432000秒
午前中、珍しく部屋をノックする音がした。
「絵理依、起きてる?あけるわよ」
すっかり体調が戻った母が返事をする前にドアを開けた。
母親あるあるだ。
「あのね、小山先生が…進路のことでもう1度面談をしたいって」
小山先生は私の担任の先生だ。
何度も何度も訪問を重ねたけど、1度も会わなかった。
最初で最後と決めて目を通した学級通信に顔が載っていた。
小柄な若い女の先生。担当教科は国語だっけ?
「夕方家に来るそうだけど、どう?話せそう?無理ならお母さんだけ話すよ」
表情から諦めているとわかる。そうだよね。2年間1度も学校関係者と顔を合わせていない。
「ううん、私が、学校へ行く」
「え…」
驚きすぎて母の声が裏返った。
「放課後、誰もいない時間帯に、行く」
手が震える。動悸がする。でも変わりたい。私は変わりたい。
城の外で誰かと生きたい。ミィちゃんと生きたい。
「わかった。でももう行けなくてもお母さん怒ったりしないから…」
母が部屋を出たあと、気分が重たくてしばらく寝ていた。
小学校の夢をみる。中学受験の夢をみる。まだ悪夢しかみれない。
びっしょり汗をかいて起きてみると17時を少しまわったところだった。
まずシャワーを浴びて身なりを整える。
クローゼットから1度も着ていないタグのついた制服を取り出す。
灰色のスカートに白いシャツ。
背が伸びたからかピッタリだった。
鏡の前で両頬をピシャンと叩く。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、呪文のように唱えながら部屋を出て家を出た。
母が心配そうにこちらをみている。
大丈夫、大丈夫、誰もいない。部活も終わってるはず。大丈夫、大丈夫。
学校へは徒歩10分の距離。
住宅地を抜けて、坂道をのぼる。のぼった先に学校がある。
「でさー」
生徒の笑い声が聞こえて、慌てて物陰に隠れた。
なぜ帰ったはずの生徒がまだいるのか。
「延長だるぅー。早く帰ってアイス食べたい」
「何言ってるの!私たちにとって最後のコンクールなんだよー!」
しまった。部活には延長なんてものがあるのか。知らなかった。
顔をあげなくても、耳を澄ませば生徒の笑い声がたくさん聞こえる。
足が鉛のように動かない。地面と繋がってしまったのかもしれない。
どのくらいそうしていたのかわからない。
気付いたときには誰もいなくて、学校の電気もほとんどの箇所が消えていた。
またダメだった。また失敗してしまった。
また挫折した。また、また、お母さんを、私を裏切った。
「あれ?今日は学校の服なの?」
ミィちゃんの声がする。顔をあげると見慣れたコンビニ。ミィちゃんがいる。
「え…」
思わずあたりを見回す。いつの間にここまで来たんだろう。
無意識にここまで来ちゃったんだ。
「大丈夫?映画でみたゾンビみたいな顔してる」
「…うー」
ミィちゃんをみたら涙が止まらなくなってしまった。
声を押し殺すようにかがんで両手で口を塞ぐ。
「公園、行こうか」
私を抱えるようにしてミィちゃんは公園へ連れ出してくれた。
「学校、行けなかったの。怖くて、足が動かなくなっちゃった」
「……学校がどんなところかわからない。ミィは学校行きたいから、気持ちはわかってあげられない」
そうか、ミィちゃんは学校へ行きたかったのか。
「でも、悲しませるだけの場所なら、行かなくていい。ミィが許す」
「無理だよ…私は、私たちは生きていくんだから」
「じゃあ、高校生になったら一緒の高校に行こう!ミィが一緒にいる!」
ミィちゃんの目の奥に強い炎が宿っていた。
「ミィちゃん…もうすぐいなくなっちゃうじゃん」
「あ…じゃあ、来年の夏も蝉に転生できるように神様にお願いする」
「蝉って、土の中でたくさん寝るよね?来年に間に合うの?」
「……間に…あわない」
一生懸命、私を励まそうとしてくれる。
「あ、でも、そうだね。通信制とか色々道はあるのかも」
「ツーシンセー?」
「ううん、なんでもない。ありがとう」
「あの…」
ミィちゃんがモジモジ何か言いたそうにしている。
「うん?」
「あの…傷つけるかもしれないけど…その制服、着ちゃダメ?」
驚きつつも、学校に行きたいミィちゃんが制服を着たがるのは自然なことだ。
「いいよ。ほぼ新品だよ。そこのトイレで着替えよう」
制服を着たミィちゃんは目を輝かせてピカピカの1年生みたいだ。
小柄だからか少し大きい。それが余計に新入生にみえる。
「嬉しい、嬉しい!これが制服かー。チュウガクセイかー!」
「ねぇ、ミィちゃん。私の学校行く?校門までだけど」
「え、ううん、だって怖いでしょ?」
「大丈夫。今は絶対誰もいないから」
本当は大丈夫なんかじゃない。でもミィちゃんに登下校をプレゼントしたい。
ミィちゃんの手をギュッと握りしめて、学校への道を歩く。
右足、左足、右足、左足。大丈夫、何も考えずに足を交互に出して進めばいい。
坂道のところまで来れた。血の気が引いていく。
今の私はきっとゾンビに戻っているに違いない。
ミィちゃんがつないだ手をギュッときつく握りしめた。
顔を上げると、優しく笑っていた。
手を引っ張られて坂道をのぼる。月に照らされた木々たちが光って綺麗。
一歩、一歩、私が行きたかった場所に連れて行ってくれる。
ああ、そうだ。私だって登下校が欲しかった。みんなが当たり前にできていること。
「とうちゃーく!」
閉まった校門。もうどこにも明かりはない。
街灯だけが私たちを照らす。
校門の前の掲示板にはたくさんの掲示物。
誰が優勝したとか、薬物は禁止だとか、挨拶をしっかりしようとか。
「はい、写真とるよー!ハイチーズ!」
ミィちゃんのペースでシャッターを切る。
「ミィちゃん、そこ立って。学校の名前の横。季節外れの入学式」
「じゃあ次はあなたね!季節外れの卒業式」
楽しかった。たくさん笑った。小学校のときの怖い先生のまね。
架空の生徒のまね。私たちは無敵のチュウガクセイだ。
もう写真の撮れる回数は残り僅か。
「ありがとう。制服。おばあちゃんにも見せたかったな…」




