耳で聞いた、は証拠にならない――十億円の名器が保管庫で偽物に変わった朝、笑われ続けた私の耳だけが、それを昨夜のうちに聞いていた
耳で聞いた、は証拠にならない。
捜査三課にいた五年、国枝係長に何度そう言われたか分からない。半年前から、私は所轄の遺失物係の窓口に座っている。その窓口に、夜の九時五十分、十億円のバイオリンが届いた。
瑞垣警察署の一階、会計課のいちばん奥が遺失物係だ。傘、財布、鍵、片方だけの手袋が、一日に四十件ほどここへ流れてくる。その夜は当直で、明かりがついているのは窓口の奥の私の机だけだった。
「忘れ物です。車の中の」
瑞垣交通の制服の運転手が、黒いケースをカウンターに置いた。沼田さんという六十過ぎの人で、月に何度か傘を届けに来る。
「ホテルの前で二人降ろしてね。次のお客さんが、助手席の足もとに何かあるって言うんですよ。前に乗ってた男の人のだと思うんだけど」
取っ手の札に、青柳記念音楽財団とあり、電話番号が添えてあった。
拾得物は、届けた人の前で中を確かめる決まりだ。留め金を外すと、濃い赤茶のバイオリンが青いビロードに沈んでいた。f字孔の奥のラベルを覗こうとして持ち上げたとき、親指が弦を掠めた。
開放弦が四本、いっぺんに鳴った。
濁っていた。隣同士が澄んで響き合うはずのところが、どれもわずかにずれて、うなっている。
子どもの頃からバイオリンを弾いてきて、私には絶対音感がある。高校の冬にひと月ケースを開けずにいて、久しぶりに出した私の楽器がこんな音を立てた。弾かれずに置かれた楽器は、弦が一本ずつ勝手な方向へ逃げていく。
いちばん沈んでいたのがA線で、四三〇のあたりだった。演奏会で合わせる高さから、ずいぶん下だ。ひと晩やふた晩でここまでは落ちない。
「鳴りましたね、今」
沼田さんには、弦がただ鳴っただけに聞こえたはずだ。
ラベルには、ストラディバリウスの名と製作年が刷ってあった。練習用の安物にも貼ってあるものだ。私は拾得物件預り書の特徴欄に、バイオリン一、弓一、松脂一と書き、少し迷ってから一行を足した。弦、調子外れ。A線およそ四三〇。
三課では一度も通らなかった書き方だ。音感刑事と呼ばれて笑われた。それでも書いた。書かずにおけば、聞かなかったのと同じになる。
沼田さんは預り書を受け取ると、四つに畳んで胸ポケットにしまった。
財団の番号にかけると、夜間はマネージャーに回すという録音が流れた。十分後に折り返してきたのが、日野と名乗る男だった。篠宮環という二十二歳の奏者に財団が貸している一七二〇年代のストラディバリウスで、保険の評価額は十億を超える。
「警察に。そうですか、よかった」
声は落ち着いていた。すぐにお見えになりますかと訊くと、一拍あいた。
「篠宮はもう休んでおりますので、明朝で構いません。署の保管庫というのは、鍵のかかる部屋ですか」
「会計課長が鍵を持っています」
「では朝まで、そこに」
受話器を置いてからも、その問いが耳に残った。
十時十分、当直責任者の会計課長、宇野さんと二人でケースを保管庫に入れた。入退室の記録簿に並んで名前を書き、扉の上のカメラがそれを見ていた。
翌朝八時半、篠宮環さんが日野さんと財団の担当者に付き添われて来た。細い人で、目の下が青かった。宇野さんと二人で保管庫から出したケースを、相談室の机に置いた。環さんは留め金を外して、しばらく動かなかった。
「違います」
震えてはいなかった。震えるより先に、分かってしまった人の声だった。
「顎当ての下に、去年つけてしまった傷があるはずなんです。それがない。ニスも少し明るい」
環さんは弓を取って、一度だけ弦に当てた。明るい音がした。明るすぎた。塗ったばかりの木が、まだ自分の声を持っていないときの音だった。
日野さんが環さんの肩に手を置いて、警察の管理はどうなっているんですか、と宇野さんに言った。声の高さは、昨夜の電話と少しも変わらなかった。
署の空気は、九時を過ぎたあたりから変わった。宇野さんは記録簿を三回めくり直し、同じ課の人たちは私の机の前を通るとき足を速めた。私は預り書の控えを引き出しから出して、また戻した。誰に見せるものでもなかった。鍵のかかった部屋で中身が変わったのなら、最後に触った者から疑う。三課にいた頃、私も同じ順番で人を見ていた。だから、誰のことも恨む気にはならなかった。
十時過ぎに県警本部から捜査三課が着いた。先頭にいたのは国枝さんだった。
国枝さんは報告書を突き返すたびに言った。耳で聞いた、は証拠にならない。数字と物で書け。
内示の少し前、空き巣の被疑者が犯行時刻に友人へかけた録音を聞いた。後ろの踏切の警報が、本人の言う駅前の踏切より半音高かった。私はそれを報告書に書き、国枝さんはその頁だけ抜いて返してきた。被疑者は結局、別の防犯カメラの映像で崩れた。私の半音は、どの書類にも残らなかった。
異動は国枝さんが上に願い出たものだと、あとで聞いた。内示が出た日、私は二十分で机を片づけた。何も言わなかった。言えば言った分だけ、私の耳が言い訳の道具になる気がした。
取調室の蛍光灯は、いつも同じ高さで低くうなっている。国枝さんは、私と組んで取調べをしていた頃と同じ奥の椅子に座った。私だけが、机の反対側に移っていた。
「記録簿とカメラは確認した。昨夜十時十分に入れてから、今朝八時半に宇野課長とお前が開けるまで、扉は一度も開いていない」
「はい」
「なら、入れ替わる機会はひとつだ。ケースを受け取ってから保管庫に入れるまでの二十分。窓口のカメラは客の側しか映していない。そのあいだ、あれを預かっていたのはお前だけだ」
「はい」
「バイオリン、弾けたよな」
弾けるやつなら、工房にも楽器商にも伝手がある。三課の理屈としては筋が通る。
国枝さんはボールペンで机を叩いた。四拍子で、少しずつ走る。焦ると走る人だった。私は音が止むのを待った。止まなかった。
「届いた時点で、あれはもう本物ではありませんでした」
「根拠は」
「耳です」
国枝さんの口の端が下がった。半年前と同じ下がり方だった。その先を言われる前に、私は続けた。
「耳の話はしません。数字の話をします」
ペンが止まった。
「拾得者の沼田さんが、預り書を持っています。昨夜九時五十分に私が特徴欄に書いた一行があります。A線およそ四三〇。預り書は沼田さんのポケットにあるので、私があとから書き換えることはできません」
「続けろ」
「いまあのバイオリンの弦を、チューナーで測ってください。昨夜から誰も調弦し直していなければ、同じ数字が出ます。篠宮さんにも伺ってください。昨夜の演奏会では何ヘルツでAを合わせたのか。楽屋を出る前に、もう一度音を出したかどうか」
国枝さんは若い捜査員に顎をしゃくった。
捜査員が出ていくと、蛍光灯だけがうなり続けた。この人が黙るのは、話が思っていた場所に着地しなかったときだ。
二十分ほどで捜査員が戻った。
「A線は四三一ヘルツ。ほかの三本もばらばらです。沼田さんには電話で預り書を読み上げてもらいました。A線およそ四三〇、とあります」
「篠宮は」
「オーケストラは四四二で合わせたそうです。楽屋で最後に音階をさらって、狂いはなかったと。ケースに入れたのは九時少し前。タクシーで揺られても、一時間やそこらでこうはならない、何週間も弾いていない楽器の狂い方だ、と」
私は膝の上で指を組んだ。
「九時に四四二で合っていた楽器が、五十分後には四三〇でした。狂い方の見立ては、私ではなく篠宮さんのものです」
「お前が複製を四三〇に合わせておけば、同じ数字は出る」
来ると思っていた。
「それには、あの楽器とそっくりの複製を前もって用意しておかなければなりません。あのケースがうちの窓口に来ることを、私は九時五十分まで知りませんでした」
「沼田と組んでいれば話は別だ」
「沼田さんに選べたことは何もありません。ホテルの前であの二人を乗せたのも、忘れ物に気づいたのが次の客だったのも、沼田さんが決めたことではありません」
「二人で前もって作らせておけばいい。落とし物になった時点で動く段取りなら成り立つ」
「篠宮さんは、顎当ての下に去年つけた傷があるはずだと言いました。それがなかった。ニスの色も違うと。あの複製は、本物を近くで何度も見た人間が、何か月もかけて作らせたものです。私はあの楽器を昨夜はじめて見ました。沼田さんもです。傷の位置を知らない人間には、注文のしようがありません」
国枝さんはペンを置いた。
「もうひとつあります。あの複製を用意した人は、それを一度も鳴らしていません」
「なぜ言える」
「弦が四三〇まで下がるには、何週間も放っておく必要があります。弾く人なら、ケースの中で弦が下がっていくことを知っています。すり替えるつもりなら、前の晩に四四二へ合わせておけばよかった。それをしなかったのは、楽器を弾かない人だからです。私は弾きます」
「複製を用意できたのは、あの楽器を前から間近で見てきた人です。タクシーの中で二つ目のケースを開ければ、沼田さんか篠宮さんの目に入ります。九時から車に乗るまで、ケースを持っていたのは誰だと、篠宮さんは言っていますか」
捜査員が手帳をめくった。
「日野です。篠宮が楽屋口でサインに応じていた十分ほど、日野はケースと衣装のスーツケースと一緒に楽屋に残っていました。タクシーでは日野が助手席、篠宮が後ろ。ケースは日野が持って降りるものだと思っていた、と。忘れ物のことを日野から聞いたのは、今朝七時だそうです」
「沼田さんは、ケースは助手席の足もとにあったと言いました。日野さんは昨夜の電話で、今夜は取りに来ないと言い、そのあとで保管庫に鍵がかかるかどうかを訊きました。朝まで、そこに、と。高いものを落とした人から、そう言われたのは初めてでした」
そこで口を閉じた。その先は三課の仕事で、もう私の仕事ではない。
昼過ぎに窓口へ戻された。先月は、ランドセルから外れた鈴を、音の高さで持ち主の子に返した。ここでは耳が笑われない。笑う人がいない、というほうが近い。
夕方、当直明けのまま窓口を閉める支度をしていると、国枝さんが来た。
「日野を押さえた。ホテルの部屋だ。衣装用のスーツケースの底に、バスタオルで三重に巻いてあった。篠宮に確認させた。顎当ての下に傷がある」
国枝さんはカウンターに手をついた。
「事務所の金に手をつけていた。先月末が期限だった三千万を、埋めきれなくなっていたそうだ。本物は国外の買い手に渡すつもりだった」
「複製は」
「半年前から工房に作らせていた。届いてから一度もケースを開けていない。お前の言ったとおりだ」
警察の保管庫で消えたことになれば、疑われるのは署の人間で、掛け合う相手は県になる。マネージャーの荷物を開けようとする者はいない。
階段を下りる音がして、環さんが窓口の前に立った。手続きを終えて仮に返されたケースを、今度は自分の胸の前で抱えていた。
「調子外れ、って書いてくださったと聞きました」
「はい」
「日野さんは、ずっと」
環さんは、そこで切った。
「昨夜は、ちゃんと鳴ってました。最後の一音まで」
礼を言われる筋ではない気がした。私が書き留めたのは複製の音で、本物の音は一度も聞いていない。それでも、ちゃんと鳴っていたとまっすぐ言える人の顔を見て、書いておいてよかったと思った。
環さんが出ていったあと、国枝さんはカウンターに預り書のコピーを置いた。私の字で、A線およそ四三〇、とある。取扱者の欄に、汐見律。
「三課でも、こういうのを書いてたな」
「はい」
「俺は突き返した」
「はい」
「今日のことも、俺が決めた。お前を先に呼んだ」
「順番としては、そうなります」
「耳で聞いた、は」
国枝さんはそこで止めて、続きを言わなかった。私も促さなかった。しばらく、紙を見下ろしている人の呼吸だけが聞こえた。
「汐見。戻ってこい。課長には俺から話す」
私はコピーの端を揃えて、国枝さんのほうへ返した。
「ここにいます」
それだけ言って、頭を下げた。言葉を足せば、その分だけ何かを取り返しにいくことになる。取り返したいものは、もうなかった。
国枝さんはコピーを二つに折って上着の内ポケットに入れ、背を向けた。
右の靴だけ踵が減っていて、廊下を打つ音がほんの少し低い。三課にいた五年、ずっと聞いてきた足音だった。遠ざかって、自動ドアの開く音にまぎれて、それきり聞こえなくなった。
私は引き出しから、新しい預り書を一枚出した。
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