第四十三話
王立記録局・特別探索課 発出文書(緊急)
宛先:探索担当者 エヴァン・クロスフィールド殿、セシリア・ヴァレンタイン殿
発信:王立記録局・特別探索課・課長 アウレリウス・ヴェルディン(印)
任務名
《緊急任務:識域境界線内部「セルヴァ=ノード」実在確認および干渉源調査》
任務目的
セルヴァ=ノードの実在確認(境界線内にて目視・記録)
地理情報(地図/方位/地形)への異常干渉の検証・起点特定
干渉源(黒き門との連動疑い)を発見次第、即時封圧または破壊措置を実施。
可能な限り現地記録の複写・残響珠封印を行い、中央へ持ち帰ること。
背景(抄)
・王都付近および北東域で記録消失現象が広域化。既に複数の核を確認・封圧したが、識域境界線(以後、境界線)周辺にて「存在しないはずの街」につながる目撃証言を複数回確認。
・帰還兵士の証言により「セルヴァ=ノード」という地名が共通して挙がったが、局の地図・公文書には一切記載なし。境界線の地図情報への干渉が疑われる。
・境界線以遠は地形変動が激しく、一般部隊の投入は危険。よって探索は機動力・対呪力兼備の少人数班に限定。既往の実戦経験に鑑み、エヴァン殿・セシリア殿を指名する。
装備・支給物
・《残響記録珠》×2(消失傾向を一時的に封じる補助具)
・《識界標章》×1(帰還地点の記録フラグを局へ送信)
・《精神防護符》《虚字の外套》各種補給一式
行動上の注意
・境界線は「記録の存在しない領域」を作り出しうる。視認した事象は必ず複写・音声記録(残響珠に封印)を行うこと。
・複数の観測点で同時に白紙化が進行する恐れあり。広域連動を視野に入れ行動。
・不可測の精神干渉に備え、協働可能な回復師団との中継を確保すること(応急措置以上の治療は王都へ搬送)。
署名:王立記録局 特別探索課 課長 アウレリウス・ヴェルディン(印)
封筒の折り目を指でなぞりながら、セシリアは文書を読了した。
「……“地図にない街”か。聞いたことがない名前だわ。局内記録に載っていないのは当然だけど、兵士たちの証言が一致しているのが不可解ね」
エヴァンは肩越しに局長のサインを眺め、低く吐く。
「地図まで喰われるとなると、ただの核封圧じゃ済まねえ。“門”の語と重なる。これ、門が地理そのものに触り始めてるってことだろう」
局員たちがひそひそと交わす言葉には、不安が籠もっていた。だが誰も、彼らに頼るほか手がないことも知っている。セシリアは符板を胸に抱え、深呼吸した。
「私たちで確認して、記録を残すわ。何があっても『ここにあった』と証明できるものを持ち帰るの」
「そのために剣で道を切り開く。名を刻み、痕跡を残す。わかってる」
二人は支給を受け、馬車に乗り込んだ。石造りの門を抜けると、北東へ伸びる道が白い朝霧の向こうへ消えていく。局の観測図では境界線の先は無人地帯とされているが、兵士の記憶は揺らぐことなく同じ地名を告げている。
境界線は歩を進めるごとに空気を変えた。草木の輪郭が一度ぼやけ、次いで部分的に消え、足を置くたびに地面が“薄く”感じられる。セシリアの符板の針が微かに跳ね、残響記録珠が淡く震える。
「ここから先は、地図上の“無”だ」エヴァンが言う。彼の声は、いつもよりも低く、そして確信に満ちていた。「でも誰かの声が呼んでる。俺らの名を――それで誘導してる」
霧の向こうに、灯りが揺れた。街灯だ。そこに、街並みの輪郭が浮かぶ。窓、屋根、石畳。だが視界を通して掴もうとすると、煙のように形が崩れる。
「……セルヴァ=ノード」セシリアが呟く。口に出した途端、記録珠が熱を持ったように光を深める。まるで“ここにある”という事実が、物理的に反応するかのようだ。
街の中央広場に立つ影がゆっくりと振り向く。人の形をしている、しかし顔の輪郭は欠け、目は空洞のように黒く沈み、口は笑っているようでもあった。
『――エヴァン・クロスフィールド。よく、来てくれたね』
影の声は、かすれた古い録音を再生したように歪んでいた。しかし、呼びかけるその口調は確かに彼の実名を呼んだ。
エヴァンの身体に、名を呼ばれたときの感覚が波打つ。剣に乗せた意志が、ほんの少し反応を返したようだった。
「どうして俺の名を知る……?」エヴァンが問い返す。だが質問は同時に、別の不安を引き出す。自分の歩んだ道、名を刻んだ行為が、どこかで“剝ぎ取られ”てこの場に落ちているのだという予感――。
影はゆっくり首を傾げ、歪んだ笑みを浮かべた。
『きみの記録は、ここに全部落ちているよ。忘れられたこと、忘れられたくないこと。ひとつ残らず――ここで眠らせてあげよう』
セシリアが符板を高く掲げ、呪文の前兆を紡ぎ始める。残響記録珠は強く光り、周囲の霧を押し戻すように震える。だが影の輪郭は一切揺らがない。むしろ、霧の中から別の影が立ち上がる音が聞こえた――街の窓から、人々の影がこちらを見ているかのように。
「エヴァン、これは罠かもしれないわ。名で呼んで心を引き裂く――記録を餌にする手口よ」セシリアの声には、理知が宿ると同時に痛切な警戒が滲んでいた。
エヴァンは剣を握り直した。名を呼ばれたことは、逆に言えば影が彼の“刻まれた軌跡”を盗み見ている証拠だ――ならば、斬ってでも取り戻す。
「じゃあ、取り返すだけだ」彼は静かに言い、刃に小さく意志を注ぎ込む。剣身に浮かんだ細い文様が光を帯びる。記録を刻む、残すという行為が、これからの反撃の鍵になる。
影は再び笑った。街全体が、まるで息を呑むように、二人の次の一手を待っているようだった。
影がかすかに手を伸ばした瞬間、世界がたわんだ。
空気が割れるような音もなく、白い霧が波紋のように広がり――
景色が変わった。
エヴァンは息を飲む。
見覚えのある木造の回廊、差し込む冬の淡い光。
足元に広がる石畳と木屑の匂い。
「……嘘だろ。ここは――」
「エルデン訓練場……?」
セシリアが小さく呟いた。
だが彼女の声も、周囲の空気に吸われるように薄い。
影が囁く。
『ここには、きみの“最初の記録”が落ちていたよ。
取り戻したければ――思い出してごらん』
回廊の向こうから、二人の少年少女が歩いてくる。
一人は、木剣を背負った黒髪の少年。
もう一人は、分厚い魔導書を抱えた金髪の少女。
エヴァンとセシリアは、見覚えがありすぎて、言葉を失った。
「……これ、俺たち……?」
「まだ十歳……いえ、九歳の頃かしら……」
幼いセシリアが、震える手で魔導書を落とす。
幼いエヴァンがそれを拾って差し出す。
「落とし物。……その、難しい本なんだな」
「ありがとう。でも……読めないのよ、このページ」
――それは二人が初めて言葉を交わした日の記憶。
だが、“再現された子どもたち”の動きが不自然だ。
ぎこちない。
ひらがなだけで書き直された絵本を読むように、表情が粗い。
「……これ、記憶の複写が不完全なのよ」
セシリアが袖を握りしめる。
「本物の私たちはこんなにぎこちなく動いてなかった……。情報が欠けてるのね。意図的に」
影が笑う。
『そう。思い出は“記録”じゃない。欠けるし、歪むし、塗りつぶすこともできる。さあ、示してみなよ――本物のきみたちが、この日の“真実”を覚えているかどうか』
幼いエヴァンが拾って渡したはずの魔導書。
だが影が示した複写記憶では――
魔導書のページが、まっ白だった。
「こんなの、本当じゃない……!」
セシリアが震える声で言う。
「私、あの日……エヴァンに“読めない理由”をちゃんと話した……はず……」
エヴァンも眉を寄せる。
確かに、あの日のセシリアはただ本を抱えて困っているだけではなかった。
何か――大事な言葉を言っていた気がする。
だが、それが霧の向こうに消えたように思い出せない。
影の声が重なる。
『忘れたのなら、ここで消えていい。思い出せるなら、証明してごらん。本当に“あったこと”を。』
テストは始まっている。
セシリアは記録珠を胸もとに押し当てる。
しかし珠は沈黙したまま。
“元の記録”が曖昧になっているため、何も拾えない。
「違う……こんなはずじゃない……」
彼女の動揺が空気を震わせ、周囲の訓練場の景色が揺らぐ。
「セシリア、落ち着け」
「……でも、私……本当に忘れてるのかもしれない。あなたと初めて話した、大事な日のことなのに……私……」
肩が小刻みに震え、声が掠れる。
彼女が“自分自身の記録”を疑ったのは生涯で初めてだった。
影は囁く。
『忘れた記憶は、存在しないものと同じ。だからぼくが代わりに“書き換えてあげる”。きみとエヴァンの出会いの記録を……もっと都合よく』
幼いエヴァンがぎこちなく笑い、幼いセシリアが頭を下げる。
“偽物の出会い”が形を整えようとしている。
このままでは、過去の一幕が影の手で“新しい記録”に塗り替えられる。
エヴァンはゆっくりと歩み出た。
「……わかった。なら思い出す」
影が興味深そうに首を傾げる。
「俺は、あの日のことを――全部覚えてるわけじゃない。けどひとつだけ、絶対に忘れていないことがある」
幼いセシリアが落とした魔導書。
白紙になったそのページ。
エヴァンは、断言するように言った。
「“読めなかった”んじゃない。泣かないようにしてただけだろ、セシリア。難しい本だからじゃない。『師匠に怒られた』って、俺にだけ小声で言ったんだよ」
――その瞬間、偽物のセシリアがひび割れた。
周囲の景色が揺らぎ、白紙のページに文字が流れ込む。
“本物の記憶”が戻り始めている。
セシリアは目を見開いた。
「……エヴァン。覚えて……いたの……?」
「当たり前だ。あれはお前が初めて、大人に理不尽に叱られて泣きそうになって……でも強がってた日なんだから」
影が低く唸る。
『……へえ。思い出したのか。じゃあ――もっと深く掘ってみようか』
影の腕が空を裂くように伸び、さらに黒い波が押し寄せる。
訓練場の景色が溶け、次の場面が姿を現す。
――夕暮れの湖畔。
――誰も知らない、小さな秘密の場所。
エヴァンとセシリアが、誰にも言っていなかったはずの“ある記憶”。
影の声が響く。
『では次の問い。“この日、お前たちは何を隠した?”』
景色の中には、エヴァンとセシリアが確かに隠し、誰にも語らなかった“あの出来事”の輪郭がぼんやり浮かんでいる。
だが影が既に手を入れ、記憶は所々が白く抜け落ちていた。
影の囁きが広がる。訓練場の景色は淡く揺れ、湖畔の夕暮れが半透明の層を重ねたように浮かぶ。だが細部が途切れ、ある箇所だけ「不自然にきれいすぎる」のに気づく。
『――あの日、二人は隠した。大事なものを。それは――宝石のように、光り、そして――消えた』
影がそう言った瞬間、湖畔の草むらに、光る小箱の幻が現れた。箱の蓋には古い紋章――二つの交差した月が彫られている。光は確かに美しい。だがエヴァンの手の動きが、ほんの微かに止まる。
「これ、見覚えある?」セシリアが低く訊ねる。幻の箱に、二人で触れようとすると、触れた感触すら影が作り込むように甘く濁る。記録珠がうなるが、写し取れる情報は断片的だ。――製作者の指跡は浅く、紋章は曖昧に歪んでいる。
影は嗤うように言う。『本物はこれだよ? ああ、きれいだね。思い出してごらん。』
エヴァンは眉を寄せる。直感が告げていた。――何かが「きれいすぎる」。現実の記憶は、いつも粗く、欠けがあるものだ。完璧な装飾は、影が都合よく補填した偽物の特徴だ。
「影は“欠落”を嫌う。だから埋めたがる」セシリアが囁く。彼女は符板で小さな文様を描き、符文が瞬間的に湖面へ触れた。光の反応が一瞬だけ変わり、箱の紋章の輪郭に、本来あるはずの小さな傷跡を示す影が差した。
「この傷――誰かにぶつけられた痕だ。自然に付く擦り傷じゃない」セシリアは声を抑えつつ続ける。「私たちが隠した“物”が入っていた箱は、確かにこういう扱いを受けていたはず。完璧な紋章は違う」
影は刃のように言葉を落とす。『ならば、その“傷”が真実だね。探せばいい。思い出ればいい。ほら、もっと深く――』
だが影の「深く」は、実は記憶の流れを一方向へ誘導する罠だ。そこには言葉の断片が用意され、二人の感情を先回りして刺激する。例えば――
――湖畔で交わした約束。
――母がくれた古い歌。
――あの日抱いた「怖さ」。
影はそれらを混ぜ合わせ、本物と偽物の間に糸を張る。だがエヴァンとセシリアには、それぞれ“外部の検証点”がある。
エヴァンはふいに自分の懐を探る。そこには古い包帯の切れ端が縫い付けられた小さな革片(子供の頃に自分で作った目印)がある。彼がいつも身に付ける習慣――その習慣の匂い、擦り切れた縫い目の感触、母の選んだ糸の色。影はどれも真似できない。
「覚えてるか?」エヴァンはセシリアを見た。彼の声には静かな決意がある。「あの日、俺はその革片で本の角を押さえてやった。お前が泣かないように。お前の手はいつも冷たかった。お前は“師匠に叱られた”って言ってたんだ」
セシリアの目に、ほんの一滴の光が戻る。影がつくった“きれいな箱”は、革片の匂い、縫い目の粗さ、言葉に含まれる細い躊躇を再現できない。偽物は光の層で飾るが、触覚や匂い、躊躇の仕方――人の癖までは作れない。
だが影は容易に引き下がらない。次に映したのは、もっと深い“秘密”の断片――二人が大人になっても語らなかった行為。影はそれを、あたかも二人が互いに隠し続けてきた“罪”であるかのように描く。湖の奥で、二人が誰かの書簡を燃やした、という光景だ。焚き火の炎の中で、紙が踊り、燃え尽きる。影は言う。
『お前たちは自分たちの名を守るために、真実を焼いたのだろう? それを認めれば、楽になるよ』
セシリアの指先が震える。燃え尽きる紙片の匂いは、確かに彼女の胸を締め付ける。
ここでエヴァンが選んだのは反射ではなく検証だ。彼は記憶珠を取り出し、光を当てる。だが珠は反応が弱い――影が記憶の粒を混ぜたため、表面に偽の層が干渉している。だが完全に無力ではない。記録珠は「残響の周波」を拾い、小さなノイズの違いを示した。
エヴァンは微笑を浮かべるように見せ、静かに言った。
「もしあの日、俺たちが紙を燃やしたなら、灰の匂いは残る。泥の中に沈めたなら、紙の繊維は水に溶けて違う匂いになる。だが匂いが混ざったまま“真ん中にある焦げた跡だけ”を見せるのは、影の仕事だ。真実はもっと雑で、後始末も汚い」
そして二人は“検証の連鎖”を始める。小さな問いを影に投げ、影がどのように答えるかで真偽を炙り出す。問いは単純だが効果的だ。
――その箱の中に“歪んだ鍵”はあったか。
――湖畔の焚き火のそばに残った“赤い糸”の色は何色だったか。
――エヴァンが小声で言った“師匠の名前”の最後の音節は何だったか。
影は即座に答えを差し出す。だが答えはどれも「均質」であり、人間の記憶が持つ雑な矛盾や手触りがない。揺れる声、不安定な時間の長さ、耳に残る微かな咳払い――そうした“人間の痕”が偽りには欠けている。エヴァンとセシリアはその不一致に注目し、答えの「雑さ」を基準に真偽を選別していく。
やがて、問いの一つが致命的な差を生む。セシリアが意識的に、そして小声で尋ねる。
「――あの日の、私が笑った理由は?」
影がためらわずに語ったのは、きれいではあるが表面的な答えだ。『あなたは嬉しかった。秘密が守られたから』。だがセシリアの表情は揺れない。彼女はすぐさま自分の胸の奥を探り、ほんの一節の歌を口ずさむ。子守歌の変種――彼女の母がよく歌ってくれた、ただひとつだけメロディーの終わりに変な刻みを入れる癖があった。
その細い刻みは、影が繰り返す答えには絶対に入り込まない。影はメロディを完璧に再生できても、その“癖”を再現できない。セシリアの歌に、湖畔の景色が一瞬だけクリアになり、燃えさしの紙ではなく、小さな木札と、そこに穿たれた二つの傷跡が露出した。
「――木札だ。紙じゃない。箱の中身は鍵でも宝石でもない。刻みのある木札、二つ。私たちの子供の頃の遊びで使ったって、あなた覚えてる?」セシリアの声は震えつつも確信を帯びていた。
影は喰らいつくようにひとつ嘆息を漏らした。『じゃあそれが本物だね。だが、それは些細なことさ。真実を選ぶか、忘却に溺れるか――どっちがいい?』
だがエヴァンとセシリアはもう答えを知っていた。――真偽は細部に宿る。乱れ、擦り切れ、時に汚れた痕跡こそが記憶の証であり、影のつくる“完璧さ”が偽物の印であると。
二人は同時に動く。エヴァンは剣先で地面に「小さな刻み」を刻み、セシリアは符板に古い詠唱をひとつ書き出す。ふたりの小さな行為は「現実の行為」を記録として刻み込み、影が作り出す偽の層を突き崩す効果を持つ。記録珠が強く振動し、薄れていた断片が次々と色を取り戻していった。
景色が音を取り戻す。湖の風、草の匂い、二人が交わした無言の約束。影は最後の抵抗として、自分が集めた偽りの感情を暴発させるが、それはもはや“本物”の複雑さの前では破綻していた。
影は消え入るように言った。『……いいだろう。今回は手加減してやる。だが忘れるな、きみたちの記録はいつでも奪える――』
声は薄れ、霧は静かに収束していく。
二人が安堵の息を吐き合う間、セシリアは符板へ幾つかの短い走り書きを残した。――今日判明したこと、真の痕跡、影が模倣できない「癖」の一覧。これを持ち帰れば、局は影の手口をより正確に解析できる。
エヴァンは革片を指で撫で、微笑む。疲れた表情だが、確かなものを取り戻した手応えがある。記憶は弱くても、二人の間に刻まれた“雑さ”があれば、影は真実を完全には塗り替えられない。
だがセシリアの目は遠くを見据えていた。湖畔に残る木札の刻み、その起源――それが示すのは、単なる幼い遊びではない。誰かが故意に「二人の記録」を分断し得る手口を知っていた可能性。影の作為は単発ではなく、他者の介入を匂わせている。
「次は、その“誰か”を探すわ」セシリアは低く言った。
「影は道具なんだろう。使う者がいる。門の影響圏外から、誰かが仕掛けを撒いた――それを突き止めないと、この先、誰の記録も安全じゃない」
エヴァンは剣を腰に収め、窓のように浮かぶセルヴァ=ノードの残り景色を見返す。影は消えたが、街はまだ揺れている。彼らが取り返した「断片」は小さく、しかし確かな出口を示していた。
「分かった。行こう、次の証拠を探す。ここで止めるわけにはいかない」
二人は符板と記録珠を確かめ、踏みしめるように歩を進めた。霧の向こうに、まだ見ぬ“誰か”の影が潜んでいる。影が真に恐れているのは、記録の“雑さ”だ――それを理解した今、彼らは影の本当の敵となる。
湖畔の幻影が霧のように解け、深い闇がゆっくり巻き戻されるように消えた。
視界が一度白く塗りつぶされ――
次に現れたのは、本来の任務地点である
識域境界線の第三層・観測点《G-7》。
周囲には、記録局の魔装測定機がいくつも散らばっていたが、
どれも半分溶けたように歪み、刻印文字が剥がれている。
セシリアが短く息をついた。
「……記録局の装置が“名を失って”いる。ここに“セルヴァ=ノード”級の干渉が存在するのは間違いないわ」
エヴァンが剣を握り直す。
「影が俺たちの記憶を使って揺さぶったのも、この干渉源の作用ってことか?」
「ええ。セルヴァ=ノードは“存在の曖昧化”を引き起こす干渉体。独立した意志はないはずなのに……」
セシリアは周囲の空気を読み取るように目を閉じた。
「……明らかに、ここには“意図”がある。それも、誰かの記憶構造を読み取り、再構築するほど精密な」
その瞬間、空間が低く唸った。
観測点の中心に、螺旋状のゆがみが生まれ――
その中心から、黒い文字の群れが渦を巻いて立ち上がる。
それは形を持たない“記録のくず”。
しかし、確かに存在している“誰かの未定義の名”。
セシリアが震える声で呟く。
「……これが、セルヴァ=ノード……?」
人の形とも獣の形ともつかない黒いマーブルが、ゆっくりと二人の方へ向き直った。
表面には、消えかけの署名のような文字が繰り返し浮かんでは消える。
――se…va…not…
――s…lv…no…
エヴァンの胸が、なぜか重くなる。
「……名前を探しているのか?」
「正確には、自分の名の“空席”を埋めようとしてるのよ」
セシリアの声は真剣だ。
「セルヴァ=ノードは元々“存在として成立できなかった記録の残滓”。本来なら意志を持たず、ただ世界の外側に溶けていくはず……」
だが目の前のそれは、明らかにこちらに“応答”していた。
黒い影がふるりと震え、かすれた声のようなノイズを発する。
『――キミタチノ……キロクヲ……カシテ……』
セシリアは顔色を変えた。
「……喋った。セルヴァ=ノードは、言語を扱える存在じゃない。こんな精密な干渉は……ありえない」
エヴァンが剣を構える。
「つまり、“何かがセルヴァ=ノードを使ってる”ってことか?」
「あるいは――
セルヴァ=ノードそのものが、誰かの欠けた存在の“残りかす”なのかもしれない」
影の中心に、一瞬だけ“目のような輪郭”が浮かんだ。
それは、エヴァンにもセシリアにも見覚えがないはずなのに――
胸の奥で、説明のつかないざわめきが走る。
影がまた言う。
『……カシテ……ボクニ……“ナマエ”ヲ……』
黒い干渉体――セルヴァ=ノードは、ひとつの形に定まらない。
だが“名”を欲する意志だけは、確かにそこにあった。
黒の渦がゆっくり膨らみ、すりガラス越しの声が響く。
『……カシテ……“ナマエ”…ヲ……』
セシリアは首を横に振る。
「名は“貸す”ものじゃないわ。存在を定義するもの。あなたのような“未成立存在”に与えれば――世界の秩序そのものが崩れる」
しかし干渉体は、諦めるどころか言葉を重ねた。
『……ボクハ……“ナイ”……ナイカラ……ハジマラナイ……ハジマラナイカラ……キエラレナイ……』
それは「苦しみ」という概念を知らないはずの存在が、
それでも“苦しみを模倣している”ように聞こえた。
エヴァンは剣を下げ、少し前に出る。
「……お前、自分が何なのか分かってるのか?」
干渉体はゆらりとこちらを向いた。
黒の中に、蜘蛛の糸ほど細い“文字の欠片”が散っている。
それは誰かの署名の断片――そして“判読できない名”。
『……ボクハ……“ダレカ”ノ……アト……』
セシリアが反応する。
「“誰かの跡”……残滓。つまりあなたは――誰かが“名を失った結果”生まれた存在。記録の幽影」
「じゃあ、誰かが名を奪われたのか?」
エヴァンが問う。
干渉体は否定しなかった。
『……ナマエハ……トラレタ……ボクモ……トラレタ……ソレナラ……イイダロ……? カエシテ……ホシイ……』
セシリアは目を細めた。
「“返せ”と言っている……でもその言い方は、誰かに奪われたというより――」
彼女は息を呑む。
「あなた自身が“名を持っていた”と言っているのね。セルヴァ=ノードになる前に」
干渉体の身体がビクリと震えた。
『……アッタ……ボクニモ……“ナマエ”……ダガ……オボエテイナイ……』
「思い出せない……」
エヴァンが呟く。
「だから俺たちの記憶に入り込んで“名の破片”を探したのか」
干渉体は微かにうなずくように形を歪めた。
『……キミタチノ……キロク……アタタカイ……アタタカイカラ……チカヅイタ……ボクノモノ……サガセルカト……』
その言いぶりに、セシリアの背筋が粟立つ。
「まさか……あなたが探している“名”は、エヴァンか私に関係があるの?」
干渉体は答えない。
だがその沈黙が、肯定以上の意味を持っていた。
エヴァンが一歩近づく。
「……教えろ。“名を取り戻したら”、お前はどうなる?」
干渉体は静かに言った。
『……モドレル……“ダレカ”ニ……モドレル……ボクハ……ツクリカエラレタ……キロクノアソビ……ダカラ……モトノカタチニ……』
セシリアの顔が強張った。
「“作り替えられた記録”。それは……誰かの記録が意図的に改ざんされた、という意味よ。あなたは被害者……?」
干渉体は肯定も否定もしないが、
その沈黙は苦悩のように震えていた。
そして――
かすれた声が、ひときわ強く響く。
『……ボクハ……“ニセモノ”ニ……サレタ……本モノハ……ドコ……? キミタチ……シッテル……?』
黒い影はふたりに顔を向けるように形を変えた。
『――タノム。ボクノ……“ホンモノ”ヲ……ミツケテ……ナマエヲ……カエシテ……』
それは脅しでも干渉でもなかった。
純粋な、悲痛な願いだった。
エヴァンは喉がつまるような感覚を覚える。
「……お前……誰の記録だったんだ……?」
『……ワカラナイ……ダカラ……サガシテ……キミタチノ……キオク……ハナシテ……ソウスレバ……モドレル……』
セシリアが小さく震える。
「……“本物の名”を探している。けれど、それは――私たちの過去のどこかに紛れている可能性がある……?」
干渉体はふたつに分裂し、左右から重ねて答えた。
『……キミタチハ……シッテイル……ワスレタダケ……ワスレサセラレタダケ……』
空気が一変する。
エヴァンとセシリアの“過去の記録”そのものが、
セルヴァ=ノードが求める“欠けた名”に関係している。
境界層の空気が、一瞬で“無音”になった。
エヴァンが反射的に剣を構える。
セシリアが詠唱の構えを取る。
だが――異変は、その直後だった。
『……たりない……まだ、たりない――“名の欠片”、だせ……だせ……ダセ……!』
セルヴァ=ノードの形が“崩れた”。
輪郭が剥がれ、黒い霧が逆流し、空間そのものが吸い込まれていく。
「エヴァン、来るわ! ――名の強制抽出よ!」
その瞬間、エヴァンの胸――心臓の奥に何かが触れた。
物理的な痛みではなく、もっと深層の……記憶の核を直接削る、冷たい指が。
「っ……が、あ……ッ!」
「エヴァン!? まさか……あなたの“真名領”が引きずり出されてる!?」
周囲の空間に、淡く光る“文字でも声でもない、意味の破片”が散り始める。
それらはエヴァンに由来する“名の欠片”だった。
――勇名。
――記録。
――呼称。
――評価。
――存在の系譜。
あらゆる「外から見たエヴァン」が剥がされ、吸い上げられ、セルヴァ=ノードの中心へ集まっていく。
「やめろ……! それは……俺の……!」
『ほしい……ほしい……ほしい……ワタシ、の、ナマエ……ぬけて……いる……おまえ、カギ……!』
「鍵……? エヴァンの名前が、セルヴァ=ノードの“核の欠落”と繋がってるの!?」
セルヴァ=ノードの本体が形を失い、巨大な渦を作る。
“名”の粒子が吸い込まれるたび、世界の輪郭が揺れ、境界層の地形がひしゃげた粘土のように歪む。
エヴァンの意識が遠のく。
名の欠片が抜けるということは――存在が薄れるということだ。
「ッ……セシリア……俺は……」
「喋らなくていい! 名が乱れてる……補正する!」
セシリアは杖を構え、強烈な魔力を叩きつける。
「――“名護りの封陣”!」
淡い金色の六芒陣がエヴァンを包み込み、強制抽出を防ごうとする。
だが――砕けた。
「嘘……!? セルヴァ=ノード、名の位階が上がってる……!」
暴走はもう、生存のためでも理性のためでもない。
欠落した名を埋めるための“本能”だけが動いている。
そして――抽出の触手がセシリアの胸にも伸びた。
『おまえ、も……シっている……エヴァンの……ナマ――よこせ』
「くる……ッ! エヴァン、離れて!」
「無理だ! こいつは俺の名を狙ってる……! 離れたら、お前まで巻き込む!」
二人の名が、光の糸でつながるように震える。
セルヴァ=ノードはその糸ごと掴んで引き千切ろうとしていた。
渦の中心で、セルヴァ=ノードの“仮面”のような部位が裂ける。
その奥は空洞ではなかった。
――“名前の形をしているのに、名前が存在しない空白”。
セシリアが凍りつく。
「……これ……セルヴァ=ノード自身の真名が“消えている”んだわ……!」
「自分の名がない……だから他者の名を吸おうとして……?」
「違う。“欠けた名”の構造を埋めるために、似た位相の名を探してる。そしてエヴァンの名が、その“欠落の穴”と一致してしまったの……!」
――エヴァンはセルヴァ=ノードと、何らかの構造上の共通点を持っている。
抽出は加速度的に強まり、金色の結界が剥がれ落ちる。
エヴァンの視界が白く滲む。
名の欠片が――
自分の存在の一部が――
セルヴァ=ノードの中心へ吸われていく。
「セシリア……俺が完全に持っていかれる前に……切れ……!」
「嫌よ! そんな選択肢はない!」
「だが――」
「黙って! 私があなたの名前を全部覚えてる。世界が消しても、私が保持してる。――だから、まだ間に合う!」
彼女の叫びで、エヴァンの世界に僅かに色が戻った。
だがその瞬間――
セルヴァ=ノードの中心で、巨大な“名の空白”が開いた。
『……こい……エヴァン……
オマエ……なら……うめられる……
――ワタシの……ナマエ……』
次の瞬間、境界層全体が暗転した。
境界層が完全に暗転すると同時に、
エヴァンとセシリアは“名の空白”へ引きずり込まれた。
重力も、時間も、形も安定しない白い虚無。
だが空間の中心だけが、黒く渦を巻いている。
そこが――暴走したセルヴァ=ノードの“核”。
『……ナマエ……かえせ……わたし……ない……うまれられない……』
声は哀しみとも、怒りともつかぬ響きだった。
セシリアが冷静に見極める。
「エヴァン、あれ……“攻撃”じゃない。自分の名が欠けて、存在が崩壊し始めてるのよ」
「だから他者の名を無差別に引っ張って補おうとしてる……ってことか」
「ええ。でも補えるわけがないわ。“他人の名は、他人という物語の中心”にあるもの。埋めた瞬間に矛盾して崩れてしまう」
セルヴァ=ノードはその矛盾で裂けながら、それでも名を欲しがっていた。
存在の本能が、破滅と救済の境目で暴れている。
エヴァンは剣を構える。
セシリアは杖を手にする。
だが――今回は攻撃するためではない。
「エヴァン、私たち二人で“名の防壁”を張るわ」
「……二人で?」
「ええ。セルヴァ=ノードが狙っているのは“あなたの名”だけど、あなたの名は私にも記録されている。二つの主体が同時に保持している名は、強制抽出が極端に難しいの」
「なるほど……。俺ひとりの名じゃなく、“俺が名乗り、君が覚えるエヴァン”の両方を守るってわけか」
セシリアが頷く。
「そう。名とは“関係”でもあるの。どんなに世界に消されても――私が覚えている限り、あなたの名は消えない」
その言葉に、セルヴァ=ノードの黒渦がビクリと震える。
まるで羨望のように。
『……きず……な……ふたつ……で……ひとつ……の……ナ……?』
セシリアが精神空間に巨大な魔法陣を描く。
「“連記式名護り(デュアル・ノームロック)”――展開!」
金色の陣がエヴァンとセシリアを包み込み、
二人の名が光の帯となって絡み合う。
「エヴァン・クロスフィールド!」
「セシリア・ヴァレンタイン!」
二人が互いの名を呼ぶと、光はさらに強くなった。
名とは、呼ばれることで強度を持つ。
主体Aが主体Bを認識し、その名を保持し続けることで――
その名は世界からの干渉に強くなる。
『……ほしい……それ……わたし、も……わたし……の……ナ……だれか……よんで……』
セルヴァ=ノードが手を伸ばす。
しかしその指先は震えて崩れ、名を掴めない。
「呼ばれる名」を持たない存在には、それは決して届かない。
エヴァンがセシリアに言う。
「……セシリア。あいつ、多分……“奪いたい”んじゃない。“教えてほしい”んだ」
「……ええ。感じるわ。“名の欠落”は、恐怖じゃなくて孤独の形に近い。誰にも呼ばれず、誰にも覚えられなかった名前の……」
二人は渦の中心へ進む。
セルヴァ=ノードは抵抗しない。
ただ、震えながら見ている。
『……わたし……ナマ……あった……はず……なのに……だれも……よばな……い……』
エヴァンは剣を下ろし、手を伸ばす。
「だったら――教えてくれ。君はどんな“名の欠片”を覚えている?」
セシリアも続ける。
「あなたが忘れた部分を、私たちが探す。二人で、あなたの“本来の名”の構造を補うわ」
『……ふたり……で……?』
「そう。“二人で”だ」
「あなたを一人にはしない」
その瞬間――
セルヴァ=ノードの表面から、薄い光の粒がほろりと零れ落ちた。
それは――
“かつて存在していた名の欠片”
だった。
名の空白の中心。
セルヴァ=ノードから零れ落ちた光の粒は、ゆっくりと二人の前に漂い、形を持ちはじめた。
語ではない。
文字でもない。
しかし確かに“名の一部”と分かる構造がそこにある。
セシリアは静かに息を吸った。
「……これが、“元の名前の核”に相当する断片ね」
「見えるのか?」
「ええ。名の術者にしか見えない形よ。でも、それだけじゃ足りない……。名を修復するには、“呼ぶ者”と“名乗る者”の両方が必要なの」
エヴァンが頷く。
「じゃあ俺たち二人でやるんだな」
セシリアが杖を掲げ、虚空に複数の魔法陣を展開する。
それは“名”専用の構造式――
情報の芯を安定化させ、欠片をつなぎ合わせるための精密な陣形。
「まずは、“名の器”を作るわ。
セルヴァ=ノードの本来の名が戻るための空間的枠組みよ」
陣がいくつも立ち上がり、黄金の立体構造を描き始めた。
その中に、欠片がひとりでに吸い込まれ、輝きを強める。
一方でエヴァンは剣を収め、セルヴァ=ノードへ歩み寄る。
「……なぁ、セルヴァ=ノード。お前は、俺の名を奪おうとしたけど……たぶん、それは“代用品”にしようとしただけなんだろ?」
『……わからない……わたし……なにも……なまえ、のこって……ない……』
「なら、取り戻せばいい。俺とセシリアがその手伝いをする。欠けた部分は埋めて、歪んだ部分は整えて、お前の“本来の名”を再構成する」
『…………わたし……かえれる……?』
「帰れるさ。名があれば、存在は戻る」
セシリアがその言葉に補足するように頷く。
「名とは、“世界に認識されるための初期接点”よ。
名を思い出せば、あなたの存在は安定する。
暴走も……終わるわ」
セシリアが張り巡らせた魔法陣が共鳴音を響かせる。
エヴァンはセルヴァ=ノードに手を伸ばし、その光体に触れた。
「セシリア、合図を!」
「――“名接続開始!”」
白い虚無に音が満ちた。
エヴァンの手から“名の記憶”が流れ出し、セシリアの陣へと伝わる。
二人の名が束になり、光の橋を形成する。
名と名が触れ合う瞬間――
セルヴァ=ノードの内部で何かが反応した。
『……あ……これは……ひとが……わたしを……みて……いた……とき……の……』
かつて呼ばれた名の余韻。
忘れ去られた呼称の重み。
存在していた証の残響。
欠片が次々と光を放ち、器の中心に戻っていく。
セシリアが額から汗を流しながら術式を調整する。
「……まだ足りない。“発音域”と“意味域”が欠けてる……!」
「どうすれば補える!?」
「エヴァン――あなたが“名の形”を読んであげて!」
「名の形を……読む?」
「名は“音”じゃないわ。存在の輪郭そのものなの。あなたが感じたセルヴァ=ノードの“印象”を言葉にして。その言葉が、欠けた意味域を埋める!」
エヴァンは深く息を吸う。
セルヴァ=ノードを見つめる。
暴走は止まり、黒い渦は静かになっていた。
中心には、小さな灯火のような存在が揺れている。
「……お前は……」
エヴァンはゆっくりと語る。
「孤独で、でも……誰かを傷つけたくて暴れたわけじゃない。ただ“思い出したかった”だけなんだろ?」
灯火が微かに揺れ、色が変わる。
「なら……お前の名は、きっと――“呼ばれることを望む名”だ」
次の瞬間――
欠片が陣の中心で組み上がり、ひとつの音を生み出した。
響いたのは、言語ではない“名の音楽”のようなもの。
セシリアがその響きを文字に変換する。
「……“セルヴァ=ノード”じゃない……これがあなたの本当の名……!」
その名を二人が同時に呼ぶ。
「――【***】!」
その瞬間、名の空白が光で満たされ、闇が晴れていく。
セルヴァ=ノード――いや、本来の名を取り戻した存在が、光の中で形を整えた。
『……よばれた……わたし……また……“わたし”に……なれた……』
暴走は完全に止み、存在の揺らぎも収まった。
名の修復儀式が終わると同時に、境界空間を満たしていた無数の亀裂がゆっくりと閉じていった。
白紙化していた空気が色を取り戻し、輪郭を取り戻し、音が戻ってくる。
エヴァンは大きく息を吐いた。
セシリアは胸に手を当て、まだ脈の早い鼓動をなだめるように深呼吸した。
中央に、ひとつの光が漂っている。
光はかすかに揺れていたが、先程までの狂躁は完全に消え失せていた。
それは、穏やかな声で言った。
「……“セルヴァ=ノード”というのは、本来の名ではありません。境界で失われた後に、仮に与えられた識別のための呼び名……私は……かつて“記憶司ラシェル”と呼ばれていました」
「記憶司……?」
セシリアが眉を寄せる。
魔導学院の文献でその名を見ることがある。
古代図書機構――“根層書架”に仕えていたとされる、
記録保存と“名の管理”を専門とする存在だ。
「あなたが、記憶司……? なぜ、こんな境界で……」
「――失われたのです。大いなる記述事故で。私を構成する“名前”と“役割”の多くが」
光は小さく震えた。
嘘の気配はない。だが語られていない過去がまだ多い。
エヴァンが前に出る。
「……あんたは、俺たちの“名”を奪おうとしていた。自分を修復するために?」
「いいえ。奪うつもりはありませんでした。ただ、“縫い合わせるための参照”が欲しかっただけ」
「参照……?」
「名は単体では回復できません。他者の“名の文脈”が必要です。あなた方二人は強く結ばれた“共同文脈”を持っていた……だから、危険を承知で引かれてしまったのです」
セシリアは目を見開き、エヴァンを見る。
「……共同文脈……って、私たちが?」
「恐らく、長い時間をかけて育ったものなのでしょう。互いの名が、互いの物語の不可欠な要素となるほどに」
その告白は、どこか照れくさく、しかし奇妙に納得できる響きを持っていた。
「ラシェル。あなたは本来、境界で何をしていたの?」
セシリアが問う。
光はゆっくり瞬き、答えた。
「――私は“名の帰還点”の管理者でした。失われた名、折れた名、捨てられた名……本来の物語へ戻せず彷徨う“名の欠片”を、正しい文脈へと導き返す役目」
エヴァンとセシリアは息を呑んだ。
「……じゃあ、セルヴァ=ノードとは、その使命の途中で壊れた、あなたの残骸だった?」
「ええ。本来の私が壊れた時、境界は“私の役目”だけを拾い上げ、それを無理矢理継続させようとした。役目しか残らなかった私は、“役目のためなら誰の名でも奪うもの”になってしまった」
静かな声だが、その奥には深い悔恨が滲んでいた。
「……だから、儀式で“名”を取り戻した私は、ようやく境界の呪縛から解放されたのです」
ラシェルはゆっくりと二人の方へ漂う。
「エヴァン・クロスフィールド。セシリア・ヴァレンタイン。あなた方に伝えねばならないことが、まだあります」
「境界が壊れた原因……そして、失われつつある“世界の名秩序”。それらすべての根に――あなたたちの王国そのものの“名”が揺らいでいるのです」
空間の色が音もなく震えた。
エヴァンの背筋に寒気が走る。
セシリアは喉を詰まらせる。
「王国の“名”が……揺らいでいる……?」
「はい。この異常の核心に近づく者は、あなた方しかいない」
光の声は、どこか祈るように震えていた。
境界空間はすでに穏やかさを取り戻していた。
だが、ラシェル――かつて記憶司と呼ばれた存在――の光は、どこか落ち着かず脈打っていた。
まるで時間が残されていないと訴えるように。
エヴァンが気づく。
「……まだ何かあるんだろ?」
ラシェルは静かに揺れる光の輪郭を細め、低く告げた。
「ええ。私は“名”を取り戻しましたが……それは同時に、境界の奥で進行している異常を、はっきり認識してしまったということでもあります」
セシリアが息をのむ。
「認識……?」
「――間もなく、“名の大規模崩壊”が起こります」
空気が震えた。
空間が一瞬だけひび割れる。
エヴァンは反射的に剣を引き寄せた。
「ノーム・クラッシュ……? なんだ、それは」
ラシェルはゆっくりと答えた。
「名とは、“存在を確かにそこに留めるための根”。個人の名も、国家の名も、概念の名すらも――すべてが互いの縫い目で繋がり、世界の“記述”を保持しています」
光がかすかに揺れ、周囲の空間が透けて見えた。
「しかし今、無数の“名の繋ぎ”が断裂し始めている。このまま崩落が進めば……物語の順序は失われ、世界の構造は綴じられなくなる。それが、ノーム・クラッシュ」
セシリアの手が震えた。
その震えは、魔導士として直観的に理解しているからこそだった。
「……世界そのものが、記述不能になる……?」
「ええ。国境も、地名も、魔法体系も、人の記憶の前提さえも――どこからどこまでが“名前の付くもの”だったのか、境界線が霧散していく」
エヴァンは歯を食いしばる。
「……なんで俺たちなんだ? 王国の名が揺らいでるとか、そんなことまで言ってたよな」
ラシェルは、二人を包むように光を広げた。
「あなたたち二人は、“名秩序の解体”から最も遠い場所に立っていた。互いの名が互いを強く確定させているため、記述の揺らぎに耐える。この境界で“壊れなかった”のが、何よりの証です」
セシリアは顔を赤らめつつも、静かに頷いた。
「……だから、エヴァンと私を……?」
「はい。あなた方は、この崩壊の潮流の中で“最後まで名前を保つ者”。名の連鎖が断ち切られた未来を、唯一引き止められる可能性を持つ者です」
エヴァンは息を吐いた。
気負いと覚悟が混ざった表情。
「……それが、あんたの警告か」
ラシェルはゆっくりと光をすぼめた。
「いいえ。本当の警告は、これからです」
境界空間が低く唸る。
「――ノーム・クラッシュは、すでに始まっています」
セシリアが目を見開く。
「もう……?」
「各地で、地名が“忘れられる”。魔法の系譜が突然断絶する。王国中枢の記録が白紙化する……小規模な“記述の落下”が連鎖的に起きているのです」
エヴァンの拳が音を立てた。
「それを止めるには……」
「“王国の名の揺らぎ”の源へ向かうこと――それが、あなた方の次の旅です」
光は静かに二人に託すように、最後の言葉を残した。
「世界を綴じ続ける“名の糸”が切れる前に。どうか、間に合って」
その光は、境界の風に溶けるように揺らぎ、
静かに沈黙した――。
境界からの帰還は、いつも唐突だ。
光が反転し、視界が裏返るような感覚のあと――
二人は王都・ルメニア中央区、
古塔を改装した王立記録局の“帰還円環”に立っていた。
淡い魔光が足元の紋を照らし、監視官たちが慌ただしく駆け寄ってくる。
「おかえりなさい、エヴァン剣士、セシリア魔導士! 識域境界線の干渉、無事突破したと――」
「報告は後でいいわ」
セシリアが軽く手を上げ、深呼吸した。
境界の余韻がまだ肺に残っている。
エヴァンは剣を納めながら周囲を見回す。
どこか、局内の空気がざわついていた。
二人は局長室へ通された。
記録局長・ハルメスは、
老齢ながら鋭い隻眼を持つ男だった。
「……ご苦労だった。で、“セルヴァ=ノード”の正体は?」
セシリアは簡潔に報告を始める。
「境界で喪失した“記憶司ラシェル”。任務だけを残して壊れ、名を求めて暴走していた状態でした。修復は成功――ですが……」
「だが?」
「“名の大規模崩壊”の前兆が確認されました。地名、魔法系譜、人名……複数の記述領域が揺らぎ、結節が断ち切られつつある、と」
ハルメスの表情が大きく沈んだ。
「……やはりか」
エヴァンは眉を寄せた。
「“やはり”ってことは、あんたらも気づいてたのか」
局長はひとつ書類束を机に置いた。
上のページは真っ白――いや、
正確には“印刷されていたはずの文字が消えている”白だった。
「この三日間で、地誌部の記録が四十七頁、系譜部の資料が百三十二件……消失した」
セシリアが息を呑む。
「そんな規模で……?」
「そして、今日――君たちが境界から戻って来た直後だ」
ハルメスは、もう一枚の報告書を差し出した。
そこにはこう記されていた。
“王都北区『ルメナ通り』の通称が住民三割から“思い出せなくなった”との申告。”
エヴァンが険しい顔をする。
「……実害が出始めてるじゃねえか」
報告の区切りをつけたあと、
局長は二人を静かに見つめた。
「エヴァン、セシリア……境界で得た情報を総合すると、どうやら“王国そのものの名”が揺らいでいるようだな」
セシリアはゆっくり頷いた。
「ラシェルもそう言っていました。もし王国の根名が不安定化しているのだとしたら……ノーム・クラッシュの規模は――」
「王国単位では済まんだろうな」
局長が引き取る。
「記述基盤そのものが崩れれば、国家も地理も、歴史も、魔法技術体系も、“名の繋がりで成立しているもの”はすべて連鎖的に消える。境界の警告は、決して誇張じゃない」
エヴァンは拳を握る。
「……つまり、まだ始まってもねえってわけか。俺たちの調査は」
セシリアが小さく笑う。
だがその目は鋭い覚悟に満ちていた。
「ええ。セルヴァ=ノードとの戦いは、“本編が始まる前の序章”にすぎなかったってことね」
ハルメスが二人に向かって頷く。
「次の調査準備が整い次第、新たな任務を正式に発令する。――王国の根名の揺らぎ、その中心へ向かってもらう」
部屋を出る直前――
セシリアがふと、廊下の掲示板に目を留めた。
そこに貼られた“王立記録局・基礎法典一覧”の紙。
よく見ると。
一番上の題目。
「法典第一章 王国名ノ明記ニ関スル規定」
その“王国名”の箇所だけが、
白く、抜け落ちていた。
「……嘘、でしょ」
エヴァンが横から覗き込み、息を詰めた。
「……まだ終わっちゃいねえ。むしろ、ここからが始まりだ」
白紙化された“王国名”が、
無音のまま、じわりじわりと広がるように見えた。




