第5幕:最終選択 シーン1:停止した世界
風が、途中で途切れていた。
河川敷に立つ鹿間斎の頬を撫でたはずのそれは、数メートル先で断ち切られたように消えている。草は揺れかけた姿のまま止まり、空は欠けていた。青は途中で失われ、その向こうには何もない。色も、光も、意味も。
街も同じだった。
遠くのビル群は、まるで誰かが途中で興味を失った絵のように、半分だけ存在している。上階は空に浮かび、下階は消え、窓の中の机や椅子が、意味を失ったまま露出していた。
世界は壊れていた。
そして、壊れたまま、止まっていた。
その中心に、斎は立っている。
そして。
目の前に、水無月ひかりがいた。
彼女は、泣いていた。
声はない。
ただ、涙だけが頬を伝っている。
その涙は、途中で消えなかった。
最後まで流れ落ち、顎を伝い、地面に落ちた。
存在していた。
斎は、それを見ていた。
理解できなかった。
なぜ、泣いているのか。
いや。
違う。
なぜ――ここにいるのか。
「……」
彼女は、銃を持っていなかった。
さっきまで握っていたはずのそれは、草の上に落ちている。
任務。
処分。
排除。
そのために、ここに来たはずだった。
それなのに。
彼女は、引き金を引かなかった。
代わりに。
泣いていた。
「……どうして」
声にはならなかった。
問いは、音にならず、斎の中に沈んだ。
彼女は、命令でここにいるはずだった。
そういう存在のはずだった。
安全装置。
監視者。
自分を殺すための装置。
感情は偽物。
笑顔は偽物。
言葉は偽物。
全部、偽物だったはずだ。
なのに。
どうして、泣いている。
命令に、涙は必要ない。
任務に、迷いは必要ない。
プログラムに、痛みは必要ない。
斎は、彼女を見ていた。
水無月ひかりを見ていた。
安全装置ではなく。
監視者ではなく。
一人の、少女を。
彼女の肩は、わずかに震えていた。
呼吸が乱れていた。
唇が、何かを言おうとして、言えずに閉じられた。
そのすべてが。
作られたものには見えなかった。
演技には見えなかった。
偽物には見えなかった。
――違う。
斎の中で、何かがほどけた。
これは。
命令ではない。
任務ではない。
プログラムではない。
彼女は。
自分で。
ここにいる。
自分で選んで。
ここに立っている。
自分を殺すことを拒んで。
ここにいる。
「……あ」
声が、漏れた。
それが何を意味するのか、自分でも分からなかった。
ただ。
胸の奥で。
何かが生まれていた。
今まで知っていたものとは、違うもの。
破壊衝動ではない。
消したいという欲求ではない。
壊したいという本能ではない。
もっと、静かで。
もっと、弱くて。
もっと――
温かいもの。
それが何なのか、斎は知らなかった。
名前を知らなかった。
定義を知らなかった。
理解の仕方を知らなかった。
ただ。
それは、確かに存在していた。
目の前の少女を見ていると。
胸の奥が、痛んだ。
壊したいとは、思わなかった。
消したいとは、思わなかった。
失いたくない、と。
初めて、思った。
斎は、何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、彼女を見ていた。
泣いている、水無月ひかりを。
そして、初めて。
破壊神は。
破壊衝動ではない感情を、理解した。




