シーン4:教室(日常の変化)
翌朝。
教室の空気は、昨日までと同じはずだった。
同じ机。
同じ椅子。
同じ雑音。
同じ世界。
――のはずだった。
「おはよう、鹿間くん」
右隣から声がした。
鹿間斎は、一瞬だけ呼吸を止めた。
視線を動かす。
水無月ひかりがいた。
笑っている。
理由のない笑顔。
敵意のない笑顔。
それだけで、理解が遅れる。
自分に向けられていると、認識するまでに数秒かかった。
「……おはよう」
気づいたときには、
声が出ていた。
短い。
かすれた声。
それでも、
返答だった。
水無月は、少しだけ目を丸くしたあと、
嬉しそうに笑った。
「うん」
それだけだった。
それだけなのに、
胸の奥がざわついた。
理由はわからない。
わからないまま、
授業が始まった。
――変化は、それだけでは終わらなかった。
「鹿間くんってさ」
休み時間。
水無月が話しかけてくる。
「数学、得意?」
鹿間は、答えなかった。
答える必要があるのか、
判断できなかったからだ。
沈黙。
水無月は、待っている。
急かさない。
逃がさない。
ただ、
待っている。
「……普通」
鹿間は言った。
普通。
それは事実だった。
得意でも、苦手でもない。
「そっか」
水無月は笑った。
「私は苦手」
どうでもいい情報。
意味のない共有。
それでも、
彼女は満足そうだった。
昼休み。
「鹿間くん、お弁当?」
「……そう」
「いいなあ」
それだけの会話。
それだけのやり取り。
それだけの距離。
――だが。
教室の空気は、
確実に変わっていた。
「……おい」
「見たか?」
「鹿間が……」
「話してる」
小さな声。
抑えた声。
隠した声。
だが、
聞こえている。
鹿間の耳に。
「マジで?」
「初めてじゃね?」
「水無月と?」
視線を感じる。
観察。
困惑。
違和感。
当然だった。
鹿間斎は、
話さない人間だったからだ。
必要がない限り、
声を出さない人間だったからだ。
関わらない人間だったからだ。
それが今、
関わっている。
異常だった。
鹿間は、自分の右手を見た。
黒い手袋。
境界線。
世界と自分を隔てる膜。
安全装置。
それがある限り、
壊さない。
壊れない。
そのはずだった。
「鹿間くん」
また、呼ばれる。
顔を上げる。
「次、移動教室だよ」
水無月が言う。
鹿間は、
一瞬だけ考えて、
「……わかってる」
と答えた。
それだけのこと。
それだけの返事。
だが、
確かに、
返事だった。
立ち上がる。
椅子が音を立てる。
水無月も立つ。
近い。
距離が。
危険な距離。
壊せる距離。
壊してしまう距離。
鹿間の心臓が、
強く打つ。
恐怖。
七割。
まだ、
消えていない。
だが。
それだけではなかった。
残りの、
三割。
理解できない感情。
逃げたいのに、
逃げたくない。
離れたいのに、
離れたくない。
矛盾。
「行こ?」
水無月が言う。
当然のように。
鹿間は、
数秒、
動かなかった。
それから、
「……ああ」
と答えた。
並んで歩く。
触れてはいない。
触れてはいないのに、
世界が、
少しだけ近かった。
鹿間斎は、
まだ、
壊していない。
そして、
初めて、
壊さないことを、
意識していた。




