第五話
王都フェル=グレイは、夕立のあと。
石畳には水の筋が残り、路地裏の空気は涼やかだった。
ギルドに戻ったエヴァンとセシリアは、受付で簡単な報告と記録処理を済ませ、
応接用の小部屋へと通された。
「おかえりなさい、セシリア様、エヴァン様」
応対に現れたのはギルドの文書担当官・カレル。
真面目一辺倒の青年で、紙と記録を何より愛する男だ。
「今回の語の残響体に関する記録は、秘文扱いになります。詳細報告は、王立魔導図書館にて補完する形となります」
「まあ、あれは読まれない方がいい類の物語だ」
エヴァンが肩をすくめる。
「それと……お二人宛に、特別な依頼書が届いています」
そう言ってカレルが差し出したのは、古びた羊皮紙に封蝋が押された書状だった。
封にはかつて失われた魔導王朝の印――フォルト=シア家の象徴が。
セシリアが眉をひそめる。
「これ……神語で書かれてるわ」
エヴァンは読み取れない文様に首を傾げる。
セシリアが訳しながら読む。
「かつて神を記し、神を裁いた者たちがいた。だがその物語は歪み、今や忘れられし神の名が別の姿で語られている。ひとつの神話が、誤って祟りとなった。正しき物語を知る者よ――真実を記しに、来たれ」
「……これ、神の再定義に関する封印の崩れかもしれない」
セシリアの目が冴える。
「神の……再定義? また面倒な予感しかしないぞ」
エヴァンは額を押さえる。
次の目的地――神々の山アノスタ
書簡には、次の目的地が記されていた。
神々の山アノスタ地方――
古来より伝承が交錯する場所であり、
そこにはひとつの崩れた神殿があるという。
その神殿には二つの神話が眠っている。
一つは、民が語る神の救済。
もう一つは、記録の奥に封じられた神の真名。
かつては一致していた二つの物語が、今は違う形で人々に伝わっている。
それが――封印を蝕み始めている。
「行くのか?」
「ええ。これは……語りの戦いよ。今度は、誰かの信じた神話が間違っていたかもしれない。でもそれを否定するだけじゃ、何も守れない」
「語り継がれた物語が、誰かを救ってきたってのにな。間違いだったとしても――それで救われた奴らを否定するわけにはいかない」
「だから、記すの。新しく。何が間違いだったのかじゃなく、どう読み直せるかを見つけに」
こうしてエヴァンとセシリアは、
次なる目的地――神々の山アノスタへと旅立つ。
そこで彼らを待ち受けるのは、
かつて語られた神と、今語り継がれている神話の齟齬。
真実は記録に眠り、けれど民の信仰は語られた物語に基づいている。
封印は揺らぎ、信仰と記述の狭間で、新たな選択が迫られる。
旅の途上・アノスタ地方への道――
王都を出て三日目。
馬車を降りた二人の前に広がるのは、青々とした山岳地帯――
山脈アノスタは、その稜線が空を裂くように連なり、
山腹には霧がかかり、どこか神秘めいた静寂を湛えていた。
「まるで空に登る階段みたいね」
セシリアが風を受けながら言った。
「山の上に神殿……やれやれ、毎度高いとこばっかりだな」
エヴァンは腰の剣を軽く叩く。
山の麓に広がるのは、アノスタ村。
かつて神殿に仕えていた巫女の末裔たちが暮らす土地で、
今なお語りの儀式が年に一度、村の祠で行われている。
二人が訪れると、ちょうどその準備の最中だった。
子供たちが木彫りの神像を磨き、老女たちは祈祷歌を口ずさんでいた。
セシリアがそっと問う。
「この神様の名前、なんて言うの?」
老祈祷師が微笑む。
「セレス神じゃよ。昔、雷を鎮め、大地に水をもたらしたお方じゃ。わしらはそのおかげで作物を育て、こうして生きてこれた」
「……その名に、記録はあるの?」
「さあのう。言い伝えでな。文にするほど偉い神様じゃない、ってことかの」
だが――
セシリアは、ギルドで受け取った封書の一文を思い出していた。
「忘れられし神の名が、別の姿で語られている」
彼女は感じていた。セレスという名の背後に、本来の神の名が隠されている。
「あの神像……おかしいわ。顔を削って造り直した跡がある」
セシリアは木像の額に微細な刻印を見つける。
「削り取られたのは――真の名前」
山頂の神殿跡にて。
翌日、二人は村の許可を得て、山頂の神殿跡へと登る。
そこはすでに崩れ、苔と風に浸食されていたが、
地中には禁じられた書石の封印が今なお脈動していた。
セシリアが地面に手を添える。
「ここよ……封印された神の名が、まだ眠ってる。
でも、完全には沈黙していない」
エヴァンが剣に手をかける。
「じゃあ、誰かが再び語ろうとしてるってことか……」
そのとき、風が止まり、空気が音を失った。
足元の地に、震えるような文字列が浮かび上がる。
『……我が名を――語れ……』
セシリアが叫ぶ。
「来るわ、また語の具現――今度は、民の信仰と記録の齟齬が、封印を歪めて生まれた存在よ!」
そして地より現れたのは、
神像の姿を借りながらも、顔を持たぬ存在――
偽神影(セミ=セレス)
村の祈りが生み出した間違った神話のかたちにして、
本来の神の名を覆い隠す、信仰の仮面。
この偽神影は、単なる魔物ではなく、信仰によって強化される存在。
剣や魔法だけでなく、語りや真実が戦いの鍵を握る。
信仰によって支えられた幻像の神にして、本来の神の名を塗り潰す語りの暴走の具現。
神殿の崩れかけた石柱の中央、光でも闇でもない色をした霧が渦を巻いた。
そしてそこから、ゆっくりと浮かび上がったのは――
神像の輪郭を持つ異形。
木像のような外皮、枝のような髪、
顔は空白、だがそこに語られた願いが浮かんでは消えている。
「恵みをください」
「雨を止めてください」
「私の子を救ってください」
村人たちが長年祈り続けた言葉が、今なおこの幻神を支えている。
セシリアが札を構えながら叫ぶ。
「これは、ただの封印破れじゃない。信仰が存在を作ってしまったのよ!」
偽神影が動く。
祈祷文のような詠唱が空間に満ちると同時に、
その声に反応して周囲の物理法則が書き換えられる。
「水をもたらせ」
地に突如、局所的な雨雲が発生し、冷たい豪雨が降る。
「守り給え」
神像の外皮が硬化し、エヴァンの一撃を跳ね返した。
「くそっ、まるで祈りの通りに書き換えられてるじゃねぇか!」
エヴァンが剣を振り下ろすも、文字の結界に弾かれる。
セシリアは地に広げた陣に札を展開。
呼び出すのは、神語解析の術式――
《異語照応式・第七節「真名の探知」》
「間違って語られた名は、その輪郭に嘘を帯びる。でも、言葉は常に真を求めて揺れるの……」
札が神影の体に触れると、幻像の外皮が一瞬だけ亀裂を生む。
「見えた……本来の名、セレスはセレティアから削られて生まれた偽名。これは、語り手の忘却によって変質した神名よ!」
「じゃあ、あいつは……本物じゃないどころか、本物の名を上書きして生まれた仮面か!」
エヴァンが再び斬り込む。
今度の斬撃は通った。
語られた祈りでは覆いきれない事実の痕跡が露出していた。
偽神影が呻くように腕を振り、
空中に村人の祈りを叫ぶような声が幾重にも重なる。
「否定しないで――」
「この神は私たちを守ってくれたのに――」
セシリアの手が震える。
「……否定なんてしない。でもこれは、あなたたちが願った姿じゃない。言葉を、もう一度正してあげる――それが記録者の責任よ!」
《終名》――言葉の終着点を定める封印呪文。
「偽りの名セレスを、ここに終わらせる。真の名セレティアよ、戻れ!」
その瞬間、神影の外皮が崩れ始める。村人の祈りが空にほどけていく。
偽神影が最後に発するのは、名前でも言葉でもない。
静寂。
その沈黙こそが、名前を語られなかった存在の証。
エヴァンが斬り下ろしたのは、幻像の心臓部――
そこに書かれていた偽名セレスの三文字。
「誰かの願いが、間違って形になったなら――それを正すのが、俺たちの役目だろ」
斬撃と封印が同時に炸裂。
幻神は霧のように崩れ、風に溶けていった。
残されたのは、静かな風と、
祠に戻された一冊の石板。
そこに、新たに刻まれていたのは――
《セレティア》――雨と雷と、沈黙の神。
セシリアが静かに言った。
「今度は、正しく語られた名前。嘘じゃなく、けれど人の想いを否定しない形で」
エヴァンは頷く。
「語り直した、ってわけだな。この物語は、これからまた誰かが読んでくれる」
神の名を語り直し、偽神影(セミ=セレス)を封じたエヴァンとセシリア。
二人はアノスタ村へ戻り、村人たちに事の顛末を報告する。
だがこの帰還は、ただの戦果報告ではない。
語られた神話を正すとは、すなわち――信じてきた者たちと向き合うことでもある。
村に戻ると、祠の前で待っていたのは、
あのとき神像を磨いていた子供たちと、老祈祷師だった。
老女はエヴァンの顔を見るなり、そっと問いかける。
「……セレスは、おらんようになったのかい?」
セシリアは一瞬、言葉を選んだ。
「セレスという名前は、これで終わり。けれど、あなたたちの願いは――ちゃんと別の形で残したわ」
「セレティアという名を、私たちは見つけた。本当の、でもあなたたちの祈りと矛盾しない……語り直された神よ」
老祈祷師は、何も言わずにうなずいた。
その手が震えていたのは、怒りではなく――安堵の震えだった。
「そうかい……。わしらの祈りが、嘘じゃなかったって……それだけで、十分じゃ」
子供たちは、「セレティア」と口にしてみて、
名前の響きの美しさに笑顔を浮かべた。
祠の再建と、灯の儀式
翌朝、村では新たな神像のための祈りの準備が進んでいた。
木を削り直し、名を刻み直す。
顔は、昔のままではなく――今の語りに合った新しい姿として。
セシリアがそっと手を添える。
「名を語るとは、形を与えること。でもそれは記録の束縛じゃない。誰かの祈りが、新しい物語になることもあるの」
エヴァンは祠に新しい札を差し入れた。
それはセシリアが書いた、語り直しの記録。
《セレティア》
雨と雷、そして沈黙の神。
人の語りが形を変えたとしても、
真なる祈りは、風に乗って届く。
村を去るとき、老祈祷師は、彼らに手紙の束を渡した。
「山の向こう、旧聖都の地下に、同じような語りのずれがあるらしい」
セシリアはそれを受け取り、眉をひそめる。
「この名前……アストレイア文書に記されていた第四の神の記述……あの神が、別の名前で語られている可能性がある」
エヴァンがため息をつく。
「またかよ……けど、行くんだろ?」
「ええ。私たちは、記録を読み直すためにいるのだから」
こうして、神々の山アノスタでの冒険は終わった。
だが語り直しの旅は、まだ続く。
次なる舞台は――かつて世界の記録を保管していた、旧聖都の地下。
忘れられた神の別名が、祟りとともに目覚めようとしていた。