シーン8:第一転換点 ― 興味の誕生
放課後の教室は、空っぽだった。
少し前まで満ちていた声は消え、
机と椅子だけが、整然と並んでいる。
窓の外では、夕日が傾き始めていた。
赤い光が差し込み、
床に長い影を作っている。
鹿間斎は、自分の席に座ったまま動かなかった。
帰る理由を、忘れていた。
いや。
帰る必要を、感じていなかった。
静かだった。
誰もいない。
触れるものがない。
安全なはずの場所。
なのに。
心臓だけが、落ち着かなかった。
鹿間は、ゆっくりと右手を持ち上げた。
黒い手袋。
見慣れたはずのもの。
ずっと前から、
自分の一部だったもの。
視線を落とす。
手のひらを見る。
布の表面。
何も変わっていない。
破れてもいない。
汚れてもいない。
ただの、手袋。
だが。
思い出す。
昼間の感触。
触れられた瞬間。
白い指。
柔らかさ。
温度。
確かな、接触。
鹿間の指が、わずかに動く。
震えるように。
確かめるように。
「……なぜ」
声が、落ちた。
誰もいない教室に、溶ける。
壊れなかった。
壊さなかった。
壊れてしまうはずだった。
今まで、ずっとそうだった。
触れれば、終わった。
触れれば、消えた。
触れれば、戻らなかった。
なのに。
なぜ。
彼女は。
水無月ひかりは。
壊れなかった。
鹿間は、手袋の端に触れる。
外そうとして――
止まる。
外せない。
外してはいけない。
それは、恐怖だった。
だが。
それだけではなかった。
別の感情が、あった。
初めての感情。
理解できない感情。
知りたい。
そう思った。
恐怖ではなく。
回避でもなく。
ただ、純粋に。
知りたい。
鹿間は、顔を上げる。
視線を動かす。
隣の席。
水無月ひかりの席。
椅子は、机の中にきちんと収まっている。
何も残っていない。
もう、いない。
それなのに。
そこに、まだいる気がした。
笑っている気がした。
「手袋、あったかそうだね」
声が、蘇る。
鹿間は、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
初めて。
恐怖ではなく。
回避でもなく。
拒絶でもなく。
別の理由で。
誰かのことを考えていた。
水無月ひかりのことを。
壊れなかった存在のことを。
知らないはずの可能性のことを。
夕日が、手袋を赤く染める。
まるで、
境界が溶けていくように。
鹿間は、彼女の席を見続けた。
動かずに。
長い間。
そして。
心の奥で、
言葉にならない衝動が、
静かに形になる。
――もう一度、触れてみたいと思った。




