シーン5:帰り道(距離の縮小)
放課後。
校門を出ると、世界は少し広くなる。
教室という箱から解放されるはずなのに、
鹿間斎にとっては、
むしろ境界が曖昧になる時間だった。
「鹿間くん」
後ろから声。
振り返らなくてもわかる。
「一緒に帰ろ」
水無月ひかり。
鹿間は、わずかに息を止めた。
断る理由を探す。
だが、
見つからない。
危険だから。
近いから。
壊すから。
――それを、言葉にはできない。
「……好きにしろ」
拒絶でも、
受容でもない。
曖昧な返答。
それでも、水無月は笑った。
「うん」
当然のように、
隣に並ぶ。
歩き出す。
最初の距離は、
約二メートル。
安全圏。
腕を伸ばしても、
届かない距離。
壊れない距離。
鹿間は、その距離を維持するように歩いた。
歩幅を調整する。
速度を調整する。
無意識に。
「今日の数学さ」
水無月が話す。
「先生の説明、長すぎない?」
「……普通だ」
「えー、長いよ」
彼女は笑う。
鹿間は、前を見たまま、
それ以上は答えなかった。
しばらく歩く。
信号。
停止。
水無月が、少しだけ近づく。
距離、
一・五メートル。
鹿間の呼吸が浅くなる。
信号が青になる。
歩き出す。
また、
少し近づく。
一メートル。
危険域。
腕が触れれば、
終わる距離。
鹿間の心臓が強く打つ。
逃げろ、と、
体の奥が命じている。
離れろ、と、
本能が叫んでいる。
だが。
足は、
動かなかった。
「鹿間くんの家ってさ」
水無月が言う。
「こっち?」
「……ああ」
「一緒だね」
偶然。
それだけのこと。
それなのに、
世界が、
さらに狭くなる。
歩く。
並んで。
同じ方向へ。
同じ速度で。
距離、
五十センチ。
肩が、
触れそうになる。
空気が、
重なる。
体温が、
伝わりそうになる。
鹿間の全身が、
硬直した。
――触れる。
――壊れる。
――消える。
イメージが、
脳裏をよぎる。
何度も、
何度も、
繰り返してきた未来。
避けてきた未来。
その境界線に、
今、
立っている。
水無月は、
気づいていない。
普通に歩いている。
普通に呼吸している。
普通に、
隣にいる。
鹿間は、
動けなかった。
逃げることも、
離れることも、
できたはずなのに。
できたはずなのに。
――逃げなかった。
理由は、
わからない。
恐怖は、
消えていない。
心臓は、
まだ、
暴れている。
それでも。
逃げなかった。
水無月の肩が、
わずかに揺れる。
触れる、
寸前。
鹿間は、
息を止めた。
――触れるな。
――触れるな。
――触れるな。
祈るように、
願うように。
だが。
その瞬間、
水無月が、
少しだけ前に出た。
距離が、
わずかに開く。
接触は、
起きなかった。
鹿間の肺に、
空気が戻る。
「どうしたの?」
水無月が振り返る。
不思議そうに。
「……いや」
鹿間は答えた。
それ以上は、
何も言えなかった。
また、
歩き出す。
距離、
五十センチ。
危険な距離。
それでも、
鹿間斎は、
もう、
逃げなかった。




