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第六話

 王都フェル=グレイを発って七日。

 草原を越え、廃村を過ぎ、人の声を失った荒野の先に、それはあった。


 旧聖都アルマレシア。


 遠目にもわかる。

 壁は崩れ、塔は折れ、

 だがなお、聖堂の尖塔だけが空に突き刺さるように立っている。


 セシリアは馬を下り、風に顔を向けた。


「ここは、かつて世界中の記録が集まった場所。そして、語りが祈りへ変わった地でもある」


「その祈りが、今は祟りになってんのか……皮肉だな」

 エヴァンは剣を軽く叩いた。



 市街地跡を抜け、二人は中央区画へ。

 崩れかけた石畳には、かつての生活の痕跡が残っていた。


 そして、大聖堂の裏手、隠された階段。

 地下聖堂への入口が、半ば瓦礫に埋もれながらも、まだ開かれていた。


 セシリアが慎重に魔導札を展開する。

 地脈を探り、封印結界の有無を確認。


「……結界は存在していない。つまり、封印はすでに破られている」


 エヴァンが剣を引き抜き、狭い石階段を下る。



 空気は乾いているのに、濡れた匂いがした。

 遺された語りが、まだここに澱んでいる。


 地下聖堂・第一層

 最初に出迎えたのは、沈黙。


 大空間に、折れた石柱、倒れた神像。

 そこに、何者かの声も、祈りも、もうない。


 セシリアが壁の刻文に手を触れる。


「これ、古神語……でも、一部が削られてる。第四の神の記録だわ。名前が、意図的に消されてる」


「誰が? なんのために?」


「おそらく……この神を、語り直すため。民衆の信仰を操作し、別の名を与えたのよ」


 そのとき。

 空気が震えた。


 壁に刻まれた文字列が、微かに発光する。


『……我は、忘れられし名なり。』


 そして、石の床に黒い液体のようなものが滲み出す。

 それは言葉のように蠢きながら、ひとつの形を成した。


《無名祟神(ナモナ=イシュタ)》


 名を失った神の残響。

 それは、人の祈りによっても救われず、語られることも拒まれ、ただ存在を否定され続けた哀しき神のなれの果て。



「この存在は……語られなかったことで、世界に怨嗟を積もらせた。ただ忘れられたのではない、意図的に忘れられた。」


 エヴァンが剣を握り直す。


「そんなもん、放っとけるわけねえだろ」


 地下聖堂に、二人の意志が響いた。


 この敵は、単なる暴力の具現ではない。

 それは存在を語られなかった苦しみそのもの。

 斬るべきは肉体ではなく、語られなかった痛みの構造。


 ナモナ=イシュタが動いた。

 だが、それは通常の生物の動きではなかった。


 影が床を這い、空間の中に存在の歪みを広げていく。


 その歪みは、言葉にならない呻き声を伴い、周囲の石壁や空気さえも軋ませた。


 エヴァンが前に出る。

 剣を低く構え、すぐさま第一撃。


 だが――

 刃が触れる前に、身体が重くなる。


「っ……何だ、これ……!」


 セシリアが叫ぶ。


「気をつけて! あれは存在の重圧よ! 名前を持たないことによる存在不安が、空間そのものを圧し潰してる!」


 ナモナ=イシュタが、文字でも声でもない念話のような圧を放った。


『語れ……語れ……語られよ……』


 影が広がり、周囲の光景が変質する。


 床にはかつての聖都の賑わいが、歪んだ幻として広がる。

 子供たちの笑い声。

 市場の喧騒。

 祭りの歌声――


 だがそれらは、すべて無音で、無色だった。


「……これが、失われた語られなかった都の記憶……」

 セシリアは札を展開しながら、目を細める。


「侵食されるわ。これに呑まれたら、私たち自身の名前も、存在も、消される!」


 エヴァンは剣を握り直す。


「だったら、消える前に、ぶっ壊すだけだろ」


 彼は疾走する。


 広がる幻像のなかを、まだ語られていない空白を切り裂くように。


 剣先がナモナ=イシュタの影の核に達する。

 だが触れた瞬間、今度は――


 エヴァン自身の過去が引きずり出される。


 失った仲間。

 果たせなかった約束。

 守りたかった誰かの名。


『おまえは、何も語らなかった。だから、おまえもまた……名を失え。』


 エヴァンが膝をつきかけたそのとき――


 セシリアが叫ぶ。


「エヴァン、立って! あなたは剣で語ってきたでしょう――! 誰よりも、不器用な言葉じゃなく、行動で!」


 その声が、名を持たない虚無の中で、彼に一筋の意味を手渡した。


 エヴァンは、深く息を吸い込む。

 そして叫んだ。


「俺は、誰かに語られるために生きてきたんじゃねえ! 自分で、自分を語るために――ここにいるんだよ!!」


 剣が、光った。


 それは技名も、記述もない、ただ、生きるという意志だけを叩きつける一撃だった。


 エヴァンの剣がナモナ=イシュタを貫く。


 同時にセシリアの詠唱が完成する。


無記録終止符サイレント・エンド


 存在しなかったまま祟った語りを、

 未完のまま、そっと閉じる封印術式。


 ナモナ=イシュタは、無数の影の断片となり、静かに崩れた。


 そこには、憎悪も悲しみもなかった。

 ただ、言葉にならなかった祈りが、ようやく眠るように消えたのだった。


 戦いのあと、地下聖堂は、再び静寂を取り戻した。

 照り返す朝の光が、崩れた石の隙間から差し込む。


 セシリアがそっと言った。


「……これで、旧聖都の記憶も、少しだけ救われたわね」


 エヴァンは剣を鞘に納め、

 崩れた聖堂を見上げながら、ぼそりと呟いた。


「記録に残らなくてもさ。誰かの心に残ったなら――それが、語られるってことなんだろうな」


 これで、旧聖都アルマレシアでの無名祟神との戦いは幕を閉じる。



 地下聖堂・深層部

 無名祟神を封じた後も、セシリアは注意深く地脈を探っていた。


「まだ、何かある」


 彼女は指先にわずかな魔力を込め、崩れかけた床の下に感知を走らせる。


 やがて、見つけた。

 封印されず、記録されず、ただ埋もれていた石板群。


 エヴァンが瓦礫を除ける。

 そこに現れたのは、古びた一冊の記録本だった。

 表紙には、かすかに残る金文字。


《アストレイア補遺集 第一断章》


 セシリアがそっと開く。


 中の文字は風化し、半ばしか読めない。

 それでも、ある一節が目に留まった。


「第四の神――語られざる救済の担い手。名は消され、信仰は歪められ、いま、影のなかに別名を得てなお生きる。」


 そして、その横に小さく、手書きで付け足された注記があった。


「現在、彼の神格は〈イドラス〉の名で信仰されている」


 セシリアが顔を上げる。


「イドラス……この名前、今も北方の辺境で信仰されているわ。でも、伝承によれば破壊神として忌み嫌われてる」


 エヴァンが眉をひそめる。


「つまり――本来は救済を司った神が、誤って破壊者として語り直されたってことか」



 セシリアはそっと記録本を閉じた。


「……これは、ただの歴史の歪みじゃない。この読み違えが封印を崩し、新たな祟りを生むかもしれない」


 エヴァンは剣を肩に担ぎ直す。


「なら、また行くしかねぇな。どこまでも、語りの歪みを正しにさ」


 セシリアは頷いた。


「次は北方よ。〈イドラス〉と呼ばれる神の足跡を追う」


 地上に戻ると、朝日が廃墟を金色に染めていた。

 かつての聖都の影は、静かに光に溶けていく。


 だが彼らにはわかっていた。

 まだ、すべての物語は読み終わっていない。


 まだ、幾重にも折り重なった語られざる頁が、

 彼らを待っている。


 こうして、エヴァンとセシリアは再び王都フェル=グレイへ向かう。

 そしてその先に待つのは、北方辺境・封じられた破壊神伝説の謎。



 王都に戻った二人は、まずギルド本部へ向かった。

 受付で簡易報告を済ませ、

 旧聖都での封印作業が完了したことを確認する。


 書類手続きは淡々と終わった。

 だが、担当官カレルはいつになく真剣な顔で言った。


「……ご無事で何よりでした。旧聖都の封印については、正式に《深層記録局》の保存対象にします。これ以上、語られぬ声が増えないように」


 セシリアは軽く頭を下げた。

 彼女の背中には、まだ地下聖堂で拾った《アストレイア補遺集》の重みがある。


 夕暮れの街角。

 手続きを終えた後、二人は王都の中央区を歩いていた。


 夕陽が石畳に長い影を落とし、路地からはパン屋の香ばしい匂いと、広場からは楽師たちの奏でる笛の音が流れてきた。


 セシリアは立ち止まり、ふと、近くの露店で焼き菓子を一つ手に取った。


「一つ、どう?」


 エヴァンに差し出す。

 エヴァンはちょっと驚いた顔をしたが、受け取って齧った。


「……甘ぇな」


「疲れてるときは、これくらいがちょうどいいのよ」

 セシリアが小さく笑った。


 水の広場にて。

 広場の中央には、大理石の噴水があった。

 人々が集い、子供たちが水をはね上げて遊び、

 旅の商人たちが野菜や香草を広げて店を開いている。


 エヴァンとセシリアは、その片隅に腰を下ろした。


 しばらく、何も言わずに水音を聞いていた。


 やがて、エヴァンがぽつりと言った。


「お前さ。本当は、どこまで行くつもりなんだ?」


 セシリアは空を仰いだ。

 夕陽の下、王都の尖塔が、遠くかすんでいた。


「世界が語り直されるその場所まで」


「語り直すって、そんなに大事なことか?」


 セシリアは目を閉じる。

 そして、静かに答えた。


「誰かが一度でも願ったものを、誤魔化したまま放っておくのが、いちばん怖いの」


 エヴァンは剣を指でなぞりながら、言った。


「なら、俺は――お前が語り直すまで、剣を預かってるだけだ」


 セシリアが目を開けた。

 その瞳は、真っ直ぐに光っていた。



 旅立ちの前夜。

 夜。

 星が灯り始めた王都を見下ろす宿の窓辺で、二人は次なる地図を広げる。


 北方辺境、アルカステル地方。

 そこに、破壊神イドラスの祟りが芽吹きつつあるという。


 地図の向こうには、未だ語られぬ物語が、深く、暗く、眠っていた。


「……明日出立だな」


 エヴァンが言った。


 セシリアも静かに頷いた。


「次の頁を、めくりに」



 次なる舞台は、王都から遠く離れた北方の冷たい大地。

 破壊神と恐れられた存在イドラスの影が、今なお人々の語りの中で歪み、封印を蝕んでいる。


 エヴァンとセシリアは、

 新たな語り直しのために、凍れる地へ旅立つ。



 王都フェル=グレイを発ったのは、まだ朝霧が街を覆う頃だった。


 馬には物資と装備を積む。

 道は北へ。

 大河を渡り、平野を越え、やがて草も生えぬ不毛の荒野へと入っていく。


「空気が……冷たいな」

 エヴァンがマントを肩に巻き直す。


「この辺りは、季節を問わず氷雨が降るわ」

 セシリアが馬車の帆を引き締めながら答える。


「それに、この地方では、神々は畏れとしてしか語られない。祈りも、願いも、すべて……恐れを通して捧げられるの」


「それだけ信仰がねじれてるってことか」

 エヴァンが低く呟く。


 日が傾くころ、ようやく目的地にたどり着いた。


 アルカステル地方、旧集落ウルヴァ。


 かつて小さな教会を中心に栄えていた村だが、今は廃墟と化し、風だけが通り抜けていた。



 教会の石壁は崩れ、祭壇だった場所には蔦が絡まり、割れた鐘楼からは金属片が吊り下がったままだった。


 セシリアは注意深く歩き、壁に残る文様を探し出した。


「これ……イドラス信仰の痕跡ね。本来は救いの神だったはずなのに、今では破壊の使徒として祟られてる」


 そして、祭壇の裏。

 半ば朽ちた隠し扉を見つける。


 エヴァンが力任せに押し開くと――地下へ続く急な階段が口を開けた。


 空気は冷たく、だがその奥に、確かに呼びかける何かがあった。


『来たれ……語れ……違えし名を……』


 セシリアが呟く。


「やっぱり、語り違えられた存在が眠ってる」



 二人は魔法の灯を掲げ、石造りの階段を降りていく。


 そこはかつて、神への祈りを捧げる聖堂だった。

 しかし今は、壁一面に禍々しい文字が刻まれていた。


 祈りではない。

 呪いのような名を呼ぶ声だった。


「イドラスよ、破壊せよ」

「イドラスよ、裁け」

「イドラスよ、すべてを呑み込め」


 本来救いを求められたはずの神が、恐怖と絶望によって歪められた祈りを受け続けてきた。


 セシリアは顔を曇らせる。


「これは……語りの力そのものが、神格を汚染している」


 突然、回廊の奥から気配が走った。


 空間が震え、闇のなかから何かが立ち上がる。


《祟語の従者ミュータント・ヴォイス


 かつて信徒だった者たちの語りが肉体を持った存在。

 自らを神と呼び、神の名で呪いを撒く、哀れな亡者たち。


 語りによって穢された元信徒たちは、もう生者でもなく、神の救いも知らない。

 ただ呪詛の言葉を糧に、存在している。


 この戦いは、剣と魔法だけではなく、言葉そのものとの戦いでもある。


 地下回廊の奥――暗闇を割って、祟語の従者たちが現れた。


 その姿はかつての信徒たちのなれの果て。

 衣服は朽ち、肌は灰色にただれ、口からは絶え間なく、呪いの祈祷文を吐き出している。


「イドラスよ……破壊を……呪いを……」


 その声を聞くだけで、空間が揺らぐ。石壁に刻まれた文字が、呻き声のように滲み出す。


 エヴァンが剣を構える。

「こいつら、言葉そのものが武器になってやがる……!」


 祟語の従者たちは、祈りにも似たリズムで呪詛を重ねる。

 そして、それは現実を侵食し始める。


「壊れろ」


 その言葉と同時に、エヴァンの足元の石畳が爆ぜた。


「沈め」


 セシリアの灯火が一瞬、かき消されかける。


 セシリアが札を展開する。


詠唱遮断結界ミュート・シールド


 これは、音声と意味を空間ごと切り離す魔術。


「こっちの耳に入る前に、意味を断ち切るわ!」


 光の膜が彼女たちを包み、呪詛の響きは外側で弾かれた。


 エヴァンが剣を握り直す。


「今だな」


 彼は疾走する。

 影のように低く構え、呪いの祈祷を続ける従者たちの間に突っ込んだ。


 一閃。

 祟語の従者の首が跳ねた。

 だが血も出ない。

 その身体は、語られた呪いの集合体――

 切り裂かれることで、ようやく沈黙するのみ。


 さらにもう一閃。

 セシリアの札が追い打ちをかけ、

 空間を覆っていた呪文の構造を断ち切る。


 祟語の従者たちが倒れた後、

 地面に一つだけ、黒い核のようなものが残った。


 それは、無数の祈りと呪いが凝縮された塊。


 そこから、微かな声が響いた。


「イドラス……救え……」


 セシリアが苦悩の表情を浮かべる。


「これ……彼らが最後に願った、本当の言葉だわ……」


 エヴァンが剣を構える。

 だが、セシリアは首を振る。


「違う。これは斬るものじゃない。聞くべき声よ。」


 セシリアはそっと、手のひらをかざし、封印術を発動した。


静語収束サイレント・コンバージェンス


 救いを願った最後の声だけを、静かに抱きとめ、黒い核を浄化する。


 それは、憎しみや呪いではなく、ただ誰かに救われたかった、名もなき人々の祈りだった。


 すべてが静まった。

 地下回廊には、ただ乾いた空気と、微かに安堵したような残響だけが漂った。


 戦いのあとエヴァンは、深く息を吐いた。


「……呪いも、救いも、ひとつの言葉で紙一重なんだな」


 セシリアは静かに頷いた。


「だからこそ、語り直さなきゃいけない。誰かを傷つけるためじゃなく、誰かを守るために」


 こうして、祟語の従者たちとの戦いは終わった。

 だが、彼らが祈りを向けた先――本来の神、《イドラス》の真実へは、まだ辿り着いていない。


 さらに地下深く、神の心臓部と呼ばれる領域へと進むことになる。



 地下聖域・入口

 祟語の従者たちを超えた先、地下回廊はさらに狭くなり、やがてひとつの門に辿り着いた。


 門には封印の紋章。

 それはすでに半ば崩れ、かろうじて神格の残滓を押さえ込んでいるだけだった。


 セシリアが魔力を集中し、指先に陣式を浮かび上がらせる。

 札ではない。本来の大魔導士としての詠唱魔法だった。


《門解封呪・第一旋律オープン・ルナティック


 音を伴う微細な詠唱とともに、魔法陣が門の表面に滲み広がる。

 その音に合わせるように、崩れかけた封印が静かに解かれた。


 神の心臓部・到達。

 門を抜けた先は、異様な空間だった。


 地下なのに空がある。

 しかしそれは星も太陽も持たない、永遠に灰色の空。


 床は黒曜石のように光を反射し、遠く、巨大な脈打つ構造物――

 まるで心臓のようなものが鼓動しているのが見える。


 セシリアは顔をしかめた。


「あれが……神の心臓部。忘れられた神格が、語られなかった記憶と祈りを寄せ集めて、なおも生き延びている場所」


 エヴァンが剣を抜いた。


「……来るな」


 第一防衛層・祈語の守護者。

 心臓部に向かおうとした瞬間、黒曜の床から影が立ち上がる。


 姿を持たぬ影たち。

 だがそれぞれの影には、かつての神官たちの祈りが刻まれている。


《祈語の守護者フェイスガード


「語られなかった神に仕えることを選んだ者たち……」

 セシリアは静かに魔力を高める。


 もう札だけでは間に合わない。


 本格詠唱、開始。


 セシリアが魔導杖を構え、両手に複数の陣を重ねた。


《連環大魔術式・四重奏クアドラル・アリア


第一詠唱《断絶の環》:敵の空間干渉を断つ。


第二詠唱《絶語の剣》:言葉を武器にする守護者たちを無力化。


第三詠唱《静謐の海》:周囲の祈りの残響を吸収。


第四詠唱《封鎖の虚環》:敵の召喚行動を封じる結界。


 四重の魔法陣が次々と展開され、

 空間が震え、守護者たちの影が捕縛される。


 エヴァンがその隙を突いた。

 影の中核を見抜き、一撃で斬り裂く。


 光と影の交錯。


 次々に倒れる祈語の守護者たち。


 しかし――

 心臓部は、なおも脈動している。


 そこから滲み出るのは、本体。


「……イドラス……」


 深奥から声がした。


 それは神ではない。


 誤って語られた、祟りとなった、もう誰も正しく語ることのできない神のなれの果て。



 人々の「恐れ」と「祟りの語り」によって変貌した存在。

 今や「破壊神」として歪められた《イドラスの影》。


 エヴァンとセシリアは、剣と魔法、そして語り直す意志を武器に、この最後の祟りに立ち向かう。


 黒い心臓部が大きく脈打つ。

 そしてその中心から――


 影が立ち上がった。


 巨大な人型。

 顔はなく、腕は鎖のように無数の言葉を巻き付けている。

 その背には、祈りの断片が翼のように砕け散っていた。


《イドラスの影(フォルス=イドラス)》


 それは、かつて「救いを司る神」として祀られた存在。

 だが今は、人々の「恐れ」によって破壊と呪いを帯びた姿へと変貌していた。


「……ここまで、壊れてるのね」

 セシリアが息を呑む。



 イドラスの影が腕を振るうと、空間が裂けるように軋み、祟りの波動が一気に押し寄せた。


「壊せ……壊せ……この世界を……」


 エヴァンは剣で波を斬り払い、セシリアは魔導杖で魔法障壁を張る。


「意味を破壊する波……! 受けたら、存在ごと無かったことにされる!」


 セシリアが即座に大規模詠唱を開始する。


《拒絶術式・零地点アブソリュート・ノータリー


 この魔術は、まだ語られていない領域を空間に創り出し、祟りの波が「意味」を侵す前に無効化する。


 四重結界が張られ、エヴァンはその内側から一気に突撃した。



 剣を振るいながらも、エヴァンは悟る。


 この影は、ただ壊そうとしているのではない。


「救いたかった」

「でも救えなかった」

「だから……すべてを壊してしまいたかった」


 それは、かつて祈りを受けた神の、壊れてしまった心そのものだった。


 セシリアが叫ぶ。


「エヴァン、斬るだけじゃダメ! 彼をただ滅ぼしても、また同じ祟りが生まれるわ!」


 エヴァンは剣を下ろし、

 叫んだ。


「――だったら、お前の名前、もう一度、俺たちが呼んでやる!」



 セシリアが最後の魔法陣を展開する。


《真名召喚術式・修復詠唱ネーム・リコンストラクション


 かつての名前――本来イドラスが持っていた、救済の神としての真の名を、今この場で呼び戻す儀式。


 エヴァンが剣を逆手に構え、

 セシリアの詠唱に合わせて地面に剣で線を刻む。


 二人の魔力が共鳴する。


「イラディオス――」


 それが、失われた本当の名だった。


 影の巨体が震え、壊れかけた祈りの断片が光に変わり、一枚一枚、翼のように復元されていく。


 イドラスの影が、静かに手を伸ばした。

 それは破壊でも呪いでもない。

 ただ、誰かに救われたかった手だった。


 セシリアが呟く。


「ようやく、あなたの名前を呼べたわね……」


 エヴァンは剣を鞘に納めた。


「おかえり、イラディオス」


 影は光となり、

 地下聖域の空は、

 初めて清らかな白に染まった。


 ――語り直された神との邂逅。

 影は光となり、地下聖域全体が淡く照らされる。

 そしてその中心に、一人の人影が立っていた。


 それは、年若い旅人のような風貌だった。

 髪は銀灰、瞳は深い碧。


 だが、その眼差しはどこまでも優しく、どこまでも深かった。


 セシリアが、驚きと畏敬を込めて息を呑む。


「あなたが……本当のイラディオス……」


 イラディオスは微笑み、かすかな声で応えた。


「……名を呼んでくれて、ありがとう」


 その声は、剣よりも鋭く、魔法よりも柔らかく、ただ、人の心に真っ直ぐ届くものだった。


 エヴァンが、剣を支えに立ち上がる。


「……悪いな。俺たちが呼んだ名が、ほんとに正しかったかは分からない」


 イラディオスは首を横に振った。


「名は正しさではない。誰かが願いを込めて呼んだ時、その名はもう、新たな存在となる。だから――今の私は、きみたちが呼んでくれた、イラディオスだ」


 セシリアが一歩、彼に近づき、尋ねる。


「あなたは、これからどうするの?」


 イラディオスは、少しだけ寂しそうに、けれど確かに笑った。


「もう、世界に干渉することはない。私は語り直された存在――本当の意味で、自由になった。ただ……」


 彼は空を見上げる。


「時々、どこかで誰かが、小さな声で私の名を呼ぶかもしれない。その時、私は、微かにこの世界を祝福するだろう」


 風が吹いた。


 光の粒子が、イラディオスの身体を包む。


 そして彼は、静かに、

 どこへでも行ける者のように、


 世界へと溶けていった。


 エヴァンとセシリアは、

 ただその場に立ち尽くしていた。


 長い沈黙のあと、エヴァンがぼそりと呟く。


「……あれが、語り直すってことか」


 セシリアは、そっと微笑んで答えた。


「ええ。忘れられたものを、否定するんじゃない。受け止めて、新しく生きてもらうこと」


 地下聖域の空は、もはや灰色ではなかった。


 そこには、どこまでも透き通った、青い空が広がっていた。


 こうして、破壊神と呼ばれた存在を正しく語り直すことで、封印された祟りは終焉を迎えた。



 ――破壊神と呼ばれた存在、イラディオスとの邂逅を終え、北方辺境アルカステルでの戦いを締めくくったエヴァンとセシリア。

 二人は静かに王都フェル=グレイへの帰還の途につく。


 だがそれは、単なる戦いの後ではない。

 語り直した存在たちの想いを胸に、彼らは、次の物語へと歩き出す。



 帰還の道すがら、北方の空は、抜けるように高かった。

 雪解けの大地を踏みしめ、

 エヴァンとセシリアは馬を進める。


 エヴァンがふと、隣を見る。


 セシリアは疲れているはずなのに、その表情には不思議な静けさが宿っていた。


「なあ」

 エヴァンが言った。

「もしも、また語られなかった何かに出会ったら、俺たちは、また同じことをするんだろうな」


 セシリアは少しだけ考えたあと、答えた。


「ええ。それが、私たちが選んだ道だから」


「……めんどくさい道だな」


 セシリアはくすりと笑った。


「でも、悪くないわよ」



 王都フェル=グレイの城壁が、遠くに見えた。


 高い塔。

 賑やかな市場。

 石畳に踊る夕陽。


 すべてが、かつてと変わらぬように見えた。

 けれど――彼らの歩みだけは、もう決して同じではなかった。


 ギルドに戻ると、書類担当官カレルが驚いた顔をして出迎えた。


「……本当に、ご無事で」


 セシリアは軽く肩をすくめる。


「祟りの神とちょっと話をしてきただけよ」


「ちょっと、ってレベルじゃないだろ」

 エヴァンがぼそっと突っ込む。


 手続きの間、カレルが差し出したのは、王立魔導図書館からの召喚状だった。


「アストレイア文書――その全容解明に向けて、君たちの協力を要請する」


 そこには、次なる冒険への予感が、あからさまに匂っていた。


 すべての報告を終えたあと、二人はギルドの小さなテラスに出た。


 そこから見える王都の空は、以前よりも少しだけ広く、青かった。


 セシリアがポツリと言った。


「きっと、まだまだ語られなかった頁は残っているわ」


 エヴァンは剣の柄に手を置きながら、答えた。


「それをめくる旅なら――もうちょっと、付き合ってやるよ」


 太陽は傾き、夜のとばりが静かに街を包み始めた。


 だが、二人の物語は、まだ夜にはならない。


 ――未完の頁の、その先へ。

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