君が幸せになるまで
カリファン子爵家には、才能あるふたりの兄と、出来の悪い妹が居た。兄達は神童と言われ、妹は失敗作と呼ばれていた。
その娘の名はリナシェル。
兄達が優秀すぎたせいで、彼女はいつも失望の視線を向けられて育っていた。挙句に恋焦がれていた婚約者からの婚約破棄という最悪な状況がつみ重なった結果、リナシェルは少しばかり精神的に病んでしまった。そのような娘が何か出来る事といえば、どこかの家に売り飛ばす、もとい嫁がせることのみ。
リナシェルはそんな悲劇からの脱出と期待して嫁いでみれば、その場所こそ真の地獄だった。
リナシェルの嫁いだ先は、小児愛者で有名なゾル・オーエンの元だった。
リナシェルは14歳、ゾルはもうすぐ40歳になる。
ゾルはリナシェルに逃げられないように、屋敷の部屋に閉じ込めている。逃げようとすれば、見張りに捕まり鞭打ちされてしまう。合法的にリナシェルの部屋から出られるのは、ゾルの夜伽に出向く時だけなのだ。
ある夜。ゾルの自分勝手な欲の発散が終わり、彼女の自室へ帰っていた時のこと。長い廊下の窓から、美しい月の姿が見えた。
リナシェルはあまりにも綺麗な満月に、立ち尽くして眺めてしまっていた。そうしていたら、体中の痛みがすぅっと消えたように思えた。彼女はこの月は、自室の窓からでも見えるのだろうかと考える。
リナシェルは月が沈んでしまう前に、と素足で駆け出した。深夜特有の冷たい空気に、静寂がすぎる世界。リナシェルはそれが、好きだった。
誰かを起こしてしまわぬよう、リナシェルはゆっくり自室の扉を閉めた。そして急いで窓へと近付き、先刻の月を探す。満天の星が散る夜空に、どんどん傾いていく月。こんなにも美しい世界が終わってしまう前に、胸の前で手を握り、いつものように月に祈りを捧げる。
そして、加えてこうもお願いした。
「──お月様。どうかお願い。私に幸せを、少しだけでも与えてくださいますように」
鈴を転がしたような可愛らしい声。年相応な体、綺麗な白髪に金色の瞳。白い素肌には、ところどころの青あざがある。それが誰につけられたものかは、定かではない。
「ちゃんと見守っていて。どうか、お願いします──」
手をぎゅっと握り、それが本当になれと強く願った。
するとリナシェルは突然の睡魔に襲われた。彼女は逆らえずベッドに横たわる。小さな体に大きな布団を覆い、ひとり目を閉じ夜を手放した。
朝。鳥のさえずりが一日の始まりを告げる。
リナシェルは謎の暖かさに違和感を覚えたが、布団が移動したのだろうかと考え、四方八方に腕を動かし状況を探る。するとなにか、硬いものに手が当たったのだ。
まだ寝起きであるから、視界もかなり悪いし思考力も鈍い。そんな彼女に、今何が起きても夢だと錯覚するだろう。
「おはよう。よく眠れたかい?」
突如隣からする、男性の声。
リナシェルは目を見開き、それが気のせいではない事を確認する。
そこには金の髪を持ち、整った顔立ちをして、深い夜空のような紺色の瞳をこちらに向ける青年がいた。
これはさすがに、夢とは錯覚できない。
「え、あ、え、えぇぇぇぇ誰っ!? ですかっ!」
リナシェルは咄嗟に距離を取り、素性も分からない謎の男に何者かと問う。
明らかに不審者である男は、柔らかな笑みを浮かべながらこう答える。
「誰って、君がお願いしていたじゃないか。もしかして忘れちゃった?」
幸せな時間を頼んだはずが、見知らぬ男が届いてしまったこの現実に、リナシェルは混乱を解けずにいた。
つまり、どういうことかというと。
「ど、どういうことですか! とにかくベッドから降りてくださいっ!」
リナシェルは寝転がったたまの男を強引に外へ押し出そうとする。だがあまりにもリナシェルが非力であったので、男はビクともしなかった。
「ちょ、わかったわかった、わかったから。ベッドから降りればいいんだろう? 君から頼んできたのに、我儘な人だなあ」
「頼んでないですっ!」
金髪の男はようやくベッドから離れ、服のシワを叩いて伸ばす。
瞳と同じような青色を貴重としたローブを纏い、星の刺繍からして夜空をテーマとしているのがわかる。その格好はまるで、物語に出てくるような魔法使いそのものだった。
リナシェルは困惑しているが、コミュニケーションを取らなければ何も始まらないことを知っていた。なので彼女もベッドから降り、しっかりと距離を取った上で話しかけた。
「ど、どちら様、なんですか……?」
「そんなに名前が知りたい? いいよ、教えてあげても。僕はカイロス。君の魔法使いさっ」
「は、はあ……」
カイロスと名乗ったその男は、言動からしてかなりの変人らしい。
リナシェルはそんな胡散臭い男を信じることなく、とりあえず礼儀として名乗り始める。
「私はリナシェル・オーエンと申します。以後、お見知り置きを……」
「ははっ。丁寧な自己紹介をありがとう。でも大丈夫、知ってるから」
リナシェルが説明し難い不快感を感じたところで。
カイロスは勝手に彼女の部屋を歩き回る。棚や天井、クローゼットの中に入っているドレスなどをじっくりと、舐めまわすように見ていた。
「ふーん、君はいつもこれを着ているの? 随分と可愛らしいというか、幼すぎるというか。これとか、布面積が少なすぎやしないかな」
「や、やめてくださいっ!」
リナシェルは急いでクローゼットの扉を閉める。
頬を赤くしながら、彼女はこう話す。
「ご、ごめんなさい……。私、あまり人に見られるのが好きじゃないから……」
齢14という幼さで、既にいくつものトラウマを植え付けられている彼女。そのトラウマのひとつというのが、人からの視線である。
カイロスは理解が足りなかったことを詫び、これ以上彼女の地雷を踏んでしまう前に話をすり替える。
「──すまなかった。もうしないよ」
「…………」
「ところで、お腹が減ったなあ。何か食べるものはあるかな?」
カイロスは室内をぐるりと見渡してみる。だが質素な彼女の部屋に、食べ物らしきものは存在していなかった。
「あ、朝ごはんはもうすぐ届くと思います。だからその、少し待っていてください」
「ふむふむ、そうだったか。おっと、噂をすればだね。じゃ、僕は透明になって隠れておくから。またねっ!」
「と、透明っ?! 何を言って……」
すると彼の言った通り、カイロスはその場から姿を消した。今までの出来事が全て夢だと言っているかのようだった。
その数秒後、扉がノックされるといつものメイドの声がした。
「は、はーい。どうぞー……」
リナシェルは平然を装い、何事も無かったかのように振る舞う。
「おはようございます、奥様。本日の朝食でございます」
そう言って窓際にある円形の机に置かれたのは、カビが生えかけているパンひとつ。隣には申し訳程度の水が置かれていた。
リナシェルには慣れたものであった。それは朝食だけではない。無愛想なメイドも、残飯のような食事も、使用人以下の生活も。
メイドは朝食を届けたら、直ぐに部屋から出て行ってしまった。
「君、嫌じゃないの」
メイドが居なくなったと思えば、突如隣に姿を現すカイロス。リナシェルは不思議と驚かなかった。
「……はい。大丈夫です。慣れましたから」
「ふーん、そ。でも僕はそんなの食べたくないから」
「は、はあ。でも、それではカイロス様のご飯がありませんね……」
リナシェルは困った顔を浮かべる。
「そんなに心配しないで。なんてったって、僕は魔法使いだからね」
何を言っているんだ、と心の中で思うリナシェル。
「あ、今何言ってるんだって思っただろう。じゃあ、そうだな。リナシェルは今、何か食べたいものはあるかい?」
「そ、そんな急に言われても……。なら、これよりも柔らかいパンが食べたいです」
彼女は鉄皿に乗ったパンに指をさす。それは少しの挑発に近いようなものだった。本当に魔法が使えるのなら、と。
「はぁ、もっと豪華な物の方が……まあいいか。それじゃあ、よく見ててね」
カイロスはそう言えば、自身の胴の前に右手を出し、手のひらを広げた。
すると突然、彼の手のひらから金色の光が湧き上がる。まるで星のような光が、静かに形を成してゆく。
リナシェルは驚きの光景に、目が離せなかった。美しい光に、無意識に吸い寄せられるように見惚れていた。
その後、それは強く発光する。
「きゃっ!」
その光に眼をやられる前に、リナシェルは反射的に目を瞑った。
そして目を開けると、彼の手のひらには小麦の香ばしい匂いを漂わせた丸いパンがあった。
「……すごい、それ、一体どうやって……」
「言っただろう? これは魔法さ。何もないところから、何かを生み出す不思議な現象。ほら、すごいだろう!」
リナシェルは認めざるを得なかった。
これは魔法だ、神話に出てくるような神の御業なのだと。
カイロスは生み出したパンを半分に割り、リナシェルに片方を差し出した。
「はい、どうぞ。一緒に食べようじゃないか」
「……あ、ありがとうございます」
彼の優しい微笑みに、リナシェルは心を撃ち抜かれたような衝撃を覚える。
大きな手、大きな体、魅力的な声に、思わず意識は目の前の好青年にいってしまう。優しくされたことがあまりないリナシェルは、思いやりを感じるだけでものすごく嬉しくなってしまうのだ。もちろん、例外など存在しない。
まあ今のところ、好感度が少し上がっただけなのだが。
「……うん、美味しいね。どう? なかなか良い出来だと思うけど」
「おいしい、です。ほんと、すごく美味しい!!」
ひと口かじっただけで、彼女は瞳を輝かせながら再びパンをかじる。その勢いはものすごく、カイロスがパンを食べ始める前にリナシェルは完食してしまった。
彼はリナシェルの食べっぷりを、まるで何日も食事を食べていない人がようやく食べ物を手に入れたように見えたのだ。だから自分の空腹を差し置いて、持っていたパンをリナシェルに渡す。
「君がそんなにお腹を空かせていたとはね。ほら、僕のも食べたらいいよ」
「え、でも……」
「遠慮しないでくれ。そもそも僕は、ここにご飯を食べに来たわけじゃないから」
リナシェルは遠慮したい気持ちがあったが、やはり彼女の持つ食欲が勝ってしまったらしく、申し訳なさそうな顔でパンを受け取った。だがすぐにかじりついて、一瞬で食べきってしまったのだが。
「美味しかったかい? それは良かった。君が望むのなら、もっと豪華な食事を用意するのだけど」
「いえ、大丈夫です。きっと私はそんなの、食べられないから」
「そうか。まあ何でもいいさ。君が望まないのなら、僕も望まないよ。なんてったって僕は、君を幸せにする為にやって来たのだからね」
リナシェルは月に願った『幸せを与えて欲しい』というものが、このような形で叶えられるだなんて思っていなかった。なので拍子抜けして、あからさまに肩を落とした。
「変なお兄さんじゃなくて、もっと違うのが……」
「ははっ。残念だけど、君には我慢してもらうよ。僕は君の願いを叶えるまで、ここに残らなければならないから」
リナシェルはあまり理解ができなかった。首を傾げ、もう少し詳しい説明を求めた。
「えっと、つまり?」
「そのままだよ。僕は願いを叶えに来ただけさ。だけど1個しか叶えられない。何でもいい、何でも出来るよ。王様になりたいとか、空を飛びたいとか、何だっていい。それで君が"幸せ"になるんだったらね。僕はそのひとつの願いを叶えるまで、帰れないんだ」
リナシェルは何となく概要を掴めたらしい。なんだか、彼が幸せにしてくれるという解釈の仕方は違うような気がした。
「そうそう。言い忘れたけど、願い事の数を1個から増やせってのは無理だ。それはズルだからね。それ以外だったら何でも言ってくれたまえ」
「なら──私が死ぬこともできるの?」
驚きの発言に、カイロスは思考を一時停止してしまった。冗談だろう、と言いたかったところだが、リナシェルの瞳を見る限り本当らしい。
「君は、幸せになりたくて僕を呼んだんだろう? いいのかい、そんな願いで」
「────」
リナシェルは、常に浮かべていたカイロスの笑顔が段々曇っていくのを感じた。それだけではない。声の音色も、細められた目元も、憤りや失望のような感情を向けられてると感じたのだ。
「ご、ごめんなさいっ。変なこと、言っちゃった。あの、許して。ごめんなさい、もう言わない、から……!」
焦って発言を撤回するリナシェル。
そんな焦りをなだめるように、カイロスは落ち着いた声でこう語った。
「いいかい、リナシェル。しっかり考えるんだ。君が本当に求めているものを。急がなくてもいい、僕はずっといる。だから落ち着いて、よく考えてから教えてくれないかい?」
「あ……う、うん……ごめんなさい」
「謝る必要はないさ。焦ることも、遠慮することもやめてくれ。ただ君は、叶えたい願いが何か考えることに集中するといい」
膝立ちになり、リナシェルと同じ目線でそう話したカイロス。
リナシェルは落ち着きを取り戻し彼の言葉をしっかりと受け止め、小さくコクリと頷いた。
「うん、偉い。じゃ、僕はこれで。また夜に会おう」
そう言い残し、彼は少女の返答も待たず光となって消えてしまった。
「……何だったんだろう」
不思議な人だった。何がなんだかよく分からないから、リナシェルは今までの出来事を現実と捉えてはいなかった。だが自由気ままな彼との時間は、案外悪くなかったらしい。
けれどもリナシェルの体には、この数十分で大量の疲労感が生まれてしまった。
やることもない彼女は、すこし寝ることにしたらしい。
太陽は沈み、ようやく夜がやって来た。
日付はあと数分で変わるとともに、リナシェルの奉仕の時間がやってくる。
嫌だ、なんて口に出せばすぐに拳が飛んでくる。だから自分感情を殺すしか、耐える方法はなかった。
長針があと2回動けば、ゾルとの約束の時間がやってくる。
昨晩ゾルに言われた通り、リナシェルは橙色のレースランジェリーを着用する。貧相な体に大人っぽいその下着は、リナシェルに似合わなかった。
カチ。
長針が動く。あと1回だ。
鏡を見て、身なりを整える。
目を瞑り、深呼吸をする。嫌な感情を吐き出し、彼女が無になる為に必要な動作だ。心を殺し、涙を堪え、時計の針が動くのを待つ。
そして、カチ。
午前零時を告げる鐘がなる。部屋中に、絶望を撒き散らすようにそれは鳴るのだ。
「やあ、こんばんは。何処に行くのかな」
「ひっ! び、びっくりしたあ……」
ドアノブに手をかけたその瞬間、後ろから男性の声がした。そのせいで、殺していたはずの感情が蘇ってしまった。
カイロスは朝と何ら姿は変わっていなかった。強いて言うならば、夜空を模したローブがよりいっそう綺麗に見えるようになったくらいだろう。
「……そんな格好、君みたいな女の子がしてはダメだと思うけどなあ」
「それは……旦那様が喜んで下さるので。ええと、では、時間ですので失礼しますね」
「それの事だけど、今日は行かなくていいと思うよ。だって、ほら」
魔法使いが指を鳴らせば、屋敷のどこかから悲鳴が聞こえてきた。
「きゃぁぁぁぁあ!!! 旦那様がぁぁあ!!」
メイドの甲高い叫び声が屋敷中に轟き、どしどしと人々か走り回る音がした。
「えっ、何が……?」
リナシェルは外の様子を確認しようと、ドアノブに触れた。
だがふと、彼女の頭を過ぎったのだ。
『このままにしたら、自分は解放されるのでは』と。
そう思ったら、まるで開ける気が失せてしまった。
「どうするかは君次第さ。どう? 今なら僕達、何しても何も言われないかもねっ」
カイロスが視線を向けた先は、窓の外にある星空。
抜け出さないか、と彼が言っている気がして。
「魔法使いさん。少しいけない事を言ってもいい、ですか」
「なんなりと、お姫様」
「私をここから……連れ出して、もらえませんか……」
リナシェルは、震えた声でそう言った。
一夜の夢。これはただの夢だから。
こんなこと、現実なわけないから。だから、ここから逃げたって叱られないだろう。誰も困らないだろう。
「それは、君の願い?」
「……まだ、わかりません。でも」
リナシェルは俯く。
「でも……ここにいたら私、幸せになれないと思うから……」
その言葉を聞いた瞬間、カイロスは嬉しそうに笑った。
「そっか。よく言えたね、リナシェル。いいだろう。そうと決まれば、僕が最高の場所へ連れて行ってあげるよ!」
カイロスはそう得意げに言いながら、リナシェルを軽々と両手で抱え上げた。お姫様抱っこ、というやつだ。
流れ作業のように持たれてしまったので、リナシェルは驚く暇もなく。
「準備はいい? いくよっ」
カイロスが言うと同時に、窓が勢いよく風によって開けられた。
「捕まってて、落ちないようにね」
開いた窓から、カイロスは大きく飛んで空を飛んだ。
リナシェルの白い肌に、冷えた空気が刺激した。だがそんなことは気にするまでもない。下を覗けば、段々と小さくなっていくゾルの屋敷や街の灯り。上を見れば、少しずつ大きくなっていく月の姿があった。
「すごい、綺麗……」
満点の星空に、リナシェルは目を輝かす。
空いた口が塞がらないとはまさにこの事。
リナシェルの好きな世界が、視界いっぱいに広がっていた。
「綺麗だろう? 君も飛んでみるかい?」
「わ、私は別に……怖いから」
「そう言わずに。たまには飛び込んでみなよ、ほらっ」
その瞬間、カイロスはリナシェルから手を離す。
すると当然落下する、と思いきや。
「ひゃあぁぁあっ! ──ってあれ、落ちてない……?」
魔法というのは、物理法則までもねじ曲げてしまったらしい。
リナシェルはその場に留まっていた。仰向けのまま、ひんやりとした空にふわふわと浮いていたのだ。
「浮いてる……浮いてる! すごい! 浮いてるーっ!」
彼女は体を色々な体勢に動かしてみる。もう空の飛び方を心得たようだ。
リナシェルは、この大きな夜空を飛び回る。腕を広げ鳥のように滑空すれば、風を切り髪を靡かせ自由を謳う。
カイロスは、愛らしそうにそれを見守っていた。
「ねえ、カイロスさん。そういえば、あなたはどこから来たのですか?」
「それは……君がいつも、見ているところから」
少し考えた後、リナシェルの視線は大きな半月へと移る。
「それって……月から来たってことですかっ?!」
「そうだよ。月の国から、はるばる君を救いに来たのさ」
「わざわざ、私を救いに……。どうして私なんですか? きっと他に、困っている子もいると思います」
自分だけがこんな思いをしていいのだろうか、という後ろめたい気持ちがリナシェルには存在していた。
幸せになりたいと願ったけれど、幸せになってはいけない気がしてたまらないのだ。
「それは君が考えていい事じゃないよ。まだ子供だろう? 君はまだ、自分の事だけ考えてればいい。むしろ自己中であるべきだ! もちろん、限度はあるけれどね」
「……そっか。私の事だけ、か……」
リナシェルは自分の小さな手のひらを見つめ、自身がまだ小さな子供だと言うことを再認識した。周りよりも少しばかり達観しているだけの、子供ということを。
「カイロスさん、本当にありがとうございます。こんな体験できると思っていなかったですから。すごく、嬉しいです」
ようやくリナシェルは、年相応のあどけない笑顔を見せた。
カイロスは目を丸くした。ずっと見守ってきた少女から、ようやく笑顔を引き出せたのだ。それが彼にとってはたまらなく嬉しくて、大きな達成感を覚えた。
「──はあぁ、良かったぁ。やっと笑ったよ……。君って全然笑わないから、そういう機能が付いてないんじゃないかって……」
「し、失礼な! 私だって、ちゃんと笑えますよ! ただ、笑ってもいい時がないだけで! もしやカイロスさん、よくデリカシーが無いって言われませんか?」
「ははっ、そうだね。ごめんごめん。よく言われるよ。気を付けてはいるんだけどね」
リナシェルは心の中で願う。この時間が永遠に続きますように、と強く願った。
「──それで、願い事は決まった?」
「えっ。ああ、願い事……」
思考を見透かしたような問いに、リナシェルは少し慌てた。
「君は今、自由だ。自由になった今、君は何を望む?」
「……帰っても、私の居場所はありません。だから帰りたくないです。でも帰らなかったとしても、私は何をしたらいいのか分からなくなります」
リナシェルは目を伏せ、模型のような街を見下ろした。
こんな自分が出来ることを、考えてみながら。
「でもやっぱり、昨日よりも今日の方が楽しかったんです。死にたかった日々が、今日この時のお陰で死にたくなくなっちゃったんです」
「……それはよかった」
「だから、カイロスさんみたいになりたい。誰かに生きる希望を与えられる、かっこいい人になりたいです!」
願いというよりも、それは夢であり目標なのだろう。
リナシェルにとって、初めて将来を想像した瞬間である。
カイロスはその告白を受け入れ、目の前の小さな少女に助言を呈す。
「そうか、僕みたいなかっこいい人……ね。ありがとう、リナシェル。でもそれだと、君は幸せになれないかもしれない。もっと、君中心の願いにしなよ」
「なら、お願いです! 私も月の国に連れて行って!」
「ちょ、ちょっと待って。僕の話聞いてた? それだと君は幸せにはなれないから──」
「なら、カイロスさんは幸せじゃないの?」
核心的な質問をされたカイロスは、いつもならベラベラと出てくるはずの言葉が急に出てこなくなった。
幸せか、幸せじゃないかなんて分からなかった。そんなこと、考えたこともなかったのだ。
星は静かに煌めき、月は沈黙を貫く。
「……わからないな」
カイロスは苦笑する。
「でも、君が笑ってるのを見るのは、嫌いじゃない」
おそらくそれは、カイロスの本心。
続けて彼は、心の内を吐露していく。
「リナシェル。実は僕、ずっと昔から君の事を知っていたよ。君は昔から、月に祈ってくれていたよね。自分ではなく、人々の幸せを祈っていた。でもこの前、君は初めて自分のために祈ったんだ。それがすごく、びっくりしたんだ」
リナシェルの根底には無償の愛があった。
他者を想う気持ちを込めた毎日の祈りは、月にしっかりと届いていたのだ。
カイロスは淡々と話す。
「人の事を想うんだから、その子はもっと良い思いをしてるんだろうな、って。だけど、君を覗けばそれは全く違ったんだ。驚いたよ、それはもう。君ほど不幸な人が、人の幸せを願うなんて馬鹿じゃないのかってね。だから興味が湧いて、ずっと見てたんだよ。君の事を」
リナシェルはずっと、月に見守られていた。
知らなかっただけで、願いは届いていたのだ。
「……自分の思いを言葉にするって、難しいな」
カイロスは照れくさそうに、月に顔を向ける。
月光は何も言わず、ただふたりを照らしていた。
「でもね、そんな君が笑っているところを間近で見たらすごく安心したんだ。もしかしたら、これが僕にとって──幸せ、なのかな」
星の中で見つけた、彼にとっての『幸せ』。
それと同時に、彼女も『幸せ』を見つけた。
「……私、やっぱりカイロスさんみたいになりたい。今、人を幸せにできたってわかった時、私の心がすごく暖かくなったんです」
星の海は、まるでふたりを祝福しているかのように光り輝いていた。
そしてリナシェルは決意する。カイロスに向けて、自分の本当の思い伝える。
「カイロスさん、私もあなたみたいになりたいです!」
「──まったく、頑固な子だ。後悔しても知らないからね!」
♦♦♦
「はぁ、っ、はぁっ、はぁっ!」
その密室は、あまりにも空気が冷めていた。
少年の呼吸は、どんどん乱れていく。
焦り、動悸、絶望。体の震えは増すばかり。
「死んで……やるっ!」
落ち着かない手で、短剣を自分の喉元に向けた。
あと少しの勇気さえあれば、それは少年の未来を断ったいわく付きのものとなる。
「──でも、そうしたら君は幸せじゃなくなっちゃいます」
「……! な、なんで……鍵を閉めてたはず……」
白髪を揺らし、微笑みながら少年に声をかけた白いローブを羽織る女性。金色のつぶらな瞳は、汗まみれの少年を捉える。
「た、助けるなよ俺を!! ほっといてくれ!」
「でも君、今死にたくないって思ったじゃないですか。だから、助けに来ましたよ」
「そ、そんなの思ってない……! 俺は死ぬんだ!」
少年は声を荒らげ、ナイフを女性へと向ける。
だがその人は表情ひとつ変えず、向けられたナイフに魔法を使う。
指をぱちん、と鳴らせばご覧の通り。
「ひぃっ! な、なななナイフが……パンにっ!」
「改めまして、私はリナシェル。君を幸せにするためにやって来ました!」
上の小窓から差し込んだ月光は、これから始まる物語を読む読者かのように、ふたりを照らした。
──そう、月は彼女らを見守っているのだ。




