第七話
王都フェル=グレイ・王立魔導図書館
王都中央区、城塞に隣接する学術区。
巨大なアーチを抜けると、そこにそびえ立つのは――
王立魔導図書館。
石造りの塔群が複雑に連なり、
書架と魔導機構によって支えられた知の迷宮。
セシリアは一歩、踏み出す前に小さく息をついた。
「ここは……魔導師たちにとって、ある意味、戦場よりも恐ろしい場所よ」
エヴァンは苦笑しながら、剣の柄に手をやった。
「剣を振るう暇がないってのが、俺には一番キツいな」
特別閲覧室・アストレイア文書会議
案内されたのは、図書館でも最奥に位置する特別閲覧室。
厳重な魔力封鎖が施された空間に、
複数の魔導官と記録官たちが集まっていた。
中央に置かれた黒曜石の台座には、
厚い金属の箱が据えられている。
そこに収められていたのが――
《アストレイア文書・本体》
かつて世界を変えうる禁断の記述、
語られることすら禁じられた「最初の頁」
館長代理の老魔導官ファルクが静かに口を開いた。
「君たちが各地で拾ってきた断片――補遺集、碑文、祟りの封印、神の名の回復。それらをもとに、我々は《アストレイア文書》の再解読を試みる」
セシリアが歩み寄り、厳しい声で問う。
「再解読? 下手に語り直せば、また新たな現実改変が起こるかもしれない。そのリスクは?」
ファルクは、ため息をつきながら頷いた。
「承知の上だ。だからこそ、君たち『語り直す資格を持つ者』が必要だ」
セシリアが台座に手をかざす。
魔導印認証が行われ、
金属の箱がゆっくりと開かれた。
その中には、
極端に細い羊皮紙が巻かれている。
まるで、語られることを拒むかのように――
セシリアは慎重にそれを広げる。
そこに記されていたのは、
世界の起源についての、まったく異なる物語だった。
これまで広く知られていた創世神話――
「光と闇が分かたれ、神々が生まれ、人間に世界を譲った」という伝承は、
実はアストレイア文書によれば、後から語り直されたものだった。
本当は――
「世界そのものが語られた存在だった」
光も闇も、人も神も、
誰かの語りによって初めて存在を得た。
そして、
語られなかったものは、未だどこかに存在し、今も語られる時を待っている。
セシリアは深く、深く息を吐いた。
「……これが、真実」
エヴァンが眉をひそめる。
「つまり――この世界そのものが、語り次第で変わり続けるってことか?」
ファルクが重々しく頷く。
「この知識を扱う以上、誰もが語る責任を負うことになる。世界を、誰のために、どんなふうに語るのか――それを選ばなければならない」
セシリアは静かに言った。
「……なら、私は、語られなかった者たちの声を拾い上げる側に立つ。忘れ去られた誰かを、誤魔化さず、見捨てず、正しく語り直すために」
エヴァンも短く笑った。
「相変わらず面倒な道を選びやがるな。でも、まあ――それをやるなら、俺も剣くらいは貸してやるよ」
王立魔導図書館、出発前夜。
特別閲覧室の奥、
古地図を並べた作戦室に、
エヴァンとセシリア、そしてファルク館長代理が集まっていた。
ファルクが指差すのは、
王国の北方地図にも、南方地図にも載っていない、
一枚の空白地帯だった。
「ここだ。かつて『語られなかった神々』が封じられた地。正式名称はない。だが古い文書では、《アレイシャ》――語られざる地と記されている」
セシリアは眉をひそめる。
「この領域、魔力の流れが不自然。まるで――現実そのものが不安定な場所みたい」
ファルクは頷いた。
「あそこでは、語ることで初めて存在が確定する。つまり、歩く場所すら、きみたちが語らなければ生まれない」
エヴァンが苦笑した。
「また面倒なとこに行くんだな……」
さらにファルクは告げた。
「気をつけろ。最近、『異端の語り手たち』がアレイシャに向かったとの報告がある。奴らは、失われた頁を改変しようとしている。世界を書き換えるためにな」
セシリアは静かに頷く。
「私たちは、世界を正すためじゃない。世界の本当の声を聴くために行く」
エヴァンが剣を肩に担ぐ。
「正しいかどうかは知らねえが、まあ、俺たちらしいっちゃらしいな」
翌朝。
王都の東門から、
一台の馬車がひっそりと出発した。
荷台には最低限の物資と、
封印術式の札、剣、杖、
そして――まだ語られていない未来への地図。
セシリアが小さく呟く。
「語り直しの旅は、まだ、始まったばかり」
エヴァンが横目で笑った。
「じゃあ、気長に付き合うとするか」
そして二人は、
言葉の生まれるよりも先に広がる、
白紙の大地へと、歩き出した。
――未完の頁をめくりに。
到達――白紙の大地
四日間、馬車を乗り継ぎ、徒歩で山を越えた先。
二人の前に広がっていたのは――
何もない世界だった。
地平線まで続く灰色の靄。
草も、木も、石さえもない。
空も地も、色を持たず、
ただ在るだけの場所。
セシリアが静かに言った。
「……ここが、《アレイシャ》」
「世界の余白か」
エヴァンは剣の柄に手を置きながら周囲を見渡す。
だが、次の瞬間。
エヴァンの足元が――消えかけた。
「!?」
彼は咄嗟に跳びのく。
足を下ろしたはずの地面が、
何も語られなかったために、
存在そのものを失いかけていた。
セシリアがすぐに陣を展開。
《存在確定詠唱・簡易式》
詠唱とともに、二人の周囲にだけ、
仮初めの地面が生まれる。
世界のルール
セシリアが説明する。
「ここでは、私たち自身が語ることで、世界を仮固定しながら進まなきゃならない」
「語らなきゃ、地面すら存在しないってか」
エヴァンは低く呟いた。
それはつまり――
間違った語りをすれば、間違った世界が現れるということでもあった。
進み始めた二人。
だがしばらく進んだ先、
何もないはずの空間に、急に壁のような感触が現れる。
エヴァンが剣で叩くと、透明な振動が広がった。
セシリアが呟く。
「……これは、異端の語り手たちが作った境界ね。私たちの進行を阻むために、先にこの地を語り変えた者たちがいる」
そのとき――
靄のなかから、ふわりと声が響いた。
「ようこそ、旅人たち。この地の言葉は、お前たちのものではない」
そこに立っていたのは、
ローブをまとい、顔を隠した数人の影。
異端の語り手たち――
《ヴェルダーズ》
語りの余白を好き勝手に書き換えようとする集団だった。
セシリアが警戒しながら問う。
「あなたたちは……何を目指して、ここを改変しているの?」
最も前に出たヴェルダーの一人が答えた。
「正しき世界の否定だ。旧き語りは腐っている。ならば、我らが新たに語ろう。世界に、意志を。破壊と再創造の物語を!」
エヴァンが低く吐き捨てた。
「……またかよ。世界を壊して、自分に都合いい物語に作り替えようってやつらか」
セシリアは冷静に構えた。
「なら、止めるしかないわね」
灰色の大地、白い靄のなかで、
エヴァンとセシリアは異端の語り手たちと対峙していた。
ローブの中心に立つリーダー格のヴェルダーが、
ゆったりと手を広げる。
「見ろ、旅人たち。この世界は余白だ。誰にも語られず、誰にも望まれず、ただ忘れ去られた頁」
「ならば――」
その声は、靄の奥にまで響いた。
「好きに語り直して、何が悪い?」
セシリアが鋭く返す。
「語り直すことと、好き勝手に書き換えることは違うわ」
「違わないさ」
ヴェルダーが嗤う。
「語りとは、望みだ。誰もが自分のために物語を作る。世界を、他人に支配される理由はない。ならば、より強い語りが勝つべきだ」
エヴァンが低く呟いた。
「……聞き飽きた理屈だな」
セシリアが隣で小さく頷く。
「力で語りを押し通すなら、また誰かが忘れられるだけ」
「違う!」
ヴェルダーが声を荒げる。
「忘れられる者など、最初から弱い。忘れられることを恐れるなら、もっと強く、もっと鮮烈に、語られるべきだった!」
その言葉には激情があった。
しかし、同時に――
深い諦めと、焦りも滲んでいた。
立場の違い。
セシリアは静かに答えた。
「人は、そんなに強くない。すべての人が、鮮烈な語りを持てるわけじゃない。だからこそ、私たちは拾い上げる。忘れられた声を、小さな願いを、静かな祈りを。それを、力で塗り潰していいなんて――私は絶対に、認めない」
エヴァンが剣を抜いた。
それは、威圧でも挑発でもない。
ただ、ごく自然な動作だった。
「お前らみたいな連中を、これまで何度も斬ってきた。けどな――斬るたびに思うんだよ。世界を好き勝手に語り直す奴より、誰にも語られなかった奴の声のほうが、よっぽど重い」
ヴェルダーが低く笑う。
「ならば、その語りが強いか、我らの語りが強いか――この地で決めようじゃないか」
ローブの下から、
魔導陣と詠唱の気配が湧き上がる。
同時に、靄のなかから無数の言葉の断片――
改変された語りが具現し、
戦場を作り変え始めた。
セシリアが杖を構え、
足元に精密な魔導陣を描きながら言う。
「世界を奪う語りと、世界を守る語り。どちらが正しいかなんて、答えは出ないわ。でも――」
彼女は鋭く杖を振り上げた。
「私たちは、絶対に負けない!」
そして、
語りと語りが交錯する、
白紙の戦場での戦いが始まった。
ヴェルダーズたちが、靄のなかで呪文を紡ぎ始めた。
「この地に、刃の雨を!」
たちまち、空から無数の黒鉄の刃が降り注ぐ幻影が広がる。
語りによって作られた殺意の雨だった。
セシリアが瞬時に対応する。
《重詠魔法・盾歌(バリス=カンティクル)》
高速詠唱による結界魔術が展開。
音の波動が空間を歪め、
鉄の雨を弾き飛ばす盾となる。
「防御は任せて! エヴァン、行って!」
エヴァンは剣を抜き放った。
剣に魔力を纏わせる。
刃の周囲に、燃え立つような白い光が滲む。
それは、
魔力を剣身に直接流し込む、
魔剣士の戦闘技術――
《魔刃・斬裂》
「――行くぞ」
地を蹴り、雷のように走る。
ヴェルダーズたちは次なる語りを放った。
「この地に、氷の牢獄を!」
足元から急速に氷の蔓が伸び、
二人を拘束しようとする。
だが――
エヴァンの剣が、それを断つ。
「斬れるさ。たとえ語られたものでも、意志で生み出したなら、それは現実だからな!」
剣が光を引き裂き、氷の牢獄ごと幻影を切り払った。
ヴェルダーズの一人が呻く。
「剣で語りを斬った……!? そんな馬鹿な……!」
セシリアが、冷たく言い放った。
「彼は剣で語るのよ。それが、エヴァン・クロスフィールドの力」
セシリアもまた、反撃に出る。
静かに、しかし確かな声で詠唱を開始する。
《大系魔術・第四篇《星霜の槍雨(メテオ=レインスピア)》》
空に巨大な魔法陣が開き、
無数の銀色の槍が、光の尾を引いて舞い降りる。
ヴェルダーズたちが慌てて結界を張るが、
セシリアの魔法はそれを貫いた。
「これが、大魔導士の力よ!」
エヴァンがすかさず地を蹴り、
セシリアの魔法で乱れたヴェルダーズたちに斬り込む。
一閃、二閃――
魔剣に纏った魔力が、敵の詠唱陣を破壊していく。
靄のなか、
白い光と、銀の槍雨と、剣の稲妻が交錯する。
追い詰められるヴェルダーズ
ヴェルダーズたちは後退し、
最後の抵抗に入る。
「――我らは、すべての語りを超越する!」
大地そのものを語り変え、
巨大な異界門を開こうとする。
セシリアが顔色を変えた。
「あれは――異界の力を呼び込む語り! ここを、アレイシャごと歪ませるつもりよ!」
エヴァンが剣を強く握った。
「……だったら、ここで終わらせるしかないな」
地面が震えた。
ヴェルダーズの詠唱が高まり、
白紙だった地平に、巨大な裂け目が生まれる。
それは門。
異界と現実の境界をねじ曲げ、
この地を語り変えた世界へと塗り替える力。
靄の中、異界の気配が漏れ出す。
重力がねじれ、光が歪み、
正常な言語すら通じなくなる兆候――
セシリアが即座に陣を展開した。
《封界結界陣・応急式》
まずは異界の侵食を一時的に食い止める。
「急がなきゃ、ここ全体が書き換えられる!」
エヴァンは剣を持ち直し、
魔力をさらに刃に流し込む。
「あんなもの、開ききる前に叩き潰す!」
ヴェルダーズのリーダーが、
腕を大きく掲げ、
最後の詠唱を紡いだ。
「――我ら、語りし者。忘れられし地に、新たな神話を刻まん!」
空間が唸りを上げ、
門の裂け目から、異形の影が蠢き始める。
セシリアが詠唱に入った。
《封絶詠唱・双旋律》
世界改変を止めるために、
二重結界を同時に発動する高位術式。
「エヴァン、私が門を抑える間に――!」
「わかってる!」
エヴァンは、
魔剣に限界近い魔力を叩き込んだ。
剣が脈動し、
光が刃を這い、
一振りするたび、
空気が悲鳴を上げる。
《魔刃・断絶閃(クレスト=ブレイカー)》
魔力刃による超高速突撃――
狙うはただひとつ。
開きかけた異界門の核。
地面が軋み、
空間が歪み、
だがエヴァンは止まらない。
彼の剣は、
破壊ではない。
誰かが語り直した小さな祈りを、
否定しないための一撃だった。
――刃が、門の核を貫いた。
同時に、
セシリアが封絶陣式を展開し、
異界門に縫い留められていた語りの構造そのものを、
精密に、緻密に、封じ込めた。
光の奔流。
魔力の網が裂け目を覆い、
ゆっくりと、確実に、
門は消えていく。
ヴェルダーズのリーダーが呻いた。
「……なぜだ……なぜ、古い語りを守ろうとする! こんな世界に、何の意味がある!」
セシリアが静かに答えた。
「意味なんて、最初からないわ。でも、誰かが願ったこと、誰かが祈ったこと、それを、無かったことにしたくないだけ」
エヴァンも剣を下ろしながら言った。
「それが、俺たちが、ここに立ってる理由だ」
異界門は完全に閉じられた。
靄のなかに、静かな光が差し込む。
ヴェルダーズたちは敗れ、
静かにその場から消えていった。
だが、世界を好きに語り直そうとする者たちの野望が、完全に消えたわけではない。
セシリアが空を見上げた。
「まだ……私たちの語り直す旅は、終わってないわね」
エヴァンは笑った。
「なら、付き合ってやるよ。最後の頁までな」