第三十八話
【王立記録局 発出文書:特別探索任務通達】
宛先:エヴァン・クロスフィールド殿、セシリア・ヴァレンタイン殿
発信:王立記録局・特別探索課
【任務名】
《探索任務:古代遺跡〈ヴァルヘリオン廟堂〉に眠る石棺の記録群》
【任務目的】
遺跡構造の現状調査
黒曜砂漠南縁に露出した古代遺跡〈ヴァルヘリオン廟堂〉の外郭・内部構造を調査し、異常現象の有無を記録すること。
石棺の記録群の回収と解析
遺跡地下の石棺に収蔵されていると伝えられる古代記録媒体(石板・骨文書・刻印容器など)を可能な限り回収。破損が予想される場合は現地複写を優先。
不明存在眠り手の確認
近隣遊牧民より「廟堂に入った旅人が眠りから戻らない」との報告あり。遺跡内部で作用している呪的要因、あるいは実体存在を確認し、危険度を評価。
【背景】
〈ヴァルヘリオン廟堂〉は古き王朝期に建造されたと推定される葬祭施設であり、地中深く埋もれていたため長らく所在不明であった。
しかし数ヶ月前の砂嵐によって入口の一部が露出し、複数の行商・探検者が立ち入ったものの、帰還者は皆「遺跡の奥で眠りに引きずられる声を聞いた」と証言している。
王立記録局はこれを重大危険事象と認定し、探索と記録を託す。
【危険度評価】
魔物危険度:★★★☆☆(砂漠棲生物、守護者存在の可能性)
環境危険度:★★★☆☆(崩落・砂塵・酸素欠乏)
特殊危険度:★★★★☆(眠り手と呼ばれる不明存在、夢幻作用の可能性)
【備考】
支給物資として《精神防護符》および《砂塵遮断の外套》を貸与。
記録群は形態を問わずすべて収集対象。魂魄に刻まれた記録の可能性あり。
行動時間は砂漠の昼を避け、主に夜間行軍を推奨。
署名:
王立記録局 特別探索課 課長
アウレリウス・ヴェルディン(印)
高窓から晩夏の光が差し込む、石造りの応接室。
机の上には、王立記録局から届いた封蝋文書が広げられていた。
セシリアは淡い息を吐き、指で紙面を押さえながら声を落とす。
「……黒曜砂漠の〈ヴァルヘリオン廟堂〉。記録群に、眠り手ね。今回も厄介そう」
対面の椅子に腰を掛けるエヴァンは腕を組み、眉をひそめた。
「夢に引きずられて帰れない……か。つまり敵は、剣や魔法で斬れるものじゃない可能性が高い」
「だからこそ、防護符や外套を支給してるんでしょうね」
セシリアは小さく肩を竦め、視線を彼に移した。
「でも結局、最後に突破するのは私たち。……覚悟はできてる?」
エヴァンは答えず、窓の外の陽炎を見つめた。
やがて立ち上がり、剣の柄に手を置いたまま短く言う。
「俺たちが行くしかない。――準備だ」
翌日。王都の市街で、二人は支給品を受け取り、旅支度を整えていた。
市場の広場では水甕を積んだ駱駝が列をなし、砂漠越えの隊商が出立の準備を進めている。
「精神防護符は首元に。砂塵外套は二重にして着た方がいいわ」
セシリアは旅装に身を包みながら、符を胸元に仕舞った。
エヴァンは革袋に水を詰め、駱駝の鞍に括り付けながらぼやく。
「……鐘の冷気も嫌だったが、砂漠の暑さも骨に堪えるな」
「文句を言う余裕があるうちは大丈夫よ」
セシリアは軽やかに笑みを浮かべるが、その瞳の奥には緊張が隠れていた。
日が傾き始める頃、二人は王都南門の前に立った。
石壁の向こうには、赤く染まる空と、黒曜砂漠へ続く街道が伸びている。
門兵が見送りの礼を交わすと、駱駝の鈴が涼やかに鳴った。
「……行こうか、セシリア」
「ええ。砂の下に眠るものを、記しに行きましょう」
二人は駱駝の背に跨り、ゆっくりと砂丘の彼方へ歩みを進めた。
背後に王都の塔が遠ざかり、前方には赤い砂嵐が、まだ見ぬ廟堂の在り処を示すかのように揺らめいていた。
王都を発って三日。
昼は灼熱、夜は冷え込み――黒曜砂漠は極端な顔を見せ続けた。
砂に焼かれた岩山の陰で休み、夜間に駱駝を進める。
照り返す砂丘の稜線は赤銅色に光り、遠くからは風に削られた砂礫の音がひたすら耳に残った。
その道中、二人は遊牧民の一団に出会った。
褐色の外套に身を包んだ長老格の男は、彼らを一目見ると深く首を振った。
「――廟堂に入るのか。ならば耳を塞げ。眠り手は声で人を縛る。我らは先祖の代から、その場所に近寄らぬと誓ってきた。だが、近ごろ若者が好奇心から足を踏み入れ、戻らなかった」
エヴァンが問い返す。
「戻らなかった、とは……遺体も見つからなかったのか?」
「いや、身体は戻った。だが魂は眠ったまま。目を開けても、何も見ていない」
長老の瞳が暗く光る。
「……石棺の底に囚われた王が夢を喰らう、と伝わっている」
セシリアは沈黙のまま防護符を握りしめた。
「……伝承が誇張でなければ、ここからが本番ね」
さらに進むこと一日。
砂丘の裂け目に沿って進んだ先で、崩れた天幕と散乱した水甕を発見した。
調査兵団の紋章が残る金具や、乾き切った馬具が散らばっている。
「……ここで一度、休もうとしたのか」
エヴァンが砂を払うと、地面には浅い足跡が残っていた。
だがその途中から――影のように消えていた。
セシリアはしゃがみ込み、指先で砂をなぞる。
「……足跡が途切れてる。砂に消えたんじゃない。歩いた者の存在そのものが、途中で眠りに飲まれた……」
「おい待て、あれを」
アルフレッドは月明かりに浮かぶ何かに近付く。
「これは……」
セシリアは確認した。それは石化した人だった。調査団のメンバーたちだろうか。
「一体どういうこと?」
アルフレッドは周囲を見渡すが、声を潜めて言った。
「行こうセシリア。嫌な予感がする」
風が砂を巻き上げる。二人は互いに無言のまま、装備を確かめ直した。
その夜。
月明かりに照らされて、黒曜砂漠の地平に巨大な影が浮かび上がった。
砂に埋もれた半ば崩壊した外壁――それが〈ヴァルヘリオン廟堂〉だった。
漆黒の岩に彫られた門柱は斜めに傾き、亀裂の隙間から青白い光が漏れている。
近づくにつれ、二人の耳に低い囁き声が忍び込んだ。
それは言葉ではなく、意識の奥を撫でるような誘い。
セシリアが符を胸に押し当てる。
「……始まったわね。これが眠り手の声」
エヴァンは魔剣を抜き、光の走る刃を月下に掲げた。
「遺跡の奥に踏み込むぞ。眠らされる前に、斬って進む」
二人は視線を交わし、廟堂の闇へと足を踏み入れた――。
黒曜砂漠の夜風が吹き抜け、月光を浴びた遺跡の外郭は、砂に埋もれながらも威容を残していた。
エヴァンとセシリアは崩れた外壁を回り込み、外郭を一つひとつ確かめながら歩を進める。
石壁の一部には、砂に磨かれた浮き彫りが残っていた。
半ば欠けた人影、頭上に掲げられた奇妙な円環、そしてその下で眠る群衆――。
「……これは葬送儀礼の壁画ね」
セシリアは指先で線をなぞり、眉を寄せた。
「眠り手はただの怪異じゃない。古代王朝は、意図的に眠りを神格化して祭祀していた」
エヴァンは横に描かれた碑文へ目を凝らした。
黒ずんだ刻印には、風化してなお残る古代文字が並んでいる。
「読めるか?」
「……断片だけね。声に従う者は眠りを得る。眠りに抗う者は石と化す」
言葉の響きに、二人は顔を見合わせた。
「……石になった奴ら、いたよな」
「ええ、あの途切れた足跡。つまり、眠りはただの比喩じゃなく、現実の呪的作用」
さらに奥、門柱の根元に埋もれかけた黒石板があった。
セシリアが魔力を流し込むと、刻印が淡く青白く光を放つ。
そこに浮かび上がったのは――
《王、永遠に眠る。
声は門を護り、眠りは記録を護る。
石棺を侵す者よ、夢より醒めざるべし》
読んだ途端、空気が重く変わり、エヴァンの肩に冷たい圧がのしかかる。
「……入口に近づくだけで、すでに作用が始まってるな」
セシリアは護符を胸に押し当て、唇を固く結んだ。
「ここから先は、意識そのものを狙われる。……一瞬でも気を抜けば、夢に落ちるわ」
遺跡外郭を一周し、二人は再び崩れた正門前に立った。
砂に埋もれた門柱の隙間から、青白い光が脈打つように漏れている。
その奥にあるのは――石棺の眠る廟堂の内部。
エヴァンは剣を抜き、刃を下げて光を反射させた。
「記録のために、進むしかない」
セシリアも杖を握り、深く頷いた。
「行きましょう。眠り手が何であれ、解き明かすのは私たちの役目」
二人は護符を確かめ、砂を踏みしめながら暗き門の中へ――。
崩れた門を抜けると、内部は外界と隔絶された沈黙に満ちていた。
石の回廊は長く、天井は低い。壁には青白く光る鉱脈が走り、ほのかな光を放っている。
その光は炎ではなく――夢の残滓のように、頼りなく揺れていた。
エヴァンは慎重に一歩を踏み出した。靴底が石を叩く音が、異様に遠くまで反響する。
「……妙だ。足音が遅れて返ってくる」
彼の声に、セシリアが短く頷いた。
「時の流れそのものが歪んでるのね。夢に近い空間……だから眠りを誘う」
進むにつれ、空気が重くなっていく。
視界の端に、誰もいないはずの影が横切り、耳の奥には低い囁きが滲み込んだ。
『眠レ……休メ……』
セシリアは防護符を握りしめ、額に冷や汗を浮かべる。
「護符がなければ、もう意識を持っていかれてた……」
一方、エヴァンの握る魔剣の刀身も軋むように震えていた。
「剣が……呼応してるな。ここに囚われた声が確かにある」
奥の小広間に差しかかった時、二人は石床に散らばる金属片と衣服の残骸を見つけた。
それは明らかに最近のもの――近隣村落の調査兵の装備だ。
しかし、兜の内側には人の姿はなく、石化に変じた姿が残っている。
「……存在そのものを石化させられたのか」
エヴァンが声を低くする。
セシリアは唇を噛み、杖を握りしめた。
「記録どおりね。夢に抗った者は石と化す。……ここで眠らされたのよ、彼らは」
さらに奥へ進むと、空気はますます濃密に変わり、頭が重くなる。
やがて通路が広がり、巨大なドーム状の空間に出た。
その中央には――円環に囲まれた石棺群。
十を超える棺が並び、その表面には古代文字が刻まれている。
棺の上方には、吊り下げられた黒い岩塊があり、そこからは絶え間なく青白い光と囁きが滴っていた。
「……これが石棺の記録群……」
セシリアの声がかすれる。
「でも同時に、眠り手の気配がここから溢れてる」
エヴァンは剣を抜き、石棺の群れに向き直った。
「――ここが決戦の場だな」
石棺群の中央に立った瞬間――空気が震え、視界が二重に揺らいだ。
青白い光が滴るごとに、思考が砂のように崩れていく。
エヴァンは剣を握り直すが、刃を見つめたまま、一瞬自分が誰なのかが曖昧になった。
――戦っているのか? それとも、ただ眠りに来たのか?
「……くっ……頭が……」
膝をつきかけた彼を、セシリアの声が引き戻す。
「エヴァン、しっかり! これは夢の侵蝕……! 意識を刻まれてる!」
彼女の周囲には淡い結界が展開されていたが、その表面を誰かの影が次々と叩きつけている。
囁き声が増え、複数の人物の声となって耳に直接入り込んできた。
『眠レ……』
『声ヲ渡セ……』
『夢ニ還レ……』
エヴァンは額を押さえながら立ち上がり、魔剣の切っ先を石棺群へ向けた。
「……声が……頭に……! これは眠り手の仕業か……!」
セシリアの瞳も揺れていた。
視界の隅に、かつての修道士の姿が見えた気がする。
祈りを捧げる僧衣姿、あるいは行方不明になった兵士の影……その輪郭が溶け、彼女の思考を絡め取っていく。
「――違う……幻よ……でも、このままじゃ……」
結界の内側でさえ、心拍が遅れ、言葉が遅れて響く。
時間そのものが夢のように引き延ばされ、意識を少しずつ削り取られていた。
石棺群の中央に立った二人に、青白い囁きが幾重にも押し寄せた。
それは耳からではなく、脳髄の奥に直接触れてくる声。
『眠レ……』
『夢ニ還レ……』
『記録ヲ渡セ……』
エヴァンは思わず剣を落としかけた。
視界が滲み、かつての戦場が瞼の裏に広がる。仲間たちの叫び、血の匂い――そして、剣を振り下ろした自分の手。
過去の記憶が、夢のように繰り返される。
「……違う……これは……」
彼は両腕に力を込め、魔剣を握り直した。
刀身に魔力を通すと、青白い刃光が僅かに周囲の影を払う。
「俺の意識は、俺の剣で守る……!」
一方のセシリアは、杖を構えたまま呼吸を乱していた。
視界の隅に、白衣の修道士が列をなし、口々に祈りを捧げる姿が浮かぶ。
その祈りの言葉が溶けて、やがて彼女自身の声に重なりかける。
自分の意思と、他者の声が区別できなくなる――。
「……これは、幻聴……記録の残滓が作用してるのね……」
セシリアは目を閉じ、意識を一点に集中させた。
防護符を胸に押し当て、低く詠唱する。
「――《精神防護結界・重奏式》!」
彼女の周囲に淡い光の環が広がり、囁き声の一部が遠ざかっていく。
しかし完全には遮断できない。
声はなお、彼女の心の奥へ食い込んできた。
エヴァンが彼女の肩を掴み、短く言った。
「セシリア、声を信じるな。お前の言葉は、お前だけのものだ」
セシリアは彼を見上げ、震えを押し殺して頷いた。
「……ええ。じゃあ、あなたの剣に合わせて――私の魔法で眠りを切り裂くわ」
二人は背中合わせに立ち、剣と杖を構える。
迫る囁き声が、なお強く、なお深く、彼らの意識を削ろうとしていた。
だが、剣と魔法の光が交わることで、夢に堕ちかけた意識はぎりぎりの均衡を保つ。
「来い、眠り手……!」
「ここで記すわ、あなたの正体を!」
石棺群の間に立つ二人の周囲で、囁きが次第に叫びへと変わっていった。
最初は低く、耳鳴りのように。だがやがて、声は重なり合い、壁を震わせ、空気を引き裂く。
『目ヲ開ケ……!』
『還セ……還セ……!』
『我ラハ眠ル……夢ハ続ク……』
石棺の表面が青白く脈打ち、やがてそこから影がにじみ出る。
影は修道士の姿を模り、祈りの姿勢を保ったまま足を引きずり、呻きながら近づいてきた。
その目は閉じられ、口は叫びの形をしたまま声にならぬ声を放っている。
「……これが、眠り手に囚われた者たち……!」
セシリアの声が震える。
兵士の鎧の輪郭も混じっていた。数日前に消息を絶った調査兵の顔が、そこにあった。
彼らは意思を持たず、夢の中で命じられるまま、両腕を伸ばして二人に迫る。
影に触れられた瞬間、エヴァンの視界が一気に白く塗り潰された。
剣を振るおうとした腕が、ふと止まる。
目の前に、かつて守れなかった仲間の姿が現れ――声をかけてくる。
『エヴァン……なぜ置いていった……?』
「違う……幻だ……!」
彼は咆哮し、魔剣を振り払う。
刃が光を引き、影の幻影を裂いた。だが裂けてもすぐに別の影が立ち上がる。
セシリアもまた、目を閉じた修道士の影に囲まれていた。
その口から発せられる叫びが、彼女の心を直接叩く。
『共ニ祈レ……夢ヲ護レ……』
彼女は胸の防護符に魔力を注ぎ込み、杖を振りかざす。
「……記録は夢じゃない! 語り継ぐものよ――《ルミナ・サークル》!」
光の環が広がり、影の一部が焼かれて砂塵に戻る。
だが、棺の数は十を超えている。解き放たれる声は止むことなく増え続けた。
叫びの群像が石棺の間から次々に立ち上がり、空間を満たす。
囚われた者たちの声は怒りとも哀しみともつかず、ただ夢の深みから響いてくる。
エヴァンは剣を構え直し、セシリアの背に声を投げた。
「こいつらは……本体じゃない! 声の残響だ!」
「ええ、でも放っておけば私たちも声にされる……!」
二人は背を合わせ、迫る群像を迎え撃つ。
次の瞬間――石棺群全体が轟音を放ち、中央の黒い岩塊がひときわ強く光を放った。
『――我ガ眠リヲ妨ゲル者……汝ラニ夢ノ終焉ヲ与エン……』
群像の背後に、より巨大な影が形を取り始めた。
石棺群からあふれ出した影の修道士と兵士たちが、次々に二人へ襲いかかる。
その数は十、二十……やがて数え切れぬほどに膨れ上がり、まるで夢そのものが兵となったかのようだった。
『還レ……還レ……!』
『眠リヲ妨ゲルナ……』
耳を打つ叫び声が、心を蝕む。
防護符の加護がなければ、ただその音だけで昏倒していただろう。
エヴァンは一歩踏み込み、剣を薙いだ。
青白い刃が影の群れを裂き、三体が霧散する。
しかし裂かれた影は砂塵に溶け、すぐに別の棺から新たな人影が這い出てくる。
「きりがない……だが斬るしかない!」
彼は次々に剣を振るい、群れを押し返す。
だが、そのたびに幻影が瞳に焼き付き、かつて失った仲間の顔が影に重なる。
剣を振るうたびに、心を抉られるような痛みが走った。
セシリアは後方から杖を掲げ、詠唱を響かせる。
「――《光波収束:アストラル・フレア》!」
杖先から放たれた光束が群れを貫き、十数体の影が一度に霧散した。
だがその直後、彼女の足元から別の影が手を伸ばし、裾を掴んだ。
「くっ……離して!」
セシリアは急ぎ護符を叩きつけ、爆ぜるような光で影を焼き払う。
しかし、その声はなお彼女の耳にまとわりついた。
『祈レ……祈レ……永遠ニ……』
一瞬、彼女自身の声が幻影と重なり、杖を振るう手が止まりかける。
その背を、エヴァンの剣光が払った。
背を合わせ、剣と魔法が交差する。
エヴァンの剣は影を裂き、セシリアの光は霧散した残骸を浄化する。
その連携がなければ、群れに呑まれるのは一瞬だった。
「セシリア、息は?」
「持つわ……でも、これじゃ永遠に終わらない!」
石棺群は絶え間なく新たな影を吐き出していた。
それはまるで、囚われた魂たちの叫びが尽きることはないと示すように。
群れを斬り払いながら、エヴァンは叫んだ。
「――本体を叩く! このままじゃ消耗するだけだ!」
「ええ、源を絶つしかない!」
二人の視線は、群像の背後で光を強める黒い岩塊――〈眠り手〉の核の方へと向けられた。
群れはなお彼らを阻もうと波のように押し寄せる。
だが二人は息を合わせ、最後の道を切り開くべく前進した。
群れを切り裂き、二人が石棺群の中央に踏み込んだその瞬間。
天井から吊られていた黒い岩塊――人のような形状をした巨石が、不気味な低音を放って震えだした。
石棺の一つひとつが共鳴し、棺に刻まれた古代文字が蒼白い炎のように浮かび上がる。
次の瞬間、囚われていた影たちの叫びが、すべてその内部へと吸い込まれていった。
『眠ル……眠レ……眠レ……!』
『時ハ止マリ、夢ハ続ク……!』
巨石の中で声が収束し、裂け目が走る。
そこから、無数の目と口を思わせる闇の亀裂が伸び、巨石そのものが「肉」を持つように歪んでいく。
やがて現れたのは――巨人の形を模した異形。
金属の外殻のような身体に、無数の腕が伸び、腕ごとに石の鎖が絡みついていた。
その顔は存在せず、代わりに裂け目が広がり、そこからは絶え間なく「声」が漏れ出している。
異形が一度、声を鳴らすように全身を震わせた。
――ゴォォォォン……!
耳を塞いでも意味のない、魂そのものを揺らす音。
エヴァンは剣を振り上げようとしたが――腕が、止まった。
呼吸が途絶え、心臓の鼓動さえも遅くなる。
「……っ……動け……ない……!」
世界が音を失い、色を失い、すべてが灰色に凍りついた。
セシリアの詠唱も、唇の動きが途切れた瞬間に凍りつく。
時間そのものを奪う、純粋な眠りの顕現。
ただ、微かな意志だけが残っていた。
エヴァンの魔剣が震え、刃に宿る力が鈍く光る。
セシリアの胸元の防護符が熱を帯び、彼女の瞳に小さな光が戻る。
異形が再び声を鳴らそうとしたその時――。
凍結しかけた時間の中で、二人はわずかに動きを取り戻し始めた。
灰色に凍りついた空間の中で、エヴァンの剣は虚しく空を切った。
刃は確かに振り下ろされたはずなのに、世界が時間を止めている。
攻撃は「行われた」という記録にならず、ただ空白として消えていく。
「……効かない……!」
彼は歯を食いしばった。
眠り手は全身を震わせるたびに世界を書き換え、行動の「記録」を封じていた。
セシリアは震える声で言った。
「……通常の術式は全部、時間に縫い止められる……なら――意志そのものを刻むしかない!」
彼女は杖を胸に抱き、強く目を閉じた。
詠唱を捨て、言葉を捨て、ただ自分の意思を魔力に込める。
彼女の周囲に展開した光陣は、形式を持たぬ揺らぎ――《未記述の魔力》。
その揺らぎは異形の時空支配をかろうじて弾き、わずかな裂け目を生んだ。
「エヴァン! 今だけ、動けるはず!」
エヴァンは息を呑み、魔剣を両手で握った。
彼の脳裏に浮かぶのは――これまで記してきた任務の数々。
フェイン=ルティアの預言、ラグナ=ヴェイルの碑文、影写の祭壇で見た声の刻印。
「俺は――記すために斬る!」
刃が光を帯び、炎でも雷でもない、純粋な「記録の軌跡」となって走った。
その斬撃は時間停止の中でも空白にならず、刻まれたという事実そのものを残した。
眠り手が呻く。
全身が揺れ、空間を灰色に塗り潰そうとする。
だが、セシリアの《未記述の魔力》が空間に裂け目を作り、
エヴァンの「記す刃」が、その裂け目を広げた。
『……眠リヲ……破ルナ……!』
異形の亀裂から、囚われた修道士や兵士たちの声が溢れ出す。
それは悲鳴ではなく、解放を望む叫びだった。
「セシリア、今だ!」
「ええ――これで記録する!」
二人の力が重なる。
エヴァンの斬撃が巨石の外殻を断ち割り、セシリアの魔力がその裂け目に「言葉」を刻み込む。
《眠リハ破ラレタ 我ラハ記録サレル》
その瞬間、巨石の異形は砕け散り、灰色の世界は崩壊。
凍っていた時間が解け、音も色も戻った。
廟堂に残ったのは、ただ冷たい石棺と、静かな砂の匂い。
異形は消えた。だが石棺の表面には、新たな刻印が残されていた。
《眠リハ記録トナリ、忘却ハ超エラレタ》
セシリアは杖を支えに膝をつき、深く息を吐いた。
「……やっと……終わったのね」
エヴァンは魔剣を鞘に収め、棺を見下ろした。
「いや……ここから始めるんだ。彼らが眠らされ続けた記録を、俺たちが繋ぐ」
二人は互いに短く頷き合い、石棺群の調査と記録を再開した。
勝利の余韻に浸る間もなく――探索者としての仕事に戻るために。
巨石の異形が砕け散ったあと、廟堂には静寂が戻った。
だがそれは安らぎではなく、深い眠りから覚めたばかりの息苦しさのように重く澱んでいた。
エヴァンは周囲を見回し、石棺の一つを手で押した。
「……声が止んだ。もう、誰も縛られていないはずだ」
セシリアは頷き、慎重に棺の封を解いた。
棺の内部には、古い白骨が安置されていた。
しかし、そのいくつかは近代の装束をまとっており、錆びた剣や調査用の器具を帯びていた。
「……数日前に消えた兵士たち……」
セシリアは布に覆われた徽章を拾い上げ、光にかざす。王国軍の紋章がはっきりと刻まれていた。
「遺体は……安らかに横たわってる。争った形跡はないわ。夢のまま、声に囚われていたのね」
エヴァンは黙って剣を下げ、一人ひとりに目を閉じてやった。
「無念だろうが、せめて記す。二度と忘れられぬように」
さらに奥の石棺を調べると、内部には骨ではなく石板や刻印容器が収められていた。
青緑の光を帯びた骨文書、蓋を閉ざしたままでも震えるような刻印壺――。
それらはこの廟堂がただの墓所ではなく、「記録を棺に納めるための施設」であったことを示していた。
セシリアは手にした石板を指でなぞり、低く呟く。
「これが……石棺の記録群。文字ではなく、夢を記録した痕跡ね。触れると意識に直接流れ込む……!」
「危険だな。だが無傷で持ち帰る」
エヴァンは魔剣を地面に突き、保護結界を展開した。
記録群を一つずつ魔導符に封じ、搬出できる状態にしていく。
全てを確認し終えたとき、石棺群にはもう影が残っていなかった。
ただ冷たい石の静けさと、数多の記録が眠る重さだけがそこにあった。
セシリアは肩の外套を整え、短く息を吐いた。
「……あそこに囚われていた者たちは、もう夢の中にはいない。彼らの声は、記録として残せたわ」
エヴァンは頷き、石棺を最後に振り返る。
「これで任務は果たせる。戻って報告だ」
二人は廟堂の扉を押し開け、黒曜砂漠の夜風の中へ歩み出た。
砂の匂いが、ようやく現実へ戻ったことを告げていた。
【王立記録局 提出報告書】
報告番号:R-EX-2317-VH
提出者:エヴァン・クロスフィールド/セシリア・ヴァレンタイン
任務名
《探索任務:古代遺跡〈ヴァルヘリオン廟堂〉に眠る石棺の記録群》
任務目的達成報告
1:遺跡構造の現状調査
黒曜砂漠南縁に露出した廟堂外郭を調査。外壁は砂嵐による浸食と半崩落が進むが、地下構造は大部分が健在。
内部は強い呪的残滓に覆われ、眠りを誘発する精神干渉が確認された。起源は廟堂中央部に存在する鐘型遺物であり、古代より祭祀と封印の双方の機能を担っていたと推定。
2:石棺の記録群の回収と解析
地下石棺群より、記録媒体計14点を回収。内容は石板・骨文書・刻印容器など。
特筆:一部媒体は「夢の残滓」を情報形式として刻んでおり、通常の筆記形式では解読不能。専用の精神共鳴解析を要す。
破損品3点については現地で複写・符術封入済み。
3:行方不明者の捜索
兵士・調査兵の遺体計5体を確認。いずれも争闘の痕跡なく、夢幻作用に囚われ死亡したと判定。
遺品および身分標識はすべて収容し、王国軍へ引き渡し可能。
特殊事象
廟堂の鐘は異形化し、《眠り手》と呼ばれる実体存在として顕現。時間停止作用を伴い、通常攻撃を無効化。
対抗には「記録そのものを刻む行為」および「未記述の魔力」の行使が有効であり、両名の協働により撃破を確認。
以後、夢幻干渉波は収束し、現地は安定化。
【王立記録局 内・口頭報告】
王都フェル=グレイ、記録局応接室。
課長アウレリウス・ヴェルディン、監査官代理エイディル・ローラン出席。
ヴェルディン:「……巨石そのものが異形と化し、時間を止める存在として顕れたと?」
エヴァン:「はい。通常の剣技も魔術も行動として記録されないまま消されました。
斬撃が残ったのは、記録として刻む意思を刃に込めた時のみです」
セシリア:「私も詠唱をやめ、形式を持たない魔力を展開しました。
時間の外にある未記述の力だからこそ、あの異形に干渉できたのです」
エイディル:「……つまり、廟堂の防衛機構は記録と忘却そのものを戦場に変える仕掛けだったと」
ヴェルディン:「興味深いが……同時に危険極まりない。
この種の異形が他の遺跡にも存在するなら、探索者の質そのものを選別することになる」
エヴァン:「ですが、遺跡は沈黙しました。今後の干渉波は発生しないはずです」
セシリア:「……ただし、夢を記録媒体とする文明の存在が確かにありました。
これは単なる埋葬ではなく、意識そのものを封じ込める試みです。
解析は急務でしょう」
ヴェルディン:「ふむ。了解した。報告は受理する。
遺品は軍部に、記録群は解析局に引き渡す。
諸君はしばし休養を取れ。……次の任務も遠からずだろうがな」
廊下を歩きながら、エヴァンがぼそりと呟く。
「……やれやれ、夢の中でも剣を振るえってか」
セシリアは小さく笑みを浮かべ、抱えた石板の一部を軽く叩いた。
「でも、それが記されたのなら――きっと無駄じゃないわ」
二人は扉を押し開け、王都の夕暮れの空気へ出ていった。
砂漠の熱も夢の重さも残る中で――新たな記録へ歩みを進めるために。
王立記録局への報告を済ませた翌日、エヴァンとセシリアは王都フェル=グレイの街路にいた。
夏の終わりを告げるような涼しい風が、石畳の上を抜けていく。
通りの角には屋台が並び、旅人や商人が夕餉のために立ち寄っていた。
焼きパンの香ばしい匂い、葡萄酒の甘い香りが混じり合い、戦いの緊張をほぐすように漂っていた。
「……剣を振るうだけの任務なら、まだいいんだがな」
串焼きを片手にしたエヴァンが、苦笑混じりにぼやく。
「夢の中まで踏み込む羽目になるとは思わなかった」
セシリアは肩を竦め、杯を口に運びながら応じる。
「でも、記録を残すってそういうことよ。形が残らないものまで、私たちの役目で掬うの」
「そうかもしれん……ただ、毎度命を削るやり方じゃ長くもたん」
そう言って彼は空を仰ぐ。
夕暮れの赤が尖塔の影を長く伸ばし、まるで過去と未来が交錯するようだった。
しばし沈黙ののち、セシリアが静かに言った。
「……昨日の廟堂でね、囚われていた兵士の一人が夢の中で『帰りたい』って叫んでいたの。たとえ声が記録されなくても、その想いは確かに残ってた」
エヴァンは目を細め、無骨な指で串の残りを口に放り込む。
「だから俺たちが記したんだろう。あの石棺に眠る声も、もう忘れられたものじゃない」
セシリアは彼を見つめ、小さな笑みを浮かべた。
「……そうね。あなたが剣で刻んでくれたから」
二人は屋台の灯りを後にし、並んで石畳を歩いた。
人々のざわめきが背後に遠ざかり、次第に静けさが戻っていく。
「さて……次はどんな記録が待ってるんだろうな」
「分からないわ。でも……きっとまた、忘れられた声に出会うはず」
黄昏に染まる王都の通りを抜けていく二人の足取りは、確かに疲れていた。
けれど、剣と杖を携える背は真っ直ぐに、まだ次の記録を刻む意思に満ちていた。




