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第15話「母の設計図」

 翌朝、ギルドに勧告書を提出した。

 ハインツが受け取り、台帳に受理番号を記し、封筒を書庫の棚に収めた。淡々と。事務的に。けれどその手は確実で、この文書が消されることはないと——その指先が語っていた。


「なお、アークライト様。ギルド長より預かっている書面がございます」


 ハインツが封書を差し出した。ギルドの紋章入り。中を開くと——。


『王都大劇場改修設計委託書。建築ギルド登録番号三七四二 エリシア・アークライト殿に対し、王都大劇場の改修設計を委託する。期限は本日より六ヶ月。——ギルド長 マティアス』


 改修設計の委託。閉鎖命令ではなく——設計の委託。つまり劇場はまだ使用される。勧告書が出ても、即座に止まらない。委員会は閉鎖ではなく改修で対処しようとしている。制度の壁は——まだ、残っている。


 けれど。委託書が私の名前で出された。セドリックではなく、私に。


「ハインツさん。この委託は——ギルド長の判断ですか」

「マティアスギルド長と、アークライト家のレイモンド殿の連名推薦でございます」


 父。また父だ。表に出ず、裏で手を回し、声を出さずに道を作る。


 ギルドを出て、私はアークライト家に向かった。


「ここで待つ」


 オスカーが屋敷の前で足を止めた。門の内側には入らない。


「中に——」

「家族の話だ。俺がいる場所ではない」


 短く、けれど明確に線を引いた。私は頷いて、一人で門をくぐった。振り返ると、オスカーは三メートルほど離れた場所に立っていた。壁にもたれず、腕も組まず。ただ立っている。待つという姿勢で。


 父の書斎は、変わっていなかった。

 樫の本棚。地図と設計書。インクと古い紙の匂い。ギルドの書庫と同じ匂いだが、ここにはもう一つ——窓から差し込む午後の光と、埃の中に漂う、かすかな花の香りがある。母の匂いだ。


 製図机があった。

 書斎の隅に置かれた、古い樫の机。天板にインクの染みが残っている。鉛筆の跡。定規で引いた線の圧痕。私が夜遅くまで図面を引いていた場所——そのままだった。


 父は机に向かっていた。振り返った顔は、追放の朝と同じだった。感情を排した実務の顔。けれど——目の下の影が深くなっている。


「座りなさい」


 短い指示。私は製図机の椅子に座った。背筋を正しかけて——やめた。ここは現場だ。建築士として座る。


「委託書を受け取りました」

「そうか」


 沈黙。父は窓の外を見ていた。何かを言おうとして——言えずにいる。声を出さない人が、声を出そうとしている。


「……フローラのことを話す」


 母の名前だった。父の口から母の名前を聞くのは——何年ぶりだろう。


「台帳を見たのだろう。フローラの登録番号を」

「はい。登録番号一二〇八。グラオフェルト領主邸の設計者」


 父は頷いた。ゆっくりと。


「フローラは建築ギルドの登録者だった。私より先に登録している。私が建築を学んだのは——フローラからだ」


 母が、父の師匠。知らなかった。


「グラオフェルトの設計は、フローラの代表作だった。床下の温水路。換気の設計。あの土地の地下にある熱を読んで、暮らしに取り込む設計をした」


 父の声は平坦だった。けれど一文ごとに、わずかな間があった。言葉を選んでいるのではない。感情を抑えているのだ。


「フローラは現地に三年通った。設計と施工監理のために。最後の一年——咳が出るようになった」


 指先が冷たくなった。


「フローラの調査記録に、こう書いてある。『地下十二メートルの熱は地熱ではない。別の力が流れている。要継続調査。』——建築士として、あの熱の正体を突き止めようとしていた」


 地下十二メートル。龍脈。母はあの光を見ていた。名前をつける前に——体が先に壊れた。


「龍脈に長期間近づき続けたことが原因かどうかは——わからない。医者は肺の病だと言った。だが私は——」


 父の声が、初めて揺れた。


「——お前をあの土地に送るとき、わかっていた。フローラと同じ土地だと。同じ熱があると。だがあの時点で——断る選択肢が、私にはなかった」


 王家の命令。廃領管理の押しつけ。父には逆らえなかった。だから——代理管理証書を渡した。測量図を渡した。使える武器を持たせた。声を出す代わりに、道具を渡した。


「製図机を残したのは——」


 言いかけて、父は口を閉じた。しばらく経って。


「お前が帰ってくる場所を、消したくなかった」


 不器用だった。十年以上、母のことを話さず、建築の話を避け、私の図面を見て見ぬふりをして——それでも製図机を捨てなかった。フローラの記録を処分しなかった。


「お父様。龍脈のことは——私が引き継ぎます。母の『要継続調査』を」


 父は何も言わなかった。窓の外を見ていた。けれど——頷いた。小さく。確かに。


 書斎を出た。廊下を歩く。長い廊下。壁に掛かった絵。磨かれた床。この家に私の場所はまだあるのだろうか。ないのだろうか。——どちらでもよかった。私の場所は、もうここではない。


 門を出ると、オスカーがいた。

 三メートル先。さっきと同じ場所に立っている。動いていない。この人はずっとここで待っていた。


 三メートル。天井裏で密着した距離から——三メートル。近くもなく、遠くもない。家族の話に踏み込まない距離。けれど去らない距離。


「終わったか」

「……ええ」


 私の目が赤いことに気づいただろう。けれどオスカーは何も言わなかった。壁を見なかった。私を見なかった。ただ隣に並んで歩き始めた。三メートルが、一メートルに縮まった。肩は触れない。けれど——手を伸ばせば届く距離。


「改修設計の委託が来ました。六ヶ月」


「受けるのか」


「受けます。ただし——グラオフェルトに帰ります。改修設計はグラオフェルトでも進められる。図面を引くだけなら、どこでもできる」


 オスカーは——横を向いた。表情は見えなかった。けれど歩く速度が、ほんの少しだけ緩んだ。安堵だったのかもしれない。わからない。人の顔は読めない。


「グラオフェルトの龍脈と、大劇場の龍脈」


 歩きながら言った。頭の中で設計図が動いている。


「もし構造が似ているなら——グラオフェルトで学んだ制御の方法が、大劇場にも使えるかもしれない。『流す設計』で龍脈を制御できれば——」


「それは——お前にしかできない仕事だ」


 オスカーの声は静かだった。短かった。けれど、その一言が——父の沈黙より、ハインツの台帳より、委託書の文面より——深く響いた。


 王都を出る朝、霧はなかった。

 秋の空が高い。馬を並べて門を出る。グラオフェルトまで一日。

 懐には委託書と母の調査記録の写しがある。地下十二メートルの光を、母は「要継続調査」と書いた。私はその調査を——引き継ぐ。


 廃領に帰る。あの温かい床の上に。あの七人の食卓に。あの壁の中の声の元に。


 帰る場所がある。それだけで——馬の足が、軽かった。

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