パンツなき世界(ノーパンツ・ワールド)
「パンツは下半身の揺り篭だが、下半身が永遠に揺り篭に留まることはないだろう」
――――コンナチンチン・エニカイタラ・ツカマルスキー
◇ ◇ ◇
二十一世紀に盛んとなったノーパンツ運動は、やがて原理主義者を生み出した。
彼らは「パンツからの解放」を訴え、実力行使に出た。
同時多発テロである。
この暴挙によって人類は総パンツの半数を失った。
人々はテロに恐怖した。
それでも当時世界最大のパンツ消費国であったアメリカは「パンツの自由を守る」と抵抗を見せた。
しかし長い戦いは国民を疲弊させ、「フリチン・ファースト」と「メキシコの金で下半身に壁を作る」を公約とした大統領が当選するに至る。
そしてアメリカ大統領府は一つの声明を発表した。
「パンツがなければ履かなければいいじゃない」
世界がテロに屈した瞬間であった。
20XX年、世界のパンツは炎に包まれた。
この日から人々はパンツのない世界へと放り出される。
後にいう"大ノーパン時代"の幕開けであった。
◇ ◇ ◇
時代の荒波は日本も例外なく襲った。
「今こそ人類はパンツから離れる時なのだ!」
駅前に声が轟く。
「パンツに魂を縛られた人々よ! 忌まわしきパンツを脱ぎ捨てろ! パンツを捨て去れば君達を縛るものは何もない! 俊敏となった肉体と魂によって人は新たな段階に進めるのだ! ノーパンこそ最強だと示そうではないか!」
演説の主は日本の政界に彗星の如く現れたノーパン党の総裁、赤井。
アメリカのみならず欧州や中国、ロシアといった国々がノーパン化に舵を切る中、「パンツを脱ぎ遅れるな」という世論の追い風もあり、次の選挙でのノーパン党の圧勝は約束されていた。
その暁には赤井は総理となる。
もっとも、今となっては全ての政党がノーパン政策であり、ノーパン自体は争点ですらない。
それでもノーパン党の優位が揺るがない理由は、赤井総裁のカリスマ性に尽きた。
経歴不詳。
わかっていることは、十代からノーパン運動に身を投じていたことと、通常の三倍の速度で運動していたことくらいだ。
素顔は誰も知らない。常にマスクで目元を隠しているからだ。
口元と声質からかなりの美形と想像されており、それがカリスマ性に拍車をかけている。
そして今日もトレードマークの赤いジャケットを着て演説を行っている。
ただし、パンツは履いていない。
それどころかズボンすら履いていない。下半身は赤い靴下と革靴のみ。
ノーパン党総裁として隙のない出で立ちであった。
その赤井に、平均年齢高めの女性陣が黄色いと呼ぶにはやや低めの声援を送っていた。
「隠す場所が違うだろ」
傍目に見て悪態をついた男がいた。
「いや、顔を隠す方が正解なのか?」
悪態がすぐに疑問に変わった男の名前は安室四郎。
近所では有名な安室三兄弟の三男である。三男だが四郎であることは近所や同級生の間で様々な噂を生んだが、それはこの際いいだろう。
彼に関して特筆すべきことは一点しかないのだから。
彼はパンツフェチである。
このパンツ受難の時代に只々パンツを愛し、人生を捧げる男。
それこそが平凡なこの男をして非凡ならしめる唯一にして最大の特徴であり、パンツの新時代を拓いた救世主として後世に名を遺す男の本質であった。
もしも時代がパンツを認めていれば、彼は平穏のうちにその人生を終えていたことだろう。
そんな彼はノーパンへの熱狂から逃げるように、駅前の演説から去るのであった。
◇ ◇ ◇
この頃になると、パンツ排斥運動はもはや超法規的な扱いを受けていた。
直近の選挙で政権を握ることが確実なノーパン党を止める術はなく、公権力は彼らの不法行為を見て見ぬふりを――いや、むしろ積極的に加担する状態にまでなっていた。
社会はパンツと共に建前を脱ぎ去り、野放図へと走ったのである。
それでも人の多い駅前では流石に自重している。赤井総裁も若き政治家として理想を説いているのである。
しかし、一歩路地裏に入るとノーパン党は一変した。
「ヒャッハー! パンツは洗濯だぁー!」
表通りから一歩裏道に入ると、そこは修羅の国であった。
薄暗い路地裏に石鹸の匂いが充満している。
排水溝には色とりどりの繊維くずが詰まり、虹色の泡が汚水と共に流れていた。
パンツの成れの果てであった。
いかにもなモヒカン頭が人々のパンツを強引に剥ぎ取り、持参した桶と洗濯板で問答無用に洗うのである。
これでも穏健派だ。
海外では「消毒」と称して剥ぎ取ったパンツに漂白剤をかけるのが標準的であり、それが柄物だろうがシルク生地だろうがお構いなしに漂白するのである。
その一方で、ノーパン化が遅れた日本は隠れパンツ愛好者が多い。その炙り出しは諸外国に比べて苛烈であった。
「ほれほれ~、パンツを踏んでみろぉ~」
パンツが洗われている横では『踏みパンツ』が行われていた。
文字通りパンツを踏ませ、『隠れパンツたん』を見つけ出すのである。
『パンツたん』とは萌えキャラではない。パンツ愛好者の蔑称だ。
少しでも躊躇を見せたら最後、パンツを剥ぎ取られる。
「や、やめてくれ! パンツを取り上げられたら尿漏れパッドを使えないじゃないか!」
憐れにもパンツ狩りに遭った老人が抗議の声を上げるが、モヒカンはニヤニヤと笑って応じた。
「パッドを貼れないならおむつにすればいいじゃない」
原理主義者はおむつさえ認めないので、やはり彼らは穏健派なのだろう。
老人の近くでは母子連れがモヒカンに必死の訴えを起こしていた。
「娘は初潮を迎えたばっかりなのです! パンツを取り上げられたらナプキンが……」
「ほ~れ、タンポンだぞぉ~」
モヒカンは母親を無視して、タンポンを娘の目前で揺すった。
未開封のパッケージが陽光を鈍く反射する。
「オムツもあるぜぇ~!」
さらに別のモヒカンがオムツを少女に押し付ける。介護用の、大人向けのやつだ。少女の腰回りの三倍はある。
二人の無法者に絡まれた女の子は唇を噛み、目に涙を溜めていた。
『踏みパンツ』に『パンツの強奪』、『パンツの強制洗濯』や『タンポンの強要』。
その様は差し詰め、この世に姿を現した地獄であった。
路地裏は阿鼻叫喚の巷と化したのだ。
「ほら、テメェもさっさとパンツを踏みやがれ」
獄卒代わりのモヒカンが、新たな哀れな被害者に『踏みパンツ』を強いていた。
「……この外道どもが」
しかし、この時試されていた男は哀れな被害者などではなかった。
「あん?」
男の呟きが聞き取れなかったのかモヒカンが怪訝な顔をした。
男――安室四郎は怪訝な顔のモヒカンを真っ直ぐに見据え、静かに口を開いた。
「パンツの洗い方すら知らない無知蒙昧なお前らに教えてやろう」
「はぁ?」
「沖縄の古武術『手』。これに打撃音の『パン』を加えて『パンティー』となったのは常識だ」
常識ではなかった。人類の歴史上、そのような語源説が学術的に認められたことは一度もない。
だが四郎は微塵も揺るがなかった。
「今から本当のパンティーの使い方を教えてやる。かかってこい」
モヒカンの一人が隣の仲間に小声で訊いた。
「おい……パンティーって空手なのか?」
「知るかよ……」
困惑が路地裏を支配した。だが四郎は待たなかった。
懐に手を入れると一枚の布切れを取り出した。
「おい! テメェ!」
制止を無視。男は布切れを洗濯中のモヒカンに向けて投じた。
布は飛翔の最中に硬質化し、その真の姿を現す。
水色と白の横縞模様の女性用下着――パンツ。
それは洗濯板にパンツを擦り付けていたモヒカンの手に深々と刺さった。
「何をしやがる!」
叫ぶモヒカンの視線の先にいる男。
この漢こそが安室四郎であった。
琉球空手の達人。それが安室四郎のもう一つの顔であった。
いや、パンツフェチの方がもう一つの顔であろう。
いずれにせよ、碌な顔ではなかった。
パンツの刺さった手を押さえてモヒカンが絶叫する。
「て、テメェ! 何しやが――」
「黙れ」
四郎は静かに、しかし激情を宿した目でモヒカンたちを睨んだ。
その視線の先にあるのはモヒカンではない。洗濯板だ。
安物の木製洗濯板の上に押し付けられた色とりどりのパンツ。レースのあしらわれた女性物。使い込まれた男性用ボクサー。
そして、小さな――明らかに子供用のパンツ。
洗濯板のゴツゴツとした凹凸が、パンツの繊維を容赦なく毟っていた。
「……貴様ら」
四郎の声が低くなった。
「パンツは――手洗いでッ! せめてネットに入れてッ! そして陰干しだろうがァッ!!」
住民も、被害者たちも、そしてモヒカンでさえも、この瞬間だけは一つになった。
全員が思った。
怒るところ、そこか?
だが安室四郎は本気であった。
パンツは繊細な布だ。網目が粗い素材もあれば、シルクのように水にすら気を遣うものもある。
それを問答無用に洗濯板で擦るなど、もはや洗濯ではない。
暴力だ。
「パンツへの暴力は許さん」
四郎は懐に手を入れた。
取り出したのは一枚のパンツ。水色と白の縞模様。先ほどモヒカンの手に刺さったものとは別の一枚である。
つまり、この男は複数枚のパンツを常時携帯していた。
四郎はそのパンツを眼前に掲げ、高らかに宣言した。
「水色パンツ! 君に決めた!」
モヒカンの一人が叫ぶ。
「おい、こいつヤベェぞ! パンツに話しかけてる!」
ヤバくない要素を探す方が難しかったが、モヒカンなりの危機察知だったのだろう。
しかし遅い。
四郎が右腕を振るう。水色パンツは弧を描いて飛翔し、回転しながらモヒカン三人の頬を連続で打ち据えた。
バチン、バチン、バチン。
パンツは飛翔した軌道をなぞるように四郎の手元へ戻った。
「パンツブーメラン!」
声を上げたのはモヒカンであり、被害者であり、通行人であった。
全員が律義にも技名を叫んでいた。
「ブーメランだと? 失礼な」
四郎は心底不服そうな顔をした。
「琉球空手奥義・旋布三連撃だ」
モヒカンC「どう見てもパンツ投げただけだろ!」
「琉球空手だ。パンティーだ」
四郎は譲らなかった。頑として譲らなかった。
先ほどの語源説を補強する気満々であった。
「こいつ、パンツたんってレベルじゃねぇぞ!」
モヒカンたちが散開する。だが路地裏は狭い。逃げ場は限られている。
「ほぉら、次は誰だ」
四郎は懐から二枚目を取り出した。黒のレース。
「黒レース! 出番だ!」
今度は投げなかった。
四郎はレースパンツの両端を掴み、ピンと張った。即席の鞭である。
逃げるモヒカンの背中に向けて、しなりを利かせて振り下ろした。
パチィン!
と路地裏に乾いた音が響く。レース特有の網目構造が皮膚の表面を的確に捉え、モヒカンの背に赤い格子模様の痣を残した。
「琉球空手奥義・黒縄一閃」
「空手にパンツで鞭打つ技があるか!」
「ある。今お前が見た」
反論の余地がなかった。今見た。見てしまった。
三人目のモヒカンには別のアプローチを取った。
懐から取り出したのは大ぶりの男性用トランクス。花柄。
四郎はそれを両手で広げると、突進してくるモヒカンの頭にすっぽりと被せた。
「うわっ、前が見えねぇ!」
パンツで視界を奪われたモヒカンが両手を振り回す。
その無防備な腹に四郎の正拳突きが突き刺さった。
これは紛れもなく、正真正銘の琉球空手であった。
「琉球空手奥義・暗布封眼」
「最後の正拳だけだろ、空手の部分!」
「全部空手だ。パンツで目を塞ぐのも空手だ」
四郎の中では一切の矛盾がなかった。
「お前にはわかるまい」
四郎は残りのモヒカンに向き直った。
自然体。重心は低い。しかしその両手にはパンツ。
構えだけは完璧な空手家で、やっていることだけが完璧に変態であった。
「パンツを通して出る――俺の琉球空手の力が!」
モヒカンA「わからねぇよ! つーかそれ空手じゃねぇよ!」
即座にツッコまれたが四郎は意に介さない。むしろ不敵に笑った。
「そして俺のパンツが黄ばんでいることも知るまい!」
モヒカンB「知りたくねぇよ!」
今度のツッコミにはモヒカンだけでなく路地裏全体の総意が含まれていた。
知りたくない。誰もが知りたくない。
だが四郎は胸を張った。
「黄ばみは年輪だ。パンツと歩んだ日々の証。恥じることなど何一つない」
四郎は恥じていなかった。
周囲の全員が代わりに恥じていた。
だが恥と戦闘力は別である。
四郎の繰り出す「琉球空手」は的確にモヒカンたちを打ち倒していった。
投げ、鞭打ち、被せ、絞め、巻きつけ。パンツの数だけ技があった。
そのいずれもが琉球空手を名乗った。琉球空手の側に拒否権はなかった。
人類の歴史においてパンツで制圧された暴徒は前例がない。ノーパン時代のみが生み出し得た珍事である。
そして、最後の一人。
路地裏の壁際に追い詰められた最後のモヒカンは、仲間たちが次々とパンツの餌食になる様を見せつけられ、完全に腰が引けていた。
四郎がゆっくりと歩み寄る。
「く、来るなぁ!」
モヒカンが叫んだ。だが四郎は止まらない。
そして、モヒカンの眼前で立ち止まると、静かに告げた。
「お前はもうパンツを履いている」
「は?」
モヒカンは意味が分からなかった。
意味が分かる人間はこの場にいなかった。
だが、四郎は微動だにしない。
モヒカンは恐る恐る自分の下半身に目を落とした。
履いていた。
水玉模様のブリーフを、履いていた。
「な……なんだと⁉ い、いつの間に……⁉」
モヒカンが絶叫した。
自分はノーパンだったはずだ。ノーパン党の構成員として当然ノーパンだったはずだ。
それなのに、いつの間にかパンツを履かされている。
記憶にない。感覚もなかった。
なのに、現実として股間は水玉に包まれている。
「琉球空手奥義・無意識着衣」
「それは絶対に空手じゃねぇぇぇぇッ!」
魂の叫びであった。
しかし叫んだところでパンツは脱げない。いや、物理的には脱げる。だが恐怖で身体が動かないのだ。
得体の知れないものに対する、根源的な恐怖。
いつ履かされたのか分からないパンツほど怖いものはなかった。
最後のモヒカンは白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
路地裏に静寂が訪れた。
助けられた人々が四郎を見ていた。
尿漏れパッドの老人も。娘を抱きしめる母親も。怯えていた通行人たちも。
全員が四郎を見ていた。
そして全員が、四郎から一歩ずつ距離を取った。
「あの……ありがとう、ございます……?」
老人の語尾が疑問形だった。
致し方あるまい。パンツで暴漢を倒す男に対する適切なリアクションを、人類はまだ発明していないのだから。
四郎は感謝が欲しかったわけではない。
モヒカンを倒したかったわけでもない。
ただ、パンツを雑に洗う奴が許せなかった。それだけだ。
「……退がっていろ」
四郎が住民たちに背を向けた。
路地裏の奥から足音が近づいてくる。規則正しく、しかし異様に速い。
通常の歩行の――そう、三倍は速かった。
「シャアーーッ」
独特の呼気が路地裏に響いた。
赤いジャケット。白いマスク。下半身はフリーダム。
ノーパン党総裁、赤井。
演説を終えた彼が騒動を聞きつけて現れたのだ。
背後には先ほどまで黄色い声援を送っていたマダムたちがぞろぞろと続いている。
路地裏のキャパシティが心配になる光景であった。
「パンツに執着する者がまだいたとはな」
赤井は倒れ伏すモヒカンたちを一瞥し、次いで四郎を見た。
マスクの奥の瞳がどんな色をしているのかは分からない。だがその声には落ち着きと、僅かな興味が滲んでいた。
「パンツを愛して何が悪い」
「悪いとは言っていない。愚かだと言っているのだ」
赤井が一歩踏み出した。マダムたちがどよめく。
「人と人との間には壁がある。国境、言語、思想。だがな、最も原初的な壁が何か分かるか」
赤井は自らの下半身を示した。何もない下半身を。
「パンツだ。人はパンツを纏った瞬間から、互いを隔て始めた。パンツがなければ――人はわかり合えるのだ」
「わかり合えなくていい。パンツ越しでいい」
四郎の即答に赤井の眉が動いた。
「パンツ越し、だと?」
「ああ。全部さらけ出すことがわかり合うことだと思ってるなら、お前は何もわかっていない。隠すから想像する。想像するから思いやれる。パンツは人の心そのものだ」
「詭弁だな」
「詭弁で結構。俺はパンツフェチだ。最初から理屈で話してない」
会話が成立しているようで全く成立していなかった。
だが二人の間の空気は確実に張り詰めていた。
「ならば力で語れ」
赤井が構えた。
両腕をだらりと下げ、指先を僅かに開く。蛇拳。
全身のバネと指先の打突を駆使する拳法であり、その打点の読みづらさは尋常ではない。
四郎も構えた。琉球空手の基本形。腰を落とし、拳を腰だめに据える。
そして――右手にパンツ。
絵面の落差が凄まじかった。
「シャアッ!」
赤井が踏み込む。蛇拳の突きは通常の三倍の速度。指先が四郎の喉元を狙った。
四郎は首を傾けて躱し、同時にパンツを投擲。
「琉球空手奥義・旋布三連撃!」
だが赤井は身体を回転させて紙一重で回避した。パンツは赤いジャケットの裾を掠めるに留まる。
「遅いな。それが琉球空手か」
「……そうだが」
「空手に下着を投げる型があるとは寡聞にして知らない」
「ある。俺が作った」
赤井の美しい眉が僅かに歪んだ。困惑であった。
四郎のツッコミは届かない。赤井は既に二撃目を放っていた。
蛇拳の連打。低い姿勢から繰り出される打突は蛇がのたうつように軌道を変える。
四郎は琉球空手の受け技で凌ぎながら反撃する。
パンツを投げる。赤井が捌く。鞭打つ。赤井が躱す。被せようとする。赤井が払う。
旋布三連撃、黒縄一閃、暗布封眼。
モヒカンを倒した全ての「奥義」を繰り出したが、赤井にはことごとく通じなかった。
「パンツは闘いの道具じゃない」
赤井がパンツを弾きながら言った。
「それを武器にするお前もまた、パンツを穢しているのだ」
四郎の手が止まった。
穢している。
洗濯板でパンツを傷つけるモヒカンに怒りを覚えた自分が、パンツを投擲武器として使っている。
そこに矛盾はないのか。
「黙れ」
動揺を振り払うように叫んだが、赤井の蛇拳が四郎の腹を捉えた。
「がッ……!」
吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
背中に鈍い衝撃。肺の空気が一瞬で搾り出された。口の端から唾液が糸を引く。
蛇拳の浸透力は四郎の腹筋を貫通し、内臓を直接揺さぶっていた。
赤井がゆっくりと歩み寄った。
通常の三倍ではない。敗者に語りかけるように。
「パンツは文明の残滓だ。人類は裸で生まれ、裸で死ぬ。その間にパンツを纏うのは、己の肉体を、他者の視線を、社会の目を怯えているから纏うのだ。ノーパンとは恐怖からの解放。パンツからの卒業だ」
「卒業ね」
四郎は壁にもたれながら笑った。
「ご大層な理屈だ。だがな赤井。卒業ってのは、ちゃんと学んでからするもんだろう」
「何?」
「お前はパンツを知っているのか。履いて、洗って、干して、また履く。その繰り返しの中にある日常を知っているのか。知らないものから卒業はできない。それは卒業じゃない。ただの無知だ」
赤井の足が止まった。
マスクの奥で何かが揺れたように見えた。だが一瞬のことだった。
「戯れ言を」
赤井が再び蛇拳を構える。
四郎は壁に手をつき、立ち上がった。懐に手を入れる。
もうパンツは一枚しかなかった。
最後の一枚。
他のどのパンツとも違う。四郎が最も長く、最も深く共に歩んだパンツ。
使い古されたブリーフ。白であったはずの生地は歳月によって黄ばみ、ゴムは幾度かの交換を経て、それでもなお四郎の腰に寄り添い続けた歴戦の勇者。
安室四郎の愛用パンツである。
「……頼む」
パンツに語りかけた。一言だけ。しかしそこに万感が込められていた。
そして、投じた。
「琉球空手最終奥義――愛布一擲ッ!!」
黄ばんだブリーフが路地裏の空気を切り裂いた。
回転はこれまでのどのパンツよりも鋭い。
赤井は蛇拳で迎撃した。指先がパンツに触れる。弾こうとした。
だが弾けない。
「なにッ⁉」
パンツが赤井の指先に絡みついた。
長年の着用によって持ち主の「気」が染み込んだパンツは、もはやただの布ではなかったのだ。
パンツは赤井の手を弾き、軌道を変えて顔面に向かった。
正確には、マスクに。
パチンッ。
小気味良い音が路地裏に響いた。
白いマスクが宙を舞った。
静寂が降りる。マダムたちが息を呑んだ。
マスクの下から現れたのは、想像以上の美貌だった。
切れ長の目。通った鼻筋。形の良い薄い唇。
マスクで隠していたのが犯罪的に惜しい顔だ。
マダムの一人が失神した。
「隠す場所が違うだろ」と改めて思った四郎は間違っていなかった。
だが四郎が注目したのは美貌ではない。赤井の表情だ。
そこに浮かんでいたのは怒りでも驚きでもなく――動揺だった。
素顔を晒すことへの、純粋な羞恥。
隠したいという感情。それは、肌を覆うという行為の根源に他ならなかった。
「お前……隠したいんじゃないか。本当は」
赤井は答えなかった。
両手で顔を覆おうとし、しかし思い留まった。次期総理がそんな姿を見せるわけにはいかない。
だがその一瞬の逡巡を、四郎は見逃さなかった。
四郎は静かに、しかし確信を持って言った。
「赤井。お前は既にパンツを履いている」
路地裏が凍った。
マダムが固まった。モヒカンの残党が固まった。老人も母子も通行人も固まった。
赤井本人が固まった。
全員の視線が赤井の下半身に向いた。
何も履いていない。明確に履いていない。誰の目にも明らかに履いていない。
「……何を言っている」
赤井が低い声で問うた。
「見ての通り、私は何も――」
「そのマスクだ」
四郎は赤井の足元に転がった白いマスクを指差した。
「顔を隠したい。素顔を晒したくない。だから覆う。それはパンツと何が違う。隠したいものを布で覆う。お前はとっくにパンツの本質を知っていたんだ。ただ、履く場所が顔だっただけだ」
赤井の目が見開かれた。
反論しようとした。だが言葉が出ない。
マスクを外された瞬間の自分の動揺を、羞恥を、否定することができなかった。
隠したかった。覆いたかった。纏いたかった。
それはまさしく、パンツだった。
「…………」
赤井の沈黙は長かった。
しかし四郎はそれ以上何も言わず、代わりに懐から最後のアイテムを取り出した。
パンツはもう無い。ただ一枚を除いて。
いつかこういう日のために取っておいたもの。コレクションの中でも最上位に位置する逸品。
シルクの女性用パンツ。
淡い桃色。触れれば指先が溶けるような滑らかさ。縫製は完璧。レースのあしらいは控えめで品があり、しかし主張すべきところは主張している。
パンツ界のモナリザと四郎が個人的に呼んでいる一品であった。
無論、誰にも賛同されたことはない。
「履け」
「何を――」
「いいから履け」
赤井は反射的に受け取っていた。
シルクの感触が指先に伝わった瞬間、ざわり、と。
それは電流のようであった。
「……なんだ、これは」
赤井の声が震えていた。
指先から腕へ。腕から肩へ。肩から全身へ。
持っているだけだ。履いてすらいない。それなのに。
温かい。柔らかい。
まるで――守られているような。
「履くんだ」
赤井は無言でパンツに足を通した。
路地裏で。大衆の前で。次期総理候補が。女性用の。シルクの。パンツを。
客観的に見れば正気の沙汰ではない。
だがこの瞬間、路地裏の誰もが声を上げることができなかった。
シルクが肌に触れた。
赤井の目が見開かれた。
太腿の内側を滑る絹の感触。腰骨にそっと寄り添うゴム。肌と布の間に生まれる、薄くて温かい空気の層。
それは鎧ではなく、繭だった。
「これが……パンツ……」
驚き。戸惑い。そして――歓喜。
長い間忘れていた何かを思い出したような表情だった。
「これが……パンツの力だと⁉」
赤井の身体が光を放った――ように見えた。
実際に光ったわけではない。だが路地裏の全員が「光った」と感じた。
パンツ覚醒に科学的説明を求めること自体が無意味であろう。
「履き心地がパンツの全てではない……だが、これは……」
赤井の声は震えていた。
「温かい。包まれている。これは……安心、なのか」
「ああ。それがパンツだ」
「これほどのパンツを持っていながら――」
赤井は四郎を真っ直ぐに見た。マスクのない目で。
「なぜ貴様は一人でノーパンの時代に抗っている。世界を敵に回して、なぜ」
四郎は答えなかった。
代わりに、小さく笑った。
そして言った。
「それはまだパンツとは呼べないよ」
「何だと」
「お前が今感じているのは、パンツのほんの入口だ。シルクの肌触り。包まれる安心感。そんなものはパンツの表層に過ぎない」
「表層……だと?」
「パンツにはもっと深い世界がある。毎日履いて、洗って、干して、畳んで、また履く。その繰り返しの中で、パンツは持ち主の一部になる。俺の愛用が黄ばんでいるのは、それだけの時間を共に過ごした証だ」
「…………」
「お前が今履いているのは他人のパンツだ。しかも初めてのパンツだ。それでパンツを知った気になるな」
四郎は赤井に背を向けた。
「真のパンツとは何か。それは自分で見つけろ」
赤井は膝をついた。
通常の三倍の速度で崩れ落ちた。
蛇拳の達人にして、ノーパン党総裁にして、次期総理候補。その男が路地裏で、女性用シルクパンツを履いたまま膝をついていた。
その目には涙が浮かんでいた。
パンツの涙であった。
マダムたちが美貌と涙の組み合わせに嬌声を上げた。
モヒカンの残党が呆然と立ち尽くしていた。
老人が尿漏れパッドの心配をしていた。
母親が娘の目を覆っていた。
路地裏は混沌の坩堝であった。
◇ ◇ ◇
「あのさぁ」
沈黙を破ったのは名もなき通行人の一言であった。
「どっちも変態じゃね?」
路地裏の総意であった。
パンツを武器に闘う男。シルクパンツで覚醒した男。
片方は変態。もう片方は変態に目覚めたところ。
方向性は違えど到達点は同じだった。
「いや……赤井総裁、それ女物のパンツ……」
マダムの一人が現実に引き戻される。
冷静になれば、桃色のシルクパンツを履いた男が路地裏で泣いているのだ。
擁護のしようがなかった。
「まって、これ動画回ってない?」
令和のリテラシーを持ったマダムがスマホを確認する。
無論、回っている。二十一世紀において路地裏の奇行が記録されないわけがないのだ。
翌日のヘッドラインはこうであった。
『ノーパン党赤井総裁、路地裏で女性用下着を着用 ――党関係者「聞いていない」』
ノーパン党は緊急記者会見を開いた。弁明は不可能だった。
何をどう説明しても「路地裏で女性用パンツを履いて泣いていた」という事実は覆らない。覆いようがない。
覆うべきはパンツだったのだ。最初から。
赤井の政治生命は終わった。
次期総理確実と言われた男は「シルクパンツの変態」という肩書きと共に政界から消えた。
ノーパン党は赤井派と反赤井派に割れ、赤井派は「パンツとの共存」を模索し始めたが「ノーパンの党がパンツを語るのか」と冷笑された。
一方の安室四郎はといえば。
「あ、パンツ投げ変態の人だ」
「しっ、目を合わせちゃ駄目よ!」
近所での通称が確定していた。
『パンツ投げ変態』。やや直接的に過ぎる名称だが、事実しか含まれていないだけに反論のしようもない。
パンツを投げた。変態だった。以上。
裁判をしても勝てまい。
本人は「琉球空手家」と訂正を求めたが、誰も取り合わなかった。
「……畜生」
四郎は俯いた。
パンツを守ろうとした。パンツを愛するがゆえに闘った。
その結果が、変態。パンツ投げ変態。
悔しかった。
だがそれは、変態と呼ばれることへの悔しさではない。
「全部……ノーパン時代が悪いんだ」
四郎は拳を握った。パンツを投げずに、握った。
パンツを愛することが変態と呼ばれる時代。
パンツを纏うことが異端と見做される時代。
パンツを守ろうとすれば狂人の烙印を押される時代。
この時代そのものが間違っている。
だが時代は簡単には変わらない。赤井を倒しても、モヒカンを蹴散らしても、世界はノーパンのままだ。
それでも。
安室四郎は今日もパンツを履いた。
黄ばんだ愛用のブリーフに足を通し、ゴムを腰に合わせ、一つ頷く。
日課であり、儀式であり、彼なりの反抗であった。
◇ ◇ ◇
その後の世界について、少しだけ語っておこう。
安室四郎の路地裏の闘いは世界を変えなかった。
だが世界は勝手に変わり始めていた。
大ノーパン時代は続いた。
だが永遠に続くものなど何もない。パンツもまた然り。ノーパンもまた然り。
最初の兆候は北欧であった。
「やっぱり冬にノーパンは寒い」。
至極真っ当な意見だった。
理想と理念でどうにかなるものと、どうにかならないものがある。北欧の冬は後者であった。
ノーパン先進国を自負していたフィンランドでは、凍傷患者が前年比三〇〇パーセント増を記録し、国民保険の財政を圧迫した。
理想は高くとも、股間は冷たかったのである。
次いで中国。
世界最大の繊維産業を持つ国がパンツを作らないということは、巨大な雇用の喪失を意味した。
「パンツは内需だ」と経済学者が論じ始め、政府は「中国式特色あるパンツ復興」なるものを掲げた。
何が中国式で何が特色なのかは誰にも分からなかったが、翌月にはパンツ工場が再稼働していた。
思想はともかく、行動は速い国であった。
中東では宗教指導者が「そもそも我々は最初からパンツを肯定していた」と手のひらを返し、インドではヨガの新流派が「パンツを履いた状態の瞑想」を提唱して爆発的な信者を獲得した。
ノーパンを叫んでいた口がパンツを称え始める。
人類の節操のなさは、パンツの有無に関わらず一貫していた。
そしてアメリカ。
かつて「パンツがなければ履かなければいい」と宣言した国が、新たなスローガンを打ち出す。
「Make Pants Prevail Again」
通称MPPA。
マッパ運動と呼ばれた。
パンツ復権運動の略称が「マッパ」。
全裸を意味する俗語がパンツ復権の旗印に掲げられるこの矛盾を、指摘する者はいた。だが真面目に取り合う者はいなかった。
人類はパンツを脱ぎ過ぎた後に、言葉の意味まで脱いでしまったのかもしれない。
アメリカ大統領は赤い帽子の代わりに赤いパンツを頭に被ってMPPAの支持を表明した。
支持率は上がった。
民主主義とは何なのか、もはや誰にも分からなかった。
MPPA運動は瞬く間に世界に広がった。
パンツを脱いだ時と同じ速度で、人類はパンツに手を伸ばし始めた。
かつてパンツを燃やした広場で、今度はパンツの復権を祝う式典が開かれた。
演壇に立つ政治家の顔ぶれは、パンツを燃やせと叫んでいた頃と同じだった。
振り子のように。いや――螺旋のように。
パンツを脱ぎ、パンツを求め、また脱ぐ。
人類はそうして同じ場所を巡り続けるのかもしれない。
だが螺旋は一見同じ場所に見えて、少しだけ上へ向かっている。
少なくとも、パンツを知る者にはそう見えた。
◇ ◇ ◇
冒頭の名言を思い出そう。
「パンツは下半身の揺り篭だが、下半身が永遠に揺り篭に留まることはないだろう」
コンナチンチン・エニカイタラ・ツカマルスキーの言葉は正しかった。
下半身はいつか揺り篭を離れる。
だが揺り篭を離れた者は、いつかまた揺り篭の温もりを思い出すのだ。
それが人の性であり、文明の理であり、パンツの宿命であった。
大ノーパン時代はまだ終わっていない。
パンツの夜明けは遠く、その光はあまりに淡い。
それでも安室四郎は今日もパンツを履く。
明日もパンツを履く。
その営みだけが、彼にできるたった一つの革命であった。
◇ ◇ ◇
ノーパンツ・ノーライフ。
そう叫ぶ者たちに、この男はこう答えるだろう。
ウィズパンツ。
ウィズライフ、と。




