第八話
白紙の地を、再び進む。
戦いが終わり、
空にはわずかな色が戻っていた。
エヴァンとセシリアは、
崩れた結界の向こう、
誰も踏み入れたことのない、さらに奥地へと進み始める。
足元の地面はまだ不安定だった。
だが二人の語りが、
一歩ごとに、確かな現実を形作っていく。
セシリアがそっと呟く。
「……歩くたびに、世界が生まれていくみたいね」
エヴァンは剣を軽く叩きながら笑った。
「だったら、俺たちが歩いた道だけは、ちゃんとした道にしてやろうぜ」
アレイシャ奥地、断片の遺構。
やがて――
靄の向こうに、朽ちた建物群が見えた。
石造りの柱、
風化した碑文、
そして……中央には、一冊の書物を模した石像。
セシリアが顔を強張らせる。
「……これは、語られなかった神々を祀っていた遺構よ」
かつて世界に語られることなく、
ただ消えていった無数の神格たち。
この遺構は、
その記憶を、誰にも知られぬまま抱えていた。
石像に刻まれた断片
石像の表面には、かすれた文字があった。
セシリアが手をかざし、解読を試みる。
やがて浮かび上がったのは、たった一行。
「ここに、語られなかった者たちの名、沈黙の中にあり」
セシリアは顔を伏せた。
「……彼らは、語られることすら許されなかったのね」
エヴァンは剣を静かに地に突き立てた。
「なら、俺たちが語ってやろうぜ。こんなところで、黙ったままなんて、つまんねぇだろ?」
そして二人は、失われた神々の記憶を、
ひとつひとつ、拾い上げることを決意する。
だが――
その瞬間。
遺構の奥、
地の底から、
微かな、だが確かな気配が滲み出した。
セシリアが顔を上げる。
「来るわ。さっきのヴェルダーズたちとは、比べものにならない……異端の本流」
エヴァンは剣を引き抜き、
真剣な眼差しで前を見据えた。
「……上等だ」
遺跡の奥――
地面の割れ目から、冷たい空気が吹き上がった。
石壁に刻まれたはずの文字が、
少しずつ滲み、歪み、
意味を持たない黒い語りへと変質していく。
セシリアが静かに呟く。
「……あれは、語りを喰らう者。正しく語られなかった記憶を、腐らせ、飲み込む存在」
出現――黒き語り手。
靄の奥から、
ゆっくりと影が歩み出た。
背の高い人物。
黒い外套。
顔は仮面に覆われ、
その周囲には、無数の声にならない祈りが渦巻いている。
セシリアはすぐに察した。
「……あなたが、異端の中心」
影は無言のまま、足を止めた。
やがて、仮面の下から低い声が響く。
「語りとは、欺瞞だ」
声は、確信に満ちていた。
「語られるものは、選ばれたものだけ。望まれなかったもの、祈りが届かなかったものは、常に無かったことにされる」
エヴァンが睨みつける。
「それでも、拾い上げる。忘れられたって、拾い直す――それが俺たちのやり方だ」
仮面の者は首を振った。
「甘い。拾い上げられたところで、誰も振り向かないなら、それは結局、死んだ語りだ」
セシリアが一歩前に出る。
「違う。誰も聞かなくても、誰かひとりが語りたいと願うなら、それは、生きている」
仮面の者は一瞬、微かに――ほんの微かに、苦しそうに震えた。
だが次の瞬間。
彼は腕を広げ、周囲の靄を引き裂いた。
「ならば――その生きている語りとやらを、この地で証明してみせろ」
靄のなかから、
かつて滅びた神々の残骸たちが呼び出された。
祈られることを忘れられ、
語られることを奪われ、
苦悶だけを抱えて彷徨う、
名もなき神のなれの果て。
エヴァンが剣を構え、
セシリアが魔導杖を強く握った。
「……わかったよ。ここで、俺たちの語りが、生きてるって証明してやる!」
黒き語り手の詠唱が終わると同時に、
その背後の空間が裂け、五体の影が姿を現す。
それぞれ異なる姿。
獣の首、木の腕、燃える羽、砕けた王冠、欠けた月の面。
だが、どれも共通しているのは、
名前を持たないこと。
「……我ら、名を失いし神々……」
「誰にも祈られず、誰にも呼ばれず……」
「ただ……ここにいることさえ、許されなかった……」
その声は呪いではなかった。
ただ、哀しみに満ちていた。
一体目が地を蹴る。
鎖のような言葉を地面に巻きつけ、
空間ごと斬り裂くように迫る。
エヴァンが迎え撃つ。
《魔刃・疾閃》
魔力を帯びた剣が、語られぬ鎖を断ち切る。
「語られなかったからって、お前たちを否定しない。けど――。お前たちを壊す力は、持ってるぜ!」
二体目が空へ舞い上がり、
翼から火の祈りを放つ。
それは、かつて受けるはずだった供物と祝詞が、
怨嗟に変わったもの。
セシリアが詠唱に入る。
《陣奏魔術・雨遮の環》
空間を反転させ、燃える祝詞を封じる。
「あなたたちの祈り、本当はこんなに――綺麗だったのね」
三体目、砕けた王冠の神がセシリアに語りかける。
「……語り手よ。なぜ、我らを語り直そうとする?」
セシリアは、真っ直ぐに答えた。
「名前が残らなくても、形が失われても、あなたたちが確かに祈られていたことを、誰かが覚えていなきゃいけないからよ。それが――私の語りよ」
その言葉に、一瞬だけ。
王の仮面が、崩れたように見えた。
エヴァンが駆け抜け、
残りの二体を同時に引きつける。
「セシリア、時間を稼ぐ!」
セシリアが頷き、
最終詠唱に入った。
《語環封印・大律章(クロノグラフ=レコード)》
これは、語られなかった神々の記憶を、
物語として封じ、語り直す術式。
詠唱とともに、石碑のような魔法陣が周囲に浮かび上がる。
エヴァンが最後の一閃。
魔刃が冴え渡り、
神のなれの果ての胸元に深く刻まれる。
それは、否定の刃ではなかった。
語られるための印だった。
セシリアの詠唱が完了する。
魔法陣が輝き、五体の神々の影が包まれる。
光に呑まれながら、彼らは最期に、
小さく、確かな声で名乗った。
「……我が名は……アリステル」
「……ナイラ」
「……ゼム」
「……ミリィ」
「……ルドロア」
その名前たちは、
やがて風に乗り、アレイシャの空に消えていった。
黒き語り手は、沈黙していた。
だがその眼差しだけは、
明らかに揺らいでいた。
エヴァンが剣を下ろして言う。
「見たか。これが、語り直す力だ」
静寂のなかに、名もなき風が吹いた。
それは、失われたはずの神々が、
少しだけ微笑んだように感じられた。
滅びた神々の名前が空へ消えたあと、
静寂がアレイシャを覆った。
黒き語り手は仮面の下で、
しばらく何も言わなかった。
だがやがて――
ごく小さな声で、呟いた。
「……なぜ、そこまでできる」
「なぜ、終わった語りを、まだ信じられる」
セシリアは、迷わず答えた。
「だって、彼らは、最後まで誰かに語られたかったから」
「それは――たったひとりでも、その声を拾いたいと願うなら、まだ、生きてる」
黒き語り手は、
ゆっくりと仮面に手をかけた。
顔を晒すことはなかった。
だが、その声には確かに――
迷いと、微かな光が滲んでいた。
エヴァンが剣を鞘に納め、
静かな口調で言った。
「お前が、全部間違ってるとは思わない」
黒き語り手が、微かに首を傾げる。
「だけどな。世界が汚れてようとも、誰かが必死に語り直してる限り、俺は――そっちの側に立つ。それだけだ」
黒き語り手は、
ゆっくりと歩みを後退させた。
彼の周囲に漂っていた靄が、
少しずつ晴れていく。
最後に彼は、
もう振り返ることなく言った。
「……お前たちの語りが、いつか、世界を救うかもしれないな」
「それが、どんなに遅すぎる救いだったとしても――」
そして、彼は
アレイシャの白紙の地平へと消えた。
その姿は、
二度と振り返ることはなかった。
物語のあとで
残されたのは、
穏やかな風と、
まだ名付けられていない静かな空だった。
セシリアが、そっと呟く。
「……少しだけ、この地が、優しくなった気がする」
エヴァンは空を仰いで笑った。
「なら、上等だろ」
二人は歩き出す。
語られざる地のなかを、
まだ誰も知らない新しい語りを探して。
その夜、
エヴァンとセシリアは、アレイシャの一角――
小高い丘の上に、簡単な野営を張っていた。
火の明かりが美しい。
周囲には音もない。
ただ、広がる白紙の大地と、
頭上には、
初めて見る、
星ひとつない夜空があった。
エヴァンは仰向けに寝転び、
両腕を枕にして空を見上げていた。
セシリアは静かに隣に座り、
そっと膝を抱える。
しばらく、何も言わず、
ただ夜を感じていた。
その沈黙は、重くも、苦しくもなかった。
それは――
戦い抜いた者たちだけに許される、
穏やかな沈黙だった。
小さな会話
やがて、エヴァンがぽつりと口を開いた。
「なあ、セシリア」
「ん?」
「……俺たちが語り直してるってこと、誰か、ちゃんと気づいてると思うか?」
セシリアは少し考えたあと、
夜空を見上げながら答えた。
「ううん。きっと、ほとんどの人は気づかない。たぶん、何も変わったようには見えない」
そして、微笑んで言った。
「でも、いいのよ。誰にも気づかれなくても――私たち自身が、知っているもの」
エヴァンはふっと笑った。
「……そっか。なら、まあ、これからも付き合ってやるか。世界の片隅で、地味に語り直していくのに」
夜空の、奇跡。
ふと、
白紙だった夜空に、
小さな、小さな光が灯った。
星でもない、
何かの記憶のかけらのような、
儚い輝き。
セシリアが目を細める。
「あれ、さっき救った神様たちの、名残かもしれないわね」
「だとしたら、悪くない夜だな」
エヴァンが呟いた。
風が吹いた。
静かに、優しく。
二人はそれぞれの背中を預けるように、
星なき空を見上げ続けた。
語られなかったものたちの、
小さな祈りを胸に抱いて。
セシリアの静かな心の声。
――私は、なぜこの旅を続けているのだろう。
夜空を仰ぎながら、
エヴァンの隣で、そっと問いかける。
世界は変わらない。
語り直したからといって、
忘れられたものたちが、
誰かの心にすぐ蘇るわけじゃない。
それでも、
ほんの一瞬、
彼らの名前が風に乗ったとき、
私の胸は確かに――
少しだけ温かくなった。
私は知っている。
語り続けることは、
折れそうな心に、
何度も何度も問いかけることだ。
「本当に意味があるのか」
「こんな小さな声に、何ができるのか」
それでも、私は。
誰かが置き去りにしていった、
小さな物語を拾うために。
誰にも届かないかもしれない、
小さな声を覚えているために。
――歩く。
隣には、
不器用で、まっすぐで、
どこか寂しがり屋な、
エヴァンがいる。
だから私は、
きっとこれからも、何度でも立ち上がるだろう。
語り直すために。
世界を、
少しでも優しくするために。
小さな願い
セシリアは静かに目を閉じた。
空に浮かぶ、かすかな光を胸に刻みながら。
――どうか。
この語りが、誰かの孤独に届きますように。
夜の片隅で、
野営の炎が灯る静かな夜。
セシリアが隣で眠りに落ちたあと、
エヴァンは一人、剣を膝に置きながら、夜空を見上げていた。
――昔のことを思い出す。
どうして俺は、
剣を選んだのか。
過去――少年の日。
あの頃、
まだどこにも所属しない、ただの流れ者だった。
小さな村で、
廃墟の神殿をひとりで守っていた老婆に出会った。
彼女は、誰からも忘れられた神を、
誰に頼まれるでもなく、
ひとりで祀っていた。
村の連中は笑っていた。
「そんな神、とうに滅びたさ」と。
それでも老婆は、
毎日、
壊れかけた祠の前に立ち、
小さな声で祈りを捧げていた。
エヴァンは、
不思議だった。
どうして、
こんな何の力もない神を、
誰にも振り向かれない神を、
祈り続けるんだろうと。
ある日、
荒くれ者たちが村にやってきた。
笑いながら祠を壊し、
老婆を突き飛ばした。
誰も止めなかった。
村人たちは、
ただ遠くから見ていただけだった。
俺は――
気づいたら、
剣を拾っていた。
腕も、覚悟もなかった。
それでも、
体が勝手に動いていた。
うまく斬れたわけじゃない。
何度も地面に叩きつけられた。
それでも、
それでも――
立ち上がった。
少年の決意だった。
老婆は、
倒れたエヴァンのそばで、
小さく笑った。
そして、
ほとんど息も絶え絶えな声で、こう言った。
「……誰にも見られなくても、小さな祈りは、誰かに届くものだよ」
その言葉を、
俺はずっと忘れられない。
あの祠も、老婆も、
その後すぐに消えた。
けれど、
俺の中にだけは、
あの祈りが、
あの剣が、
生き続けている。
現在へ
エヴァンは、
そっと剣の柄を撫でた。
「……俺は、誰にも見られなかった祈りのために、これからも剣を振るうだけだ」
星なき夜空を見上げながら、
エヴァンは微かに笑った。
そして、
隣で眠るセシリアに、
かすかに、聞こえない声で呟いた。
「――お前となら、きっと間違えない」