験でも菌を制御すると実証されているし、それを購入して農家に配ろうと思うんだが、どうだろう」

 アランの提案に、ラクールはあからさまに苦々しい顔つきに変わった。


「しかし、その薬を使用したとして品質や安全性はどうなるんです?」

「それも実験済みで政府からもきちんと認可されている。すでに他の地域で取り入れている所もあるんだ」

「……」

「あなたの気持ちも分かるが、このまま何も手を打たずに後手に回っても仕様がないだろう」

 ラクールの発する抵抗感はひしひしと伝わってきたが、アランもここで簡単に引き下がる訳にはいかなかった。

 和やかな挨拶から一転、妙に張り詰めた緊張感がその場を支配していった。


 アランの、いつになく真剣な厳しい顔つき。

 2人のやり取りを見守っていたルイーズも、彼の“当主”としての顔に、何か背筋を正したくなる心地がした。


 ラクールもそれを感じ取ったのか、しばらくして降参するように両手を挙げたのだった。


「ああ、もう負けたよ。分かりました、考えておきますよ」

「ありがとう、ラクールさん。詳しい事はまた今度の集会でも話すから前向きに考えてくださいね」

「はいはい。まったく、公爵には敵わないな」

 

 柔軟な頭を持ちつつも、粘り強くて頑固な部分があるアラン、そしていつもそれに押し切られてしまう自分にラクールは苦笑するしかなかった。

 


「ところで、そちらの女性は?」

 ラクールはにこやかにルイーズに目配せした。ずっと視界に入っていたので気になっていたのだ。


「ああ、紹介が遅くなってすまない。こちらは、ミシュレ家のご令嬢で僕の婚約者だ」

「は、はじめまして、ルイーズと申します」

 彼女ははにかみながら会釈した。


「ほお、この方が噂の。お目にかかれて光栄です。私はセドリック・ラクールと申します」

「ルイーズ、ラクール家はこの地方でも伝統ある葡萄農家なんだよ」

「まあ、そうだったんですか」

 彼女は、そんな重要な人物の顔すら把握しておらず、何となくな雰囲気で2人の会話に耳を傾けていた自分が今さらながら恥ずかしかった。


 ましてや、ローシェル地方の中でもルヴィエ家の治める地域は特に葡萄農園も多い。それなのにその葡萄で作ったワインの味さえ自分は知らないではないか。

 だんだんと、ルイーズは自分の身体が萎んで行くような気がした。



 一通りアランたちが立ち話を終えると、ようやく馬車は動き出した。

 しかし、すっかり落ち込んだ様子のルイーズにアランは首を傾げる。


「どうしたの。浮かない顔して」

「……私、あなたと結婚するのにこの土地のことを全然知らないのだと思って……恥ずかしくなりました」

「そんなの当たり前だろう。引きこもりだったんだし」

「なっ、それは、そうですけど……そんなにはっきり言わなくても」

「でも嬉しいよ。あなたが僕の妻になる事をちゃんと意識してくれて」


“妻”という甘美な響きに、ルイーズの心はぴょんと跳ねた。


「もう、駄々をこねる子供は止めたのです……」

 赤面する顔を隠すように、そっぽを向いて彼女は言った。アランはくすりと微笑む。

「まあ、これからゆっくり知って行けば良いんじゃないかな。この地域のことや、ルヴィエ家のこと、僕の仕事とか、色々なことを」

「ゆっくり?」

「そう、焦りは禁物さ」

 

 ルヴィエ家に嫁ぐことを自覚し、自分の妻としてしっかり務めを果たそうとしてくれるそんな健気な婚約者に、アランは愛おしさを募らせた。


 本当なら、この密室状態という絶好の機会を無駄にはせず、そっと彼女を抱き寄せて口付けのひとつくらいしたいというのが彼の本音だった。

 でももし拒絶されて疎ましがられたら今度こそ修復不可能な関係に発展しかねないので、アランは伸ばしかけた腕をぐっと抑え、自制に徹したのだった。


「そういえば、私の友人にジゼル・デシャンという者がいるんですけど、彼女はワインが好きで良く飲むんですって」

「ああ、デシャン家の一人娘のご令嬢なら、夜会で何度か見かけたことがある」

「今度正式にご紹介しますね。私の唯一の友人ですの」

 

 アランの我慢を知る由もなく、ルイーズは彼の理性を刺激するような無邪気な笑顔を向けた。





          *






 名もなき芸術家たちの棲み家とは良く言ったもので、その実態は廃墟という名に相応しかった。


 レンガ造りの壁は今にも崩れ落ちそうで、枯れて萎れた蔦がいたる所から情けなくぶら下がっている。むしろネズミやクモにとって最適な物件ではないか。

 とにかく陰気で生気のない空気が辺り一面に立ち込めていた。


 賑やかな市街地から数キロ離れたこの寂れた場所にアネットは居た。

 目立たぬように外套を被り、自慢の艶やかな髪も頭巾で隠している。


 彼女は物陰からじっと息をひそめ、このアパートメントの方を見つめていた。

 一匹の黒猫が近くを彷徨っているだけで、外に人の気配はない。

 時折、建物の中から男女の口喧嘩ー書くのも憚れるような下品な言葉の応酬ーが聞こえてくる以外は不気味なほど静かでもあった。

 

 辛抱強くそうしていると、出入り口の方から一人の青年が姿を現わした。

 

 気だるそうに煙草をくわえ、片手には小さなキャンバスを下げている。

 適当に結わえられた赤毛に、薄汚れた服装、踵の擦り減った靴、しかし少しもみすぼらしいという印象がない。芸術を追及しつつも退廃的で自堕落な暮らしをどこまでも享受しているようだと言った方が適切だろうか。


 そしてアランとはまたタイプの異なる、どこか怪しげな瞳を持つ美男子でもあった。そう、この男になら危険に冒されも良いと思ってしまうような。


 アネットはこの男を見た瞬間、直感が働いた。


「ねえ」


 目の前を横切ろうとしたその青年に、彼女は声をかけた。

 男は立ち止まり、アネットと目を合わせた。すぐさま、何かに気付いたように破顔した。


「ここはあんたのようなお嬢さんが来る場所じゃないぜ」

「私が貴族の娘だって分かるの?」

「分かるさ。ニオイでね」

 男はアネットの方に一歩近付くと、わざと匂いを嗅ぐような仕草をした。

 そして誘うような視線を送りながら煙草の煙を吐いた。


「勘違いしないで。一夜の相手を探してるんじゃないわ」

「それは残念。そっちの方は貴族よりも自信があるんだけどな」

 そんな軽口を無視して、アネットはじっとその青年を見据えた。


「私と、取引きしない?」


 そのとき、先ほどの黒猫が、おもむろに「みゃあ」と鳴いた。

 その金の瞳で邪悪な未来を見たのか、それとも……。





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