第2幕:世界の拡大 シーン1:最初の放課後(距離の始まり)
放課後のチャイムが鳴った。
教室の空気が、一斉に緩む。
椅子の脚が床を擦る音。
鞄のファスナーを閉める音。
笑い声。
日常が、動き出す。
鹿間斎は、しばらく動かなかった。
人の流れが落ち着くのを待つ。
いつものことだった。
誰かと同じタイミングで立ち上がれば、ぶつかるかもしれない。
触れてしまうかもしれない。
だから、最後に動く。
全員が出ていってから。
世界が、安全になってから。
数分後。
教室には、もうほとんど人がいなかった。
鹿間は、静かに立ち上がる。
黒い手袋を確認する。
問題ない。
鞄を持つ。
肩にかける。
そして、出口へ向かう。
その時だった。
「鹿間くん」
声。
鹿間の足が止まる。
振り向く。
水無月ひかりが、そこに立っていた。
窓からの光を背にして、
こちらを見ている。
「一緒に帰ろう」
あまりにも自然に、彼女は言った。
鹿間は、答えなかった。
答えられなかった。
意味が理解できなかった。
一緒に帰る。
誰と?
自分と?
なぜ?
「……」
言葉が出てこない。
喉が閉じる。
心臓が、ゆっくり速くなる。
近い。
すでに、近い。
この距離でも、近すぎるのに。
一緒に帰るなんて。
無理だ。
危険だ。
壊すかもしれない。
拒否しなければならない。
鹿間は、口を開く。
「あ……」
しかし。
言葉が続かない。
なぜ断るのか。
説明できない。
触れると壊れるから?
そんなこと、言えるはずがない。
鹿間は、視線を逸らした。
「……」
沈黙。
水無月は、気にした様子もなく、
「鹿間くん、こっちだよね?」
と、廊下の先を指さした。
鹿間の帰る方向だった。
偶然か。
それとも。
鹿間は、わずかに頷いた。
それを、肯定と受け取ったらしい。
「よかった」
水無月は笑った。
「じゃあ行こ」
そして、歩き出す。
鹿間は、動かなかった。
置いていかれる。
その方がいい。
その方が安全だ。
なのに。
足が、動いた。
彼女の後ろを、歩き始めていた。
廊下。
夕方の光。
二人の影が伸びる。
鹿間は、距離を測っていた。
一歩。
二歩。
三歩。
約二メートル。
安全圏。
それ以上は、近づかない。
水無月は、振り返った。
「鹿間くんってさ」
言う。
「変わってるね」
心臓が跳ねた。
来た。
拒絶。
否定。
そう思った。
だが。
彼女の顔は、
笑っていた。
興味深そうに。
不思議そうに。
ただ、それだけだった。
「なんかさ」
彼女は続ける。
「いつも距離あるなーって思ってた」
鹿間は、答えない。
答えられない。
距離があるのは、
理由があるからだ。
触れないために。
壊さないために。
水無月は、前を向いた。
「でも」
少しだけ、間を置いて、
「別に嫌いとかじゃないよ」
そう言った。
鹿間の足が、わずかに止まりそうになる。
嫌いじゃない。
その言葉が、
理解できなかった。
なぜ。
変なのに。
気持ち悪いはずなのに。
避けるべきなのに。
なぜ。
嫌いじゃない。
水無月は、何も気にせず歩き続ける。
鹿間は、その後ろを歩く。
二メートルの距離を保ったまま。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
その距離は、
縮まらない。
まだ、
縮まらない。
鹿間は、自分でも理解できない感覚を抱いていた。
恐怖。
それは、確かにある。
だが。
それだけではなかった。
なぜ、
この距離を保ったまま、
歩き続けているのか。
なぜ、
離れないのか。
分からなかった。
分からないまま、
彼は、
彼女の後ろを歩き続けていた。




