第四十一話
【王立記録局 発出文書:緊急広域調査任務通達】
宛先:エヴァン・クロスフィールド殿、セシリア・ヴァレンタイン殿
発信:王立記録局・特別探索課
任務名
《探索任務:大陸全域に広がる記録消失現象の広域調査》
任務目的
記録消失現象の範囲調査
王都を中心に周辺諸都市・辺境地域で同時多発的に確認される白紙化現象の発生箇所を記録。
原因核の探索
既存の局内解析では「未知の干渉源」存在が示唆されている。現地調査によりその所在を特定すること。
影の顕現有無確認
これまで個別の遺跡や廃都で観測された記録の影が、広域で同調している可能性あり。統合的存在としての影が姿を現す兆候を確認。
背景
王都フェル=グレイにおける初動調査後、短期間で複数の町村・修道院・交易路において同様の記録消失が発生。
消失は文書だけでなく、石碑、歌謡、記憶伝承など非物質的な媒体にまで及んでいる。
広域現象化は人心動揺を招き、国家的危機と認定。
危険度評価
魔物危険度:★★★★☆(記録を餌とする新たな眷属の発生予測)
環境危険度:★★★★☆(地脈や時間流の乱れによる不可測影響)
特殊危険度:★★★★★(影そのものが根源的形態を顕現する可能性)
備考
行軍経路は黒曜砂漠・北境山脈を経て、各地の観測所を巡回予定。
特別に《残響記録珠》を貸与。消失に抗い、現地での断片を保存する補助具とする。
署名:
王立記録局 特別探索課 課長
アウレリウス・ヴェルディン(印)
会議室を出た二人は、記録局の石造りの廊下を並んで歩いていた。
窓から射す光は夕方の色に染まり、遠くに王都の鐘楼が見える。
セシリアが口を開く。
「……いよいよ、王都だけじゃ済まなくなったわね。大陸規模の記録消失なんて、想像もしたくない」
エヴァンは歩みを止め、壁に掛けられた地図へ視線を投げた。
そこには赤い印がいくつも打たれ、現象が確認された街や修道院の名が並んでいる。
「点で起きていた現象が、線で繋がり、やがて面で広がる。……そうなる前に、根を断たなきゃならない」
セシリアは軽く微笑み、しかしその瞳には疲労と緊張が宿っていた。
「……怖くないの?」
「怖いさ」
エヴァンは短く答え、魔剣の柄に触れる。
「だが、俺たち以外に立ち向かえる者はいない。少なくとも――俺はそう思ってる」
セシリアは小さく頷き、手にした符板を抱きしめるように胸に当てた。
「記録を守るのは、戦うよりも難しいわ。けど、やるしかないのよね」
沈黙。廊下を吹き抜ける風が、彼女の銀髪を揺らす。
エヴァンは視線を向け、低く言った。
「もし影そのものが姿を現すなら……それが、俺たちの決戦だ」
「ええ。もう後戻りはできない」
二人は再び歩みを進め、控え室の扉を開けた。
机にはすでに局員が支給品を並べている。《残響記録珠》《砂塵遮断の外套》《精神防護符》――
それらはまるで、これからの旅路が並ならぬことを示す証のようだった。
セシリアがふっと息を吐き、エヴァンに向き直る。
「さあ、準備を整えましょう。次は――世界そのものが試される」
「……ああ。記録を守るために、行くぞ」
二人は互いに頷き合い、迫りくる影との広域戦へ心を定めた。
晩夏の朝、王都の石畳に陽が射し込むころ、エヴァンとセシリアは西門へと歩を進めていた。
背には支給された《残響記録珠》と符板の包み。腰の剣帯や杖は、これまで以上に重みを感じさせる。
王都の人々は異変の噂を耳にしているのか、通りを歩く顔にはどこか落ち着かない影があった。
書店の棚に白紙の本が紛れ込み、修道院で歌う聖歌が途中から言葉を失う――。
ささやかな日常の綻びが、すでに王都を覆っていた。
エヴァンは門をくぐりながら呟いた。
「……次に戻るとき、この街の記録は残っているだろうか」
「残すのよ、私たちで」
セシリアは淡く微笑み、胸元の符板を叩いた。
二人は馬に跨り、北西へと延びる街道を進んだ。
最初の調査地は、王都から二日の行程にある交易町〈ベルナード〉。
既に「商取引の記録帳が白紙になった」との報告が上がっている場所だ。
夏の終わりを告げる風が草原を抜け、道脇に並ぶ古い石碑を揺らす。
だが、その石碑のいくつかは既に刻字が消え、ただの灰色の石に成り果てていた。
「……道端の碑文まで?」
「ええ、広がってる。思っていた以上に速いわ」
セシリアの言葉に、エヴァンは剣の柄を握りしめた。
昼下がり、休憩のため馬を降りた二人は、小川のほとりで簡素な食事を取った。
エヴァンは干し肉をかじりながら言う。
「こうして見ると、俺たちは旅人に戻ったみたいだな」
「学者でも、兵でもない。記録を守るだけの旅人……そう呼ばれるのも悪くないかもしれないわね」
セシリアの微笑みに、緊張の中でわずかな和らぎが生まれる。
日が傾くころ、二人の前方に交易町ベルナードの尖塔が見えてきた。
しかし、その周囲に立つ石造りの門塔の一つは、表面が白く塗り潰されたように刻印を失っている。
まるで町そのものが、徐々に白紙化の波に飲み込まれているかのようだった。
「……始まってるな」
「ええ。まずは現地で記録を確かめましょう」
二人は馬の手綱を引き締め、広域調査の最初の現場へと足を踏み入れていった。
町の近郊、草原を抜ける街道に差し掛かったとき、二人は異様な気配を察知した。
夕陽に伸びる自らの影が、不自然に揺れている。風もなく、太陽も動かないのに、影だけがざわめくように震えていた。
「……影が、勝手に動いてる」
セシリアの声が低くなる。
エヴァンは即座に剣に手をかけた。
「兆候か。町に入る前に確かめておかねばな」
大地に広がる二人の影が、地面からずるりと抜け出すように立ち上がった。
輪郭は本人と同じだが、目も口もなく、ただ黒い靄がまとわりついている。
それらは二体――まさに記録の影の端末のようだった。
「自己の影を利用するタイプ……試しに現れるには十分ね」
「なら、消す」
エヴァンが踏み込み、魔剣を振る。
刃が影の首筋を断ち割るが、斬られた影は墨のように滲み、再び形を結ぶ。
「物理は通らないわ! ――《ルーメン・サージ》!」
セシリアの杖先から白光が走り、影を照らす。
光に焼かれた黒影はひび割れるように後退し、呻き声をあげた。
「やはり、光と記録で縫い留めるしかないか」
エヴァンは魔剣を構え直し、刀身に自らの思念を刻む。
「我が名は――エヴァン・クロスフィールド!」
剣が強く青白く輝き、名を刻んだ瞬間、光が影の存在を裂いた。
二体の影は、白紙が破り捨てられるように霧散した。
草原には再び風が吹き抜け、夕暮れの静寂が戻ってきた。
セシリアは短く息をつき、杖を下ろした。
「……今のはただの端末。けれど確かに、影はこの辺りに根を張っている」
「町の記録が消えたのも偶然じゃない。次は本体が待っているはずだ」
二人は互いに頷き合い、再び馬に跨った。
その視線の先――交易町ベルナードの尖塔は、夕焼けに半ば沈み込みながら、不穏な影を背負っていた。
ベルナードの外郭が近づくにつれ、街道脇に点々と並ぶ石碑群が目に入った。
それは往来する商人たちが道標として刻んできた碑であり、土地の守護神に祈りを捧げる場でもあった。
だが――刻まれていたはずの文様や文字は、ことごとく失われていた。
表面は石肌そのものが削り取られたように真っ平らで、ところどころは白く霞んでいる。
「……完全に消えている」
セシリアが指でなぞると、粉のような欠片が散り、石の内部まで空洞めいて脆くなっていた。
「碑文だけじゃないぞ」
エヴァンが顎をしゃくる。
街道脇の雑草が一列だけ白く枯れ、痕跡を残さず風に舞い散っていた。
まるで記録されること自体を拒まれているかのように。
さらに進むと、石造りの小屋の壁に奇妙な跡を見つけた。
落書きのような交易符号――荷馬車が通るたびに残される印。
それが途中から途切れ、以降は壁一面が白紙のように塗り潰されている。
「これじゃ、商人たちは取引の確認もできない」
「記録の消失は、生きた人の生活の証まで呑み込んでいる……」
セシリアは目を伏せ、声を落とした。
夕陽が沈む頃、ベルナードの町影が大きくなっていく。
だが二人の胸中には、さきほどの光景が棘のように残っていた。
碑文が消え、道標が消え、生活の印も消える――その先にあるのは町そのものの白紙化。
それを食い止めなければ、ベルナードという記録自体が世界から失われてしまうだろう。
「急ごう」
「ええ、遅れるわけにはいかない」
二人は足を速め、交易町ベルナードの石門へと向かった。
石門を抜けると、ベルナードの町は一見、活気を保っているように見えた。
だが、行き交う人々の顔には不安の影が差し、露店の帳簿をめくる商人の手は震えていた。
広場に並ぶ店々の看板のうち、いくつかは文字が消え、ただの木板に変わっている。
一人の老人が、道端で崩れた紙片を拾い集めていた。
セシリアが声をかける。
「どうしましたか?」
「……孫に残そうと書いた日記なんじゃがな。朝まで確かに書かれておった。昼に開いてみたら、白紙になっとる」
老人は虚ろな目で、真っ白な紙束を抱きしめる。
別の若い商人は、憤りを込めて叫んだ。
「取引の記録が消えたんだ! 証文も、印章も……これじゃ相手に払ったかどうかも分からん!」
彼の声に広場の人々がざわつき、恐怖と混乱が渦を巻いていく。
二人は町役所に赴き、町役人のカリストに会った。
帳簿を広げられると、確かに半分以上が白紙となっていた。
「……数日前から徐々に進行し、今では町の文書庫の半分が消えました。王都からの命令書も、村との往復記録も……。残っているのはごく一部。住民の証言によれば、夢の中で黒い手が紙から文字を剥ぎ取っていったと」
エヴァンは眉を寄せた。
「やはり、影の仕業か」
セシリアは符板を翳し、淡く光を走らせる。
「ここには明確な痕跡があるわ。町の外郭で見た碑文消失と同じ、影の干渉波」
役所の奥で保管されていた一冊の古書――かつてのベルナードの創設記録。
開けば冒頭の数頁は残っているが、中盤以降は白紙。
さらに進めば紙そのものが透け、手を通すと光が抜け落ちる。
「……紙を記録のない存在に変えている。これは、ただの消失じゃないわ」
「記録そのものを無効化している……」
二人は顔を見合わせた。町そのものが白紙に飲まれるのは、もはや時間の問題だ。
町役所を後にしたエヴァンとセシリアは、広場の端にある古い倉庫へ足を運んだ。
住民たちの証言では、最初に白紙化が起きたのはこの倉庫に保管されていた交易記録だという。
今では扉に封印が施され、近づく者はいない。
倉庫の前に立つと、石造りの壁全体がじわりと白く霞んでいた。
近くの草木も色を失い、風に揺れては砂のように崩れていく。
「……ここね。核の気配がする」
セシリアが低く呟き、杖を構える。
エヴァンは剣の柄に手をかけ、慎重に扉を押し開いた。
中は異様な静寂に包まれていた。
棚に積まれていたはずの交易帳は白紙の束と化し、木箱の符号はすべて掻き消されている。
中央には、墨をこぼしたような黒い染みが床に広がっていた。
それはまるで影そのものが地に滴り落ち、固着したかのようだった。
近づけば、耳の奥にざわめきが響く。
「……消えろ……無に帰せ……」
囁きは人の声のようでありながら、言葉そのものを削る刃のようでもあった。
セシリアが符板を掲げると、染みの中心から球状の闇が浮かび上がった。
それは心臓の鼓動のように脈動し、周囲の白紙化を進めている。
「これが、影の核……」
「つまり、町を蝕む中心だな」
エヴァンは魔剣を構え、一歩踏み込んだ。
その瞬間、核から黒い手のようなものが伸び、床に映る二人の影を掴もうとする。
町に漂う記録の断片が霧のように引き寄せられ、闇の球体へ吸い込まれていった。
空気は冷たく張り詰め、倉庫全体が揺れる。
影の核は、ただの記録消失現象の中心ではなく、**小規模ながら自律的な影の顕現体**であることが明らかだった。
「……潰すしかないわね」
「核を壊せば、少なくとも町は救える」
二人は互いに頷き、光と刃を闇の球体へと向けた――。
倉庫の中央に浮かぶ黒い球体――それは心臓のように脈打ち、周囲の空気を震わせていた。
次の瞬間、床や壁に映る影がねじれ、黒い腕となって伸び上がる。
それはただの幻影ではない。掴まれたものの記録そのものを引き剥がし、無に変える力を持っていた。
「――来る!」
エヴァンが剣を抜き放ち、青白い光を迸らせる。
影の腕が走り、彼の剣に絡みついた。
刃の輝きが一瞬、曇りかける。
「……っ! 俺の名を奪う気か!」
エヴァンは叫び、剣に己の名を刻み直すように強く意志を込める。
すると、刀身が再び光を取り戻し、影の腕を振り払った。
一方セシリアの方へは、球体から黒い霧が伸び、彼女の符板の刻字を掠めようとする。
符文の一部が白く薄れていき――。
「させない!――《レムナント・バリア》!」
彼女が唱えると、符板が光の障壁を生み、消えかけた符文を刻み直した。
「セシリア、合わせるぞ!」
「ええ――記録の力で!」
セシリアが杖を高く掲げ、詠唱を紡ぐ。
「――《記録の灯》!」
光の帯が空中に広がり、周囲の残された記録――石に刻まれた名前、紙に残る断片、住民の祈りの言葉――が浮かび上がった。
それらは輝きとなってエヴァンの剣に集まり、刃を覆う。
彼は踏み込み、核に向かって一直線に斬りかかる。
「これ以上、記録は喰わせない――ッ!」
剣が核を裂き、光が闇を切り裂いた。
黒い球体は悲鳴のような振動を放ち、影の腕を引き戻しながら収縮していく。
やがて中心にひびが走り、砕け散ると同時に闇は煙のように消え去った。
倉庫には再び静寂が訪れた。
床に残ったのは、わずかに焦げ付いた痕跡と、ほのかな光を帯びた《残響記録珠》――影の干渉を吸い取った証。
セシリアは息を整え、珠を拾い上げる。
「……これで町は持ち直すはず。でも、これは広域現象のほんの一端」
エヴァンは剣を収め、頷いた。
「影は各地で核を撒いている。次はもっと大きなものが待っているだろう」
倉庫を後にしたエヴァンとセシリアは、町の広場に戻った。
恐る恐る様子をうかがっていた住民たちが二人に駆け寄る。
「……記録が、消えなくなった?」
一人の商人が、白紙になりかけていた帳簿を開く。
文字の掠れはまだ残っていたが、それ以上の白紙化は進んでいなかった。
老人は孫に残そうとしていた日記を胸に抱え、涙を浮かべながら呟いた。
「また……書ける。続きを書ける……!」
町の人々の顔に、久しく見なかった安堵が広がっていく。
二人は再び役所へ赴き、役人カリストに戦闘の結果を伝えた。
「倉庫に影の核が形成されていた。すでに破壊し、残響記録珠に痕跡を封じた。これで町の記録は安定するはずだ」
エヴァンの報告に、カリストは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。この町が存在を失わずに済んだのは、お二人のおかげです」
セシリアは冷静に言葉を添える。
「ただし、これは根本的な解決ではありません。核はあくまで芽。大陸規模で広がる影響の中で、この町も再び狙われる可能性があるわ」
カリストの表情が再び曇る。だが彼は深く頷き、住民に避難と記録の複写を指示するため部下へ声を張った。
役所を出て広場を見渡すと、子供たちが石畳に棒で遊び書きをしていた。
消えかけていた落書きが、今は確かに残り続けている。
セシリアはその光景を見て、僅かに微笑んだ。
「小さな証でも……記録は生きている。守る価値があるわ」
「だから、戦う」
エヴァンは短く答え、夜空を見上げた。
そこには、まだ決して消えることのない星々の記録が瞬いていた。
王立記録局からの報告指令では、次の調査地は王都から北に二日、丘陵地に建つ〈セリオル修道院跡〉と定められていた。
かつて巡礼の地として賑わったが、近年は廃墟同然となり、記録消失の兆候が急速に進んでいると伝えられている。
道中、エヴァンとセシリアは馬を進めながら、風に吹かれる枯草を眺めていた。
ところどころの木々は幹に空洞を抱え、その内部が白く塗り潰されたかのように抜け落ちている。
「生きた木までも……。記録は物や言葉だけじゃない、存在そのものに及んでいるわ」
「つまり、もう町や遺跡だけの問題じゃない。世界そのものが消されている」
途中の村に立ち寄れば、農民たちが畑の境界を巡って言い争っていた。
「ここは私の畑だ!」と叫ぶ男と、「いいや、昔からうちの土地だ!」と返す男。
だが、境界を示す杭も、古い地図も消えてしまっている。
セシリアは小声でエヴァンに囁いた。
「記録が消えれば、争いも生まれる。これも影の狙いかもしれない」
エヴァンは重く頷き、二人は村人たちに簡単な忠告を残して再び北へ向かった。
丘を越えた先に現れたのは、石造りの高い鐘楼を持つ修道院――しかし、その鐘楼は半ば白紙のように霞み、輪郭を保てなくなっていた。
壁面のフレスコ画も色を失い、僧たちが記した祈祷文の石碑は、もはや何も刻まれていない灰色の板に変わっている。
セシリアが足を止め、低く呟いた。
「……ここは記録の消失が最も早く進んでいる場所の一つ。広域現象の中心に近いかもしれない」
「なら、この先に影の根がある」
エヴァンは剣に手を添え、修道院跡の崩れた門をくぐった。
崩れた門の外には、まだ信仰を捨てきれない人々が集まっていた。
巡礼者らしき老女が、白紙と化した石碑の前で祈りを続けている。
「……ここには、我らの祖の祈りが刻まれていたのです。代々受け継がれてきた言葉が……もう、どこにも残っていない」
彼女の手元の古びた写本もまた、途中から真っ白に塗り潰されていた。
近くの丘に住む農夫が二人に声をかけてきた。
「この修道院は、昔から俺たちの集会の場だった。けど数日前から……鐘の音が響かなくなったんだ。鐘楼そのものが、まるで音の記録ごと消えちまったみたいでな」
男の目は恐怖に揺れ、言葉の端々は震えていた。
さらに別の村人は、顔をこわばらせて告げる。
「夜になると、中から低い声が聞こえるんです。眠るな、記すな、消えろ……そんなふうに囁いて。入った旅人は、誰も戻ってこない」
セシリアは符板に証言を刻みながら言った。
「鐘楼の消失、囁き声、白紙化の進行……どれも影の影響と一致するわ」
エヴァンは剣の柄を握りしめ、視線を修道院の奥へ向けた。
「なら、次は内部だ。中に核があるか、それとも――もっと大きなものか」
巡礼者たちは二人を見つめ、不安げに祈りを捧げた。
その視線を背に受けながら、二人は崩れかけた修道院の門をくぐった。
崩れた石門を抜けると、広い中庭が広がっていた。
苔むした石畳の上には巡礼の名残が点々と残っている。だが、石畳の半分以上は白紙のように滑らかで、刻まれていた祈祷句は完全に消えていた。
セシリアは符板を翳し、淡い光を放ちながら壁面のフレスコ画を調べる。
「……ここも。色が抜けただけじゃないわ。絵の存在そのものが記録から削られている」
エヴァンは剣を肩に担ぎ、崩れた柱を押しのけながら呟く。
「外の碑文と同じだな。消失は広がり続けてる」
奥に進むと、かつて修道士たちが祈りを捧げた祭壇跡があった。
そこには古びた鐘楼への階段があり、だが鐘はすでに輪郭を失い、空虚な空間だけが残っていた。
近くには石棺が並んでいたが、銘文の半分は白紙と化しており、死者の名が抹消されていた。
エヴァンは眉をひそめる。
「生者だけじゃない。死者の記録まで奪っているのか……」
「これは、単なる呪いじゃない。世界の記憶そのものを餌にしている」
その時だった。
冷たい風が吹き抜け、修道院の奥から低い囁き声が響いた。
「……眠れ……記すな……」
声と同時に、壁や床に映る二人の影がじわりと長く伸び、周囲の空間が白く塗り潰されていく。
セシリアは即座に符板を掲げる。
「空間そのものが削られてる……! 影がこの場所を媒介にしてるのよ!」
エヴァンは剣を抜き放ち、足元を固める。
「来るか……!」
祭壇跡の奥、半ば白紙と化した壁から、黒い亀裂が走った。
そこからじわじわと滲み出す闇が、やがて人影めいた輪郭を形作っていく――。
祭壇跡の奥で闇がにじむと同時に、修道院の壁に刻まれた祈祷文が一文字ずつ淡く光り、やがて音もなく剥がれ落ちるように消えていった。
まるで誰かが上から灰色の絵具を塗ったように、石壁は空白だけを残す。
セシリアは符板に急いで転写を試みたが、写し取った直後に文字は消え、白紙だけが残った。
「……転写すらできない。記録を拒む力が、もう全面に及んでいる」
その声は冷たく、僅かに震えていた。
さらに、崩れかけた鐘楼の残骸から、微かに金属が揺れる音がした――かと思えば、その音も途中で掻き消える。
鐘の余韻は途中で切断され、音の波が宙で凍るように途絶えた。
エヴァンは剣を握りしめ、険しい声を漏らす。
「音まで……。存在したはずの響きさえ記録から抜かれている」
すると空間の気配が一変した。
石棺の列が揺らぎ、蓋の上に刻まれたはずの死者の名が、一斉に掻き消されていく。
名を奪われた石棺は虚ろな器となり、周囲に冷気を放ちはじめた。
セシリアは低く囁いた。
「もうただの現象じゃないわ。意志を持って記録を削ってる……」
エヴァンは前に出て剣を構え、視線を祭壇奥の闇へと向けた。
「だったら、その意志を斬るだけだ」
黒い亀裂から溢れる影は、やがて人影の形を取り、足元の白紙化した床にじわじわと広がっていく。
空間全体が記録の喪失に飲み込まれる直前、二人は息を合わせた。
黒い亀裂から溢れる影が広がり始めた瞬間――周囲の石棺や壁面から、微かな声が漏れ出した。
それは肉声ではなく、かすれた囁きの断片。
「……鐘が……鳴らない……」
「記録……を……返せ……」
「眠りたくない……まだ……」
その声と同時に、白紙化した壁や床に淡い影が浮かび上がった。
顔の輪郭だけが残り、体のない修道士や巡礼者たちの残滓。
だが目だけは異様に黒く沈み、二人をじっと見つめていた。
セシリアが震える声で言う。
「……記録を奪われ、存在の痕跡だけが影に縛られてる……」
エヴァンは剣を構え直し、吐き捨てる。
「死んでもなお影の器にされるのか。……許せねぇな」
残滓たちは手を伸ばすように揺らぎ、やがて影の亀裂へと引き戻されていく。
次の瞬間、それらの声と影が融合し、眷属の輪郭が一層濃くなった。
床一面が白紙に塗り潰され、影の眷属が完全に顕現する。
その口から、先ほどの囁きが幾重にも重なって吐き出された。
「……眠れ……記すな……忘れろ……」
圧迫感が空間を覆い、二人の意識までも引きずり込もうとする。
だが、エヴァンとセシリアは互いに頷き合い、構えを固めた。
影の亀裂から顕現した眷属は、修道士たちの声と形を混ぜ合わせた異形だった。
顔は幾つもの輪郭が重なり合い、目も口も曖昧なまま、無数の囁きを同時に吐き出している。
「……眠れ……記すな……忘れろ……」
その声は直接脳に響き、意識の奥を削るような圧迫感を伴っていた。
セシリアは符板を広げ、防護結界を展開する。
「《精神防護符》、最大展開……これで少しは持つはず!」
青白い光の膜が二人を包むが、その表面はすぐに黒い文字のような影で蝕まれていく。
結界は記録の上書きを受けているのだ。
エヴァンは一歩踏み出し、影の巨体へと斬り込む。
魔剣の軌跡が黒を裂き、火花のような白光を散らす。
だが、裂け目はすぐに閉じ、そこから無数の手の影が伸び、彼の腕を掴もうと迫る。
「ちっ……! 斬っても戻るか!」
眷属は足元の床を白紙に変え、二人の立つ場所そのものを奪おうとした。
床が消えかけると同時に、石棺の影が伸び、鎖のように絡みつく。
セシリアはとっさに魔力を収束し、足場に仮想の文様を描いた。
「――《虚字の橋》! 消された記録に、仮初の文字を刻み直す!」
淡い光の文字列が浮かび、足場が辛うじて保たれる。
エヴァンはその上で身を低くし、力強く構え直した。
「セシリア、支えろ! 一気に行く!」
「任せたわ!」
彼の魔剣に、セシリアの符板から光が流れ込む。
剣身が淡い銀光に包まれた瞬間、エヴァンは渾身の踏み込みで眷属の中心を斬り裂いた。
影の中からは、数多の声が悲鳴のように弾け飛ぶ。
だが、眷属は完全には消えない。
散らばった影の断片が壁や石棺に吸い込まれ、修道院全体を媒介にして再び形を作ろうとしていた。
セシリアが息を荒げながら呟く。
「やっぱり……この修道院そのものが記録の器になってる。影はここに縛られているのよ!」
エヴァンは魔剣を構え直し、闇の再結集を睨んだ。
「なら、この場を斬り抜けて根を絶つしかない……!」
影の眷属を斬り裂いた直後、空間に散った黒い断片のいくつかが、淡い人影の形を結んだ。
それは修道服の輪郭をかろうじて留め、顔も声もぼやけている。
だが一瞬だけ、確かな人の記録が表に出てきた。
「……あなた方は……記録局の者か……?」
その声は苦しげで、崩れかけた石壁に反響する。
エヴァンが剣を納めず、短く答える。
「ああ。お前は、この修道院の者か?」
影の残滓はかすかに頷いた。
「我らは……祈りを……残すために……ここで……だが……影が……記録を……喰らい……我らを……器に……」
セシリアは前に出て、符板にその言葉を書き留めながら尋ねる。
「影の核は、どこに?」
人影は揺らぎながら、奥の祭壇のさらに下を指し示した。
「……大聖堂の……地下……封じたはずの……黒き鐘……が……」
だがそれ以上は続かない。
残滓の輪郭は掻き消えるように砕け散り、再び修道院の闇に吸い込まれていった。
残されたのは「黒き鐘」という言葉と、奥に潜む影の核の存在。
セシリアは符板を抱え、険しい顔で言った。
「……やっぱり鐘が鍵ね。あれが記録を奪う根源の器にされている」
エヴァンは剣を肩に担ぎ、唸るように答える。
「なら、地下でその鐘をぶった斬るまでだ。――行こう、セシリア」
修道院の闇はさらに濃さを増し、地下への道が冷たい風と共に開き始める。
地下へ至る扉に手をかけた瞬間、修道院全体が低く鳴動した。
石壁に刻まれた祈祷文が白紙化し、その空白がじわじわと広がっていく。
柱の影は不自然に伸び、天井の梁が軋みながら生き物のようにうねった。
「……っ! 建物そのものが影に操られている!」
セシリアの声が震える。
祭壇の鐘楼からは黒い霧が降り注ぎ、崩れた壁の間から巨大な手のような影が這い出す。
修道院そのものが眷属の器となり、外郭すべてを戦場へ変貌させていた。
エヴァンが剣を振り抜くと、壁から伸びた影の腕が弾け飛ぶ。
だがその裂け目はすぐに別の影で埋められ、堂内の至るところから新たな腕や眼が出現した。
「斬っても追いつかない……!」
「無理に全部斬るんじゃない! この修道院を支えている核を探すのよ!」
セシリアは結界を広げ、奔流のような囁きを防ぐ。
だが音声すらも記録を蝕まれ、詠唱の言葉が口から出るそばから消えていく。
エヴァンは苦笑し、足場を蹴って梁の上へと飛び乗る。
「だったら――俺の剣で突破するしかない!」
梁そのものが蛇のように捩じれ、彼を呑み込もうと迫る。
セシリアは符板を叩きつけ、声を張り上げた。
「――《虚字の灯火》! 消された言葉を一瞬だけ照らし直す!」
青い光が堂内を走り、壁に僅かな碑文を浮かび上がらせる。
その文様は修道士たちが刻んだ封印の祈祷の残滓。
それが道標となり、エヴァンは影の奔流の中で奥の鐘楼を見据えた。
「そこか……!」
彼は鐘楼を目指して一直線に駆け、影の腕を次々と斬り払った。
鐘楼の内部に黒い瘴気が渦巻き、鐘そのものが呻き声を上げる。
セシリアが最後の符を掲げる。
「祈祷の残滓を繋げる……! 今よ、エヴァン!」
エヴァンの魔剣が銀光を帯び、鐘楼の闇を一閃した。
修道院を覆っていた影の網は悲鳴のように揺らぎ、眷属の第二段階は大きく削がれていく。
鐘楼を裂いた一閃の余波が収まると、修道院全体を満たしていた黒霧が一時的に揺らぎ、重苦しい沈黙が訪れた。
崩れかけた壁の間から漏れる光は青白く、影のざわめきも止んでいる。
だがその静寂の中――。
「……刻むな……記すな……残すな……」
低い声が、どこからともなく響いた。
それは複数の声が重なり合ったもので、男でも女でもない、ひとつの言語にすら収まらぬ奇妙な調子だった。
「記録は……重荷……やがて世界を崩す……お前たちが……守るその行いこそ……影を呼び寄せる……」
声は鐘楼から溢れ出す黒い残滓と共に、徐々に増幅していく。
セシリアは息を呑み、符板を強く握った。
「……記録を残すこと自体が、影を強めている? そんな理屈……」
エヴァンは剣を構え直し、声を遮るように言った。
「影の理屈なんざどうでもいい。――奪われる前に叩き斬るだけだ」
鐘楼が再び震え、天井の梁が裂ける。
そこから現れたのは、巨大な鐘が歪んで形を変えた異形。
鐘の胴には数多の顔が浮かび、囚われた修道士や村人たちの声が叫び声となって響き渡る。
「助けて……」「忘れるな……」「目を閉じるな……」
鐘の化身は重く低い響きを放ち、周囲の空間そのものを凍り付かせるように停止させた。
空気が固まり、時間の流れがねじ曲げられていく。
エヴァンとセシリアは視線を交わし、同時に構えを整えた。
「――行くぞ、セシリア!」
「ええ……ここで決着をつける!」
鐘が変じた異形の姿が完全に顕れた瞬間、その胴体に浮かぶ無数の顔が一斉に叫び始めた。
混乱した呻きや断末魔のような声に混じり、ひときわ澄んだ響きがエヴァンとセシリアの耳に届く。
「……気をつけよ……あれは時間を縛る……刃も言葉も……止められる……」
声はかつて修道士だった者のものか。
エヴァンは握る剣に力を込め、低く唸った。
「時間を……縛る?」
別の声が、苦しげながらも必死に伝える。
「記せ……お前たちの意思を……影は……残す力に抗えぬ……」
その言葉に、セシリアははっと目を見開いた。
「……記す意思そのものを、力に変えろってこと……?」
声はすぐに掻き消され、鐘の化身の叫びに飲まれていく。
だが残された断片は、二人に戦いの鍵を示していた。
セシリアは符板を強く抱きしめ、決意を込める。
「エヴァン……これは、私たちの記録で対抗するしかない」
エヴァンは頷き、剣を構え直す。
「だったら、俺は斬撃に意思を刻む……止められようが、叩き斬る!」
鐘の化身が再び鳴動し、重苦しい響きと共に時間が凍り付いていく。
空気も光も、呼吸さえも止まるかのような圧迫感。
それでも二人は視線を交わし、互いの存在を確かめ合った。
「――行くわよ、エヴァン」
「ああ。ここで終わらせる!」
銀光の剣と輝く符板が同時に閃き、時間を裂く戦いが始まった。
鐘の化身が低く唸ると、重苦しい衝撃波のような響きが空間を支配した。
その瞬間――世界が止まった。
揺れていた燭台の炎は途中で凍りつき、舞い上がっていた砂塵は宙で静止する。
エヴァンの剣の軌跡も途中で固まり、セシリアが掲げかけた符板の動きも止まった。
呼吸も、まばたきすらも、止められる感覚。
時間という流れそのものが、鐘の響きに縛られていた。
エヴァンは歯を食いしばる。
身体が鉛のように重く、筋肉は動こうとせず、ただ剣を握る感覚だけがかろうじて残っている。
「……ぐ……動かない……!」
セシリアの意識もまた深い沼に沈み込むようだった。
それでも彼女の符板の文字だけは、かすかに明滅を続けている。
「……やっぱり……記す力は完全には止められてない……!」
エヴァンは微かに動く指先を感じ取り、無理やり声を絞り出した。
「……セシリア……どうにか……突破口を……!」
セシリアは符板の上に必死で意志を刻む。
止まる空間に、微かに文字が光のように浮かび上がった。
《動く》――たった一文字。
その文字が存在する限り、完全な静止は成立しない。
わずかに流れを乱された空間の隙間で、エヴァンの剣がまた一寸だけ震えた。
だが鐘の化身は低く鳴り響き、さらに強い波動を放った。
「……無駄だ……刻むものはすべて沈黙する……」
空気の層が押し潰されるように濃くなり、二人の意志すら飲み込もうと迫る。
それでもエヴァンとセシリアは互いに視線を交わした。
意識を奪われそうになりながらも、まだ抗う余地は残っている。
鐘の化身が響きを強め、空間を凍り付かせていく。
剣も声も止められるなかで、セシリアは必死に符板へと意志を刻んだ。
止まりかけた空間に、彼女の指先が描いた文字だけが淡く光を放つ。
《続く》
たった二文字。
それは「流れを断たせない」という意志そのもの。
その瞬間、消されていた祈祷文の断片が壁に浮かび上がり、バラバラになった記録が繋ぎ合わさる。
空間の凍結に細いひび割れが走った。
「……セシリア、これは……?」
エヴァンの声もようやく震えるように漏れた。
セシリアは荒い息を吐きながら、符板をさらに押し込む。
「記録は続く――その意思を刻み込めば、時間の鎖に穴が空く……!」
光の文字が連鎖的に現れ、凍り付いた空間の一点に亀裂を作った。
そこから流れ込む風が、静止していた砂塵を再び舞い上がらせる。
鐘の化身は低く唸り声を上げた。
「……やめろ……記すことは……影を呼ぶ……!」
胴に浮かぶ顔の数々が苦しげに歪み、叫びと共に鐘の響きを増幅させる。
再び全てを止めようとする波動が広がった。
だが、空間に空いた穴は塞がらない。
むしろそこから光が溢れ、静止した時間の中に流れを作り出していた。
エヴァンは剣を握り直し、穴の開いた方向へと踏み込む。
重力の何倍もの圧力に押し潰されながらも、一歩、また一歩と進む。
「……やれる……! セシリア、もっと繋げろ!」
セシリアは血を吐くように声を上げた。
「――記録は続く! 私たちが記し続ける限り、時は止まらない!」
符板の輝きが奔流となり、穴が広がった。
エヴァンはそこに剣を振り抜き、凍り付いた空間を裂いた。
裂け目から解き放たれた時間の流れが、一気に堂内を駆け抜ける。
止まっていた炎が揺らぎ、砂塵が渦を巻き、声が再び響き始める。
鐘の化身は大きく揺れ、呻き声を轟かせた。
「……許されぬ……記すことは……滅びを招く……!」
だが今、二人は動ける。
次はいよいよ決定的な反撃の刻だった。
鐘の化身は呻き声を上げ、全身の顔が一斉に叫び始めた。
「忘れろ! 沈め! 刻むな!」
その声は鐘鳴りの波動となり、再び時間を止めようと広がる。
だが、セシリアが繋げた記録の穴から流れ込む光が、それを押し返していた。
「エヴァン! 今なら――!」
エヴァンは剣を高く掲げ、叫んだ。
「俺の意思は――斬り拓くことだ!」
銀光を帯びた剣身に、彼の意志そのものが刻まれていく。
《抗う》――《続ける》――《守る》
文字が光となり、刃に刻印を刻む。
「止められてたまるか……! ここで終わらせる!」
一歩、二歩と踏み込み、鐘の化身の胴を正面から振り抜いた。
衝撃が空間全体を震わせ、鐘の化身は中心から裂けた。
胴に浮かんでいた顔が次々と光へと還り、囚われていた声が解放されていく。
「……ありがとう……」
「記してくれ……私たちを……」
鐘そのものは断末魔のような轟音を響かせ、黒い霧となって崩れ去った。
修道院を覆っていた影も霧散し、再び静寂が訪れる。
エヴァンは肩で息をしながら剣を下ろした。
セシリアは膝をつき、符板を抱えたまま空を仰ぐ。
「……やったのね」
「……ああ。もう、眠りの鐘は鳴らない」
二人の前には崩れ落ちた鐘楼の残骸と、淡く光る祈祷文の断片が残されていた。
それは、消されかけてもなお記録は続くことを証明するように輝いていた。
戦いが終わり、鐘の化身が消滅しても、修道院にはなお異様な空気が残っていた。
崩れた鐘楼の下、石床には黒い焼け跡のような痕が残り、触れると冷気を放つ。
そこには記録の欠片が刻まれかけては消え、まるで上書きされ続けているような歪な模様が広がっていた。
セシリアはその一部を符板に転写し、額に汗を浮かべた。
「……影は消えていない。少なくとも核を失っただけで、痕跡はまだ生きてる」
堂内の壁には、かつて修道士が残した祈祷文が刻まれていた。
だがその多くは白紙化しており、僅かに残った文字は不気味に反転していた。
「――影はまだ、どこかで記録を喰ってる」
エヴァンは剣を背に納め、低く呟いた。
白紙化した碑文の中に、ただ一つだけ残っていた言葉。
それは古代語で《門》。
その一語が、この地の異変が単なる局所現象ではなく、より広域の扉と繋がっていることを示していた。
修道院の外へ出ると、空は不自然に薄暗く、遠方の砂漠の地平には黒い靄が漂っていた。
風に乗って、かすかな囁きが届く。
「……まだ……終わらぬ……」
セシリアは眉をひそめ、静かに言った。
「ここは終着じゃない。……次は、門そのものを探らないと」
エヴァンは頷き、砂漠の空を見上げた。
「影は広がってやがる。いずれ王都まで届く……そうなる前に叩く」
修道院に残された痕跡、白紙化した碑文の《門》の文字、そして遠方に漂う黒い靄。
それらはすべて、影がより大きな広域現象を起こしつつあることを示していた。
二人は視線を交わし、無言のまま歩き出す。
その背後で、崩れた修道院の残骸はなお冷たく、静かに黒い気配を滲ませていた。
鐘の残骸が崩れ、修道院に静けさが戻ると、二人は奥の石棺の間へと足を踏み入れた。
そこには、いくつもの石棺が並び、蓋の隙間から淡い光が漏れている。
だが開けてみれば、その多くは既に空虚。祈祷と共に眠っていたはずの修道士たちは影に取り込まれ、肉体も魂も残されてはいなかった。
ただ一基――。
中に横たわっていたのは、まだ人の形を保つ老修道士だった。
胸の上下は微弱で、意識はない。だが確かに息がある。
セシリアは驚き、符板で簡易診断を行った。
「……生きてる。影に半ば呑まれかけてるけど、まだ戻せる」
エヴァンは頷き、その身体を慎重に抱き上げた。
「たった一人でも生きてたなら……救うべき価値はある」
さらに奥の石棺には、修道士の遺骸と共に、古代の記録媒体が収められていた。
石板には祈祷文の断片が刻まれ、骨片には呪文のような符が彫られている。
また、金属製の小さな容器があり、その内側に細かい刻印が走っていた。
セシリアは符板を走らせ、慎重に複写を進める。
「……祈祷文はほとんど白紙化してる。でも、一部にまだ読める箇所があるわ」
そこには《眠り手》《鐘》《門》という語が頻出しており、修道士たちが影の侵蝕を予見し、封じるための儀式を記録していたことが分かった。
完全な保存は難しかったが、残った断片だけでも重大な証拠だった。
エヴァンは石棺の蓋を閉じ、深く息を吐いた。
「ここで終わった連中も、これでようやく眠れるだろうな」
セシリアは記録群を袋に収めながら頷いた。
「ええ。でも門の記述が気になる……これはまだ序章にすぎないかもしれない」
二人は生存者と記録群を携え、崩れた修道院を後にした。
背後で残った影の痕跡が、なお黒い予兆を漂わせていることを知りながら――。
【王立記録局・提出報告書】
件名:探索任務報告書
任務名:《修道院調査:鐘の化身および影の眷属》
提出者:探索担当者 エヴァン・クロスフィールド、セシリア・ヴァレンタイン
提出先:王立記録局 特別探索課
1.調査経緯
王都フェル=グレイを出立後、北境砂漠を越え、対象修道院跡へ到達。
周辺住民・巡礼者より「記録消失」「鐘の響きの欠落」の証言を収集したのち、内部に進入。
2.確認事項
異常現象の実態
- 修道院内部にて記録(祈祷文・碑文)の白紙化を確認。
- 鐘の音が時間そのものを拘束する呪的作用を持ち、影の眷属を顕現させていた。
敵性存在
- 第一次戦闘:影の眷属(修道士由来と思われる影の残滓)を排除。
- 第二次戦闘:鐘の化身が顕現、時間停止の能力を有していた。
- 決戦において撃破を確認。鐘楼および修道院構造の一部は崩壊。
痕跡および予兆
- 壁面に残された古代語《門》の一語。
- 廃墟外郭より、黒い靄の残滓を視認。広域現象との連動が推定される。
生存者
- 石棺より老修道士一名を発見・救出。意識は回復せず。王都医療院に搬送済み。
記録群の回収
- 石棺内より祈祷文断片・骨文書・金属刻印容器を収集。
- 内容は影の侵蝕により大部分が失われているが、《眠り手》《鐘》《門》の語が頻出。
3.危険度評価
魔物危険度:★★★★☆(鐘の化身および眷属)
環境危険度:★★★☆☆(構造崩壊・精神的侵蝕)
特殊危険度:★★★★★(時間停止・広域連動の兆候)
4.結論
影の発生源は局地的に制圧したものの、《門》の記述および残留痕跡から、
本事象は他地域の記録消失現象と繋がりを持つと判断。
継続調査および広域対策が急務である。
【口頭報告・監査官室】
監査官ヴェルディンは書面に目を通し、低く唸った。
「……やはり門か。記録局内でも調査は進めていたが、現地での確認となれば話は別だ」
エヴァンは短く頷き、重い声で告げる。
「鐘は壊した。だが影はまだ広がっている。次はもっと大きな規模で来るはずだ」
セシリアは符板を抱きながら、淡く微笑んだ。
「記録は消えても、痕跡は残る。それを繋ぐ限り、私たちの戦いは続く……そういうことですわね」
ヴェルディンは二人の視線を受け止め、深く頷いた。
「よかろう。では次の調査地――広域現象そのものに踏み込んでもらう」
夜の王都フェル=グレイ。
記録局の会議室を出た二人は、まだ緊張の名残を抱えながら、静かな石畳の街路を歩いていた。
秋の夜風が涼しく、遠くに王城の尖塔が月光に照らされている。
エヴァンは深く息を吐き、鞘に収めた剣に手を置いた。
「……影を斬っても、まだ先がある。終わりがない戦いだな」
セシリアは符板を胸に抱き、ふっと笑う。
「ええ。でも、私たちが記す限り、終わりがないこともまた一つの記録になるわ」
石畳の途中、夜更けまで開いている小さな喫茶亭を見つける。
セシリアが足を止め、窓越しに灯りを覗いた。
「……寄っていきましょうか。温かいものを飲みながら、少しだけ人間らしい時間を思い出したいの」
エヴァンはわずかに目を細め、口元を緩めた。
「……そうだな。剣と影ばかりじゃ、息が詰まる」
店内は木造の梁がむき出しの簡素な造り。
だが焙じ茶の香りが漂い、壁には旅人が残した落書きが無数に刻まれている。
二人は隅の席に腰を下ろし、温かな茶を受け取った。
エヴァンは黙って一口すすり、身体を包む熱に安堵の息を漏らした。
「……戦いの最中には、こういう感覚を忘れてしまうな」
セシリアは頷き、茶器を両手で包むように持った。
「忘れるのも仕方ないわ。でも、こうして覚えておくことが――私たち自身を守るのよ」
外に出ると、王都の空は澄み切り、星々が瞬いていた。
だがその輝きの下、遠く地平の向こうには黒い靄が広がりつつあるのが、うっすらと見て取れた。
エヴァンが視線を逸らさずに呟く。
「……あれが広域の記録消失の兆しか」
セシリアは符板を握りしめ、小さく息を整えた。
「ええ。次はきっと、もっと大きな門が待っている」
二人は互いに頷き合い、足を再び王都の中心へと向けた。
休息の後に待つのは、新たなる探索任務――。
影の本質を暴くための、大規模な旅路が、もうすぐ始まろうとしていた。




