第二転換点(75%)
夜は、
静かだった。
静かすぎるほど、
静かだった。
鹿間斎は、
部屋に一人でいた。
灯りは、
つけていない。
暗闇の中、
窓の外の街灯だけが、
部屋の輪郭を、
かろうじて浮かび上がらせていた。
座っている。
何もせず。
ただ、
座っている。
机の上。
置かれたままの、
手袋。
もう、
はめていない。
あの日から。
あの夕暮れから。
あの瞬間から。
壊れなかった日から。
救われた日から。
――いや。
違う。
鹿間は、
ゆっくりと目を閉じる。
救いなど、
最初から、
なかった。
分かっていた。
理解していた。
あの映像を見た時から。
あの報告を聞いた時から。
彼女の、
感情のない声を聞いた時から。
分かっていた。
それでも。
それでも、
どこかで、
願っていた。
違うのだと。
例外なのだと。
自分だけは、
違うのだと。
――足音。
廊下。
外。
近づいてくる。
止まる。
部屋の前。
分かる。
誰か。
分かる。
誰なのか。
鹿間は、
動かない。
心臓も、
早くならない。
恐怖は、
なかった。
代わりにあるのは、
静かな、
納得だった。
――来た。
それだけだった。
チャイムは、
鳴らなかった。
ノックも、
なかった。
ただ、
わずかな音。
鍵が、
開けられる音。
カチリ。
扉が、
ゆっくりと、
開く。
暗闇の向こうに、
影。
細い影。
見慣れた、
影。
月明かりが、
差し込む。
その顔を、
照らす。
水無月ひかり。
立っていた。
そこに。
いつもと同じ、
制服。
いつもと同じ、
髪。
いつもと――
違う、
手。
その手には、
何かが握られていた。
小さな、
黒い、
金属。
武器。
鹿間は、
それを見る。
見て、
理解する。
全てを。
彼女の任務。
彼女の存在理由。
彼女の、
本当の役割。
安全装置。
処分装置。
自分を、
殺すための、
存在。
沈黙。
時間が、
止まる。
彼女は、
動かない。
鹿間も、
動かない。
ただ、
見ている。
互いを。
ヒロインの瞳。
そこには、
あの河川敷で見た、
光はなかった。
ただ、
深い、
静かな、
闇があった。
鹿間は、
思う。
ああ、
終わったのだと。
自分の世界は、
終わったのだと。
彼女は、
殺しに来た。
それが、
答えだった。
彼女の沈黙は、
肯定だった。
鹿間は、
ゆっくりと、
口を開く。
「……そうか」
声は、
驚くほど、
穏やかだった。
怒りも、
悲しみも、
なかった。
ただ、
理解だけがあった。
ヒロインの指が、
わずかに動く。
武器を、
強く握る。
だが、
上げない。
まだ。
鹿間は、
彼女を見る。
そして、
微笑んだ。
それは、
あの日、
初めて笑った時と、
同じ笑顔だった。
ぎこちなくて、
不器用で、
それでも、
確かに、
笑っていた。
「命令なんだろ」
言葉は、
静かに、
部屋に落ちた。
ヒロインの呼吸が、
止まる。
ほんの、
一瞬。
だが、
確かに、
止まった。
鹿間は、
続ける。
「分かってた」
嘘だった。
分かってなど、
いなかった。
分かりたくなど、
なかった。
だが、
今は、
分かっていた。
全て。
「最初から」
また、
嘘だった。
最初は、
信じていた。
信じてしまった。
あの笑顔を。
あの声を。
あの温もりを。
ヒロインの唇が、
わずかに、
震える。
だが、
言葉は、
出ない。
任務を、
遂行するために来た。
そのはずだった。
そのために、
ここにいるはずだった。
なのに。
動けない。
撃てない。
彼は、
逃げない。
隠れない。
恐れない。
ただ、
そこにいる。
受け入れている。
全てを。
鹿間は、
ゆっくりと、
手を伸ばす。
何も持っていない、
素手。
壊す手。
世界を壊せる手。
その手を、
彼女に向ける。
「……最後に」
言う。
静かに。
「一つだけ、聞いていいか」
ヒロインの瞳が、
揺れる。
初めて、
揺れる。
鹿間は、
聞く。
「楽しかったか」
沈黙。
長い、
沈黙。
答えは、
返ってこない。
返ってこないまま、
時間だけが、
過ぎる。
それでも、
鹿間は、
微笑んでいた。
壊れたままの、
笑顔で。
その夜、
世界は、
まだ、
壊れていなかった。




