第四十四話
王都フェル=グレイ。
その中心にそびえる王立記録局――
そこへ緊急の徴集警報が鳴り響いたのは、夜が明けきらない薄闇の時刻だった。
石壁を震わせたのは、ただの警鐘ではない。
“名の震動”そのものが国土を揺さぶったのだ。
机上の羊皮紙が、一斉に白化した。
兵士たちの胸元の名札が読み取れなくなった。
果ては、王都大図書館の目録までもが“名称不明”へと変質する。
記録局長ラグスが蒼白な顔で告げた。
「……とうとう来てしまった。“根名ゆらぎ”だ。王国の根本を規定する大名。あれの一部が……消えかけている」
エヴァン・クロスフィールドは眉を寄せた。
名の揺らぎは魔法にも剣技にも影響する。
一国規模で起これば、いずれ魔術体系全体が瓦解する。
横に立つ大魔導士セシリア・ヴァレンタインが、淡々と補足した。
「根名は“王国という概念そのもの”を定義する基準です。それが不安定化するというのは──国が国でなくなる前兆に等しいわ」
ラグス局長は、ひとつの封蝋付きの文書を示した。
「中心域へ遠征してほしい。そこに王国の根名を司る“記述の中心”がある。……調査の公式任務として選ばれたのは、君たち二人だ」
エヴァンは短く頷き、セシリアと視線を交わす。
「やるしかないな」
「ええ。ここが崩れれば、どれほど修復しようと意味をなさなくなるもの」
二人は出立の準備に取りかかった。
中心域へ至る旅路は危険だ。
王国を形作る“名”が希薄化した影響で、
空白獣 と呼ばれる名なき怪物が増殖している。
それらは、名を喰う。
呼称を剥ぎ取り、存在を曖昧化し、やがて消滅させる。
任務は明確――
王国根名の異常の調査と、原因の特定。
必要があれば、根名の修復。
二人は、霧煙る中心域へ向けて歩み出す。
その背後で王都の鐘が鳴り響く。
これは警鐘ではなく、“名の減衰”によって鐘の名前が消えかけ、
本来の音が出なくなっている証であった。
セシリアが呟く。
「……急がないと、王国そのものが無名になってしまうわ」
エヴァンは剣の柄を握り直す。
「だから俺たちが行くんだ。この国の“名”の中心まで」
風景が変わったと気づくより、
まず 名の揺らぎ が肌に刺さった。
エヴァンは眉をひそめ、周囲を見渡した。
そこは王都から東へ馬で数日。
どの地図にも“白地”として扱われる禁断領地――
地形は存在しているのに、
語彙が追いつかない。
丘は“丘のようでありながら丘ではない形”に揺らぎ、空は“青”という色を保ちきれずに時おり、“名称未定の光”へと変質する。
草を一つ摘めば、それが“草”なのか“草という言葉の残骸”なのか、判然としない感触だけが残った。
セシリアが魔導杖を握りしめ、息を詰める。
「……これが中心域の外縁。名が限界まで希薄化している……。“現実”より“概念”が濃い領域ね」
エヴァンは剣を下ろしたまま、周囲の地形を確認する。
「歩くだけで少し気持ち悪いな。地面が“地面のつもり”で立ってる感じだ」
この地点に入ったのは王立記録局の歴史上、わずか七名。
そのうち四名は帰還できず、二名は言語機能障害が残り、まともに報告書を提出できたのはただ一人。
その「唯一の生還者」が残した言葉はただ一文。
『中心域は言葉の形をしていない』
そして今、エヴァンとセシリアはその不可視の特異点へ向かって進んでいる。
中心域に近づくほど、
“名の強度”が落ちていく。
それはつまり、
ものを指し示す言葉が失われつつある ということだ。
方角の名称が曖昧になる。
時間の進行が不揃いに感じられる。
地形そのものの概念が薄れる。
魔法の属性呼称が不安定化する。
セシリアは足を止め、
小さく呪文を唱えた。
「……“光”……ランプ、灯って……」
杖の先に光球が生まれる。
だがその輝きは脈打つように形を変え、“光”と“光になり損ねた何か”を往復していた。
エヴァンが呆れ気味に笑う。
「おいおい、あのセシリア様が不安定って……。この領域、ほんとに嫌がらせみたいだな」
「名の密度が薄いのよ。呪文の構文が、世界に正しく解釈されないの……」
中心域への旅は、足取りより先に 概念の揺らぎ が襲うのだ。
しばらく進むと、風景の奥に淡い“亀裂”が見え始めた。
深さでも高さでもない。あれは“名称の裂け目”だった。
セシリアが小声で呟く。
「……あれが、中心域の境界線。“ゲートライン”と呼ばれる現象」
エヴァンは剣を抜き、慎重に近づく。
裂け目の周囲では石や草が 名称のリズムを失って ぷつぷつと消えたり現れたりしている。
まるで世界そのものが“自分の語り方を忘れた”ように。
セシリアが言葉を選びながら説明する。
「ここから先は、王国根名――王国そのものの名前が揺らいでいる領域よ。この揺らぎに共鳴して、王国全土で“名の欠落”や“記憶の空白”が起き始めている」
エヴァンは深く息を吸った。
「つまり……この先で何かが壊れてる」
「ええ。王国を定義する“名の構造”そのものが」
風が吹いた。吹いたのに、音に“名前”がなかった。
それは、王国そのものの死の予兆。
エヴァンは剣を握り直し、ただ一言。
「行くぞ。中心域へ」
セシリアは頷き、杖を構える。
そして二人は 王国の名の中枢へ 足を踏み入れた。
風が変わった。
王国中心部へ向かう大地が、いつの間にか“音”を失っていた。
風が吹いているのに、草は揺れるのに――
名を呼ぶ気配がどこにもない。
セシリアが歩みを止めて、足元の土をすくい上げる。
砂粒は手のひらでほどけ、輪郭を失い、ただの“揺らぎ”へ溶けた。
「……やっぱり、ここから先ね。王国を支える根名が弱っている」
エヴァンは前方の霞を凝視した。
平原が緩やかに沈み込み、巨大な“くぼみ”を形成している。
その中心は、まるで古代の大図書庫の書架をひっくり返したような――
層が剥き出しになった地形 だった。
「これが……中心域か」
セシリアが頷く。
「王国の“名の情報”が折り重なって広がる場所。私たちが普段目にしている世界は、あれの一番表層に過ぎないわ」
くぼみの内部は、巨大な円錐のように広がっていた。
だが普通の岩肌ではない。
複数の“文字の地層”が、露わになっている。
古王朝時代の筆記層。
精霊時代の呼称層。
王国建国の頃に編纂された名簿層。
現代の街路名、人物名、魔術式の定義層。
まるで、王国という一冊の書物を巨大な断面で見せつけているかのようだ。
しかし異変は一目で分かった。
層の端々が“破れている”。
名の線がずれ、呼称の文法が歪み、ところどころに黒い空白が染みている。
セシリアの声に緊張が混じる。
「……ここまで広範囲に空白汚染が出ているなんて。放っておけば王国全体の名前が“崩落”するわ」
エヴァンは剣の柄を握りしめた。
「王立記録局の予測より、ずっと進行が早いな……。急ぐぞ、セシリア。“核”にたどり着かないと」
二人は、断層の縁に架かった自然橋へと足を踏み入れた。
眼下には、文字の流れが川のようにうねり、名前の断片が風に舞い、ときおり無音の“欠損”が光を吸い込む。
中心域は、美しく、そして危険だった。
その最奥で、王国の根名が――いままさに崩れようとしている。
中心域の外郭を突破したエヴァンとセシリアは、“名の海”の奥底へと踏み込んだ。
足を下ろした瞬間、大地ではなく名の断片が積層した層がざらりと崩れて沈んだ。
「……地面じゃないな。“呼ばれなくなった名”が、地層みたいに積もってる」
「この第一階層は《名の地殻層》。本来は自然分解された名が静かに沈む“墓場”……だけど、今は異常ね。再活性してる」
足元から、かすれた音が響く。
読めない文字、途切れた単語。
それらが砂のように崩れながらも、
意味を取り戻そうと身じろぎしていた。
「名が……自分から“立ち上がろう”としてる?」
「ううん。“誰かが”無理やり動かそうとしてるのよ。この気配……中心域のさらに奥に、“指示者”がいる」
エヴァンは剣に手を添え、警戒を強める。
周囲の霧は、読めない言語が煙のように漂っている。
意味のない言葉――しかし「名」だったもの。
それらがふっと集まり、一カ所に凝縮した。
霧が、輪郭を帯びる。
セシリア「来るわよ。第一階層の守護――」
エヴァンは半歩前に出る。
「――《ストラタ・レイス》」
霧は獣の形をとった。
骨のような文字列、皮膚の代わりに文節の影。
眼窩は空白で、名が存在しない虚無が渦巻いている。
名の墓場に彷徨う、最初の敵。
ストラタ・レイスが口を開くと――
「□□□□□□□□□□!」
“声にならない名”が衝撃波として吐き出された。
「――来るぞ!」
獣の影が跳躍し、周囲の地層から“忘れられた名の破片”を吸い上げ、爪へと凝縮させる。
セシリアが詠唱を開始。
「《言の盾》――展開!」
名の断片が盾となり、レイスの爪撃をしのぎながら散った。
エヴァンは一気に踏み込む。
「セシリア、こいつ……攻撃のたびに名の破片を吸って強化してる!」
「ええ、見えてる……! レイスは“名の層”から力を取る存在。つまり、“地面そのものが敵の武器”よ!」
地層がざり、と動く。レイスの足元に裂け目が開き、奥底から大量の文字片が噴き上がる。
「なら――“名ごと断ち切る”!」
エヴァンの魔剣に魔力が集まり、白い光が文字群を引き裂いた。
が、レイスは揺れただけで崩れない。
裂けた文字片が空中で再構築され、再び鎧のように獣を覆う。
「……再生が早すぎる。エヴァン、こいつは“倒す相手”じゃない――《本来の名》に還す相手よ!」
「名を……還す?」
セシリアの指先が獣の額を指し示す。
「見て、エヴァン。額の中心……『抜け落ちた名の核』。あれを埋め戻せば、レイスは暴走をやめる!」
エヴァンは目を細める。
確かに、獣の額にはぽっかりと空いた空白――“黒い穴”があった。
「核が空っぽだから、名を求めて暴れてるのか……!」
「そう。だから“名の破片”を与えて、核を満たす――『名の帰納』でレイスを鎮める!」
エヴァンは剣を逆手に持ち替え、頷いた。
「分かった。じゃあ――俺がこいつを止める。セシリア、名を集めて“核”を満たしてくれ!」
ストラタ・レイスが咆哮し、地層が波のように隆起する。
エヴァンはその前に立ち、剣を構えた。
「行くぞッ――!」
そこから、王国根名の危機の序章として初めての「名の怪物」との“鎮魂戦” が始まる。
ストラタ・レイスが咆哮し、空間が“記述断層”ごと反転する。
地形が波のようにめくれ、岩の層が文字の断片のように剥がれ落ちる。
セシリアが叫ぶ。
「エヴァン、来るわ! 名の“層圧”で押し潰す気よ!」
黒い層が迫る――ただの物理的攻撃ではない。
名前そのものを圧縮し、短縮し、歪めて消す“名の圧殺”だ。
エヴァンの輪郭がぎしりと歪む。
「く……そ……ッ!」
名が押しつぶされれば存在の持続性が消える。
このままでは、その場に“エヴァ”という断片だけを残して彼は消滅する。
セシリアが杖を突き出し、魔力陣を展開すると周囲の断層文字が青く光る。
「――【対層式・名位固定】!」
空間の揺らぎが一瞬止まる。
たった一秒も持たないが、反撃の窓が開いた。
「エヴァン! 今よ!」
「任せろッ!」
跳躍。名を削る“層圧”の波の上へ飛び乗り、逆巻く文字の流れを切り裂くように剣を構えた。
エヴァンの刃が光る。
――名位転換術式!
剣が触れた瞬間、ストラタ・レイスの表面が“書かれる前の白紙”へと巻き戻る。
だが――。
「ギィイイイアアアアアアアアッ!!」
ストラタ・レイスは退かない。
むしろ白紙化した部分を逆利用し、“未定義空間”を生み出してエヴァンごと吸い込もうとする。
セシリアが表情を硬くする。
「駄目……あれ、名のない地帯! 一度落ちたら帰れなくなる!」
エヴァンは吸引に逆らい、剣を地面に突き立て耐える。
「しくじったか! だが――書き換える!」
吸引の“中心”に向けて剣を振る。剣先から火花ではなく、エヴァン自身の「名の輝き」 が飛ぶ。
セシリアは目を見張った。
「エヴァン……自分の名の力を直接使うなんて……!」
普通なら自壊の危険を伴う行為。
だが、彼は迷わない。
「俺は“エヴァン”だ。俺の名は――ここで折れたりしない!!」
名の輝きが未定義空間の中心に突き刺さる。
未定義は“定義”を得て形を持ち、逆にストラタ・レイスの核を露出させた。
セシリアが詠唱を開始する。
「――名よ、照応し、交差し、重なり出でよ。【名層束縛】!」
レイスの手足を包む“層”がひとつ、またひとつ縛り付けられ、動きが完全に封じられる。
エヴァンが叫ぶ。
「セシリア、固定を頼む!」
「全層、拘束完了! ……エヴァン、行って!」
彼は地面を蹴り、露出した核へ一直線に突っ込む。
剣に力を込める。
「終わりだ――【名位転換・断層崩し】!!」
渾身の一閃。
ストラタ・レイスの核が走り書きの文字へ砕け散り、
断層空間に静寂が訪れた。
光の粉が舞い、第一階層の揺らぎが収まり始める。
セシリアがエヴァンのもとへ駆け寄る。
「エヴァン! 無事……?」
彼は肩で息をしながらも力強く頷く。
「ああ……何とか、な」
二人の視線の先に、崩れたレイスの中心から一枚の“名の欠片”が現れる。
青白く光る小片。
王国根名を構成する文字の一部と思われた。
セシリアはそれを手に取る。
「……やっとひとつ。でもエヴァン、これは“最初の層”に過ぎない」
エヴァンは剣を握り直し、
まだ揺らぎ続ける階層の奥を見据えた。
「分かってる。先へ進もう。根名の崩壊は、まだ始まったばかりだ」
ストラタ・レイスが砕け散った余波は、単なる魔物の消滅ではなかった。
砕け散った粉塵が空間の裂け目へ吸い込まれ、第一階層の天蓋――薄膜のような層が、ゆっくりと“書き換えられる”。
セシリアがその変化を見上げる。
「……見て。層が“名の分岐式”へ移行してる。ここが第二階層──《ディバイド・レイヤー》」
エヴァンは息を整えつつ、剣を下げる。
「分岐……名前の“別の可能性”ってことか?」
「そう。名が持ち得た“別の運命”……あるいは“もしもの世界線”。中心域は段階を下るほど“名の構造そのもの”に近づいていく」
第一階層は名の外殻。
第二階層は名の分岐。
つまり、ここでは王国根名が“どちらへ向かうはずだったのか”──その“選ばれなかった歴史”そのものが可視化される。
風景が揺らぎ、無数の光の筋が立ち上がる。
剣、杖、冠、城壁、墓標。
それら全てが“名前の分岐可能性”として揺らめいていた。
エヴァンはその光景に目を凝らし、眉をひそめる。
「……これ、全部……?」
「そう。王国が持ち得た“別の名”の歴史よ」
セシリアの声は静かだった。
「“選ばれた名前”だけが現実になり、“選ばれなかった可能性”はこうして沈んでいく。本来は決して外に出ない構造……でもいまは不安定化して、漏れ出している」
そのとき、足元が揺れた。
エヴァンが構え直す。
「敵か?」
「……違う。これは階層の“誘導”よ」
第二階層は、生き物のように道を変形させる。
誘うように、二人の足元がゆっくりと移動し始めた。
同時に、遠くで何かが“鳴った”。
……コォォォォォン……
鐘の音のようで、悲鳴のようで、そして何より――名前を呼ぶ声のようだった。
セシリアが息を呑む。
「この階層……どうやら、王国の分岐史そのものを再現するつもりね」
エヴァンもそれを理解した。
「つまり――」
「ええ。これから私たちは“ありえた王国”と出会う」
二人の前に、巨大な“裂け目”が開いた。
その奥には、王都のような街並みが広がっているが──現実の王都ではない。
旗の紋章は見たことのない形。
兵士の鎧も、街の配置も、
王国史に記されていない。
エヴァンが呟く。
「……ここが“別の王国”……?」
セシリアは頷く。
「王国根名が本来はこうなっていたかもしれない、“選ばれなかった国名”。その名を基盤にした世界が、ここに生成されている」
そしてその街の中心に、禍々しい“崩壊孔”があった。
「……あれが第二階層のコアか?」
「ええ。あそこに触れれば、分岐の正体がわかるはず」
風が吹く。
街の窓という窓から、人影がこちらを見ていた。
その全員が──
エヴァンによく似た顔 をしていた。
「……なんだ、これ……?」
「“別の可能性としてのあなた”。名の分岐が、あなたに反応しているのよ。ここでは、あなたが“王国の名の中心”になっている」
エヴァンが息を呑む。
その瞬間。
街の影から、何かが動き出した。
無音のまま迫る黒群。
人の形をしている。
しかし輪郭が揺らぎ、目がない。
セシリアが即座に詠唱に入る。
「来るわよ、エヴァン! 第二階層の番人──《ディバイド・レイス》!」
エヴァンは剣を抜き、前へ出る。
「……いいだろう。分岐の化け物なら、斬って確かめるだけだ!」
――第二階層・名の分岐層。
“選ばれなかった王国の名”と“選ばれなかったエヴァン”。
その全てが襲いかかる、危険極まりない領域。
空間が、裂けた。
耳を裂くのではなく、“記憶の奥底をひりつかせる”音で。
第二階層へ足を踏み入れた瞬間、エヴァンとセシリアの前方に、深い陰が滲み出る。
――いや、“湧いた”のだ。
名の渦に膨張し、覗き込み、こちらを見返してくる巨大影。
ディバイド・レイス。
人型の外形をわずかに保ちつつ、輪郭は常に揺れ、黒い霧と欠落文字の粒子を撒き散らしながら漂っている。
空洞の眼窩には、異質な二つの紋。
一つは「欠名」《ネームレス》の紋。
一つは「偽名」《フェイク》の紋。
それらが交互に点滅し、一定の自我すら保っていないことを示していた。
そして――。
「来るぞ、セシリア!」
エヴァンの叫びと同時、レイスの影腕が伸びた。
空を裂くのでも、大地を穿つのでもない。
“二人の記憶の一点”を狙って直進する。
セシリアは瞬時に詠唱を折り畳む。
「《記述拒絶結界=ディクライン・ドーム》!」
名文が空中で円環となり、迫る影腕を受け止めた。
だが――。
ひびが入る。
まるで“記憶に爪を立ててくる”ような、嫌悪感を伴う音が走った。
「こいつ……防御を“分岐”させて食い破ってきてる……!」
ディバイド・レイスの力の本質は「選択の強制」。
対象の記憶・名・思考を分岐させ、
“ありえた可能性”を実体化させて襲わせる。
影の中から、もう一本の腕が伸びる。
それは――
エヴァン自身の影だった。
「俺……の“別の名”か!」
エヴァンは構えを崩さず、逆に踏み込む。
「セシリア、同調を取る!」
「了解――!」
二人の名がわずかに重なり合う。
文字と呼気が交錯し、一本の線へ統合される。
エヴァンの名片が刃の形を取り、セシリアの編纂術式がその表面に規律を刻む。
二人が同時に振るう。
影の腕と、偽のエヴァン影が断ち割られ、第二階層の薄闇に黒い波紋が散った。
だがレイスは後退しない。
呻き声のような雑音とともに、胸部が割れ、三つ、四つ――無限にも思える“別の可能性の顔”が覗いた。
どれも二人の知る誰かに酷似しながら、「こうではなかったはずの名」を携えて歪んでいた。
「……こいつ、本格的に来るぞ」
「分岐層の守護者……いや、“可能性の亡霊”そのものね」
次の瞬間。
レイスが膨張し、空間全体がさざめく。
“二人の記憶”が揺らぎ始めた。
エヴァンの視界に、“もし自分が王都に残っていたなら”という別の人生の断片が突然混ざる。
セシリアの脳裏には、“もし研究院を離れなかったなら”という別の道筋が割り込む。
二人の足元に走る亀裂が、白か黒か、過去か未来かも分からぬまま分岐していく。
レイスの声が、空洞の奥底から響いた。
「どれが『本当の名』か。選べ」
その声が放つ圧は、名の構造に直接触れ、誤った選択を強制されれば、即座に名が崩壊する類の危険な波動。
「選べって……!」
「選ばされたら負けよ、エヴァン! これは“強制分岐”!」
二人が同時に、結論へ辿りついた。
――互いの名を“現在”へ固定すること。
「セシリア! 俺はここにいる、今のお前と!」
「私だって同じよ。だから――ブレないで!」
二人は手を伸ばし、名の線を合わせる。
交差点が脈動し、レイスの揺らぎへ反衝撃を送る。
「食い破れ、《名現実返し=リアライズ・リバース》!!」
二人の連撃が、レイスの胸部中心――
揺らぎ続ける“不確定核”へ突き刺さる。
空間が急激に白く閃き――
そして、破裂した。
第二階層全体が、押し広げられたように揺れる。
絶叫のような“名の悲鳴”が、層全体の空気を震わせて消えた。
分岐層を覆っていた歪色の霧が、撃破されたディバイド・レイスの崩壊とともに裂け、音もなく吸い込まれるように消滅していく。
巨大な幽影は、エヴァンが突き刺した名刃の返す光を境に、二度と再生しえない形で解体された――名の座標そのものから削除されたのだ。
セシリアは薄くひかる灰の雨を払いつつ、周囲を見渡した。
「……静か、になった?」
静寂というより、“一時的な停止” と呼ぶほうが近い。
分岐層はなお続いている。むしろディバイド・レイスの破砕によって、これまで押し隠されていた“層の本来の顔”があらわになりはじめていた。
エヴァンは剣を納め、中央に立つ巨大な「断層の門」を見据えた。
霧が薄れると同時に、奥の壁面――いや、“記述そのものの地層”が振動し、亀裂のような紋が走る。
次の瞬間、それは明確な構造物として姿を変えた。
形態未定の文字列が門の輪郭を模し、ゆっくりと回転を始める。
中心域第三階層への正規ルート――《オクゲート》だ。
やがて、セシリアが低く呟いた。
「門が……開こうとしている。ディバイド・レイスを倒したことで、“分岐の揺らぎ”が収束して……層が、次の記述へ進むように促されているわ」
門面に刻まれた無数の筆致が、まるで誰かの手書きのように動く。
近づくほど、耳の奥に“古層言語”の囁きが染み込む。
――名の中枢へ進む資格を証明せよ。
内側からそう声がした気がした。
エヴァンは一歩、門へ踏み出す。
「セシリア。ここから先は……王国根名の変調を引き起こしている源流に触れる領域だ。覚悟は、あるか?」
セシリアは短く息を吸い、頷いた。
「当然よ。ここまで来て戻るつもりなんてないわ。私たちが止めなければ――王国の名そのものが崩落する」
門が低く呻き、光が縦に裂けた。
《オクゲート》が開く。
第三階層――“根源記述層”。
名の成立を規定する初期文脈が眠る場所。
ただし、二人はまだ知らなかった。
ディバイド・レイス撃破によって開いたこの門は、本来は“人間”が踏み入ることを想定していない階層だということを。
風が吹いた。
紙のような質感をもった虚風が、二人の体表の“名の輪郭”をなぞっていく。
「行こう、セシリア」
「ええ。中心域の核心に触れるまでは止まらない」
ともに一歩踏み出すと、門の向こうの光が二人を包み込んだ。
門を越えた瞬間、世界は形を変えた。
そこは――
世界の根を裏側から覗き込むような空間だった。
地面の概念は薄く、踏みしめた場所は硬質の光でも石でもない、「言語化される前の輪郭」。
色彩は淡い灰と金と蒼が混ざり合い、視線の角度によって、まるで“文章の余白”が形を持って立ち上がるように見える。
遠方では、天井とも空ともつかぬ闇に、無数の細い文脈が線となり、ゆっくりと回転していた。
一つひとつの線は、読み上げれば世界のどこかを構成する“名の式”になるのだろう。
だがいまは――すべてが乱れた手稿のように揺らぎ、いつ崩落してもおかしくなかった。
セシリアは息を飲む。
「……見て。ここ、すでに“意味”が死にかけている」
エヴァンは周囲を見渡す。
「名の土台が……文字の砂のように崩れていく。王国の根名の揺らぎが、ここまで進行しているというのか」
足元では、地面のように見えていた層がひび割れ、砂のような粒子となって舞い上がり――
だが砂ではなく、かつて存在した誰かの名の破片だと、二人にはわかってしまう。
前方に、一本の巨大な裂け目が走る。
裂け目はゆっくりと螺旋状に伸び、深核層の奥へと続いていた。
そこだけは、他よりも安定しているようで――
まるで“名の中心核”へ辿り着くための一本の主文脈のようだった。
「……行くしかないな」
「ええ。ここから先は、おそらく“名の本体”に触れる領域……」
セシリアは喉が鳴るのを抑え、続ける。
「最悪、王国そのものの存在が書き換えられる……そんな可能性が、現実味を帯びてきます」
エヴァンは短く息を吐いた。
「だったらなおさら、踏み込んで確かめなければならない。ここで退けば、すべてが崩れる」
二人は主文脈の回廊へ歩みを進めた。
その瞬間――
深核層の奥から、巨大な鼓動が響いた。
世界そのものが、脈打った。
――それは、生き物の鼓動ではなかった。
空間そのものが脈打ち、名の式が震え、文脈の線がゆらりと波打つ。
エヴァンとセシリアは同時に足を止めた。
次の瞬間、深核層の奥から、淡金色の波が押し寄せてきた。
波は光でも魔力でもない。“意味”そのものの脈動。
世界が存在し続けるために必要な根源の拍動が、形を持って押し出されているのだ。
「……これが、王国根名の鼓動……?」
セシリアの声は震えていた。
鼓動が過ぎ去ると、二人の体表をかすめていた“名の輪郭”は微かに変色していた。
それは――この層が持つ影響が、人間の存在そのものに干渉し始めている証。
エヴァンは眉を寄せた。
「危険だ。これ以上の深層では、名の構造が直接侵食を始める……」
「でも、行くんでしょう?」
セシリアは静かにエヴァンを見た。
瞳の奥には恐怖があった。しかし、それよりも強い意志があった。
「行かないわけにはいかない。この脈動は、限界が近い証。根名が崩れれば――王国は、名の基盤ごと消滅する」
エヴァンは短くうなずいた。
主文脈の回廊は、脈動のたびごとにゆっくりと収縮し、まるで生きた器官の内部を通っているようだった。
やがて、回廊の壁面に沿って、淡い光の斑点が浮かび上がり始めた。
「……これは?」
「“名の細胞片”……? いや、違う……」
セシリアが手を伸ばす。
斑点は、触れる寸前にかすかな声のようなものを発した。
――たす……け、て……
――わた……し……の、な……が……
声は複数。
老いも若きも、男も女も。
すべてが混ざり、歪んだ叫びとなって押し寄せた。
「これ、名が崩壊した人々の“残響”よ……!」
セシリアの顔色が青ざめる。
エヴァンは歯を食いしばった。
「……王国で失われつつある名は、ここに吸い込まれているのか。この層は――名の死層と隣接している……!」
そのとき、回廊の奥がゆっくりと開いた。
第三階層――深核層の核心へと続く門。
そこから、ひときわ強い脈動が放たれた。
ドン…… ドン…… ドン……
二人は胸を押されるような圧迫感に耐えながら、門の向こうを見つめる。
黒い虚無の中央。
そこに、巨大な球体が浮かんでいた。
無色透明のようでいて、内部には無数の文字列が渦巻き、
時に形となり、時に意味の破片となって弾けている。
「……あれが、王国の根名核……?」
セシリアは喉を鳴らした。
エヴァンの表情は険しい。
「いや。あれはおそらく……“揺らぎ”そのものの集合体だ。本来の根名核とは別の……異常の中心。」
球体の内部で、名の式が崩れ、再編され、また崩れ――
まるで“正解の名”を見つけられずに苦しんでいるようだった。
脈動が走る。
名の式がひとつ、またひとつ、砕け散って虚空に消える。
「……急がないと。根名核が自壊を始めている……!」
セシリアが叫ぶ。
エヴァンは、短く息を吐いた。
決断を迫られた顔だった。
「セシリア。あの核に触れれば、名の奔流がそのまま俺たちの存在に流れ込む。どちらか一人が耐えきれなければ――存在そのものが書き換わる」
「わかってる。でも――二人で行くわ。ここまで来て、どちらかを欠いて突破できる階層じゃない」
二人は互いにうなずき、核へ向かって歩を進めた。
そして――
深核層の中心で、名の奔流がうねり、二人の前に“姿”を取った。
渦の中心に、人影が立ったのだ。
男とも女とも判別できない、曖昧な輪郭。
声も色も名も持たない、未定義の存在。
それはゆっくりと顔を上げた。
――ようやく、きた。
――二つの名をもつ者たちよ。
その声は、名の破片が擦れ合う音のようだった。
エヴァンとセシリアは、同時に息を呑んだ。
深核層の脈動の正体が――
ついに、姿を現したのだ。
未定義の人影は、かすかな“笑み”のようなものを帯びた。
口元を動かしたのではない。輪郭が、たまたまそう読めてしまう――
そんな曖昧さのまま。
「……あなたは何者?」
セシリアが声を絞り出す。
存在は、答えるように一歩踏み出した。
足場があるはずのない空間で、確かに踏音が響く。
――問うか。よい。
――私は、“名が生まれる前の名”。
エヴァンの眉が動く。
「名が……生まれる前?」
――そう。
――言語が形を持たず、意味が結ばれる以前。
――世界が“書かれる前”に漂っていた、可能性の余白。
――私はその、忘れられた“原型”のひとつ。
曖昧な輪郭が、かすかに震え、二人の視界に奇妙な残像を生んだ。
セシリアは息を呑む。
「……あなた、もしかして……“捨てられた名”?」
存在の動きが止まる。
――正確には、
――“採用されなかった世界記述”。
――この王国の根名は、かつて複数の候補式から選ばれた。
――しかし、選ばれなかった側の式も、消滅はしない。
――ただ、書かれず、呼ばれず、名づけられず……空白の底に沈む。
エヴァンの背筋が冷える。
「つまり……お前は、この王国の根名が成立する前に存在した“別の王国の原型”なのか?」
存在は、曖昧に頷いた。
――その通り。
――お前たちの世界は、私を“採択しなかった”。
――ゆえに、私は名を持たず、記憶されず、存在しなかった。
灰と金と蒼の光が脈打つ。
深核層そのものが、その告白に震えているようだった。
セシリアが一歩前へ。
「……あなたは、恨んでいるの?」
曖昧な存在は、しばし沈黙し――
そして、さざ波のような声で答えた。
――恨んでいるか、と問われれば……
――それは“名を持つ者”の問いだ。
――私はただ、“選ばれなかった記述”。
――だが……
――いま、この王国の根名が崩壊しつつある。
――その揺らぎが、私をここまで浮上させた。
エヴァンは静かに言う。
「……つまり、お前はこの揺らぎの“原因”ではなく――“結果”なのか」
――そうだ。
――私はただ、呼び戻されただけ。
――この世界が、私の存在を“必要とし始めた”から。
セシリアの表情が固まる。
「必要……? どういう意味?」
存在の輪郭が、ぐにゃりと歪む。
まるで、“複数の物語が一つに収斂しようとしている”ような揺れだった。
――この王国は、根名を失いかけている。
――名の基盤が崩れ、世界の文脈が補完を求め始めた。
――その隙間に、“忘れられた私”の記述が流れ込んだ。
――いまや、この世界は岐路にある。
――“現王国”として再構築されるか。
――“私の原型”に書き換えられるか。
二人の腹に重いものが落ちた。
セシリアは低く呟く。
「……あなたは、世界を乗っ取る気なの?」
不定形の存在は、ゆっくりと首を振った。
――乗っ取る意図などない。
――名を持たぬ私は、“意志”すら未完成だ。
――だが、
――世界が選べば、私は“新たな王国の根名”となる。
――その時、お前たちの知る王国は――消える。
エヴァンは剣を握る。
名の剣が、深核層の光を浴びて微かに震えた。
「……ならば俺たちは止める。この王国の歴史と名を守るために」
曖昧な存在は、ただ静かに二人を見つめた。
――止められるかどうかは……
――“名の核心”が決める。
――さあ――来い。
――中心核はすぐそこだ。
世界の名を選ぶのは、お前たちか……それとも、私か。
深核層が揺れ、主文脈が裂け、光が二人を包み込む。
次に訪れるのは――
名の最深部、“根名の決定域”。
ここで世界が選ばれる。
光が収束した。
エヴァンとセシリアの視界から、色も影も音さえも剝ぎ取られ――
その代わりに、“純粋な文脈”だけが満ちていく。
ここは深核層のさらに奥、世界の名が確定し、歴史が一本の線として編まれる場所。
根名の決定域。
光が薄れたとき、二人はすでにその中心に立っていた。
彼らの前には――ひとつの“人影”。
さきほど深核層で見た曖昧な存在よりも、輪郭はわずかに強まり、しかし依然として男とも女とも定まっていない。
色の無い髪が揺れる。
瞳は存在しているようでいて、見ようとすれば空白へ沈む。
名が、まだ確定していない。
それは、ゆっくりと口を開いた。
「……ここまで来たか。名を持ちながら、名を修復する者たちよ。」
声は直に耳に届かない。
名の回路そのものへ響く“定義前の振動”として伝わってくる。
エヴァンは一歩踏み出す。
「お前は……何者だ? この脈動、この揺らぎ……すべての中心にいるのは、お前なのか?」
存在は首をかしげる。
“問い”という概念を検索するような仕草だった。
「何者、とは。私は――まだ名づけられていない。名づけられる前の、王国の可能性だ」
「可能性……?」
セシリアが息を呑む。
存在は静かに頷く。
「王国の根名は長らく安定していた。だが時が進み、記述と記録が積み重なり、未定義の“余白”が膨れあがった。そこに集まった意思、矛盾、願望――それらが結びつき、私は『仮の形』を得た」
エヴァンの背筋が冷える。
「……つまり、お前は“王国そのものの影”ということか」
「影、ともいえるし、未来ともいえる。名が崩れるなら私は“曖昧な王国”となり……名が再構築されるなら私は“新たな王国”になる」
その言葉が落ちた瞬間――
周囲の空間に、無数の文字の粒子がゆっくり浮かび上がった。
ひとつひとつが、王国の町々、血統、歴史、習俗、記憶、世界観……あらゆる根名を構成する“源文”。
セシリアはその光景に震えた。
「ここで……王国の未来が“決まる”の……?」
「そう。そして――」
存在はエヴァンへ向け、はっきりと顔を向けた。
「お前たちが来たことで、記述が動き出した。王国は、自らの根名を“選び取ろうとしている”」
エヴァンは問いを重ねる。
「では聞く。最近起きている名の崩壊――ノーム・クラッシュは何が原因だ? お前か、それとも……別の力が働いているのか?」
未定義の存在は、一瞬だけ沈黙した。
まるで答えを“検索”しているかのような、不自然な間。
そして――
「原因の一部は、私だ。だが全てではない。名を壊し、書き換えようとしている“外部の意志”がある。」
「外部……?」
セシリアの目が鋭くなる。
「その存在は、名を食い、名を奪い、名の空白を増大させることで王国を曖昧にしようとしている。私はそれを止めるために形をとった。しかし私は“未定義”。確定者が必要だった」
「確定者……?」エヴァンが眉を寄せる。
「そう。名を修復したお前たちこそ、ここに至るべき“定義者”なのだ。私は、お前たちを待っていた」
未定義の存在は、ひとつ手を伸ばした。
その掌には、無数の文字の粒子が渦を巻き――
一本の“まだ名づけられていない文脈”が現れる。
「エヴァン、セシリア。王国の根名は揺らぎ、崩れかけている。だが、まだ間に合う」
その声は、まるで試すようでもあり、願うようでもあった。
「問う。お前たちは――王国の根名を“どう在らしめる”つもりだ? 守るのか。変えるのか。書き換えるのか。それとも、捨てるのか」
空間全体が静まり返る。
ここは名の決定域。
言葉ひとつで、王国の根が変わる。
エヴァンとセシリアは――
いま、“世界に問われている”。
エヴァンが一歩踏み出す。
「俺たちの選択は一つだ。王国の根名を取り戻す。削られた可能性を含めて、秩序を立て直す」
曖昧な存在の輪郭が揺れた。
「その選択は、私を消すことになるかもしれない。それでも?」
エヴァンは頷いた。
「お前を否定するわけじゃない。“正しい在り方”に戻すんだ。王国が積み上げた影を、どう扱うかも含めて――俺たちが決める」
セシリアが続ける。
「あなたは“可能性”そのもの。ならば、消すのではなく――“統合”すべきです。王国の名は、未来を切り捨て続けてきた。だからこそ、疑似的な影が膨れあがった。なら、未来を閉ざさない根名に組み替えるべきです」
未定義の存在は静かに眼を閉じる。
「……それが、君たちの選択か。ならば――示せ」
空間が震えた。
まるで世界そのものが問うように。
“どの名を、未来へ繋ぐのか。”
二人の手が、自然と重なった。
王国の未来を決定する儀式が――
いよいよ始まる。
光が引いた。
そこはもはや“空間”ではなかった。
上も下も、左も右も、その区別さえ曖昧で、ただ無数の文脈が織り成す網のような領域が広がっている。
根名の決定域――“名”が世界に降りてくる前の階層。
中心に、未定義の存在が漂っていた。
形を得たり喪ったりしながら、二人を静かに見つめる。
「これが……根名を決める場所……」
セシリアの声は震えていたが、恐れではない。理解が追いつかない領域に踏み入れた者の震え。
存在はゆっくりと手を広げた。指は途中で滲み、煙のように消え、また別の線として形を結ぶ。
『――名を戻すか。ならば、三つの段階を経ねばならぬ。いまの王国の名は“断片化”し、“影が逸脱”し、“文脈が崩れた”。それを正すには、同じ順序を逆に辿る必要がある』
エヴァンが眉を寄せる。
「名を束ね、影を統合し、文脈を再配列する……?」
『――そう。世界の“名”も、個の“名”も同じ原理の上にある。
だが、おまえたち二人だけが、この儀式を行える』
存在の声は淡々としていたが、その奥にわずかな期待のような揺らぎが混じっていた。
足元に、光の糸が集まり始めた。
それはただの光ではない。王国を構成していた者たちの“名の式”の断片――人々の呼び名、地名、法の名、祈りの名、記録の名、全てが微細な文字として舞っている。
セシリアは思わず膝をつきそうになる。
「……これ、全部……王国を形作っていた“名前”……!」
「崩れて散ったんじゃない。集めれば……まだ戻せる」
エヴァンは手を伸ばし、漂う名の粒に触れる。
指先が触れた瞬間、断片は柔らかく震え、まるで“帰り道を思い出した”かのように一本の流れへと連なり始めた。
『――束ねよ。名は本来、孤立して存在しない。名は名を支え、名が名を呼ぶ。それが崩れたとき、世界は“意味の地震”を起こす』
エヴァンは深く息を吸う。
「……この流れ、まだ繋げる。いけるぞ、セシリア!」
「任せて。名の系譜なら私が最も扱える……!」
二人の術式が重なり、無数の名の粒子は一本の黄金の奔流へと束ねられていった。
束ねられた名の奔流のすぐ裏で、黒い影の濁流が揺れている。
それは名が持つ“影”――履歴、喪失、裏切り、歴史の闇、記録からこぼれ落ちた傷。
セシリアの表情が曇る。
「……影を無視して名を戻しても、“歪んだ国”になる。でも、この影は……重すぎる……!」
「影は消すべきものじゃない。対立し、矛盾し、時に人を苦しめるが――名の一部だ」
エヴァンが影へ手を伸ばす。
瞬間、黒の奔流が牙を剥き、二人を噛み砕かんと荒れ狂った。
未定義の存在が小さく呟く。
『――影なくして名は成らぬ。過去を失った名は、ただの空虚だ。二人よ、“人間の名”を知る者として、それを抱けるか?』
影の濁流がエヴァンの腕を飲み込み、彼の記憶・激情・古い傷へ干渉してくる。
セシリアの周囲にも、自分の過去の誤りや後悔が影になって押し寄せる。
だが――二人は互いの腕を取り合った。
「一人で抱く必要はない」
「名は“関係”で成立する。だったら……二人で統合できるはず!」
二人の握る手を中心に、影が柔らかく震え、形を失い、やがて名の奔流の裏側へ吸い込まれるように静まっていった。
名と影が一つになった瞬間――
根名の決定域のすべての文脈が、音を立てて動き始めた。
天を走る巨大な線、地に沈む透明な文字列、遠方の回転する文脈輪――
それらがばらばらの速さ、別々の方向へ向かい、世界が崩壊寸前のように軋む。
「……これ、私たちが順序を決めなきゃいけないってこと?」
セシリアは震えながら呟く。
未定義の存在が、少しだけ明確な輪郭を得ていた。
『――文脈とは“因果”だ。名は因果によって世界と結ばれる。因果が乱れれば、国は国として存在できなくなる』
エヴァンは前へ進み、名の奔流へ両手を添える。
「……だったら、正しい順序に戻すだけだ」
「でも“正しい順序”って何!? 歴史には解釈がある、名には複雑な意味がある! どうやって――」
「答えを決めるのは……俺たちじゃない」
エヴァンは静かに続ける。
「この国を生きてきた“人々の名”だ。束ねて、影を統合した以上……名は自ら帰る場所を選ぶはずだ」
セシリアはハッとし、息を呑む。
「――文脈の再配列は、“名の自律的帰還”……!」
二人が手を重ね、奔流へ力を注ぐと――
無数の文脈が揺らぎ、再び一つの方向へと並び始めた。
かつて王国が持っていた根名、その揺らぎを正すための一本の因果の道標が、光となって立ち上がる。
そして未定義の存在は、完全に形を得ていく。
白銀にも黄金にも見える瞳で、二人を見据え、静かに告げた。
『――最後の一線を越えよ。名を戻すとは、世界の“決断”を下すこと。それは、二人の選択そのものが……王国の未来を定める』
また光が引いた。
エヴァンとセシリアは、深核層でも最も奥、名が世界へと定着する直前の“決定域” へと立っていた。
そこはもはや空間ではなく、
“世界がまだ世界になる前の、白紙の中心”。
上下も前後もなく、ただ、
一行の「まだ書かれていない文章」だけが、無辺の闇を切り裂くように漂っていた。
その文は――
王国そのものの根名、
すべての名を束ねる“基礎文脈”の源。
しかし今、その一行は千々に割れ、無数の断片へと解け落ちている。
名の奔流が吹き荒れ、
世界が世界であるために必要な「意味」が、砂のように指の隙間から零れ続けていた。
二人の前に立つ存在は、揺らぎの中で輪郭を取り戻していく。
男でも女でもない。
老いても若くもない。
人かどうかさえ疑わしい。
ただ、ひとつ確かなことがあった。
その存在だけは、どこにも書かれていない。
ゆえに、どこにでも入り込めた。
世界の名のどこにも属さない――
“欠番名”。
「……お前が、この揺らぎを引き起こしているのか?」
エヴァンの問いに、
輪郭の定まらない顔が、ゆっくりと向けられた。
「我は……引き起こしたのでは、ない。崩れゆく名に、呼ばれたのだ」
その声は、風の音でも、言葉でもない。
“意味”が直接心に触れるような響きだった。
「名は、千年のあいだ歪み続けた。根名の傷は、もはや継ぎ接ぎでは塞がらぬ。だが――お前たちは、なお修復を望むか?」
セシリアはためらわない。
「望むわ。名を失えば、私たちの王国は……人々は、自分が誰なのかさえ保てなくなる。この揺らぎを放置すれば――存在そのものが薄れてしまう!」
「ふむ……」
欠番名は、ゆっくりと周囲に視線を巡らせた。
「では問おう。王国根名の再編は、“束ねる”か、“統合する”か、“並び替える”か。道は三つ。一つを選べば、他の二つは永遠に閉ざされる」
名の奔流が、三つの柱となって浮かび上がる。
◆ 儀式の構造
● 束ねる《バインド》 ―― 失われた名を結び直す
ゆるやかな再建。
だが歪みは残り、おそらく数百年後に再び亀裂が生じる道。
● 影を統合する《シンクロ》 ―― 名の裏側を吸収する
代償として、王国の歴史に刻まれた“影の文脈”が正史へと統合される。
世界の解釈が変わる可能性がある。
● 文脈を再配列する《リライト》 ―― すべてを並び替え、完全に再誕させる
もっとも強力だが、危険。
間違えれば、王国という概念そのものが別の形に生まれ変わる。
エヴァンとセシリアは、一瞬だけ互いの目を見た。
言葉は要らなかった。
二人の意思は、初めから一致している。
“王国の根名を取り戻す”――その一点。
「……リライトを選ぶわ」
セシリアが静かに告げた。
エヴァンも頷く。
「すべての根を整え直し、ひずみの源を断つ。危険でも……それが唯一の完全解決だ」
欠番名の瞳に、微かな光が宿った。
「ならば――始めよう。王国根名の再誕 を」
決定域が震える。
砂のように崩れ落ちていた名の断片が、一つ、また一つと光を帯び、線となり、文となり、章となっていく。
エヴァンとセシリアの身体から、彼ら自身の“名の光”が細い糸となって伸び、断片を拾い上げ、編み上げていく。
欠番名が掌を掲げた。
「影文脈――解放」
次の瞬間、王国史に潜んでいた「忘れられた事実」「封殺された名」「裏側の記憶」が奔流となり現れる。
黒い光の嵐が二人に迫る――
だがエヴァンは一歩、前へ出た。
「影は拒まない。名の一部として、受け止める。それが世界を強くする」
セシリアも声を重ねる。
「光も影も、王国の物語。ならば――全部、編み直す!」
その瞬間、決定域の中心で三つの光柱が重なり、爆ぜた。
白い光が世界の底まで広がり、散っていた名の粒子を一斉に結び直していく。
無数の線が束ねられ、闇が統合され、文脈が並び替えられ――
ひとつの“名”が、ここに生まれた。
――王国根名、再誕。
天地が震えた。
世界の呼吸が戻り、色が戻り、意味が戻る。
そして、欠番名は静かに目を閉じた。
「……これで、我の役目は終わる。新たな名の下、お前たちは新しい王国を歩むだろう」
その輪郭は光の粒子となり、消えていく。
「待て……! お前は何者だったんだ?」
エヴァンが叫ぶ。
消えゆく存在は、初めて“顔”のような形を作り、微笑んだ。
「我は……“名が揺らぐときだけ現れる、影の調停者”。必要とされたときだけ、世界に存在する者」
そして、最後の一粒が消える。
「――名が整った世界で、我はもう、必要ない」
――光が、収束していく。
王国根名の再誕を告げるあの眩い奔流は、やがて静かに、深い呼吸のように沈静した。
光が薄れ、足場の感触が戻る。
ふたりはゆっくりと目を開けた。
そこは、もはや深核層ではなかった。
暗雲に覆われていた王都の空が、朝焼けのように染まりつつある。
倒れかけていた街路の碑文は、欠けた文字を取り戻し、沈黙していた記録局の塔は、再び名の光脈を天に向かって巡らせていた。
――王国は、生き延びたのだ。
セシリアが、胸に手を当てた。
「……戻ってこれたわね。全部……間に合った」
だが、声は震えていた。
深核層での経験は、ただの戦いではなかった。
世界の“名”を束ね直し、ゆらぎ、破損し、消えかけていた王国の根文脈を、ふたりが選択して結び直した――
その余韻が、まだ魂の奥で鳴り続けている。
エヴァンは、街の人々がゆっくりと活動を再開しつつあるのを見渡した。
名を失いかけ昏倒していた者たちが、ひとり、またひとりと目を開け、自分の“名前”を確かめるように唇を動かす姿がある。
「……あれは、俺たちが守れたものなんだな」
エヴァンが呟くと、セシリアは静かに頷いた。
「王国根名は再構成されたわ。でも……覚えておいて。再誕したということは、あれが“新しい根”でもあるの。脅威は去ったけれど、王国はもはや“同じ存在”ではなくなった」
それは、どこか寂しげで、しかし確かな未来を見据えた声音だった。
ふたりは王立記録局へ向かって歩き出した。
崩れかけていた巨大アーチは修復され、かすかに淡い文脈の光を纏っている。
大地に刻まれた複文の光脈は、脈打つたびに王国全土へ新たな“意味”を流し込んでいく。
――その玄関前。
職員たちが整列していた。
混乱のただ中にいた記録官たち、研究員、術式管理官、そして局長までもが揃っていた。
誰もが疲労を滲ませながらも、その視線には感謝と敬意の色が宿っている。
局長が、一歩前に出て深く頭を垂れた。
「エヴァン・クロスフィールド、セシリア・ヴァレンタイン……よくぞ“王国の名”を連れ戻してくれた。あなたたちがいなければ、我々はもう、この国の歴史さえ忘れていたでしょう」
エヴァンは戸惑いの色を浮かべ、セシリアはかすかに笑った。
「名前を……国を失わせるわけにはいきませんから」
局長は顔を上げ、語る。
「だが――君たちが深核層で見たもの。“名の根”が揺らいだ理由。それは、王国の歴史上、一度たりとも起こったことがない異常だ」
空を見上げる。
再誕した名の光が、かすかに波紋を描いた。
「これは終わりではない。王国は再生したが、同時に“再生した理由”を解き明かさねばならない。君たちふたりは、その核心まで触れた唯一の存在だ」
セシリアは深く息を吸い、エヴァンに視線を送った。
――再誕は終わりではない。
ここからが、本当の“始まり”なのだ。
「……ええ。続けましょう。何が王国を揺らしたのか。“名の影”の正体は何なのか。私たちが確かめるしかありません」
エヴァンもうなずいた。
「もう一度、中心域に潜る覚悟はできてる。王国が新しい名を得たのなら――俺たちも、自分たちの名を証明してみせる」
その言葉に、局長は静かに笑った。
「ならば、まずは休みなさい。英雄は、次の戦いの前に息を整えるものだ」
ふたりは顔を見合わせ、小さく苦笑した。
――英雄。
そんな大層なものになったつもりは、ふたりともなかった。
ただ、必要だったから選んだだけだ。
それでも。
王国の名は、彼らの選択を刻み込んでいる。




