【短編小説】ハロー、バイバイ
知ってるか?ジャブには200種類あるねん。
誰かが言ったそれを、何となく思い出していた。相手のジャブにおれのパリングが間に合わなくなりつつあるから、かも知れない。
こちらもジャブとローキックを刺し返し、フック気味に巻き込んだ言い訳みたいなクリンチで誤魔化す。
しかし首相撲の前に振り解かれた。
クリンチがこじ開けられた瞬間に叩き込まれたボディフックが、三秒後に俺の心を挫けさせた。
膝を付いてカウントを聴く。
おれは何歳だっけ?
何でプロでもないのに金を払ってこんな思いをしてるんだ?
それにもう強くなるのは無理だ。
心身は衰退途上にあるし、増え続ける余白を巧さだとか狡さで誤魔化していくのにも限界がある。
終いには言い訳の様なクリンチが無様にも振り解かれて、俺はいまこうしてカウントを聴いている。
見下ろされるのには慣れてる。
人生そのものが大体はそんな感じさ。別にそうしたきゃすれば良い。
おれはおれの価値観で生きる。
ほら、そろそろ10カウントの前にラウンドタイマーが鳴る。
『ピリリ!!』
な?おれの人生は大体がこんな感じだ?
引き分けだ。まだ負けて無いからな。
どうにか立ち上がってスパーリング相手と16ozのグローブを合わせる。
手が重たい。肺が熱い。
関節が動くのを厭がる。
筋肉から疲労が滲む。
巧さも狡さも行き止まり。防波堤の先端。
その先にあるのは灰色の海だ。それが凪が時化かは関係が無い。
そこに飛び出せるのか?
30秒のインターバルが終わって、次のスパーリングが始まる。
無理だね、おれはここでうずくまるのさ。
アナザーラウンド。
繰り返す曖昧なクリンチと無様なダウン。
ブザーが鳴ればそこでお終い。
終わってしまえば苦痛なんてのは何でもない。全身の痛みはそれ以上増えたりしない。
終わってしまえば、しばらくなにも考えずに済む。
その繰り返し。
「お疲れ様でした」
使い古したドラム型スポーツバックに汗だくの道具を詰めてジムを出る。
煙草を咥えて煙を眺める。
足元のスポーツバッグは小学生の頃に流行していて、ねだって買ってもらったドラム型のスポーツバックだ。
あの頃はおれがこうなっているなんて思いもしなかった。
おれだって、あの頃のバッグがプリント剥げて見窄らしくなってもまだ使ってるとは思わなかった。
「お互い様だな」
スポーツバッグは何も言わない。
「おれたちは限界だよな」
ボロボロだ。伸び代が無い。
それがどうした?バッグ新調して巧くなるならブランド品だって買うさ。
だがどうにもならない。
人生と同じだ。これ以上は良くならない。
それならどうにか誤魔化すだけだ。
狡さを積み重ねて自分を裏切る。
大人が裏切られた青年の姿だと言うのはそう言うことだ。
「疲れたよ」
スポーツバッグは何も言わない。
「お前もお役御免には遠そうだな」
おれはおれの死を死にたい。
誤魔化しが効かなくなったらそこが行き止まりだ。
袋小路。人生八王子。
振り向けば工事を繰り返した道路のように継ぎ接ぎだらけの人生が後ろに伸びている。
前を向けば、何がある?
エレベーターの無いマンションに戻り階段で暗く点滅する蛍光灯、フリッカーの隙間に踊り場でうずくまる。
10カウントを待つまでも無い。
部屋に帰ってもお前がいない。
ハロー、バイバイ。




