第1幕:隔離された世界 シーン1:朝 ― 触れない生活
目が覚めた瞬間、天井の染みがひとつ増えていることに気づいた。
昨夜まではなかったはずだ、と斎は思う。薄茶色の、雲のような形をした染みだった。じっと見ていると、ゆっくり広がっているようにも見える。
もちろん、そんなはずはない。
瞬きをすると、ただの染みだった。
斎は布団の中で、しばらく動かなかった。
外を走る車の音。遠くで鳴く鳥の声。隣の部屋のドアが閉まる音。
世界が、すでに始まっている。
自分も始まらなければならない。
斎は右手を布団の外に出しかけて、止めた。
数秒、そのままの姿勢でいる。
それから、枕元に置いてある黒い布を見た。
手袋だった。
手袋は、きちんと揃えて置かれている。左右がずれないように、指先の向きまで整えて。
斎はそれを見つめた。
そして、指先だけでそっと摘まむ。
慎重に。
壊れ物に触れるように。
左手にはめる。
指を一本ずつ、奥まで入れる。
布が皮膚を覆う感触を確かめる。
続いて、右手。
同じように。
指先まで、完全に。
隙間がないことを確認する。
手袋をはめ終えてから、斎はようやく息を吐いた。
それから、布団を押しのけて起き上がる。
床に足をつける。
フローリングの冷たさが、靴下越しに伝わる。
立ち上がり、カーテンの方を見る。
薄い光が、布の向こうに滲んでいる。
朝だった。
斎はカーテンに近づき、直接触れないように、端の折り返し部分を指で挟んだ。
布越しに、ゆっくりと引く。
カーテンが開く。
光が差し込む。
斎は目を細めた。
窓の外では、通学路を歩く学生の姿が見えた。
笑っている。
誰かが、誰かの肩を叩いている。
斎は、その手元を見た。
触れている。
何のためらいもなく。
斎は視線を外した。
振り返り、部屋を見渡す。
何もない部屋だった。
ベッドと、小さな机と、冷蔵庫。
それだけ。
机の上には何も置いていない。
物は、できるだけ少ない方がいい。
斎は冷蔵庫の前に立った。
取っ手を見下ろす。
白い、プラスチックの取っ手。
斎はそれに触れず、側面に手を添えた。
肘で押す。
ドアが開く。
中から、冷たい空気が流れ出る。
ペットボトルを取り出す。
ラベルのない、透明な水。
キャップを回す。
口をつけて飲む。
喉を水が通っていく。
半分ほど飲んで、キャップを閉める。
コップは使わない。
使う理由がない。
冷蔵庫を閉める。
やはり、取っ手には触れない。
肘で押す。
カチリ、と音がする。
斎は自分の手を見た。
黒い手袋。
指を動かす。
布が、わずかに軋む。
この下にあるものを、斎は知っている。
知っているからこそ、覆っている。
斎は呟いた。
「今日も、何も壊さない」
それは願いだった。
確認だった。
命令だった。
斎は机の横にかけてある鞄を手に取った。
肩にかける。
部屋のドアの前に立つ。
ドアノブを見る。
金属の、丸いノブ。
斎はポケットからティッシュを取り出した。
一枚だけ引き抜く。
それを折りたたみ、ドアノブに被せる。
ティッシュ越しに掴む。
ゆっくり回す。
カチリ。
ドアが開く。
斎は外に出た。
振り返り、ドアを閉める。
同じように、ティッシュ越しに。
鍵をかける。
ティッシュは、近くのゴミ箱に捨てた。
階段を降りる。
一段ずつ。
手すりには触れない。
外に出る。
朝の空気は冷たかった。
斎は立ち止まり、自分の両手を見た。
黒い手袋。
問題はない。
何も起きていない。
世界は、壊れていない。
斎は歩き出した。
学校へ向かって。
何も壊さないために。
壊さないまま、今日を終えるために。
それが、彼の一日だった。




