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君だけが壊せなかった  作者: 南蛇井


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12/17

シーン4:教室(日常の変化)

 翌朝。


 教室の空気は、昨日までと同じはずだった。


 同じ机。


 同じ椅子。


 同じ雑音。


 同じ世界。


 ――のはずだった。


「おはよう、鹿間くん」


 右隣から声がした。


 鹿間斎は、一瞬だけ呼吸を止めた。


 視線を動かす。


 水無月ひかりがいた。


 笑っている。


 理由のない笑顔。


 敵意のない笑顔。


 それだけで、理解が遅れる。


 自分に向けられていると、認識するまでに数秒かかった。


「……おはよう」


 気づいたときには、


 声が出ていた。


 短い。


 かすれた声。


 それでも、


 返答だった。


 水無月は、少しだけ目を丸くしたあと、


 嬉しそうに笑った。


「うん」


 それだけだった。


 それだけなのに、


 胸の奥がざわついた。


 理由はわからない。


 わからないまま、


 授業が始まった。


 


 ――変化は、それだけでは終わらなかった。


「鹿間くんってさ」


 休み時間。


 水無月が話しかけてくる。


「数学、得意?」


 鹿間は、答えなかった。


 答える必要があるのか、


 判断できなかったからだ。


 沈黙。


 水無月は、待っている。


 急かさない。


 逃がさない。


 ただ、


 待っている。


「……普通」


 鹿間は言った。


 普通。


 それは事実だった。


 得意でも、苦手でもない。


「そっか」


 水無月は笑った。


「私は苦手」


 どうでもいい情報。


 意味のない共有。


 それでも、


 彼女は満足そうだった。


 


 昼休み。


「鹿間くん、お弁当?」


「……そう」


「いいなあ」


 それだけの会話。


 それだけのやり取り。


 それだけの距離。


 


 ――だが。


 教室の空気は、


 確実に変わっていた。


「……おい」


「見たか?」


「鹿間が……」


「話してる」


 小さな声。


 抑えた声。


 隠した声。


 だが、


 聞こえている。


 鹿間の耳に。


「マジで?」


「初めてじゃね?」


「水無月と?」


 視線を感じる。


 観察。


 困惑。


 違和感。


 当然だった。


 鹿間斎は、


 話さない人間だったからだ。


 必要がない限り、


 声を出さない人間だったからだ。


 関わらない人間だったからだ。


 それが今、


 関わっている。


 異常だった。


 


 鹿間は、自分の右手を見た。


 黒い手袋。


 境界線。


 世界と自分を隔てる膜。


 安全装置。


 それがある限り、


 壊さない。


 壊れない。


 そのはずだった。


「鹿間くん」


 また、呼ばれる。


 顔を上げる。


「次、移動教室だよ」


 水無月が言う。


 鹿間は、


 一瞬だけ考えて、


「……わかってる」


 と答えた。


 それだけのこと。


 それだけの返事。


 だが、


 確かに、


 返事だった。


 


 立ち上がる。


 椅子が音を立てる。


 水無月も立つ。


 近い。


 距離が。


 危険な距離。


 壊せる距離。


 壊してしまう距離。


 鹿間の心臓が、


 強く打つ。


 恐怖。


 七割。


 まだ、


 消えていない。


 だが。


 それだけではなかった。


 残りの、


 三割。


 理解できない感情。


 逃げたいのに、


 逃げたくない。


 離れたいのに、


 離れたくない。


 矛盾。


 


「行こ?」


 水無月が言う。


 当然のように。


 鹿間は、


 数秒、


 動かなかった。


 それから、


「……ああ」


 と答えた。


 


 並んで歩く。


 触れてはいない。


 触れてはいないのに、


 世界が、


 少しだけ近かった。


 鹿間斎は、


 まだ、


 壊していない。


 そして、


 初めて、


 壊さないことを、


 意識していた。

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