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数年ぶりに同世代の子と会話をし、その日の夜は泥のように眠った。
変な子だったな。でも、少し面白い子だったな。
お腹がすいたけど、何も買わずに帰ってきちゃった。
雨戸をあけ、カーテンをほんの少し開いてみた。
わずかな隙間から差すような陽が入ってくる。
慌ててカーテンを閉じて、カーテンの隙間に手を入れて窓をあける。
熱風と蝉の鳴き声が聞こえてくる。
まだ夏本番ではないからか、聞こえる声はまばらだ。
ミィちゃんはこの辺りの蝉だったんだろうか。
街中?山の中?それとも海の近く?種類は何だったんだろう?
心底ばからしいって思いつつも、私はミィちゃんについて考えを巡らせていた。
またあのコンビニにいったらミィちゃんはいるんだろうか。
おばあちゃんが車に轢かれたって言ってた。入院中?それとも…。
戸籍がなかったら、どうやって生活していくんだろう。
色々なことを考えているうちに疲れて眠ってしまった。
目をさましたときには、外は暗くなっていた。
昨日と同じ服装に着替えて、出かける支度をする。
今日も能面のような母がダイニングテーブルに置かれた千円札を指さす。
「あ、えっと、あの、昨日お金、使わなかった、から、今日は…大丈夫」
緊張して上手にしゃべれない。
「えっと、その、昔使ってた…蛍光色の…ひかるタスキ、まだ、その、ある?」
昔、まだ外に出れたころ。
塾で遅くなる私を心配した母が、夜道で発光するタスキをプレゼントしてくれた。
周りからクスクス笑われるし、誰もそんなのしてないからいらないって突き返したのに、
「お向かいの吉田さんは花子ちゃんの散歩のときにつけてたわよ~」と言われ、
半ば強引に鞄の中に突っ込まれていた。
あの頃の母はコロコロとよく笑っていたな。
母はゆっくり立ち上がり、無言で収納ラックの中をあさる。
タスキを手に取ると一瞬だけ眉間にしわを寄せて目を閉じたのがみえた。
思い出したくもないものを、思い出させてしまったのかもしれない。
目の前まで来てスッと差し出すと、また元の位置に戻っていった。
(ごめんなさい)
言葉にならない声を母に投げかけ、玄関の扉をあけ、外に出た。
早歩きでコンビニへ向かう。
ミィちゃんに会いたかったからでも、お腹がすいたからでもない。
母の匂いのするあの家から一刻もはやく逃げたかった。
コンビニのドアがひらくと聞きなれた声が飛び込んできた。
「あ!!今日もきた!」
声の主はミィちゃんだ。
ミィちゃんはコンビニのイートインコーナーでおにぎりをほおばっていた。
これは合法的に入手したものに間違いはなさそうだ。
「お店の中では静かにするんだよ」
たしなめるように声をかけたあと、私はミィちゃんの隣に座った。
「おばあちゃんのご飯が食べられなくなっちゃったから買いにきてるんだー」
明るい声でミィちゃんが言う。
「おばあちゃん、いつ退院できるの?けがは酷いの?」
ミィちゃんはこっちをみて悲しそうに微笑んだだけで何も言わなかった。
それだけで全てを察するのは充分だった。
「私もご飯はずっとコンビニなの。おにぎりとかたまに変わった味あって面白いんだよ」
「ミィはね、ご飯作れるんだよ。おばあちゃんが教えてくれたから」
「…へー。私と同じくらいなのにすごいね」
「でも家にいたくないの。まだ、おばあちゃんの匂いがするから」
いたたまれなくなり、お札をギュッと握りしめて席を立った。
「私もおにぎり買ってくるね」
そういって店内をゆっくり見て回った。
約束したわけでもないのにミィちゃんは椅子に座ったまま私のことを待っていた。
待っていてくれる人がいる。心がくすぐったくて、それが嬉しくて同じくらい辛かった。
アイスコーナーを物色していると2人でパキッと割って食べることのできるソーダバーが売っていた。
外がソーダ味で中にバニラのアイスが入っている。
小学校低学年のころ、少ないお小遣いで友達と食べたことがあったな…。
会計を済ませ、袋をあけてミィちゃんに半分に割ったソーダバーを差し出した。
大きな目を見開いて固まるミィちゃん。
「カカオは入ってないよ」
そう言ってさらにグイッとミィちゃんに押し付ける。
「あ…ありがとう」
ミィちゃんは大切な宝物を受け取ったようにソーダバーを慈しんだ。
「ミィは友達作っちゃいけなかったから、こんなの初めて」
「溶けちゃうよ、食べて」
「溶けないアイスならよかった。そうしたら後生大切にするのに」
ミィちゃんは、面白くてかわいい子だった。
棘もない、裏表もない、あざとさもこの世の汚いもの全てから隔離されて生きてきたかのような。
それは閉ざされた空間でおばあちゃんと2人だけの生活で育まれていったかけがえのないものなんだろう。
「きみ、優しいね」
突拍子もない誉め言葉に、泣きそうになって慌てて下を向いた。
「…蝉だったころの記憶ってある?」
馬鹿げてるかもしれないけど、ふと聞いてみたくなった。
「覚えてないよ。どんな街で生きていたのか、幼虫のころ、さなぎの頃どんなのだったか」
「意識はあったの?」
「それも覚えてない。でも何年も土の中にいて退屈だったかも!」
「オスかメスかも?」
「ミィは、ミィだよ!」
他愛のない話を、どのくらいしただろう。
そろそろ帰らないと、お母さんが心配するかもしれない。
いやしないかもしれない。私はいてもいなくても変わらないんだから。
「そろそろ、帰るね」
「黒い服は…」
「うん、だからこれつけて帰るね」
あの恥ずかしいタスキを肩から下げた。
「キラキラだね!それなら安心、安全!」
そんな、とびっきりの笑顔でそう言われたら今後も付けるしかない。
「明日も会える?」
「え?」
「明日も会える?」
「…うん、だいたいいつもこのくらいの時間にコンビニ行くから」
「ミィ、待ってるね」
「うん」
「来なくても、待ってるね」
膨らんだ風船が、心の中いっぱいに広がっているような満たされた気持ちだった。
鼻歌をうたって、スキップして帰りたくなる。
そんな帰り道を私は知らなかったのに。
家が近づいてくると、門扉の前に誰かが立っているのがみえた。
やば…。もしかして怒られる?
期待なんてしちゃいけない。
もしかしたら怒られるかもなんて、そんな愛を期待しちゃいけない。
「あ、あの、ごめんなさい…おそく…なって…しまって」
母は無表情で門扉をあけ、玄関の扉をあけ、私を誘導した。
義務的に、淡々と。
靴を脱いで、階段をあがる。
「もう…帰ってこないかと…思った」
母の声は震えていた。
私は何も言えず、自分の部屋のドアをあけてベッドにダイブした。
背中が痛かった。この感情の名前はなんと言うのだろう。




