シーン8:決意の前夜
夜。
部屋は静かだった。
音は、
ほとんど存在しない。
冷蔵庫の低い駆動音。
壁の向こうの、
かすかな生活音。
それだけ。
鹿間斎は、
ベッドの上に座っていた。
照明はつけていない。
窓から入る街灯の光だけが、
部屋の輪郭を曖昧に照らしている。
右手を見る。
黒い手袋。
昔から、
そこにあるもの。
物心ついたときには、
すでに存在していた境界線。
守るためのもの。
壊さないためのもの。
ゆっくりと、
左手で、
右手の手袋に触れる。
布の感触。
薄い。
頼りない。
それでも、
絶対の壁。
思い出す。
河川敷。
泥だらけの、
笑顔。
――壊れなかった。
触れた。
手袋越しに。
それでも、
何も起きなかった。
消えなかった。
いなくならなかった。
鹿間の指先に、
わずかな力が入る。
なぜ。
答えは、
出ない。
わからない。
ずっと、
わからないまま。
だが。
変わったことが、
ひとつだけある。
以前は、
考えなかった。
考える必要がなかった。
考えることは、
恐怖に繋がるだけだったから。
だが、
今は違う。
考えている。
理由を、
求めている。
理由を知りたいと、
思っている。
それは、
恐怖ではなかった。
もっと、
別のもの。
胸の奥にある、
落ち着かない感覚。
消えない感覚。
名前のない感覚。
――触れたい。
その言葉が、
ふいに浮かぶ。
鹿間は、
息を止めた。
触れたい。
誰かに。
自分から。
初めての、
欲求だった。
恐怖ではない。
回避ではない。
拒絶ではない。
逆。
正反対の、
衝動。
鹿間の指が、
動く。
手袋の端を、
つまむ。
ゆっくりと、
引く。
わずかに、
ずれる。
皮膚が、
見える。
白い、
自分の皮膚。
その瞬間。
心臓が、
暴れた。
――やめろ。
頭の奥で、
声がする。
――触れるな。
――壊す。
――また。
――失う。
呼吸が、
浅くなる。
指先が、
震える。
これを外せば、
戻れない。
何かが、
終わる。
何かが、
始まる。
鹿間は、
止まった。
それ以上、
動けなかった。
数秒。
あるいは、
数分。
時間の感覚が、
曖昧になる。
そして。
ゆっくりと、
手を離した。
手袋は、
元の位置に戻る。
境界線は、
保たれる。
鹿間は、
息を吐いた。
まだ、
できない。
まだ、
怖い。
右手を見る。
黒い手袋。
それは、
変わらず、
そこにあった。
だが。
鹿間斎は、
知ってしまった。
自分が、
いつか、
それを外したいと、
思っていることを。




