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君だけが壊せなかった  作者: 南蛇井


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シーン6:笑顔の誕生

 河川敷は、昨日と同じ色をしていた。


 夕焼け。


 乾いた草。


 流れる水。


 同じはずの世界。


 だが、


 鹿間斎にとっては、


 もう同じではなかった。


 隣に、


 水無月ひかりがいる。


 それだけで、


 世界の意味が変わっていた。


 


「今日さ」


 水無月が歩きながら言う。


「先生、黒板消し落としたの見た?」


「……見てない」


「すごい顔してたよ」


 彼女は笑う。


 鹿間は、


 その理由が、


 完全には理解できなかった。


 


 水無月が、


 少し前を歩く。


 後ろ向きに歩きながら、


 鹿間の方を見る。


「鹿間くんってさ」


 風で髪が揺れる。


「ほんとに笑わないよね」


 鹿間は、


 答えなかった。


 答え方が、


 わからなかった。


 


「楽しくない?」


 問い。


 鹿間は、


 考えた。


 楽しい。


 その定義が、


 わからなかった。


「……わからない」


 正直に答えた。


 水無月は、


 少しだけ驚いた顔をして、


 それから、


 優しく笑った。


「そっか」


 その瞬間だった。


 


「あ」


 


 短い声。


 水無月の足が、


 草に隠れた窪みに引っかかる。


 体勢が崩れる。


 バランスを失う。


 


 ――転ぶ。


 


 鹿間の時間が、


 遅くなる。


 手を伸ばせば、


 支えられる。


 だが。


 伸ばせば、


 触れる。


 触れれば、


 壊れる。


 


 鹿間の体は、


 動かなかった。


 


 水無月は、


 そのまま、


 地面に倒れた。


 


 鈍い音。


 草が揺れる。


 土が舞う。


 


「……あーあ」


 


 水無月は、


 仰向けのまま、


 空を見た。


 スカートの端が、


 少し汚れている。


 手のひらも、


 泥で黒くなっている。


 


「最悪」


 そう言った。


 


 ――なのに。


 


 笑った。


 


 声を出して。


 楽しそうに。


 心から。


 


 鹿間は、


 動けなかった。


 


 理解できなかった。


 


 なぜ、


 笑うのか。


 


 転んだ。


 汚れた。


 失敗した。


 


 それは、


 悪いことのはずだった。


 


 痛み。


 損失。


 否定。


 


 笑う理由が、


 どこにもなかった。


 


「だって」


 水無月が言う。


 空を見たまま。


「面白いじゃん」


 


 鹿間は、


 言葉を失った。


 


 面白い。


 


 何が。


 


 どうして。


 


 理解できない。


 


 理解できないのに。


 


 胸の奥が、


 揺れた。


 


 水無月が、


 起き上がる。


 髪に草がついている。


 泥がついている。


 完璧じゃない。


 綺麗じゃない。


 それでも。


 


 笑っている。


 


 鹿間は、


 それを見ていた。


 


 ずっと。


 


 見ていた。


 


 そのとき。


 


 口元が、


 わずかに動いた。


 


 自分でも、


 気づかないほど、


 小さく。


 


 ほんの少しだけ。


 


 形が、


 変わった。


 


「……あ」


 


 水無月が、


 声を漏らした。


 


 鹿間は、


 はっとした。


 


「今」


 水無月が言う。


 


 鹿間の目を見る。


 


「笑った」


 


 時間が、


 止まった。


 


「……違う」


 反射的に、


 否定した。


 


 笑う。


 


 自分が。


 


 そんなはずはない。


 


「笑ったよ」


 水無月は言う。


 断言する。


 


「ちゃんと」


 


 鹿間の心臓が、


 強く打つ。


 


 動揺。


 


 混乱。


 


 恐怖。


 


 六割。


 


 だが。


 


 それだけではなかった。


 


 残りの、


 四割。


 


 否定できない感覚。


 


 胸の奥が、


 少しだけ、


 温かい。


 


 理由は、


 わからない。


 


 わからないまま、


 鹿間は、


 もう一度、


 水無月を見た。


 


 泥だらけのまま、


 笑っている。


 


 壊れていない。


 


 消えていない。


 


 そこにいる。


 


 鹿間斎は、


 初めて、


 知った。


 


 世界は、


 壊すものだけでは、


 なかった。

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