シーン4:屋上 ― 唯一の安全地帯
昼休みのチャイムが鳴り終わる前に、鹿間斎は席を立っていた。
弁当は持っていない。
購買にも行かない。
人が多い場所には、行かない。
教室を出る。
廊下を歩く。
階段を上がる。
一段ずつ。
誰ともすれ違わないように、タイミングを計算しながら。
そして、最上階。
屋上へ続く扉の前に立つ。
古い鉄の扉。
誰も使わない場所。
鹿間は、ポケットからティッシュを取り出す。
折りたたむ。
ドアノブにかぶせる。
その上から、回す。
ガチャリ、と鈍い音がする。
扉を押す。
光が、差し込む。
風が、吹き込む。
屋上には、誰もいなかった。
鹿間は、わずかに息を吐いた。
外に出る。
扉を閉める。
金属音が、世界を区切る。
静かだ。
空しかない。
雲が、ゆっくり流れている。
遠くで、車の音が小さく響いている。
だが、ここには届かない。
誰もいない。
誰も、触れない。
鹿間は、フェンスから離れた場所に座る。
壁際。
背中を預ける。
ポケットから、ペットボトルを取り出す。
新品だ。
朝、買ったもの。
キャップを回す。
手袋越しに。
慎重に。
口をつける。
飲む。
水が、喉を通る。
それだけで、生きていると確認できる。
キャップを閉める。
ポケットに戻す。
それで、昼食は終わりだ。
空を見る。
何もない。
だから、安全だ。
ここには、人がいない。
手がない。
接触がない。
破壊の可能性がない。
「……ここなら、安全だ」
言葉が、自然に落ちる。
誰も聞いていない。
聞かれない。
それがいい。
風が、少し強くなる。
手袋の表面を、なぞる。
黒い布。
薄いが、確かな境界。
鹿間は、右手を見る。
しばらく。
ただ、見る。
そして。
ゆっくりと。
左手で、右手の手袋の端をつまむ。
引けば、外れる。
それだけだ。
簡単な動作だ。
特別なことではない。
誰でもやっていることだ。
だが。
止まる。
指先に、力が入らない。
外した後のことを、想像してしまう。
もし。
直接、触れたら。
地面に。
壁に。
この世界に。
何が起きるか。
知っている。
知ってしまっている。
「……」
手を離す。
手袋は、そのままの形を保つ。
何も変わらない。
変わらないことに、安堵する。
鹿間は、両手を膝の上に置く。
手袋越しに、布の感触が伝わる。
直接ではない。
それでいい。
それが、正しい。
空を見上げる。
雲が流れている。
触れられない場所を。
誰にも壊されない場所を。
風が、また吹く。
鹿間は、目を閉じる。
この瞬間だけ。
世界は、危険ではなかった。




