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第四十四話

 王都フェル=グレイ。

 その中心にそびえる王立記録局――

 そこへ緊急の徴集警報が鳴り響いたのは、夜が明けきらない薄闇の時刻だった。


 石壁を震わせたのは、ただの警鐘ではない。

“名の震動”そのものが国土を揺さぶったのだ。


 机上の羊皮紙が、一斉に白化した。

 兵士たちの胸元の名札が読み取れなくなった。

 果ては、王都大図書館の目録までもが“名称不明”へと変質する。


 記録局長ラグスが蒼白な顔で告げた。


「……とうとう来てしまった。“根名ゆらぎ”だ。王国の根本を規定する大名グランド・ネーム。あれの一部が……消えかけている」


 エヴァン・クロスフィールドは眉を寄せた。

 名の揺らぎは魔法にも剣技にも影響する。

 一国規模で起これば、いずれ魔術体系全体が瓦解する。


 横に立つ大魔導士セシリア・ヴァレンタインが、淡々と補足した。


「根名は“王国という概念そのもの”を定義する基準です。それが不安定化するというのは──国が国でなくなる前兆に等しいわ」


ラグス局長は、ひとつの封蝋付きの文書を示した。


中心域セントラル・レイヤへ遠征してほしい。そこに王国の根名を司る“記述の中心ネーム・コア”がある。……調査の公式任務として選ばれたのは、君たち二人だ」


 エヴァンは短く頷き、セシリアと視線を交わす。


「やるしかないな」


「ええ。ここが崩れれば、どれほど修復しようと意味をなさなくなるもの」


 二人は出立の準備に取りかかった。


 中心域へ至る旅路は危険だ。

 王国を形作る“名”が希薄化した影響で、

 空白獣ネーム・レイス と呼ばれる名なき怪物が増殖している。


 それらは、名を喰う。

 呼称を剥ぎ取り、存在を曖昧化し、やがて消滅させる。


 任務は明確――


 王国根名の異常の調査と、原因の特定。

 必要があれば、根名の修復。


 二人は、霧煙る中心域へ向けて歩み出す。


 その背後で王都の鐘が鳴り響く。

 これは警鐘ではなく、“名の減衰”によって鐘の名前が消えかけ、

 本来の音が出なくなっている証であった。


 セシリアが呟く。


「……急がないと、王国そのものが無名になってしまうわ」


 エヴァンは剣の柄を握り直す。


「だから俺たちが行くんだ。この国の“名”の中心まで」



 風景が変わったと気づくより、

 まず 名の揺らぎ が肌に刺さった。


 エヴァンは眉をひそめ、周囲を見渡した。


 そこは王都から東へ馬で数日。

 どの地図にも“白地”として扱われる禁断領地――


 地形は存在しているのに、

 語彙が追いつかない。


 丘は“丘のようでありながら丘ではない形”に揺らぎ、空は“青”という色を保ちきれずに時おり、“名称未定の光”へと変質する。


 草を一つ摘めば、それが“草”なのか“草という言葉の残骸”なのか、判然としない感触だけが残った。


 セシリアが魔導杖を握りしめ、息を詰める。


「……これが中心域の外縁。名が限界まで希薄化している……。“現実”より“概念”が濃い領域ね」


 エヴァンは剣を下ろしたまま、周囲の地形を確認する。


「歩くだけで少し気持ち悪いな。地面が“地面のつもり”で立ってる感じだ」


 この地点に入ったのは王立記録局の歴史上、わずか七名。


 そのうち四名は帰還できず、二名は言語機能障害が残り、まともに報告書を提出できたのはただ一人。


 その「唯一の生還者」が残した言葉はただ一文。


『中心域は言葉の形をしていない』


 そして今、エヴァンとセシリアはその不可視の特異点へ向かって進んでいる。



 中心域に近づくほど、

“名の強度”が落ちていく。


 それはつまり、

 ものを指し示す言葉が失われつつある ということだ。


 方角の名称が曖昧になる。

 時間の進行が不揃いに感じられる。

 地形そのものの概念が薄れる。

 魔法の属性呼称が不安定化する。


 セシリアは足を止め、

 小さく呪文を唱えた。


「……“光”……ランプ、灯って……」


 杖の先に光球が生まれる。

 だがその輝きは脈打つように形を変え、“光”と“光になり損ねた何か”を往復していた。


 エヴァンが呆れ気味に笑う。


「おいおい、あのセシリア様が不安定って……。この領域、ほんとに嫌がらせみたいだな」


「名の密度が薄いのよ。呪文の構文が、世界に正しく解釈されないの……」


 中心域への旅は、足取りより先に 概念の揺らぎ が襲うのだ。



 しばらく進むと、風景の奥に淡い“亀裂”が見え始めた。


 深さでも高さでもない。あれは“名称の裂け目”だった。


 セシリアが小声で呟く。


「……あれが、中心域の境界線。“ゲートライン”と呼ばれる現象」


 エヴァンは剣を抜き、慎重に近づく。


 裂け目の周囲では石や草が 名称のリズムを失って ぷつぷつと消えたり現れたりしている。


 まるで世界そのものが“自分の語り方を忘れた”ように。


 セシリアが言葉を選びながら説明する。


「ここから先は、王国根名ルートネーム――王国そのものの名前が揺らいでいる領域よ。この揺らぎに共鳴して、王国全土で“名の欠落”や“記憶の空白”が起き始めている」


 エヴァンは深く息を吸った。


「つまり……この先で何かが壊れてる」


「ええ。王国を定義する“名の構造”そのものが」


 風が吹いた。吹いたのに、音に“名前”がなかった。


 それは、王国そのものの死の予兆。


 エヴァンは剣を握り直し、ただ一言。


「行くぞ。中心域へ」


 セシリアは頷き、杖を構える。


 そして二人は 王国の名の中枢へ 足を踏み入れた。



 風が変わった。


 王国中心部へ向かう大地が、いつの間にか“音”を失っていた。

 風が吹いているのに、草は揺れるのに――

 名を呼ぶ気配がどこにもない。


 セシリアが歩みを止めて、足元の土をすくい上げる。

 砂粒は手のひらでほどけ、輪郭を失い、ただの“揺らぎ”へ溶けた。


「……やっぱり、ここから先ね。王国を支える根名ルートネームが弱っている」


 エヴァンは前方の霞を凝視した。

 平原が緩やかに沈み込み、巨大な“くぼみ”を形成している。

 その中心は、まるで古代の大図書庫の書架をひっくり返したような――

 層が剥き出しになった地形 だった。


「これが……中心域ネーム・コアか」


 セシリアが頷く。


「王国の“名の情報”が折り重なって広がる場所。私たちが普段目にしている世界は、あれの一番表層に過ぎないわ」


 くぼみの内部は、巨大な円錐のように広がっていた。


 だが普通の岩肌ではない。

 複数の“文字の地層ストラタ”が、露わになっている。


 古王朝時代の筆記層。

 精霊時代の呼称層。

 王国建国の頃に編纂された名簿層。

 現代の街路名、人物名、魔術式の定義層。


 まるで、王国という一冊の書物を巨大な断面で見せつけているかのようだ。


 しかし異変は一目で分かった。


 層の端々が“破れている”。


 名の線がずれ、呼称の文法が歪み、ところどころに黒い空白が染みている。


 セシリアの声に緊張が混じる。


「……ここまで広範囲に空白汚染が出ているなんて。放っておけば王国全体の名前が“崩落”するわ」


 エヴァンは剣の柄を握りしめた。


「王立記録局の予測より、ずっと進行が早いな……。急ぐぞ、セシリア。“核”にたどり着かないと」


 二人は、断層の縁に架かった自然橋へと足を踏み入れた。

 眼下には、文字の流れが川のようにうねり、名前の断片が風に舞い、ときおり無音の“欠損”が光を吸い込む。


 中心域は、美しく、そして危険だった。


 その最奥で、王国の根名が――いままさに崩れようとしている。



 中心域の外郭を突破したエヴァンとセシリアは、“名の海”の奥底へと踏み込んだ。


 足を下ろした瞬間、大地ではなく名の断片が積層した層がざらりと崩れて沈んだ。


「……地面じゃないな。“呼ばれなくなった名”が、地層みたいに積もってる」


「この第一階層は《名の地殻層ストラタ・レイヤー》。本来は自然分解された名が静かに沈む“墓場”……だけど、今は異常ね。再活性してる」


 足元から、かすれた音が響く。

 読めない文字、途切れた単語。

 それらが砂のように崩れながらも、

 意味を取り戻そうと身じろぎしていた。


「名が……自分から“立ち上がろう”としてる?」


「ううん。“誰かが”無理やり動かそうとしてるのよ。この気配……中心域のさらに奥に、“指示者”がいる」


 エヴァンは剣に手を添え、警戒を強める。


 周囲の霧は、読めない言語が煙のように漂っている。

 意味のない言葉――しかし「名」だったもの。


 それらがふっと集まり、一カ所に凝縮した。


 霧が、輪郭を帯びる。


 セシリア「来るわよ。第一階層の守護――」


 エヴァンは半歩前に出る。


「――《ストラタ・レイス》」


 霧は獣の形をとった。

 骨のような文字列、皮膚の代わりに文節の影。

 眼窩は空白で、名が存在しない虚無が渦巻いている。


 名の墓場に彷徨う、最初の敵。


 ストラタ・レイスが口を開くと――


「□□□□□□□□□□!」

“声にならない名”が衝撃波として吐き出された。


「――来るぞ!」


 獣の影が跳躍し、周囲の地層から“忘れられた名の破片”を吸い上げ、爪へと凝縮させる。


 セシリアが詠唱を開始。


「《言のワード・シールド》――展開!」


 名の断片が盾となり、レイスの爪撃をしのぎながら散った。


 エヴァンは一気に踏み込む。


「セシリア、こいつ……攻撃のたびに名の破片を吸って強化してる!」


「ええ、見えてる……! レイスは“名の層”から力を取る存在。つまり、“地面そのものが敵の武器”よ!」


 地層がざり、と動く。レイスの足元に裂け目が開き、奥底から大量の文字片が噴き上がる。


「なら――“名ごと断ち切る”!」


 エヴァンの魔剣に魔力が集まり、白い光が文字群を引き裂いた。


 が、レイスは揺れただけで崩れない。

 裂けた文字片が空中で再構築され、再び鎧のように獣を覆う。


「……再生が早すぎる。エヴァン、こいつは“倒す相手”じゃない――《本来の名》に還す相手よ!」


「名を……還す?」


 セシリアの指先が獣の額を指し示す。


「見て、エヴァン。額の中心……『抜け落ちた名の核』。あれを埋め戻せば、レイスは暴走をやめる!」


 エヴァンは目を細める。

 確かに、獣の額にはぽっかりと空いた空白――“黒い穴”があった。


「核が空っぽだから、名を求めて暴れてるのか……!」


「そう。だから“名の破片”を与えて、核を満たす――『名の帰納ネーム・リターン』でレイスを鎮める!」


 エヴァンは剣を逆手に持ち替え、頷いた。


「分かった。じゃあ――俺がこいつを止める。セシリア、名を集めて“核”を満たしてくれ!」


 ストラタ・レイスが咆哮し、地層が波のように隆起する。


 エヴァンはその前に立ち、剣を構えた。


「行くぞッ――!」


 そこから、王国根名ルートネームの危機の序章として初めての「名の怪物」との“鎮魂戦” が始まる。



 ストラタ・レイスが咆哮し、空間が“記述断層”ごと反転する。

 地形が波のようにめくれ、岩の層が文字の断片のように剥がれ落ちる。


 セシリアが叫ぶ。


「エヴァン、来るわ! 名の“層圧”で押し潰す気よ!」


 黒い層が迫る――ただの物理的攻撃ではない。

 名前そのものを圧縮し、短縮し、歪めて消す“名の圧殺”だ。


 エヴァンの輪郭がぎしりと歪む。


「く……そ……ッ!」


 名が押しつぶされれば存在の持続性が消える。

 このままでは、その場に“エヴァ”という断片だけを残して彼は消滅する。


 セシリアが杖を突き出し、魔力陣を展開すると周囲の断層文字が青く光る。


「――【対層式・名位固定ネーム・フリーズ】!」


 空間の揺らぎが一瞬止まる。

 たった一秒も持たないが、反撃の窓が開いた。


「エヴァン! 今よ!」


「任せろッ!」


 跳躍。名を削る“層圧”の波の上へ飛び乗り、逆巻く文字の流れを切り裂くように剣を構えた。


 エヴァンの刃が光る。


 ――名位転換術式ネーム・リターン


 剣が触れた瞬間、ストラタ・レイスの表面が“書かれる前の白紙”へと巻き戻る。


 だが――。


「ギィイイイアアアアアアアアッ!!」


 ストラタ・レイスは退かない。

 むしろ白紙化した部分を逆利用し、“未定義空間”を生み出してエヴァンごと吸い込もうとする。


 セシリアが表情を硬くする。


「駄目……あれ、名のない地帯! 一度落ちたら帰れなくなる!」


 エヴァンは吸引に逆らい、剣を地面に突き立て耐える。


「しくじったか! だが――書き換える!」


 吸引の“中心”に向けて剣を振る。剣先から火花ではなく、エヴァン自身の「名の輝き」 が飛ぶ。


 セシリアは目を見張った。


「エヴァン……自分の名の力を直接使うなんて……!」


 普通なら自壊の危険を伴う行為。

 だが、彼は迷わない。


「俺は“エヴァン”だ。俺の名は――ここで折れたりしない!!」


 名の輝きが未定義空間の中心に突き刺さる。

 未定義は“定義”を得て形を持ち、逆にストラタ・レイスの核を露出させた。


 セシリアが詠唱を開始する。


「――名よ、照応し、交差し、重なり出でよ。【名層束縛レイヤーズ・バインド】!」


 レイスの手足を包む“層”がひとつ、またひとつ縛り付けられ、動きが完全に封じられる。


 エヴァンが叫ぶ。


「セシリア、固定を頼む!」


「全層、拘束完了! ……エヴァン、行って!」


 彼は地面を蹴り、露出した核へ一直線に突っ込む。


 剣に力を込める。


「終わりだ――【名位転換ネーム・リターン・断層崩し】!!」


 渾身の一閃。

 ストラタ・レイスの核が走り書きの文字へ砕け散り、

 断層空間に静寂が訪れた。


 光の粉が舞い、第一階層の揺らぎが収まり始める。


 セシリアがエヴァンのもとへ駆け寄る。


「エヴァン! 無事……?」


 彼は肩で息をしながらも力強く頷く。


「ああ……何とか、な」


 二人の視線の先に、崩れたレイスの中心から一枚の“名の欠片”が現れる。


 青白く光る小片。

 王国根名ルートネームを構成する文字の一部と思われた。


 セシリアはそれを手に取る。


「……やっとひとつ。でもエヴァン、これは“最初の層”に過ぎない」


 エヴァンは剣を握り直し、

 まだ揺らぎ続ける階層の奥を見据えた。


「分かってる。先へ進もう。根名の崩壊は、まだ始まったばかりだ」



 ストラタ・レイスが砕け散った余波は、単なる魔物の消滅ではなかった。


 砕け散った粉塵が空間の裂け目へ吸い込まれ、第一階層の天蓋――薄膜のような層が、ゆっくりと“書き換えられる”。


 セシリアがその変化を見上げる。


「……見て。層が“名の分岐式”へ移行してる。ここが第二階層──《ディバイド・レイヤー》」


 エヴァンは息を整えつつ、剣を下げる。


「分岐……名前の“別の可能性”ってことか?」


「そう。名が持ち得た“別の運命”……あるいは“もしもの世界線”。中心域は段階を下るほど“名の構造そのもの”に近づいていく」


 第一階層は名の外殻ストラタ


 第二階層は名の分岐ディバイド


 つまり、ここでは王国根名ルートネームが“どちらへ向かうはずだったのか”──その“選ばれなかった歴史”そのものが可視化される。


 風景が揺らぎ、無数の光の筋が立ち上がる。


 剣、杖、冠、城壁、墓標。

 それら全てが“名前の分岐可能性”として揺らめいていた。


 エヴァンはその光景に目を凝らし、眉をひそめる。


「……これ、全部……?」


「そう。王国が持ち得た“別の名”の歴史よ」


 セシリアの声は静かだった。


「“選ばれた名前”だけが現実になり、“選ばれなかった可能性”はこうして沈んでいく。本来は決して外に出ない構造……でもいまは不安定化して、漏れ出している」


 そのとき、足元が揺れた。


 エヴァンが構え直す。


「敵か?」


「……違う。これは階層の“誘導”よ」


 第二階層は、生き物のように道を変形させる。

 誘うように、二人の足元がゆっくりと移動し始めた。


 同時に、遠くで何かが“鳴った”。


 ……コォォォォォン……


 鐘の音のようで、悲鳴のようで、そして何より――名前を呼ぶ声のようだった。


 セシリアが息を呑む。


「この階層……どうやら、王国の分岐史そのものを再現するつもりね」


 エヴァンもそれを理解した。


「つまり――」


「ええ。これから私たちは“ありえた王国”と出会う」


 二人の前に、巨大な“裂け目”が開いた。


 その奥には、王都のような街並みが広がっているが──現実の王都ではない。


 旗の紋章は見たことのない形。

 兵士の鎧も、街の配置も、

 王国史に記されていない。


 エヴァンが呟く。


「……ここが“別の王国”……?」


 セシリアは頷く。


王国根名ルートネームが本来はこうなっていたかもしれない、“選ばれなかった国名”。その名を基盤にした世界が、ここに生成されている」


 そしてその街の中心に、禍々しい“崩壊孔”があった。


「……あれが第二階層のコアか?」


「ええ。あそこに触れれば、分岐の正体がわかるはず」


 風が吹く。

 街の窓という窓から、人影がこちらを見ていた。


 その全員が──

 エヴァンによく似た顔 をしていた。


「……なんだ、これ……?」


「“別の可能性としてのあなた”。名の分岐が、あなたに反応しているのよ。ここでは、あなたが“王国の名の中心”になっている」


 エヴァンが息を呑む。


 その瞬間。

 街の影から、何かが動き出した。


 無音のまま迫る黒群。


 人の形をしている。

 しかし輪郭が揺らぎ、目がない。


 セシリアが即座に詠唱に入る。


「来るわよ、エヴァン! 第二階層の番人──《ディバイド・レイス》!」


 エヴァンは剣を抜き、前へ出る。


「……いいだろう。分岐の化け物なら、斬って確かめるだけだ!」


 ――第二階層・名の分岐層。

“選ばれなかった王国の名”と“選ばれなかったエヴァン”。

 その全てが襲いかかる、危険極まりない領域。



 空間が、裂けた。


 耳を裂くのではなく、“記憶の奥底をひりつかせる”音で。

 第二階層へ足を踏み入れた瞬間、エヴァンとセシリアの前方に、深い陰が滲み出る。


 ――いや、“湧いた”のだ。


 名の渦に膨張し、覗き込み、こちらを見返してくる巨大影。


 ディバイド・レイス。


 人型の外形をわずかに保ちつつ、輪郭は常に揺れ、黒い霧と欠落文字の粒子を撒き散らしながら漂っている。

 空洞の眼窩には、異質な二つの紋。


 一つは「欠名」《ネームレス》の紋。

 一つは「偽名」《フェイク》の紋。


 それらが交互に点滅し、一定の自我すら保っていないことを示していた。


 そして――。


「来るぞ、セシリア!」


 エヴァンの叫びと同時、レイスの影腕が伸びた。

 空を裂くのでも、大地を穿つのでもない。

“二人の記憶の一点”を狙って直進する。


 セシリアは瞬時に詠唱を折り畳む。

「《記述拒絶結界=ディクライン・ドーム》!」


 名文が空中で円環となり、迫る影腕を受け止めた。

 だが――。


 ひびが入る。

 まるで“記憶に爪を立ててくる”ような、嫌悪感を伴う音が走った。


「こいつ……防御を“分岐”させて食い破ってきてる……!」


 ディバイド・レイスの力の本質は「選択の強制」。

 対象の記憶・名・思考を分岐させ、

 “ありえた可能性”を実体化させて襲わせる。


 影の中から、もう一本の腕が伸びる。

 それは――

 エヴァン自身の影だった。


「俺……の“別の名”か!」


 エヴァンは構えを崩さず、逆に踏み込む。

「セシリア、同調を取る!」


「了解――!」


 二人の名がわずかに重なり合う。

 文字と呼気が交錯し、一本の線へ統合される。


 エヴァンの名片が刃の形を取り、セシリアの編纂術式がその表面に規律を刻む。


 二人が同時に振るう。

 影の腕と、偽のエヴァン影が断ち割られ、第二階層の薄闇に黒い波紋が散った。


 だがレイスは後退しない。

 呻き声のような雑音とともに、胸部が割れ、三つ、四つ――無限にも思える“別の可能性の顔”が覗いた。


 どれも二人の知る誰かに酷似しながら、「こうではなかったはずの名」を携えて歪んでいた。


「……こいつ、本格的に来るぞ」

「分岐層の守護者……いや、“可能性の亡霊”そのものね」


 次の瞬間。


 レイスが膨張し、空間全体がさざめく。



“二人の記憶”が揺らぎ始めた。


 エヴァンの視界に、“もし自分が王都に残っていたなら”という別の人生の断片が突然混ざる。


 セシリアの脳裏には、“もし研究院を離れなかったなら”という別の道筋が割り込む。


 二人の足元に走る亀裂が、白か黒か、過去か未来かも分からぬまま分岐していく。


 レイスの声が、空洞の奥底から響いた。


「どれが『本当の名』か。選べ」


 その声が放つ圧は、名の構造に直接触れ、誤った選択を強制されれば、即座に名が崩壊する類の危険な波動。


「選べって……!」

「選ばされたら負けよ、エヴァン! これは“強制分岐”!」


 二人が同時に、結論へ辿りついた。


 ――互いの名を“現在”へ固定すること。


「セシリア! 俺はここにいる、今のお前と!」

「私だって同じよ。だから――ブレないで!」


 二人は手を伸ばし、名の線を合わせる。

 交差点が脈動し、レイスの揺らぎへ反衝撃を送る。


「食い破れ、《名現実返し=リアライズ・リバース》!!」


 二人の連撃が、レイスの胸部中心――

 揺らぎ続ける“不確定核”へ突き刺さる。


 空間が急激に白く閃き――

 そして、破裂した。


 第二階層全体が、押し広げられたように揺れる。



 絶叫のような“名の悲鳴”が、層全体の空気を震わせて消えた。


 分岐層を覆っていた歪色の霧が、撃破されたディバイド・レイスの崩壊とともに裂け、音もなく吸い込まれるように消滅していく。

 巨大な幽影は、エヴァンが突き刺した名刃ネームブレードの返す光を境に、二度と再生しえない形で解体された――名の座標そのものから削除されたのだ。


 セシリアは薄くひかる灰の雨を払いつつ、周囲を見渡した。


「……静か、になった?」


 静寂というより、“一時的な停止” と呼ぶほうが近い。

 分岐層はなお続いている。むしろディバイド・レイスの破砕によって、これまで押し隠されていた“層の本来の顔”があらわになりはじめていた。


 エヴァンは剣を納め、中央に立つ巨大な「断層の門」を見据えた。


 霧が薄れると同時に、奥の壁面――いや、“記述そのものの地層”が振動し、亀裂のような紋が走る。

 次の瞬間、それは明確な構造物として姿を変えた。


 形態未定の文字列が門の輪郭を模し、ゆっくりと回転を始める。

 中心域第三階層への正規ルート――《オクゲート》だ。


 やがて、セシリアが低く呟いた。


「門が……開こうとしている。ディバイド・レイスを倒したことで、“分岐の揺らぎ”が収束して……層が、次の記述へ進むように促されているわ」


 門面に刻まれた無数の筆致が、まるで誰かの手書きのように動く。

 近づくほど、耳の奥に“古層言語オールド・トング”の囁きが染み込む。


 ――名の中枢へ進む資格を証明せよ。


 内側からそう声がした気がした。


 エヴァンは一歩、門へ踏み出す。


「セシリア。ここから先は……王国根名ルートネームの変調を引き起こしている源流に触れる領域だ。覚悟は、あるか?」


 セシリアは短く息を吸い、頷いた。


「当然よ。ここまで来て戻るつもりなんてないわ。私たちが止めなければ――王国の名そのものが崩落する」


 門が低く呻き、光が縦に裂けた。


《オクゲート》が開く。


 第三階層――“根源記述層ファウンデーション・レイヤー”。

 名の成立を規定する初期文脈が眠る場所。


 ただし、二人はまだ知らなかった。

 ディバイド・レイス撃破によって開いたこの門は、本来は“人間”が踏み入ることを想定していない階層だということを。


 風が吹いた。

 紙のような質感をもった虚風が、二人の体表の“名の輪郭”をなぞっていく。


「行こう、セシリア」


「ええ。中心域の核心に触れるまでは止まらない」


 ともに一歩踏み出すと、門の向こうの光が二人を包み込んだ。



 門を越えた瞬間、世界は形を変えた。


 そこは――

 世界の根を裏側から覗き込むような空間だった。


 地面の概念は薄く、踏みしめた場所は硬質の光でも石でもない、「言語化される前の輪郭」。

 色彩は淡い灰と金と蒼が混ざり合い、視線の角度によって、まるで“文章の余白”が形を持って立ち上がるように見える。


 遠方では、天井とも空ともつかぬ闇に、無数の細い文脈が線となり、ゆっくりと回転していた。

 一つひとつの線は、読み上げれば世界のどこかを構成する“名の式”になるのだろう。

 だがいまは――すべてが乱れた手稿のように揺らぎ、いつ崩落してもおかしくなかった。


 セシリアは息を飲む。

「……見て。ここ、すでに“意味”が死にかけている」


 エヴァンは周囲を見渡す。

「名の土台が……文字の砂のように崩れていく。王国の根名ルートネームの揺らぎが、ここまで進行しているというのか」


 足元では、地面のように見えていた層がひび割れ、砂のような粒子となって舞い上がり――

 だが砂ではなく、かつて存在した誰かの名の破片だと、二人にはわかってしまう。



 前方に、一本の巨大な裂け目が走る。


 裂け目はゆっくりと螺旋状に伸び、深核層の奥へと続いていた。

 そこだけは、他よりも安定しているようで――

 まるで“名の中心核”へ辿り着くための一本の主文脈メイン・ラインのようだった。


「……行くしかないな」

「ええ。ここから先は、おそらく“名の本体”に触れる領域……」


 セシリアは喉が鳴るのを抑え、続ける。

「最悪、王国そのものの存在が書き換えられる……そんな可能性が、現実味を帯びてきます」


 エヴァンは短く息を吐いた。

「だったらなおさら、踏み込んで確かめなければならない。ここで退けば、すべてが崩れる」


 二人は主文脈の回廊へ歩みを進めた。


 その瞬間――

 深核層の奥から、巨大な鼓動が響いた。


 世界そのものが、脈打った。



 ――それは、生き物の鼓動ではなかった。


 空間そのものが脈打ち、名の式が震え、文脈の線がゆらりと波打つ。


 エヴァンとセシリアは同時に足を止めた。


 次の瞬間、深核層の奥から、淡金色の波が押し寄せてきた。


 波は光でも魔力でもない。“意味”そのものの脈動。

 世界が存在し続けるために必要な根源の拍動が、形を持って押し出されているのだ。


「……これが、王国根名ルートネームの鼓動……?」

 セシリアの声は震えていた。


 鼓動が過ぎ去ると、二人の体表をかすめていた“名の輪郭”は微かに変色していた。

 それは――この層が持つ影響が、人間の存在そのものに干渉し始めている証。


 エヴァンは眉を寄せた。

「危険だ。これ以上の深層では、名の構造が直接侵食を始める……」


「でも、行くんでしょう?」

 セシリアは静かにエヴァンを見た。

 瞳の奥には恐怖があった。しかし、それよりも強い意志があった。


「行かないわけにはいかない。この脈動は、限界が近い証。根名が崩れれば――王国は、名の基盤ごと消滅する」


 エヴァンは短くうなずいた。


 主文脈メイン・ラインの回廊は、脈動のたびごとにゆっくりと収縮し、まるで生きた器官の内部を通っているようだった。


 やがて、回廊の壁面に沿って、淡い光の斑点が浮かび上がり始めた。


「……これは?」

「“名の細胞片”……? いや、違う……」


 セシリアが手を伸ばす。

 斑点は、触れる寸前にかすかな声のようなものを発した。


 ――たす……け、て……

 ――わた……し……の、な……が……


 声は複数。

 老いも若きも、男も女も。

 すべてが混ざり、歪んだ叫びとなって押し寄せた。


「これ、名が崩壊した人々の“残響”よ……!」

 セシリアの顔色が青ざめる。


 エヴァンは歯を食いしばった。

「……王国で失われつつある名は、ここに吸い込まれているのか。この層は――名の死層デス・レイヤーと隣接している……!」


 そのとき、回廊の奥がゆっくりと開いた。


 第三階層――深核層の核心へと続く門。


 そこから、ひときわ強い脈動が放たれた。


 ドン…… ドン…… ドン……


 二人は胸を押されるような圧迫感に耐えながら、門の向こうを見つめる。


 黒い虚無の中央。


 そこに、巨大な球体が浮かんでいた。


 無色透明のようでいて、内部には無数の文字列が渦巻き、

 時に形となり、時に意味の破片となって弾けている。


「……あれが、王国の根名核コア・ルートネーム……?」

 セシリアは喉を鳴らした。


 エヴァンの表情は険しい。

「いや。あれはおそらく……“揺らぎ”そのものの集合体だ。本来の根名核とは別の……異常の中心。」


 球体の内部で、名の式が崩れ、再編され、また崩れ――

 まるで“正解の名”を見つけられずに苦しんでいるようだった。


 脈動が走る。


 名の式がひとつ、またひとつ、砕け散って虚空に消える。


「……急がないと。根名核が自壊を始めている……!」

 セシリアが叫ぶ。


 エヴァンは、短く息を吐いた。

 決断を迫られた顔だった。


「セシリア。あの核に触れれば、名の奔流がそのまま俺たちの存在に流れ込む。どちらか一人が耐えきれなければ――存在そのものが書き換わる」


「わかってる。でも――二人で行くわ。ここまで来て、どちらかを欠いて突破できる階層じゃない」


 二人は互いにうなずき、核へ向かって歩を進めた。


 そして――


 深核層の中心で、名の奔流がうねり、二人の前に“姿”を取った。


 渦の中心に、人影が立ったのだ。


 男とも女とも判別できない、曖昧な輪郭。

 声も色も名も持たない、未定義の存在。


 それはゆっくりと顔を上げた。


 ――ようやく、きた。

 ――二つの名をもつ者たちよ。


 その声は、名の破片が擦れ合う音のようだった。


 エヴァンとセシリアは、同時に息を呑んだ。


 深核層の脈動の正体が――

 ついに、姿を現したのだ。



 未定義の人影は、かすかな“笑み”のようなものを帯びた。

 口元を動かしたのではない。輪郭が、たまたまそう読めてしまう――

 そんな曖昧さのまま。


「……あなたは何者?」

 セシリアが声を絞り出す。


 存在は、答えるように一歩踏み出した。

 足場があるはずのない空間で、確かに踏音が響く。


 ――問うか。よい。

 ――私は、“名が生まれる前の名”。


 エヴァンの眉が動く。

「名が……生まれる前?」


 ――そう。

 ――言語が形を持たず、意味が結ばれる以前。

 ――世界が“書かれる前”に漂っていた、可能性の余白。

 ――私はその、忘れられた“原型”のひとつ。


 曖昧な輪郭が、かすかに震え、二人の視界に奇妙な残像を生んだ。


 セシリアは息を呑む。

「……あなた、もしかして……“捨てられた名”?」


 存在の動きが止まる。


 ――正確には、

 ――“採用されなかった世界記述”。


 ――この王国の根名ルートネームは、かつて複数の候補式から選ばれた。

 ――しかし、選ばれなかった側の式も、消滅はしない。

 ――ただ、書かれず、呼ばれず、名づけられず……空白の底に沈む。


 エヴァンの背筋が冷える。

「つまり……お前は、この王国の根名が成立する前に存在した“別の王国の原型”なのか?」


 存在は、曖昧に頷いた。


 ――その通り。

 ――お前たちの世界は、私を“採択しなかった”。

 ――ゆえに、私は名を持たず、記憶されず、存在しなかった。


 灰と金と蒼の光が脈打つ。

 深核層そのものが、その告白に震えているようだった。


 セシリアが一歩前へ。

「……あなたは、恨んでいるの?」


 曖昧な存在は、しばし沈黙し――

 そして、さざ波のような声で答えた。


 ――恨んでいるか、と問われれば……

 ――それは“名を持つ者”の問いだ。


 ――私はただ、“選ばれなかった記述”。

 ――だが……

 ――いま、この王国の根名が崩壊しつつある。

 ――その揺らぎが、私をここまで浮上させた。


 エヴァンは静かに言う。

「……つまり、お前はこの揺らぎの“原因”ではなく――“結果”なのか」


 ――そうだ。

 ――私はただ、呼び戻されただけ。

 ――この世界が、私の存在を“必要とし始めた”から。


 セシリアの表情が固まる。

「必要……? どういう意味?」


 存在の輪郭が、ぐにゃりと歪む。

 まるで、“複数の物語が一つに収斂しようとしている”ような揺れだった。


 ――この王国は、根名を失いかけている。

 ――名の基盤が崩れ、世界の文脈が補完を求め始めた。

 ――その隙間に、“忘れられた私”の記述が流れ込んだ。


 ――いまや、この世界は岐路にある。


 ――“現王国”として再構築されるか。

 ――“私の原型”に書き換えられるか。


 二人の腹に重いものが落ちた。


 セシリアは低く呟く。

「……あなたは、世界を乗っ取る気なの?」


 不定形の存在は、ゆっくりと首を振った。


 ――乗っ取る意図などない。

 ――名を持たぬ私は、“意志”すら未完成だ。


 ――だが、

 ――世界が選べば、私は“新たな王国の根名”となる。

 ――その時、お前たちの知る王国は――消える。


 エヴァンは剣を握る。

名のネームブレードが、深核層の光を浴びて微かに震えた。


「……ならば俺たちは止める。この王国の歴史と名を守るために」


 曖昧な存在は、ただ静かに二人を見つめた。


 ――止められるかどうかは……

 ――“名の核心”が決める。


 ――さあ――来い。

 ――中心核はすぐそこだ。

   世界の名を選ぶのは、お前たちか……それとも、私か。


 深核層が揺れ、主文脈が裂け、光が二人を包み込む。


 次に訪れるのは――

 名の最深部、“根名の決定域ルート・デシジョン”。


 ここで世界が選ばれる。



 光が収束した。


 エヴァンとセシリアの視界から、色も影も音さえも剝ぎ取られ――

 その代わりに、“純粋な文脈”だけが満ちていく。


 ここは深核層のさらに奥、世界の名が確定し、歴史が一本の線として編まれる場所。


 根名の決定域ルート・デシジョン


 光が薄れたとき、二人はすでにその中心に立っていた。


 彼らの前には――ひとつの“人影”。


 さきほど深核層で見た曖昧な存在よりも、輪郭はわずかに強まり、しかし依然として男とも女とも定まっていない。


 色の無い髪が揺れる。

 瞳は存在しているようでいて、見ようとすれば空白へ沈む。


 名が、まだ確定していない。


 それは、ゆっくりと口を開いた。


「……ここまで来たか。名を持ちながら、名を修復する者たちよ。」


 声は直に耳に届かない。

 名の回路そのものへ響く“定義前の振動”として伝わってくる。


 エヴァンは一歩踏み出す。


「お前は……何者だ? この脈動、この揺らぎ……すべての中心にいるのは、お前なのか?」


 存在は首をかしげる。

“問い”という概念を検索するような仕草だった。


「何者、とは。私は――まだ名づけられていない。名づけられる前の、王国の可能性だ」


「可能性……?」

 セシリアが息を呑む。


 存在は静かに頷く。


「王国の根名ルートネームは長らく安定していた。だが時が進み、記述と記録が積み重なり、未定義の“余白”が膨れあがった。そこに集まった意思、矛盾、願望――それらが結びつき、私は『仮の形』を得た」


 エヴァンの背筋が冷える。


「……つまり、お前は“王国そのものの影”ということか」


「影、ともいえるし、未来ともいえる。名が崩れるなら私は“曖昧な王国”となり……名が再構築されるなら私は“新たな王国”になる」


 その言葉が落ちた瞬間――

 周囲の空間に、無数の文字の粒子がゆっくり浮かび上がった。


 ひとつひとつが、王国の町々、血統、歴史、習俗、記憶、世界観……あらゆる根名を構成する“源文”。


 セシリアはその光景に震えた。


「ここで……王国の未来が“決まる”の……?」


「そう。そして――」


 存在はエヴァンへ向け、はっきりと顔を向けた。


「お前たちが来たことで、記述が動き出した。王国は、自らの根名を“選び取ろうとしている”」


 エヴァンは問いを重ねる。


「では聞く。最近起きている名の崩壊――ノーム・クラッシュは何が原因だ? お前か、それとも……別の力が働いているのか?」


 未定義の存在は、一瞬だけ沈黙した。

 まるで答えを“検索”しているかのような、不自然な間。


 そして――


「原因の一部は、私だ。だが全てではない。名を壊し、書き換えようとしている“外部の意志”がある。」


「外部……?」

 セシリアの目が鋭くなる。


「その存在は、名を食い、名を奪い、名の空白を増大させることで王国を曖昧にしようとしている。私はそれを止めるために形をとった。しかし私は“未定義”。確定者デファイナーが必要だった」


「確定者……?」エヴァンが眉を寄せる。


「そう。名を修復したお前たちこそ、ここに至るべき“定義者”なのだ。私は、お前たちを待っていた」


 未定義の存在は、ひとつ手を伸ばした。

 その掌には、無数の文字の粒子が渦を巻き――

 一本の“まだ名づけられていない文脈”が現れる。


「エヴァン、セシリア。王国の根名は揺らぎ、崩れかけている。だが、まだ間に合う」


 その声は、まるで試すようでもあり、願うようでもあった。


「問う。お前たちは――王国の根名を“どう在らしめる”つもりだ? 守るのか。変えるのか。書き換えるのか。それとも、捨てるのか」


 空間全体が静まり返る。


 ここは名の決定域。

 言葉ひとつで、王国の根が変わる。


 エヴァンとセシリアは――

 いま、“世界に問われている”。



 エヴァンが一歩踏み出す。


「俺たちの選択は一つだ。王国の根名ルートネームを取り戻す。削られた可能性を含めて、秩序を立て直す」


 曖昧な存在の輪郭が揺れた。


「その選択は、私を消すことになるかもしれない。それでも?」


 エヴァンは頷いた。


「お前を否定するわけじゃない。“正しい在り方”に戻すんだ。王国が積み上げた影を、どう扱うかも含めて――俺たちが決める」


 セシリアが続ける。


「あなたは“可能性”そのもの。ならば、消すのではなく――“統合”すべきです。王国の名は、未来を切り捨て続けてきた。だからこそ、疑似的な影が膨れあがった。なら、未来を閉ざさない根名に組み替えるべきです」


 未定義の存在は静かに眼を閉じる。


「……それが、君たちの選択か。ならば――示せ」


 空間が震えた。


 まるで世界そのものが問うように。


“どの名を、未来へ繋ぐのか。”


 二人の手が、自然と重なった。


 王国の未来を決定する儀式が――

 いよいよ始まる。



 光が引いた。


 そこはもはや“空間”ではなかった。

 上も下も、左も右も、その区別さえ曖昧で、ただ無数の文脈が織り成す網のような領域が広がっている。


 根名の決定域――“名”が世界に降りてくる前の階層。


 中心に、未定義の存在が漂っていた。

 形を得たり喪ったりしながら、二人を静かに見つめる。


「これが……根名を決める場所……」

 セシリアの声は震えていたが、恐れではない。理解が追いつかない領域に踏み入れた者の震え。


 存在はゆっくりと手を広げた。指は途中で滲み、煙のように消え、また別の線として形を結ぶ。


『――名を戻すか。ならば、三つの段階を経ねばならぬ。いまの王国の名は“断片化”し、“影が逸脱”し、“文脈が崩れた”。それを正すには、同じ順序を逆に辿る必要がある』


 エヴァンが眉を寄せる。

「名を束ね、影を統合し、文脈を再配列する……?」


『――そう。世界の“名”も、個の“名”も同じ原理の上にある。

 だが、おまえたち二人だけが、この儀式を行える』


 存在の声は淡々としていたが、その奥にわずかな期待のような揺らぎが混じっていた。



 足元に、光の糸が集まり始めた。

 それはただの光ではない。王国を構成していた者たちの“名の式”の断片――人々の呼び名、地名、法の名、祈りの名、記録の名、全てが微細な文字として舞っている。


 セシリアは思わず膝をつきそうになる。

「……これ、全部……王国を形作っていた“名前”……!」


「崩れて散ったんじゃない。集めれば……まだ戻せる」

 エヴァンは手を伸ばし、漂う名の粒に触れる。

 指先が触れた瞬間、断片は柔らかく震え、まるで“帰り道を思い出した”かのように一本の流れへと連なり始めた。


『――束ねよ。名は本来、孤立して存在しない。名は名を支え、名が名を呼ぶ。それが崩れたとき、世界は“意味の地震”を起こす』


 エヴァンは深く息を吸う。

「……この流れ、まだ繋げる。いけるぞ、セシリア!」


「任せて。名の系譜なら私が最も扱える……!」


 二人の術式が重なり、無数の名の粒子は一本の黄金の奔流へと束ねられていった。



 束ねられた名の奔流のすぐ裏で、黒い影の濁流が揺れている。

 それは名が持つ“影”――履歴、喪失、裏切り、歴史の闇、記録からこぼれ落ちた傷。


 セシリアの表情が曇る。

「……影を無視して名を戻しても、“歪んだ国”になる。でも、この影は……重すぎる……!」


「影は消すべきものじゃない。対立し、矛盾し、時に人を苦しめるが――名の一部だ」

 エヴァンが影へ手を伸ばす。


 瞬間、黒の奔流が牙を剥き、二人を噛み砕かんと荒れ狂った。


 未定義の存在が小さく呟く。


『――影なくして名は成らぬ。過去を失った名は、ただの空虚だ。二人よ、“人間の名”を知る者として、それを抱けるか?』


 影の濁流がエヴァンの腕を飲み込み、彼の記憶・激情・古い傷へ干渉してくる。

 セシリアの周囲にも、自分の過去の誤りや後悔が影になって押し寄せる。


 だが――二人は互いの腕を取り合った。


「一人で抱く必要はない」

「名は“関係”で成立する。だったら……二人で統合できるはず!」


 二人の握る手を中心に、影が柔らかく震え、形を失い、やがて名の奔流の裏側へ吸い込まれるように静まっていった。



 名と影が一つになった瞬間――

 根名の決定域のすべての文脈が、音を立てて動き始めた。


 天を走る巨大な線、地に沈む透明な文字列、遠方の回転する文脈輪――

 それらがばらばらの速さ、別々の方向へ向かい、世界が崩壊寸前のように軋む。


「……これ、私たちが順序を決めなきゃいけないってこと?」

 セシリアは震えながら呟く。


 未定義の存在が、少しだけ明確な輪郭を得ていた。


『――文脈とは“因果”だ。名は因果によって世界と結ばれる。因果が乱れれば、国は国として存在できなくなる』


 エヴァンは前へ進み、名の奔流へ両手を添える。

「……だったら、正しい順序に戻すだけだ」


「でも“正しい順序”って何!? 歴史には解釈がある、名には複雑な意味がある! どうやって――」


「答えを決めるのは……俺たちじゃない」

 エヴァンは静かに続ける。


「この国を生きてきた“人々の名”だ。束ねて、影を統合した以上……名は自ら帰る場所を選ぶはずだ」


 セシリアはハッとし、息を呑む。

「――文脈の再配列は、“名の自律的帰還”……!」


 二人が手を重ね、奔流へ力を注ぐと――


 無数の文脈が揺らぎ、再び一つの方向へと並び始めた。


 かつて王国が持っていた根名ルートネーム、その揺らぎを正すための一本の因果の道標が、光となって立ち上がる。


 そして未定義の存在は、完全に形を得ていく。


 白銀にも黄金にも見える瞳で、二人を見据え、静かに告げた。


『――最後の一線を越えよ。名を戻すとは、世界の“決断”を下すこと。それは、二人の選択そのものが……王国の未来を定める』



 また光が引いた。


 エヴァンとセシリアは、深核層でも最も奥、名が世界へと定着する直前の“決定域” へと立っていた。


 そこはもはや空間ではなく、

“世界がまだ世界になる前の、白紙の中心”。


 上下も前後もなく、ただ、

 一行の「まだ書かれていない文章」だけが、無辺の闇を切り裂くように漂っていた。


 その文は――

 王国そのものの根名ルートネーム

 すべての名を束ねる“基礎文脈”の源。


 しかし今、その一行は千々に割れ、無数の断片へと解け落ちている。


 名の奔流が吹き荒れ、

 世界が世界であるために必要な「意味」が、砂のように指の隙間から零れ続けていた。



 二人の前に立つ存在は、揺らぎの中で輪郭を取り戻していく。


 男でも女でもない。

 老いても若くもない。

 人かどうかさえ疑わしい。


 ただ、ひとつ確かなことがあった。


 その存在だけは、どこにも書かれていない。

 ゆえに、どこにでも入り込めた。


 世界の名のどこにも属さない――

 “欠番名アンネームド”。


「……お前が、この揺らぎを引き起こしているのか?」


 エヴァンの問いに、

 輪郭の定まらない顔が、ゆっくりと向けられた。


「我は……引き起こしたのでは、ない。崩れゆく名に、呼ばれたのだ」


 その声は、風の音でも、言葉でもない。

 “意味”が直接心に触れるような響きだった。


「名は、千年のあいだ歪み続けた。根名の傷は、もはや継ぎ接ぎでは塞がらぬ。だが――お前たちは、なお修復を望むか?」


 セシリアはためらわない。


「望むわ。名を失えば、私たちの王国は……人々は、自分が誰なのかさえ保てなくなる。この揺らぎを放置すれば――存在そのものが薄れてしまう!」


「ふむ……」


 欠番名は、ゆっくりと周囲に視線を巡らせた。


「では問おう。王国根名の再編は、“束ねる”か、“統合する”か、“並び替える”か。道は三つ。一つを選べば、他の二つは永遠に閉ざされる」


 名の奔流が、三つの柱となって浮かび上がる。


◆ 儀式の構造

● 束ねる《バインド》 ―― 失われた名を結び直す


ゆるやかな再建。

だが歪みは残り、おそらく数百年後に再び亀裂が生じる道。


● 影を統合する《シンクロ》 ―― 名の裏側を吸収する


代償として、王国の歴史に刻まれた“影の文脈”が正史へと統合される。

世界の解釈が変わる可能性がある。


● 文脈を再配列する《リライト》 ―― すべてを並び替え、完全に再誕させる


もっとも強力だが、危険。

間違えれば、王国という概念そのものが別の形に生まれ変わる。


 エヴァンとセシリアは、一瞬だけ互いの目を見た。


 言葉は要らなかった。


 二人の意思は、初めから一致している。


 “王国の根名を取り戻す”――その一点。


「……リライトを選ぶわ」

 セシリアが静かに告げた。


 エヴァンも頷く。


「すべての根を整え直し、ひずみの源を断つ。危険でも……それが唯一の完全解決だ」


 欠番名の瞳に、微かな光が宿った。


「ならば――始めよう。王国根名の再誕ルートネーム・リバース を」



 決定域が震える。


 砂のように崩れ落ちていた名の断片が、一つ、また一つと光を帯び、線となり、文となり、章となっていく。


 エヴァンとセシリアの身体から、彼ら自身の“名の光”が細い糸となって伸び、断片を拾い上げ、編み上げていく。


 欠番名が掌を掲げた。


「影文脈――解放」


 次の瞬間、王国史に潜んでいた「忘れられた事実」「封殺された名」「裏側の記憶」が奔流となり現れる。


 黒い光の嵐が二人に迫る――

 だがエヴァンは一歩、前へ出た。


「影は拒まない。名の一部として、受け止める。それが世界を強くする」


 セシリアも声を重ねる。


「光も影も、王国の物語。ならば――全部、編み直す!」


 その瞬間、決定域の中心で三つの光柱が重なり、爆ぜた。


 白い光が世界の底まで広がり、散っていた名の粒子を一斉に結び直していく。


 無数の線が束ねられ、闇が統合され、文脈が並び替えられ――


 ひとつの“名”が、ここに生まれた。


 ――王国根名ルートネーム、再誕。


 天地が震えた。

 世界の呼吸が戻り、色が戻り、意味が戻る。


 そして、欠番名は静かに目を閉じた。


「……これで、我の役目は終わる。新たな名の下、お前たちは新しい王国を歩むだろう」


 その輪郭は光の粒子となり、消えていく。


「待て……! お前は何者だったんだ?」

 エヴァンが叫ぶ。


 消えゆく存在は、初めて“顔”のような形を作り、微笑んだ。


「我は……“名が揺らぐときだけ現れる、影の調停者”。必要とされたときだけ、世界に存在する者」


 そして、最後の一粒が消える。


「――名が整った世界で、我はもう、必要ない」



 ――光が、収束していく。


 王国根名ルートネームの再誕を告げるあの眩い奔流は、やがて静かに、深い呼吸のように沈静した。


 光が薄れ、足場の感触が戻る。

 ふたりはゆっくりと目を開けた。


 そこは、もはや深核層ではなかった。


 暗雲に覆われていた王都の空が、朝焼けのように染まりつつある。

 倒れかけていた街路の碑文は、欠けた文字を取り戻し、沈黙していた記録局の塔は、再び名の光脈を天に向かって巡らせていた。


 ――王国は、生き延びたのだ。


 セシリアが、胸に手を当てた。

「……戻ってこれたわね。全部……間に合った」


 だが、声は震えていた。

 深核層での経験は、ただの戦いではなかった。

 世界の“名”を束ね直し、ゆらぎ、破損し、消えかけていた王国の根文脈を、ふたりが選択して結び直した――

 その余韻が、まだ魂の奥で鳴り続けている。


 エヴァンは、街の人々がゆっくりと活動を再開しつつあるのを見渡した。

 名を失いかけ昏倒していた者たちが、ひとり、またひとりと目を開け、自分の“名前”を確かめるように唇を動かす姿がある。


「……あれは、俺たちが守れたものなんだな」


 エヴァンが呟くと、セシリアは静かに頷いた。


王国根名ルートネームは再構成されたわ。でも……覚えておいて。再誕したということは、あれが“新しい根”でもあるの。脅威は去ったけれど、王国はもはや“同じ存在”ではなくなった」


 それは、どこか寂しげで、しかし確かな未来を見据えた声音だった。


 ふたりは王立記録局へ向かって歩き出した。


 崩れかけていた巨大アーチは修復され、かすかに淡い文脈の光を纏っている。

 大地に刻まれた複文の光脈は、脈打つたびに王国全土へ新たな“意味”を流し込んでいく。


 ――その玄関前。


 職員たちが整列していた。


 混乱のただ中にいた記録官たち、研究員、術式管理官、そして局長までもが揃っていた。


 誰もが疲労を滲ませながらも、その視線には感謝と敬意の色が宿っている。


 局長が、一歩前に出て深く頭を垂れた。

「エヴァン・クロスフィールド、セシリア・ヴァレンタイン……よくぞ“王国の名”を連れ戻してくれた。あなたたちがいなければ、我々はもう、この国の歴史さえ忘れていたでしょう」


 エヴァンは戸惑いの色を浮かべ、セシリアはかすかに笑った。


「名前を……国を失わせるわけにはいきませんから」


 局長は顔を上げ、語る。


「だが――君たちが深核層で見たもの。“名の根”が揺らいだ理由。それは、王国の歴史上、一度たりとも起こったことがない異常だ」


 空を見上げる。

 再誕した名の光が、かすかに波紋を描いた。


「これは終わりではない。王国は再生したが、同時に“再生した理由”を解き明かさねばならない。君たちふたりは、その核心まで触れた唯一の存在だ」


 セシリアは深く息を吸い、エヴァンに視線を送った。


 ――再誕は終わりではない。

 ここからが、本当の“始まり”なのだ。


「……ええ。続けましょう。何が王国を揺らしたのか。“名の影”の正体は何なのか。私たちが確かめるしかありません」


 エヴァンもうなずいた。


「もう一度、中心域に潜る覚悟はできてる。王国が新しい名を得たのなら――俺たちも、自分たちの名を証明してみせる」


 その言葉に、局長は静かに笑った。


「ならば、まずは休みなさい。英雄は、次の戦いの前に息を整えるものだ」


 ふたりは顔を見合わせ、小さく苦笑した。


 ――英雄。

 そんな大層なものになったつもりは、ふたりともなかった。

 ただ、必要だったから選んだだけだ。


 それでも。


 王国の名は、彼らの選択を刻み込んでいる。

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