シーン7:フック事件 ― 接触
午後の授業は、ゆっくりと進んでいた。
教師の声が、一定の調子で教室を満たしている。
黒板を叩くチョークの音。
紙をめくる音。
ペンの走る音。
すべてが、日常の音だった。
鹿間斎は、ノートを取るふりをしていた。
実際には、ほとんど書いていない。
意識の大半は、隣にあった。
水無月ひかり。
彼女は、普通に授業を受けていた。
特別なことは何もしていない。
ノートを取り、
黒板を見て、
時々、小さく頷く。
ただ、それだけ。
それだけなのに。
近い。
近すぎた。
袖が触れそうな距離。
髪が揺れれば、届きそうな距離。
鹿間は、身体をわずかに壁側へ寄せていた。
気づかれない程度に。
距離を確保するために。
その時だった。
コトン。
軽い音がした。
水無月の手から、ノートが滑り落ちた。
「あ」
小さな声。
ノートは、机の縁を叩き、
床に落ち、
鹿間の足元まで滑ってきた。
止まる。
境界線の内側に。
鹿間の世界の中に。
水無月が、身を乗り出す。
「ごめん、ちょっと――」
拾おうとする。
手が伸びる。
白い手。
無防備な手。
鹿間の呼吸が止まる。
距離が――
近い。
水無月の指先が、ノートに触れる。
その瞬間。
バランスを崩した。
「っ」
身体が傾く。
支えを探すように、
もう片方の手が、
空中をさまよう。
そして。
触れた。
鹿間の手に。
黒い手袋の上に。
白い指が。
触れた。
――触れた。
時間が止まった。
心臓が、打つのを忘れる。
呼吸が、消える。
思考が、凍る。
壊れる。
そう思った。
壊す。
また。
壊す。
――フラッシュ。
小さな手。
自分より大きな手。
優しい声。
名前を呼ぶ声。
触れて――
――崩れる。
光。
音。
叫び。
――暗転。
教室に戻る。
水無月の手が、
まだ、
触れている。
壊れていない。
消えていない。
崩れていない。
存在している。
形を保っている。
温度がある。
「……え」
鹿間の口から、かすれた声が漏れた。
水無月が、顔を上げる。
鹿間を見る。
近い。
初めて、こんなに近くで目が合う。
「あ、ごめん」
水無月は、すぐに手を離した。
何事もなかったように。
ノートを拾う。
席に戻る。
そして。
鹿間の手を見る。
「手袋、あったかそうだね」
笑った。
いつもの笑顔。
何も知らない笑顔。
壊れることを知らない笑顔。
鹿間は、動けなかった。
手を見る。
自分の手を見る。
黒い手袋。
その表面。
さっきまで、
触れていた場所。
何も起きていない。
変化はない。
世界は、そのまま続いている。
理解できない。
なぜ。
壊れない。
なぜ、
壊さなかった。
鹿間の呼吸が、ゆっくり戻る。
恐怖ではなかった。
違う。
もっと、別のものだった。
困惑。
初めての感覚。
世界が、自分の知っている世界ではなくなる感覚。
鹿間は、もう一度、水無月を見る。
彼女は、普通に授業を受けていた。
ノートを取り、
黒板を見ている。
壊れていない。
そこにいる。
生きている。
鹿間の手は、わずかに震えていた。
だが、それは。
恐怖の震えではなかった。




