シーン3:教室 ― 孤立の可視化
教室の扉を開けた瞬間、音が流れ込んでくる。
笑い声。
机を叩く音。
椅子のきしみ。
教室という空間は、いつも満ちている。
人で。
距離で。
接触の可能性で。
鹿間斎は、入口で一瞬だけ立ち止まる。
視線を巡らせる。
人と人の隙間。
通れる幅。
ぶつからずに済む経路。
それを計算してから、歩き出す。
一歩。
また一歩。
誰にも触れないように。
自分の席は、窓際の一番後ろだ。
そこは、偶然ではない。
壁が二方向を塞いでいる。
つまり、接触の可能性が半分になる。
安全な席だ。
椅子を引く。
引くときも、直接は触らない。
袖越しに、最小限の力で。
座る。
それだけで、小さく息を吐く。
今日も、ここまでは壊していない。
「昨日さー、マジで先生の顔やばくなかった?」
「わかる! 超ウケた!」
前の方で、男子と女子が笑っている。
机を叩く音。
肩を叩く音。
触れている音。
鹿間は、視線を落とす。
見ない。
見れば、想像してしまう。
もし、自分があそこにいたら。
もし、自分の手が、あの中に入ったら。
どうなるか。
知っている。
だから、見ない。
時間が過ぎる。
教師が入ってくる。
「はい、席つけー」
ざわめきが、ゆっくり収まる。
完全には消えない。
小さな笑い声が、まだ残っている。
教師が、プリントの束を持ち上げる。
「これ、後ろに回せー」
その一言で、紙が動き始める。
前から後ろへ。
手から手へ。
触れながら。
渡されながら。
鹿間の前の席の男子が、プリントを受け取る。
数枚取って、後ろに回そうとして――
止まる。
一瞬だけ。
振り返る。
鹿間を見る。
目が合う。
男子は、少しだけ眉をひそめる。
そして。
手を伸ばさない。
代わりに。
鹿間の机の上に、プリントを置いた。
直接、渡さない。
接触を避けるように。
「……」
鹿間は、何も言わない。
礼も言わない。
言えない。
それが正しいからだ。
男子は、すぐに前を向いた。
小さく、舌打ちが聞こえた気がした。
「なあ」
さらに前の席で、誰かが小声で言う。
「やっぱ気持ち悪いよな」
「わかる」
「なんで手袋してんの、あいつ」
「病気なんじゃね?」
「いや、厨二病だろ」
笑い声。
小さな。
隠しているつもりの笑い声。
鹿間は、聞いている。
全部。
聞こえている。
だが、顔は動かさない。
視線も動かさない。
プリントを見る。
文字を追う。
意味は、頭に入らない。
ただ、目を動かしているだけだ。
慣れている。
これは、日常だ。
特別なことではない。
昔から、ずっと。
小学生の頃。
中学生の頃。
そして、今も。
理由は違っても、結果は同じだ。
距離がある。
壁がある。
誰も越えない。
越えさせない。
それでいい。
それが安全だ。
それが、正しい。
ふと。
前の席の男子が、消しゴムを落とした。
コトン、と音がする。
「あ」
男子が、椅子を引く。
拾おうとする。
だが、その前に。
消しゴムは、鹿間の足元へ転がってきた。
止まる。
鹿間の靴に、触れそうな距離で。
止まる。
時間が、止まる。
男子が、振り返る。
鹿間を見る。
「……」
何も言わない。
鹿間も、何も言わない。
拾わない。
触れない。
数秒。
沈黙。
やがて、男子は立ち上がった。
回り込む。
距離を取って。
自分で拾う。
「……サンキュ」
言葉だけが、形式的に落ちる。
感情は、ない。
鹿間は、反応しない。
男子は、すぐに前を向いた。
それで終わり。
それ以上は、何も起きない。
鹿間は、静かに呼吸をする。
今日も。
誰にも触れていない。
誰も壊していない。
それだけで、十分だった。
窓の外で、風が吹いている。
カーテンが揺れる。
その揺れだけが、この教室で唯一、何にも触れずに動いていた。




