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第九話

 王都の空、変わらぬ喧騒

 遠くから鐘の音が聞こえていた。

 高く澄んだ音が、王都の空に吸い込まれていく。


 エヴァンとセシリアは、

 王都フェル=グレイの南門をくぐった。


 変わらぬ喧騒、

 市場の喧嘩、

 街路詩人の吟遊、

 冒険者たちの笑い声。


 だが、ふたりの心には、

 ほんの僅かな違和感があった。


 セシリアが立ち止まり、

 王都の中心を見上げる。


「……何か、空気が変わってる」


 エヴァンもまた、通りすがる人々の視線を受けながら呟いた。


「何かが、始まってるな。俺たちの知らないところで」



 二人はすぐに、

《王立魔導図書館》へと向かった。


 この地に眠るのは、

 アストレイア文書――

 世界に散った断片たちの本体。


 だが館の前には、

 厳重な封鎖線が張られていた。


 魔術結界、騎士団、封印札。


 エヴァンが眉をひそめる。


「……なんだこれは」


 そのとき――

 奥の書庫から、見知った顔が姿を現した。


 古文書研究官、

 文の守り手のひとり、リシュラン博士だった。


 小柄な身体に、魔導士の青い外套。

 そして、疲れきった目。


 リシュランは二人を見て、わずかに表情を緩めた。


「……無事だったか。君たちの帰還を待っていた。だが事態は深刻だ。文書本体に、誰かが手を加えた形跡がある」


 セシリアが目を見開いた。


「そんな……封印は万全だったはず……!」


 新たな鍵の導入

 リシュランは一冊の、黒い革表紙の書物を取り出した。


「これだ。封印層の奥で見つかった第零断片――本来は存在しないはずの頁。そして、この断片には……」


 彼は、一息置いて言った。


「語り手を選ぶという意思がある」


 エヴァンとセシリアは、

 思わず顔を見合わせた。



 アストレイア文書が、

「読まれるのを待っている」のではなく、

「語るべき者を選び始めた」――。


 封印されていた文書の「本体」から出現した第零断片。

 それはただの記録ではない。

 意思を持ち、語り手を選び、試す装置だった。


 今、文書に選ばれし者たちへの《第一の試練》が始まろうとしている。


 封印層・深部

 王立魔導図書館の最奥、

 通常の閲覧許可では辿り着けない、封印層のさらに下――


 石の階段を抜けた先、

 二人は、黒い円環に囲まれた部屋に辿り着いた。


 セシリアが魔導式の鍵をかざすと、

 重厚な扉が、ゆっくりと開いていく。


 そこにあったのは――

 空中に浮かぶ、一冊の書物。


 銀の背表紙。黒の綴じ糸。

 表紙には、なにも書かれていない。


 けれど、確かな視線を感じる。


 アストレイア文書・本体。



 リシュラン博士が小声で言った。


「……君たちにしか反応しない。他の研究者が触れようとしたが、全員拒まれた。この文書は語るに足る者を選ぶ……そう書かれていた断片が、確かに存在している」


 セシリアが一歩踏み出した。

 指先を伸ばし、文書に触れようとする。


 次の瞬間――


 空間が、反転した。


 周囲の世界が闇に包まれ、

 ふたりの足元が、光の大地に変わる。


 頭上には、幾何学文様の星々。

 言葉の糸が、空を編んでいる。


「――語り手よ」


「汝ら、語る資格を問われる者なり」


「過去を語り、現在を記し、未来を編む意志はあるか」


 声は、無数。

 文書そのものが、問いかけてくる。


 エヴァンが剣を手に取る。


「俺たちは、無かったことにされた語りを救ってきた。なら今度は――この文書そのものの問いに、応えてやるだけだ!」


 セシリアが静かに頷き、詠唱に入る。


「語りの深層――私たちの知を、ここで示すわ」


 光の大地が崩れ、

 次の瞬間、ふたりの前に現れたのは――


 過去に否定されたもうひとつの世界。


 それは、

「語られなかったかもしれない未来」の姿だった。


 声が告げる。


「第一の試練――語られなかった未来を、汝らの意志で塗り替えよ」


 こうして、

 エヴァンとセシリアは文書の意志により、

 未来の可能性そのものとの対決を強いられることになる。



 ここは特異な空間、

 語られなかった未来の地平。

 アストレイア文書が映し出す可能性の影。

 エヴァンとセシリアは、今まさに自らの語りによって、未来を再定義させられようとしている。


 これは予言ではない。

 けれど、語られてしまうかもしれなかった結末。


 異なる王都

 気づけば二人は、

 見知らぬ、だがどこか懐かしい場所に立っていた。


 街路、石畳、見上げる塔。

 王都フェル=グレイ。


 しかし――そこに人影はない。


 崩れた時計塔。

 廃墟と化した冒険者ギルド。

 焦げついた空の下、

 王立魔導図書館も崩れ、文字が空へと流出していた。


 セシリアが息を呑む。


「……これは、王都が語りを失った世界」


 語られるべき出来事が、すべて消失した未来。


 誰も語らず、誰も記録せず、誰も振り返らなかった――

 結末としての都市。


 遠くで、誰かが歩いていた。


 白い衣。

 片手に文書の断片。

 顔を隠す黒い仮面。


 セシリアが震える声で呟く。


「あれは……私?」


 歪んだセシリア

 仮面の人物は近づいてくる。


 その足取りは静かで、

 背負う断片たちが風に鳴る。


 そして、仮面の下から、明瞭な声が響く。


「私は、語るのをやめた。何も変わらなかったから。そして、君もいずれ……そうなる」


 セシリアは一歩、踏み出した。


「――なら、あなたを否定しなければならないわ」


「どれだけ虚しくても、無力でも、語ることを、私自身が捨ててしまったら――それは、世界の終わりそのものだから」


 詠唱が始まる。


《知環解放・記録誓詠(ミネヴァ=ロジア)》


 言葉が光に変わり、

 黒い仮面の自分に向かって、

 閃光となって放たれる。


 同時に、

 エヴァンの前にも、

 ひとりの影が現れていた。


 灰色の外套、折れた剣。

 傷だらけの左腕。


 それは、戦い続けたが、語り直すことを諦めたエヴァン。


 影のエヴァンは、言った。


「剣じゃ語れない。誰にも届かない。祈りも、声も、全部風に消えるんだ」


 現在のエヴァンは、ゆっくりと剣を抜く。


「……たしかに、その通りだな」


 だが――と続ける。


「それでも俺は、剣で語る。傷ついたこの手で、もう一度、届くって信じて斬るんだ!」



 セシリアにとってこれはただの魔法戦ではない。

 語り手としての存在意義そのものを賭けた、

「選ばれる語り手」としての試練だ。


 魔法と記録の交差点。

 黒い仮面のもう一人のセシリアは、

 光でも闇でもない、灰色の詠唱を放ってくる。


 それは希望も絶望も帯びていない。

 無記録という力。


空語断章イレース・セクション


 放たれた呪文が、世界から記録を削り取っていく。

 セシリアの詠唱が、一文字ずつ消えていく。


 セシリアは身を守るため、

 即座に補完詠唱へ切り替えた。


《記述の防壁スクリブ・ウォード


 彼女の詠唱は、

 空気中に浮かぶ残響文字を再利用し、

 消された魔法を再構築する技術。


 消される前に、もう一度語り直す。


「あなたの語りは、終わっている」

 仮面の彼女が告げる。


「私はすべてを記録し、そしてすべてが無意味だと悟った。だからこそ、もう語らない。語らないことこそが、唯一の誠実なのよ」


 セシリアは、静かに首を振る。


「それは、知っているから語らないということじゃない。語らないことで、自分をごまかしているだけ。記録することは、傷つくことよ。私は――それでも、ちゃんと痛みを抱えて語りたいの!」


 誓詠魔法・発動

 セシリアの杖が光を帯びる。


 銀の術式が空間に展開し、

 大地に記録の環が浮かび上がる。


《知環開示・誓いの章節プロミス・オース


 これは彼女の語り手としての決意を魔法陣に刻み、

 消去魔法そのものを逆転する誓詠。


 魔法が発動するたびに、

 過去の言葉が光となって舞う。


 祠の老婆の祈り、

 灰の図書院で出会った記録者の影、

 神々の名を呼んだあの夜の星光――


 すべてが力となって、セシリアの詠唱を支える。


 仮面の彼女が、はじめて表情を揺らがせた。


「それでも語るの……?」


 セシリアは、しっかりと頷いた。


「ええ。あなたが私だからこそ、私があなたを、語り直してあげるわ」


 詠唱が、空を裂いた。

 灰の詠唱が沈黙し、

 記録された真の魔法が、仮面の彼女を包む。


 それは語りの救済。

 魔法の光が消えたとき、

 仮面のセシリアはもう、立っていなかった。


 そこには、

 静かに目を閉じ、

 自らの存在を「語られた」と理解した姿があった。


「……ありがとう」


 その一言だけを残し、

 未来の影は、風へと溶けた。


 セシリアは静かに息を吐いた。

 そして空を見上げて呟いた。


「――さあ、エヴァン。次はあなたの番よ」



 彼が戦うのは、己の姿をした影。

 語っても意味がないと結論づけた、もう一人のエヴァン。


 剣を通して語る。

 剣でしか語れない者の、真っ直ぐで、だからこそ痛烈な語りの一撃を。



 過去から来た影、影のエヴァンは、口元に笑みを浮かべながら、

 ぼろぼろに錆びた剣を抜いた。


「見ろよ、俺。祈りを背負って斬ってきたはずが、気づけば誰も語ってくれねぇ。俺が守った連中、名前すら憶えてねぇってさ」


 現在のエヴァンは、

 黙って剣を構えた。


「そんなこと……知ってる。けどな。それでも斬るんだ。斬って、伝える。それが、俺の語り方だからよ」


 影のエヴァンが突っ込んでくる。

 死んだ意志の剣。

 力も速さも同じ。

 だが、想いだけが決定的に違う。


 剣と剣が、

 火花ではなく残響を放ちながら交差する。


 響くのは、かつて救えなかった名のない者たちの声。


 影のエヴァンが叫ぶ。


「語ってどうなる!? 救えなかった命に、何を言える!?」


 現在のエヴァンは、

 一閃をかわしながら答えた。


「何も言えねぇよ。だからこそ、語り続けるんだ。それが俺の――贖罪でもあり、意志でもある!」


 魔剣の覚醒。

 エヴァンの剣が、魔力を帯びて光り始める。

 鋼の芯に、言葉が刻まれていく。


《魔刃・綴誓ルーン・エディクト


 魂の言葉を刃に刻み、

 一振りごとに語り直しを宿す奥義。


 剣が振るわれるたびに、

 影のエヴァンの姿が少しずつ崩れていく。


 傷ではない。

 黙った自分が、

 少しずつ語られ直されていく――。


 最後の一撃の直前、

 エヴァンは低く呟いた。


「語るってのは、口先じゃねぇ。命懸けで伝えることだ」


 最後の一撃が、

 影を切り裂いた。


 語られた影

 影のエヴァンは、

 静かに地に膝をついた。


 そして、小さく笑って言った。


「……なら、俺も斬られてよかった。少なくとも――お前は、俺を無かったことにしなかった」


 光に包まれて、

 影のエヴァンは霧のように消えていった。


 ただ一言、声だけが残る。


「……この剣、お前に任せたぜ」


 エヴァンは静かに剣を納めた。


「語られたなら――それで十分だ」


 こうして二人は、

 文書の語り手としての第一の試練を超えた。


 文書の空間がゆっくりと歪み、

 元の封印層の現実へと、

 二人を迎え返そうとしていた。



 語り手として選ばれるとは、

 ただ文書を読む者ではない。

 未来を語る責任を持つ者として、

 世界に影響を及ぼし始めることを意味する。


 そして封印層・再び。

 眩い光が収束し、

 二人は再び、王立魔導図書館の封印層へと戻ってきた。


 周囲の空間は静まり返っていた。

 魔術灯の光が、薄く揺れている。


 セシリアがそっと息を吐く。

 その瞳には、かすかな涙の跡。


「……戻ってこれた」


 エヴァンは無言でうなずき、

 腰に佩いた剣の感触を、改めて確かめた。


 その刃には、

 もう語らなかった未来の傷はなかった。


 リシュラン博士が駆け寄ってくる。

 顔に浮かぶのは、驚きと、どこか畏怖を含んだ尊敬。


「二人とも……まさか、第一の試練を越えたのか……! あの文書が、正式に語り手として認めたのか……?」


 セシリアは微笑みながら頷いた。


「ええ。確かに感じたわ。文書が私たちを記録する存在として受け入れたことを」


 文書本体が、微かに震えた。


 銀の背表紙が開き、

 新たな頁がふたりの前に現れる。


 そこには、古代語でこう書かれていた。


《語り手の誓約》

汝、記す者にして、紡ぐ者なり。

記録せよ、無き者を。

語れ、忘れられし時を。

ただしその手に在るものは――常に代償と共にあらん。


 セシリアはその文を読みながら、

 背筋を正すように姿勢を整える。


「……これは、責任の始まり。世界の記述権の一部を、私たちが背負うということ」


 エヴァンは横で笑う。


「……重いな、語りってのはよ。でも、俺たちなら何とかできる。いや、何とかしちまうだろ、いつもの通りにな」


 そのとき――

 地上から伝令が封印層へ駆け下りてくる。


 騎士団所属の魔導通達士。


「報告! 西方の語られざる境界地帯で異常な文書発動が検出! まるで、アストレイア文書の力を模倣するような……偽の語りが、拡がりを見せています!」


 セシリアとエヴァンは目を見合わせる。


「――動いたわね、異端の語り手たちが」


 リシュラン博士が、厳しい表情で言った。


「二人には、正式に王都評議会から語り手探索使の任を与える手配が進んでいる。次の目的地は――語られざる境界地帯ヴェル=ミラ境峡。本物と偽物の語りが、初めて正面からぶつかる地になるだろう」


 エヴァンは、静かに剣の柄に手をかける。


「行くぜ、セシリア。偽の語りだろうが、どんな理屈だろうが――俺たちは、ほんとうの声を掘り起こしに行く」


 セシリアもまた、詠唱準備の指輪を指に通しながら頷く。


「……ええ。語りは、まだ続いているから」



 次なる目的地は語られざる境界地帯ヴェル=ミラ。

 偽の語りが渦巻く未踏の地に踏み込む前に、

 二人は王都で静かに英気を養い、心を整える。


 静かな市場の朝

 朝、王都フェル=グレイ。

 霧がまだ地を這う時間帯。


 セシリアは、王立魔導図書館の裏手にある小さな市場にいた。


 手には薬草と香木の束、

 そしてひと瓶の銀色のインク。


 老舗の魔道具屋の女主人が、

 詠唱札用の紙束を手渡しながら言う。


「境界地へ行くってのは、ただの旅じゃないよ。あそこは、語ること自体が拒まれる地だって話だもの」


 セシリアは穏やかに微笑む。


「語れないなら、なおさら、語りに行く意味があるんです」


 鍛冶屋の裏手で

 一方そのころ、エヴァンは王都西区の鍛冶屋にいた。


 打ち直された魔剣が、

 火花のなかで赤く熱を帯びていた。


 鍛冶師の老人が剣を差し出しながら言う。


「これはもう武器じゃないな。誰かのために記された刃の語りだ」


 エヴァンは剣を受け取りながら、

 笑って言った。


「語る言葉が下手なんでね。そのぶん、この剣にしゃべらせるしかないんだよ」


 午後、城門広場の噴水前。


 セシリアはベンチに座り、記述具を点検していた。

 エヴァンはその隣で、旅支度を終えた背負い袋を置く。


「魔導図書館から正式命令が届いたわ」

 セシリアが封書を取り出しながら言う。


「ヴェル=ミラ境峡にて、異端の語り手たちが偽の文書を拡散している兆候あり。貴殿らは、記録者として調査・対応にあたるべし――と」


 エヴァンはポケットに手を突っ込んだまま、噴水を見ていた。


「……また本当の語りを掘り返しに行くってわけか」


「そう。だけど今度は、ただの断片じゃない。偽りの語りそのものを――斬らなければならないかもしれないわ」


 エヴァンは笑った。


「ならいいさ。俺の剣、語り損ねた声にはめっぽう強いんだ」


 セシリアも笑う。


「それ、ちょっと詩的でいいわね。今日のあなた、語り手っぽいじゃない」


 旅立ちの夕暮れ。

 王都の街並みに、ゆっくりと夕陽が差し込む。


 冒険者の行き交う通りを抜け、

 二人は西門へと歩いていく。


 その背には、新たな章の語りが始まろうとしていた。



 ノヴィウス大陸の西方、

 かつて王国と帝国の狭間にあったが、

 今はどの国にも属さず、地図の余白となった土地。


 そこには、人の語りが及ばぬ地、

 語られざる境界地帯《ヴェル=ミラ》が広がっていた。


 その土地では、

 偽の文書が人々の心を侵し、

 かつてあった歴史が、今まさに「書き換えられ」ようとしている――



 大陸西部、フェル=グレイを出て四日。

 森林地帯を抜け、霧と風が交差する岩礁の谷を越えた先。


 セシリアは、足元の土の感触が変わったことに気づいた。


「……ここから先が、ヴェル=ミラ」


 足元の草は、枯れていない。

 だが風が、音を持たない。


 まるで語りそのものが、

 この土地では失われているかのように。


 エヴァンが剣の柄に軽く手を置いた。


「静かだな。……ただの自然の静けさじゃねぇ。名前が消えてるって感じがする」


 セシリアは頷く。


「うん。言葉の痕跡が薄いの。地名も、集落も、書物の中からすっぽり抜けてる場所」


 岩肌を削って作られた簡素な村に着く。

 村の入り口に、看板も石碑もない。


 だが人々は、確かに生きていた。

 肩を寄せ合い、言葉少なに暮らしていた。


 村長らしき老婆が出迎える。

 だが彼女の目は、どこか遠くを見るようだった。


「……また誰か、書き換えられに来たのかい?」


 セシリアがゆっくりと答える。


「いえ。私たちは、正しい語りを探す者たち。偽りの語りが広がっているなら、止めに来たのです」


 老婆はしばらく無言だったが、やがて言った。


「じゃあ気をつけな。ここじゃ、夜ごと別の記憶が村に流れ込む。眠ってるうちに、違う人生を語り直された者が、もう何人も出ているよ」


 エヴァンが目を細めた。


「……それが、偽りの語り手の仕業ってわけか」


 村の中心部、廃寺の跡地。

 崩れた石像の周囲に、不可解な魔力の残滓が漂っていた。


 セシリアはそこに浮かぶ一片の頁を見つけ、すぐに魔力で封じる。


 それは偽のアストレイア文書の断片だった。


 書かれていたのは――


「この村はかつて帝国軍により粛清され、語られるべき歴史は失われた」


「よって、代わりに新たな記憶を植えつけ、残る者には虚構の生を与えることとする」


 セシリアが呟く。


「これは……記録じゃない。記憶への干渉。正史を模倣し、書き換え、誰かにそうだったと思わせる語り」


 エヴァンが剣を抜く。


「なら、この先にいるんだろう。本物を模して、世界をねじ曲げてる奴が」


 そのとき、廃寺の奥から、

 一人の影が現れる。


 白い仮面、長い外套。

 手には、黒き写本。


 仮面の男が、静かに言う。


「本物の語り? 正しい記録? 滑稽だな。記されること自体が、すでに暴力なんだよ」



 エヴァンとセシリアは、

 記述を否定する者との邂逅を果たす。


 剣ではなく語りを、

 魔法ではなく思想を携えた敵。


 だが、彼らも選ばれし語り手。

 ただ黙って見過ごす理由は、どこにもなかった。



 境界廃寺・夕刻。

 廃寺の奥。

 仮面の男は、まるで古びた書物から抜け出したような気配を放っていた。


 手にあるのは、アストレイア文書の模写本。

 だが、そこに刻まれる言葉は、どこか歪んでいる。


「……名を聞いても?」

 セシリアが問いかける。


 仮面の男は答えた。「かつてはアレヴァンと名乗っていた。今では誰の記憶にも残らないがね」


 エヴァンが目を細める。


「その名前……俺に似すぎてやがる」


 アレヴァンは嗤う。


「似ている? 当然だ。私は否定された語りの残響。お前が斬り捨て、忘れてきた無数のもしもの記録。それが積もって、俺になった」


 セシリアが一歩前に出て、

 構えもなく言葉を紡ぐ。


「あなたは何のために語りを偽るの?」


 アレヴァンは静かに答える。


「世界を救うためだよ。本物の語りには、血と涙と犠牲がつきまとう。ならば、誰も傷つかない偽の記録の中で、人々が安らかに生きていけるなら――そちらの方が幸福ではないか?」


 セシリアの魔力がざわつく。


「それは……選択肢の奪取よ。真実がどれほど苦しくとも、私たちはそれを知って生きる自由を持っているはず!」


 アレヴァンは、手にした黒き写本を掲げる。


「ならば、その語りの価値――この場で証明してみせろ!」



 次の瞬間、地面が裂け、

 黒き文字の魔法が渦を巻いた。


《偽録展開・虚構のパラログラム


 アレヴァンの語りは、

 空間そのものを書き換えてくる。


 天地が反転し、

 エヴァンとセシリアの記憶された歴史がねじ曲げられていく――!


 エヴァンが剣を抜く。


「こいつ……記憶の語りを物理化していやがる!」


 セシリアが詠唱を開始。


「エヴァン、私が場を固定するわ! 語りの重心をこの地に留める! ……記述陣・真章固定アーカイブ・ルート!」


 セシリアの術が地脈を押さえ、

 空間の書き換えを一時的に止める。


「いけるわ。今なら――!」


 エヴァンは魔剣を振るう。


《語刃・真斬オーセンティア


 語りを斬る剣――

 文書に刻まれる真なる名を辿る刃。


 一閃。

 アレヴァンの写本が弾かれ、

 その仮面が少しだけ割れる。


 アレヴァンが、微笑の中で呟く。


「ほう……ならば、最終章を演じてもらおうか――世界が、真実によって壊れる可能性を前にして、君たちに語りきれるのかどうかを――!」



 偽りの語り手アレヴァンは、

 黒き写本を開き、記述を呼び起こす。


 その語りは、世界を欺き、存在すらも生み出す。

 虚構の記録が召喚するのは、

「語られなかったはずの英雄たち」――


 その剣が、過去をなぞる刃として、エヴァンとセシリアに襲いかかる。



 黒写本の開示

 アレヴァンが仮面の下で呟く。


「記録が世界を形作るというならば、偽りの記録にも、命を与えてみせよう」


 黒き写本が宙に浮き、頁が自動的にめくられる。

 墨のような魔力が流れ出し、地面に巨大な魔法陣を描いた。


《召録展開・虚偽の英雄譚ミュセオグラム


 周囲の空間が歪む。

 そして、現れたのは――


 両手に雷の剣を持った少女、かつて戦争を止めたという架空の平和の使徒。

 翼を持ち、千年王国を築いたと語られる異端の救世主。

 そして――金の仮面をかぶり、エヴァンと同じ姿をした者。


 セシリアが即座に分析を始める。


「これは……実在したことにされた記録。語りの形式は完成されている。でも……真実の根がない!」


 エヴァンが一歩前に出て、仮面の自分に目を凝らす。


「そいつは――俺じゃない」


「けど、もしあの時、別の選択をしてたら……って誰かが望んだ俺か」


 幻英たちとの戦い

 一斉に、虚構の英霊たちが攻めてくる。

 

 雷の剣少女の双撃、

 翼を広げた王が空から炎を降らせる。


 そして、偽エヴァンは無言で剣を構えた。


 セシリアが詠唱を発動。


《偽章解体・幻形剥離フィクシオ・リジェクト


 記録の形式に含まれる不整合を読み取り、術式を崩す高位魔法。


 雷の剣が一振り降り下ろされる前に、

 セシリアの詠唱が干渉し、武器の記録そのものを解除する。


 少女の剣が、光となって霧散した。


 そして降り注ぐ炎はかき消され、異端の救世主もまた消え去った。


「二体撃破。……残りは任せるわよエヴァン」


「ああ、俺には俺が行く!」


 エヴァンは剣を構え、偽の自分に向かって突き進む。


 仮面のもうひとりのエヴァンは、沈黙のまま迎え撃った。

 二本の刃が交差し、弾き合い、空気が裂ける。


 同じ動き。

 同じ重さ。

 同じ語りの構え。


 だが、わずかに違ったのは――


 本物のエヴァンが、言葉を持っていたということだ。


「お前がどう語られようと、それが誰かの望んだ俺なら――それはそれで、斬る価値がある!」


《魔刃・真章絶読(ディア=セント)》


 書き換え不能の一撃。

 語られなかったすべての可能性を背負い、

 その虚偽を断絶する、真の語りの一撃。


 偽エヴァンが吹き飛び、

 剣ごと崩れ落ちる。

 光の粒となって、消えていった。


 アレヴァンの手が、黒写本を押さえた。


「なるほど……語りとは、単に記録ではなく、抗い続ける意志そのものか――」


 彼の仮面が、ついに完全に割れた。



 偽りの語り手アレヴァン、最終形態。

 彼は今や肉体でも仮面でもない。

 すべてを否定し、語りそのものを虚無へと還す概念存在になろうとしている。


 エヴァンとセシリア、二人は語り手として、戦士として、

 そして何より語ることを諦めない者として、最後の一歩を踏み出す。


 

 アレヴァンの身体が黒いインクのように溶け、

 空間そのものに語り消失の波が走る。


 あらゆるものが名を失い、意味を奪われていく。


 地の記録、空の記憶、人の歩み――

 すべてが語られなかったことになる。


 セシリアの詠唱が震える。


「世界そのものが、物語の空白に飲まれていく……!」


 アレヴァンの声が、空間全体から響く。


「語らなければ、争いは起こらない」

「語らなければ、記録されることもない」

「語られなければ、悲しみは存在しない」


「だから私は、語りそのものを消去する」


 エヴァンが剣を構える。


「……だったら俺たちは、語りで斬るってことを教えてやるよ」


 セシリアが詠唱に入る。


「この物語は、終わらせない――記述せよ、記憶の灯火。繋げよ、語りの命脈!」


 二人の力が融合する。

 剣のルーンと魔法陣が、空間全体に展開。


 魔剣の刃に、セシリアの詠唱が語りとして宿っていく。


 奥義:誓詠魔刃・記章終結(オスティア=リリクト)

《誓詠魔刃・記章終結(オスティア=リリクト)》


 この技は、

 語りの意志と記す力が一つになったときにだけ発動する奥義。


 それは斬撃ではなく――記録の一筆。


 エヴァンが剣を振るうと同時に、

 セシリアが詠唱の最後を乗せる。


「あなたの否定を、私たちは語り直す!」


 光の刃が走り、詠唱が空を刻む。


 この世には、語るべき声がある。


 語られなかったものたちに、再び名前を。


 語りは、存在の証。


 光が廃寺を包み、

 アレヴァンの語りを否定する力が霧散する。


 崩れかけていた空間が、再び語りとして定着していく。


 廃寺の石が名を取り戻し、

 村の記憶が、静かに戻ってきた。


 戦いの果て、

 黒いインクの霧のなか、

 アレヴァンの姿がふたたび現れた。


 だがもう、敵意はない。


 ただ穏やかに、かつての名前を口にする。


「……私は、エヴァンになれなかった可能性だった」


「でも、あなたに語り直された」


 セシリアが、目を伏せる。


「語りは、捨てられた可能性すら包み込む」


「あなたもまた、誰かが望んだ語りだったのよ」


 アレヴァンは微笑んだ。その笑みはもう、偽りではなかった。


「ありがとう。さようなら、もう一人の僕たち――」


 そして彼は、

 記録されることなく、 

けれど確かに語られたまま、静かに消えた。


 薄明の空へ。

 二人は静かに剣を収め、詠唱を終え、

 崩れかけた廃寺の階段を登る。


 空には朝焼け。

 わずかに風が、語りの匂いを運んできていた。


 エヴァンが呟く。


「……なあ、セシリア。俺たちの語りは、これからも正しいって言えると思うか?」


 セシリアは微笑む。


「それを決めるのは、私たちじゃない。いつか、誰かがこの旅を語り直すときに――その語りが誰かを救うなら、……それが答えよ」



 ヴェル=ミラ境界地の小さな村。

 かつて「名のない村」として地図からも記録からも消されていたその地は、

 今――ようやく、語られることを許された。


 静かな午後

 村の広場には、ほんのわずかな賑わいが戻っていた。


 子どもたちが名前を呼び合い、

 老人たちは炉端で、遠い昔話を語っている。


 セシリアは、仮設された石碑の前に立っていた。


 石碑には、たった一行の言葉。


「ここは、ヴェル=ミラ。語りを取り戻した村」


 村の長がセシリアにお礼を告げに来る。


「ありがとうよ、嬢ちゃん。……わしら、ようやく過去を思い出せた」


「……名前も、家族も、苦しんだことも……それでも、思い出せてよかったよ」


 セシリアはそっと微笑んだ。


「語られることは、傷つくことでもある。でも、語られなければ……人は、生きていたことさえ忘れてしまうから」


 崖の上にて、

 一方そのころ。

 エヴァンは村の外れの崖に腰を下ろし、

 遠くの地平線を眺めていた。


 風が草を揺らし、

 剣の柄がかすかに鳴った。


 セシリアがやってくる。


「……一人で考え事?」


 エヴァンは肩をすくめた。


「まあな。偽の俺に言われたこと、ちょっとだけ気になっててよ」


 セシリアはそっと隣に座る。


「語っても届かないって言葉?」


「……ああ。でも結局、俺たち――届かせたんだな」


「うん。語ったからこそ、消えたはずの声が、誰かの中に残った」


 二人の間に、しばしの沈黙。


 だがそれは言葉の終わりではなく、

 語りの余白だった。


 セシリアが最後にぽつりと呟く。


「ねえ、次はどんな語られざる地が待ってると思う?」


 エヴァンは立ち上がり、剣を背負って笑った。


「さあな。……でも、行って確かめりゃいい。語りに行く。それが、俺たちの仕事だろ?」


 夕陽が沈む。

 だが、物語はまだ沈まない。


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