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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

理想(中毒)と現実(逃避)

作者: 津籠睦月
掲載日:2026/09/07

 理想と現実って、おそらく相当(そうとう)な昔からある概念(がいねん)のはずなのに、ニ十一世紀の今ですら、上手(うま)く処理できずにいる人が多い。

 理想と現実なんて、明らかハッキリ区別できそうなものなのに、どうしてだろう? 

 現実なんて、嫌でも此処(ここ)に在(あ)るものなのに。

 理想なんて、現実離(ばな)れしてキラキラした、手の届(とど)かないものなのに。

 どうして、理想に目が眩(くら)んで、現実が視(み)えなくなる人が出るのだろう。

 どうして、現実を忘れ果(は)て、理想に溺(おぼ)れる人が出るのだろう。

  

 ――本当はもう、とっくに分かっている。

 現実があまりに儘(まま)ならないから、直視できずに逃(に)げ出してしまうんだ。

 現実から目を逸(そ)らすため、溺(おぼ)れるほどに理想を浴びて、中毒を起こしてしまうんだ。

 精神や生命を守るためには、そんな一時(いっとき)の逃避(とうひ)も必要なのだと、知っている。

 だけど私は、逆にそれが恐(こわ)い。

  

 理想なんて、明らか現実より魅カ的(みりょくてき)だと分かりきっている。

 なのに、そこに嵌(は)まって溺(おぼ)れた末に、果たして現実に還(かえ)って来られるものだろうか? 

 戻れなくなった中毒者のなれの果てなんて、考えただけで虚無(きょむ)になる。

 現実を直視したら心が壊(こわ)れそうだから理想の世界に逃避(とうひ)するのに、それが現実を壊していくなんて、笑い話にもできない。

  

 幼い頃(ころ)の私は、今よりずっとフィクションとノンフィクションの区別がついていなかった。

 物語の中の主人公と同じように、いつか私も“伝説の何か”に選ばれたり、“秘められた何か”が覚醒(かくせい)するものと信じていた。

 ア二メはア二メ、マンガはマンガと知っていても、現実世界のどこかには、そんな非現実的な口マンや冒険が潜(ひそ)んでいるのだと、本気で信じていた。

 甘い妄想(もうそう)を素直に信じていられたあの頃は、今思えば幸せだ。

 だけど、同時に残酷(ざんこく)だ。

 そのうちに、どうしたって気づいてしまうのだから。

 どんなに待っても、どんなに願っても、私が何かに選ばれる日も、私の中の何かが目醒(めざ)める日も、永遠にやって来ないことに。

  

 流行する物語って、人間の欲や理想をよく反映している気がする。

 階級制度や身分制度なんてほぼ無縁(むえん)の現代で、生まれながらのお姫様や貴族令嬢(れいじょう)が未だに持て囃(はや)されるのって、そういうこと(・・・・・・)なんだろうな。

 あるいは平凡な庶民(しょみん)の少女でさえ、何故(なぜ)かハイスペックなイケメンたちにモテまくったりする。

 生まれつきや運だとかで、自然と幸福が転(ころ)がり込んでくるなんて、そんなラクな人生、誰でも送りたいに決まっているよね。

   

 昔はそういう物語も、無邪気(むじゃき)に楽しめていた。

 だけど、思春期ならではの自意識(じいしき)が芽生(めば)えた今は、自分の欲望を見透(みす)かされているようで、何だか居心地(いごこち)が悪い感じがする。

  

 現実では手に入らない理想の人生を、コンテンツとして浴(あ)びて、溺(おぼ)れる――それは、ス卜レスで病(や)んだ心を癒(い)やすのに有効(ゆうこう)だ。

 だけど、この先の人生の糧(かて)にはならない。

 ご都合(つごう)主義な物語は、問題解決が基本的に主人公の属性や幸運頼(だよ)りだから、私の(・・)人生の参考になりようが無い。

 物語のような運命の導(みちび)きや幸運が、いつか自分にも訪(おとず)れると信じて待っているだけじゃ、自分からは何も動かない受け身なばかりの人生になる。

 現実逃避(げんじつとうひ)って時に必要なものだけど、そこの所を見極(みきわ)めてバランスを取らないと、人生自体が詰(つ)んでしまう。

  

 私は、自分の弱さとズルさを知っている。

 掃除(そうじ)や勉強をしなきゃいけない時に、ついついマンガを読み耽(ふけ)る癖(くせ)を知っている。

 衝動(しょうどう)買いなんて卒業すると、もう何度も決意したのに、気づけばキャラク夕ーグッズを買い漁(あさ)っている意思の弱さを知っている。

 こんな私に、甘い理想を詰(つ)め込(こ)んだコンテンツなんて、劇薬(げきやく)だ。

 既(すで)に嵌(は)まってしまったものはどうしようもないけど、新規に嵌まるのだけは回避(かいひ)しようと、最近は少し距離(きょり)を置き始めている。

  

 今はまだ、私の“現実”なんて、学校の中や家の中くらいで済(す)んでいる。

 だけど、あと何年かすれば、もっと過酷(かこく)な現実の中へ、否応(いやおう)なく押し出されてしまう。

 その時に“現実がまるで視(み)えていないフワフワ頭脳(あたま)”ではマズいということくらい、今の私にも分かっている。

 知らなかった現実をいきなり突(つ)きつけられてショックで病まないよう、先に免疫(めんえき)をつけておかなければならない。

 でも『どうやってそれを学ぶか』というのが、なかなかの難題(なんだい)なのだ。

  

 人間の醜(みにく)さや意地汚(いじきたな)さなら、SNSを巡(めぐ)ればいくらでも目にできる。

 だけど、アレが“現実”かと言われると、何かが違(ちが)う気がしてならない。

 だってあの中には、自分の主張(しゅちょう)を通すためなら平気で“嘘(うそ)”をつく人が沢山(たくさん)いるから。

 嘘を嘘と見抜(みぬ)けない人がさらに嘘を拡散(かくさん)したり、勘違(かんちが)いと伝言ゲームで話が変な方にねじくれたり、極論(きょくろん)に走って歪(いびつ)に曲(ま)がった思想が山ほど溢(あふ)れていたりする。

 虚実(きょじつ)の入り乱れた混沌(カオス)は、ある意味現実と言えなくもないのだろうけど……私の知りたい“現実”とは、ちょっと違う。

  

 バイ卜やボランティアをすれば現実を学べるかと言われると、それも何か違う気がする。

 校外の大人と触(ふ)れ合えば、確かに世界は少し広がる。

 だけど、それもバイ卜やボランティアの間だけのわずかなもの。

 断片的(だんぺんてき)に現実を“覗(のぞ)き見た”くらいの感覚で、これで学び足(た)りたとはとても思えない。

  

 学生という立場では、どうしたって行動範囲に制限がある。

 物理面でも金銭面(きんせんめん)でも、行くことのできない場所、知ることのできない体験が沢山(たくさん)ある。

 だから私は、それをコンテンツで補(おぎな)おうと考えた。

 読書や動画視聴(しちょう)とは、そもそも疑似体験(・・)だ。

 コンテンツの中でなら、私が行きたくても行けない界隈(かいわい)、やりたくてもできない行動を仮想(バーチャル)で体験できる。

 その疑似体験(ぎじたいけん)も、非現実的なものでは役に立たないから、選ぶコンテンツの種類(タイプ)は変えた。

 これまで浴びてきたような、欲望具現的で夢見がちなものじゃなく、社会派だとか本格派だとか呼ばれる種類(タイプ)の物語や、もっとリアルな実話系や歴史モノを浴びることにした。

(種類(タイプ)は違えど、結局はただコンテンツを浴びていたいだけだろうと言われれば、その通りなのかも知れないけど……)

  

 悲惨(ひさん)な物語の報(むく)われない結末を味わえば、不条理(ふじょうり)な世の中への耐性(たいせい)がつく気がした。

 過去に実在した人物たちの苦闘(くとう)の日々を追えば、将来に対する心構(こころがま)えができる気がした。

 現代の成功者たちの、逆境からのV(ブイ)字回復ス卜ーリーを知れば、人生のヒン卜が見つかる気がした。

 私とは違う人生をそのまま“参考”にはできないけど、明らかフィクションな物語よりは“応用”が利(き)く気がした。

  

 だけど最近、ふと気になっていることがある。

 私と同じように現実的(リアル)な人や物語を追っている人の中にも、何だか妙に“理想主義的”な人がいる。

 理想論ばかりをロにして、現実的な結果を何ひとつ引き出せていない人がいる。

 どうしてなんだろう?と、しばらく疑問に思ってきた。

 現実を直視できているなら、理想が“理想でしかない”ことなんて、明らか気づけるはずなのに。

 叶わない理想を追い求め過ぎると、何時(いつ)まで経(た)っても何も成(な)せない。

 だから、何とか実現可能な範囲(はんい)で妥協(だきょう)するのが“現実的”なはずなのに。

  

 もしかしたら“理想”って、いつの間にか現実すら侵食(しんしょく)してしまうものなのかも知れない。

 たとえば、現実の力リスマを信奉(しんぽう)するあの人たちは、その成功体験を追っていれば、いつか自分もそう(・・)なれるんじゃないかと、自分の未来に理想を視(み)ている。

 あるいは自分の叶わなかった夢を成功者に重(かさ)ねて、その人を現実以上に理想的に祀(まつ)り上げる。

 有名人が落ち目になった途端(とたん)、叩(たた)きまくる人が出て来るのって、そんな理想が“裏切られた”ように感じてしまう所為(せい)もあるのかも知れない。

 自分たちが勝手に抱(いだ)いた理想と、現実との“区別”がついていないから、そのバッシングを当然で正当な行為のように思い込んでしまうのかも知れない。

  

 理想に目が眩(くら)んだ人って、不思議だ。

 自分の言っていることが正しくありさえすれば、皆が言うことを聞いてくれると思っている。

 現実を知っていれば、人間が正論や理想より、一時(いっとき)の感情や欲望で動いていることなんて、明らか分かるはずなのにね。

  

 現実が視(み)えていない人って、不思議だ。

 自分の信じたいものばかり受け容(い)れて、あからさまな罠(わな)にあっさり引っかかる。

 今時、ちょっとズル賢(がしこ)い人なら、人間(ひと)の感情を煽(あお)ったり欲望をくすぐったりすれば利益(りえき)や世論誘導(せろんゆうどう)に繋(つな)がることくらい、誰でも知っている。

 だから、そういう動向(ムーブ)には最大限の警戒(けいかい)をしないといけないのに。

 煽(あお)られ、くすぐられた心の先の理想を、闇雲(やみくも)に信じ過ぎなんだろうな。

  

 現実を知るってことは、自分にとって嫌なこと、見たくないものからも目を背(そむ)けず、ちゃんと視(み)ることだって、ずっと思ってきた。

(とは言っても、あまりにドギツい真実は心が折れそうになるから、受け容(い)れやすい“コンテンツ”から、マイルドに薄(うす)まったものを味わってきた自覚(じかく)はあるけど……)

 この世界は、私の好きなこと、信じたいものだけで構成(こうせい)されているわけじゃない。

 そのことを忘れて、自分の受け容(い)れたいものばかり学んでいたのでは、“現実”を知ることにならない。

 ……そんなこと、誰に教わるまでもなく、当たり前に気づける“現実”だと思っていたのにな。

  

 世の中、不思議と“自分の目に映る理想”ばかり見つめて、他の人の目から視(み)た現実を、全く受け容(い)れない人が多い。

 異論(いろん)や疑問(ぎもん)の声を一切突(つ)っぱねれば、世界が自分の理想通りに再構成されるとでも思っているのかな。

 現実なんて、どんなに目を逸(そ)らしても、否定しても、依然(いぜん)として此処(ここ)に在(あ)るものなのに。

 理想に目が眩(くら)んで現実が視(み)えていない人たちは、この先この“現実”の中で、どうやって生きていけるのだろう。

  

 私はきっとまだ、全然この現実の全てを学べてなんかいない。

 だけどひとつだけ、現実を生き抜(ぬ)くために必要なスキルを、既(すで)に手に入れられている。

 それは、現実逃避の対極(たいきょく)に在(あ)るスキル。

 残酷な現実を知ることへの耐性だ。

 それがたとえ自分にとって不都合(ふつごう)な真実でも、心に傷を負(お)う真実でも、目を逸(そ)らさずに受け容(い)れること。

 

 きっと私のことだから、すぐには直視できずに、躊躇(ためら)ったり、グズグズ先延(さきの)ばしにしたりはすると思う。

 だけど最後には『これが現実なんだから、知らなきゃどうしようもない』で、何とか目を向けるんだろうな。

 これが出来(でき)るだけでも、きっと全然違う。

 だって、これが出来ないと、世界の現実を知らないまま、永遠に届かない理想に迷って、人生を無駄(むだ)にしてしまうから。

  

 現実逃避にどれだけ浸(ひた)っても、目が醒(さ)めれば、此処(ここ)はどこまでも現実の中。

 だから私は、現実と闘(たたか)う術(すべ)が欲しい。

 私の人生を、この“現実”の中で切り拓(ひら)く能カ(ちから)が欲しいんだ。

Copyright(C) 2026 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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