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第四話

 王都フェル=グレイ、中央区第四街区。

 鋳鉄の門を抜けた先、石畳に沿って建てられた古い建物が一つある。


 冒険者ギルド・王都本部。

 貴族の屋敷のように荘厳ではないが、内に燃える者たちの熱気だけは衰えを知らない。


 朝のギルドは喧騒と香ばしい焼きパンの匂いに満ちていた。

 木製の掲示板には依頼書が並び、受付カウンターでは新人たちが列をなし、

 ベンチでは身を預ける歴戦の傭兵たちがぼんやりと天井を眺めている。


 その中に、一組の特異なペアがいた。


 魔剣士、エヴァン・クロスフィールド。

 大魔導士、セシリア・ヴァレンタイン。


 どちらも、顔は知られていた。

 だが英雄としてではない――。

「書かれなかった戦いを終えた者たち」として、一部の記録士と、魔導研究者だけが知る名前だった。


「ずいぶん賑やかになったな。第三の文書の話、さすがに表沙汰にはなってないが……」


 エヴァンがパンを齧りながら呟く。


「記録に残らなかった事件なのだから当然よ。でも……ギルドの依頼が増えたのは事実。世界は確かに、揺らいだのよ」

 セシリアが紙束を眺めながら答えた。


「これを見て。低級依頼の中に一件だけ、封印破損の可能性ありって書かれてる」


「また封印かよ……」

 エヴァンは眉をひそめる。


「でも今回は違うわ。場所は王都から北西の港町オルビエ。灯台の下に古代碑文の基礎があるらしくて、最近の地震で構造が崩れかけてるんですって。そこに――不定形の音が聞こえるようになったって」


「不定形の音、って……また、名もない何かの残響か?」


「かもね。でも、碑文ということは、何かを封じる言葉が使われていた可能性がある。念のため、確かめに行く価値はあると思う」


 受付で依頼を受けると、対応に出たのはおなじみの年配のギルド係官だった。


「あんたらなら安心だが……気をつけてくれよ。オルビエの灯台は語りの海に近い。あの海には、過去の言葉が波の形で残るって噂があってな」


「過去の言葉、ね……」

 セシリアは札入れを確かめる。


「忘れられた物語のなかに、まだ読まれていない頁があるかもしれないわ」


 ギルドを出た二人を、春の風が包んだ。

 王都の空は晴れ渡り、塔の鐘が正午を告げる。


 エヴァンは剣の柄を軽く叩いた。

「行くか。港町オルビエ――次の物語が待ってる」


 セシリアは空を仰いで頷いた。


「今度は、書かれるかもしれない物語よ。私たちがどう動くかで決まる」


 こうして二人は王都を発ち、

 小さな依頼の先に潜む古代碑文と語られざる封印の謎へと向かう。



 王都から北西へと馬車を揺られて丸一日、

 エヴァンとセシリアが辿り着いたのは、港町オルビエ。

 石造りの町並みは潮風にさらされ、屋根瓦の赤が日に映える。


 かつて交易港として栄えたが、今では漁と観光を細々と生業にしている。

 静かで、美しい――だが、どこか寂しい音が風に混じっていた。


「……この匂い、懐かしいわ」

 セシリアが海に目を向けてつぶやいた。


「王都育ちじゃなかったのか?」

 エヴァンが肩越しに尋ねる。


「本の中で、ね。よく海辺の村で育った魔導士の伝記を読んでたのよ」


「ああ、なるほどな。夢見てたんだな、のどかな港町で呪いと封印に出会う人生を」


「皮肉?」


「ちょっとだけな」

 エヴァンは笑った。


 二人が訪れたのは、町の端に立つ白い灯台。

 灯火守の老人――オルステンと名乗る男が、依頼を出した張本人だった。


「……見ての通り、塔の根元が崩れ始めてる。基礎に使われていたのは、昔の石碑だったらしい。ここに来た連中が碑文に魔力の脈動があるって言ってな」


「あなた自身は?」

 セシリアが尋ねると、オルステンは視線を灯台の上へと向けた。


「夜になると、海から誰かの声がする。潮騒とは違う。もっと……語るような、懇願のような声だ」


「語りの海、というわけね」セシリアが指先に魔力を溜め、足元の地盤を調べる。


「古代碑文は確かに語りの封印に使われていたもの。音ではなく、言葉そのものを閉じ込める呪式の一部よ」


「それが……崩れかけて、漏れ出してるってわけか」

 エヴァンが剣に手をかけた。


 日が沈み始め、灯台の影が長く伸びる頃。二人は基礎の調査を終え、港の突堤へと出た。


 そこに広がるは、語りの海。凪いだ水面は穏やかで、美しい。


 だがその奥底から――かすかな響きがあった。音ではなく、意味だけが浮かび上がる声。


「……我は……ここに……残る……」


 セシリアが凍りついた。


「これは……名前を封じられた語そのもの……」


 声が続く。


「……誰か、我を……語ってくれ……」


 灯台の下。

 一枚の石碑が、かすかな振動を帯びていた。

 セシリアが手を触れた瞬間、碑文が輝く。


「だめ、封印が弱まってる……。このままでは語られなかったものが再構成されてしまう」


「つまり、また厄介な存在しなかったはずの存在ってやつか」

 

 エヴァンが剣を抜いたその時、空気が変わった。


 海の上、黒い霧が立ち上り――

 そのなかから、言葉の形をした怪異が姿を現す。


 残響体エコーシェイプ――語りの海に封じられていた、語の化身。



 海の霧が裂けた。

 灯台の光が届かぬ湾の先、黒い影が水面を滑るように現れる。


 それは、形を持たぬ声の具象だった。

 人の形にも見えるが、輪郭はにじみ、目も口もない。

 背から伸びた言葉の尾が、紙片のように海風にちぎれては、また再生する。


 エヴァンが剣を構える。

 その瞬間、影が動いた。


 ズバッ――!


 水面を滑るように突進。

 空気に文字が浮かぶ。

『切断』――それだけが浮かび、エヴァンの右腕に衝撃。


「くっ……!」

 刃を受けたのではない。

 言葉にされた動作が現実となって肉体を傷つけた。


「意味が……物理として攻撃に使われてるのか……厄介だな」


 セシリアは詠唱札を展開。

「これ、普通の物理術式じゃ防げない。意味干渉を遮断する詠唱障壁が必要になるわ」


 第二段階――記憶の侵食と詠唱の展開。

 残響体は距離を取ると、今度は空中に無数の単語をばら撒いた。

 それぞれが音ではなく、思い出として脳内に響く。


「後悔」「約束」「捨てた名」「真実」「誰にも語られなかったこと」


 セシリアの呼吸が乱れる。

 意識に侵入する未完の文章たち――記憶を物語に変えようとする力が彼女を蝕んでくる。


「……ダメ、これ……精神の中に語り直しを始めようとしてる……」


「書き換え、か。だったら――書き上がる前に叩き潰すまでだ!」

 エヴァンが突進。


 その間にセシリアは詠唱を開始。


《封語術式・第六環〈記述の終焉を告げる名無き結末〉》

 空間に六枚の札が展開され、灯台の地脈に共鳴を起こす。


「この世界に、あんたの名前はもう存在しないのよ……!」


 第三段階――斬語の一撃と封印の完成

 残響体が反応する。

 自らの背から尾を引く文字列――我という字を無数に連ねた触手が、空中から降り注ぐ。


『我』『我』『我』――その意味が連なるたびに、空間の自己定義が崩れ始める。


 カリスがいたら理論で突破するところだが、

 今ここにいるのは――


「お前の言葉に、意味はねぇよ!!」


 エヴァンの剣が、風を裂いた。


 魔導札と剣の接点で、彼の剣が一閃する。

 セシリアの術式が、残響の尾を捕縛し、

 エヴァンの剣が――我という語そのものを切断する。


 斬り捨てられたのは、名。


 それは、存在の根を失った怪物にとって致命だった。


 残響体が揺れ、言葉を喪失して崩れ始める。

 最後に、空間にただ一言だけが響く。


「……読んで、くれて、ありがとう……」


 そして、霧が晴れた。


 風が戻る。

 海は何事もなかったかのように静まり返り、

 灯台の白壁に、再び太陽が差し込む。


 セシリアは震える手で最後の札を取り出す。

 静語封印・シール・オブ・サイレントエピローグ


「この札は、語られなかったものを静かに沈めるためのもの。聴かれず、話されず、記されず……それでも、確かにここにあったという記憶だけを、残す」


 彼女の術は、かつて記憶と記録のあいだで戦った者のものだった。


「おやすみなさい。あなたはもう、語られなくてもいい」


 札が灯台の基礎に吸い込まれ、封印は完了した。。


「語られなかった声は、今度こそ静かに眠れる……」


 エヴァンが剣を肩に担ぎながら言った。

「ちゃんと斬って、ちゃんと読んでやったからな」



 灯台のてっぺんから町を見下ろすと、すべてが金色に染まっていた。

 沖へ向かう帆船の影。海鳥の輪郭。

 そして、どこまでも広がる語りの海は、今はただ静かに揺れていた。


 セシリアは灯台の縁に寄りかかり、海風に髪をなびかせていた。

 隣には、剣を横に置いてぼんやりと夕陽を眺めるエヴァンの姿。


「……なあ、セシリア」

 エヴァンがぽつりと呟いた。


「あの残響体……最後、なんて言ったんだ?」


「……読んでくれて、ありがとう――って」


 エヴァンは小さく笑った。

「そりゃあ、こっちの台詞だな」


「ん?」


「語られなかった物語も、読まれなかった言葉も、誰かが向き合えば……今になるんだよな。その瞬間だけでも、確かに存在してたって証明になる」


 セシリアは答えず、海を見ていた。

 潮風に、灯台の封印が静かに馴染んでいくのを感じていた。


「私たちは、物語を終わらせたわけじゃない。ただ、続きを望む声に、そっと蓋を閉じたの。それが、あの声にとっての救いになったかは……わからない」


「でもよ」エヴァンは立ち上がって伸びをする。「少なくとも、誰かに届いたなら、それでいいんじゃねぇか。俺はあいつに名前なんかつけないけど、あの時の剣は、確かに読んだと思ってるからな」


 日は落ち、海面が銀に染まる。

 灯台の光がゆっくりと回り始め、夜の訪れを告げる。


 セシリアが言った。


「今日の夕陽、どこか物悲しいのに、温かいわね」


「ああ、きっと物語の余韻ってやつだ」

エヴァンは肩をすくめて笑った。


「……じゃあ、そろそろギルドに報告か。報酬も貰わないとな」


「ええ。次の依頼の準備もしなくちゃ」


「また、封印か?」


「たぶん、今度は……読み違えられた神話よ」


 そして二人は、灯台を背に町へと戻っていった。

 潮の香りと、空に浮かぶ早い星を背に――。

 まだ書かれていない物語の続きを、歩き出す。


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