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第三十七話

【王立記録局・特別探索任務通達】


宛先:エヴァン・クロスフィールド殿

   セシリア・ヴァレンタイン殿


依頼番号:第3127号/機密等級A-1

発信者:王立記録局・特別探索課

発信地:王都フェル=グレイ


【任務名】


《探索任務:氷牢修道院〈グラキエル〉に眠る時凍の鐘》


【任務目的】


遺構の現状調査

 北境山脈の氷河地帯に埋没した修道院跡を調査し、内部構造および異常現象の記録を行うこと。

 ※修道院は約三百年前の大雪崩により埋没したと伝わるが、近年の氷床変動により一部が露出。


時凍の鐘の所在確認と解析

 修道院中央塔に安置されていたとされる古代遺物時凍の鐘を発見・確認し、機能と危険性を評価すること。

 伝承によれば、この鐘は「時を留める音」を発し、信徒を永遠の祈りへ導いたという。


異常事象の調査と封鎖

 近隣村落および調査兵から「鐘の音を聞いた」「周囲が静止した」との報告が相次いでいる。

 現象の範囲・発生源を特定し、必要に応じて封印処置を行うこと。


【背景情報】


氷牢修道院〈グラキエル〉は聖暦七百年代に北境山脈中腹に建てられた修道会の本山であり、星火災禍後の混乱期には多くの信徒を保護した。

しかし大雪崩によって埋没し、以後消息不明とされていた。


今年に入り、氷床の崩落に伴い塔の一部が姿を現すと同時に、周辺地域で時間停止のような異常現象が報告され、調査兵二名が消息を絶つ。

残された水晶記録には「鐘が鳴ると時間が止まる」との断片的証言が残っていた。


【危険度評価】


魔物危険度:★★☆☆☆(氷棲獣の可能性あり)


環境危険度:★★★★☆(氷河崩落・極寒)


特殊危険度:★★★★★(時間凍結現象)


【備考】


《耐寒符》および《時間遅延解除符》を支給。


行動時間は日照のある間に限定し、氷河夜間帯での滞在は禁止する。


署名:

王立記録局 特別探索課 課長

アウレリウス・ヴェルディン(印)



 厚い石壁と高い天井に囲まれた応接室。

 窓の外には王都フェル=グレイの尖塔群が、冬の曇天の下でぼんやりと霞んでいた。

 机上には先ほど封蝋を解いたばかりの依頼文書が置かれ、二人は並んで目を通していた。


「……氷牢修道院〈グラキエル〉」

 エヴァンが低く読み上げる。

「時凍の鐘……時を留める鐘の音、ね。伝承の中だけと思っていたけれど」

 セシリアは巻物を指でなぞりながら、僅かに眉を寄せる。


 エヴァンは外套の裾を払って椅子に深く腰を下ろし、腕を組んだ。

「時間が止まる現象……剣で斬れるかどうか、怪しい相手だな」

「剣や魔法で片がつくなら、わざわざ私たちには回ってこないでしょう?」

 セシリアは唇に小さな笑みを浮かべ、視線を彼へ送る。


「環境危険度★★★★☆、特殊危険度★★★★★……。王立記録局も、これは命を懸けさせる依頼だと認めてる」

「だが放置すれば、王都近くまで鐘の響きが広がる可能性もある。……なら、俺たちが行くしかない」


 エヴァンの言葉は簡潔だったが、声の底に強い意志があった。

 セシリアは小さく頷き、巻物を筒へ戻す。


「決まりね。氷に閉ざされた祈りを暴く――止まった時間が何を意味するのか、確かめましょう」

「……ああ。鐘の音が未来を閉ざす前にな」


 二人は立ち上がり、扉を押し開けた。

 外には冷たい冬風が吹き抜け、王都の石畳を雪片が舞い始めていた。

 その向こう、北境山脈の氷河地帯が、彼らを待っている――。



 晩夏の朝。王都フェル=グレイの屋根瓦に薄い靄がかかり、水路の柳がゆるく風に鳴っていた。

 露台では果物売りが熟れた無花果を並べ、街路には熱の気配が早くも漂う。


 エヴァンとセシリアは王立記録局の搬入口で受領品を確認する。支給されたのは、高地用の防風外套と陽避けのフード、《冷却符》、簡易の日射対策薬、そして氷河帯向けのアイゼンと軽量の登攀具。

「今回は凍え死ぬ心配より、茹だる心配ね」

「山に入ればどっちも来る。体力は温存だ」

 二人は軽口を交わし、北門から街道へ踏み出した。石畳はほどなく土路に変わり、陽炎が遠い里山の稜線を揺らしている。



 黄金色に色づく麦畑、刈り入れを待つ葡萄棚、乾いた土と草の匂い。蜩の声が午後の光を深くする頃、二人は北上を続けた。

 日が傾けば、山の背から夕立が追ってくる。短い驟雨が熱を鎮め、乾けばまた土煙が立つ。その繰り返しの果て、峠の宿場町に着いた。


 囲炉裏端で、猟師上がりの宿主が噂を語る。

「暑い日ほど鳴くんだ。谷風が止んで、空気がぴたりと固まる。その直後に鐘が骨に響く。耳を塞いでも無駄さ。気がつくと、太陽が一つ分、低くなってる」

 セシリアは眉を寄せる。

「熱と静止の相関……氷ではなく、時の方が先に凍ってる」

「聞いたら終わり、か」

「聞く前に解析、聞こえたら即遮断。予定通りね」

 エヴァンは苦笑し、宿主は「無茶はするなよ」とだけ言った。



 さらに数日。街道は唐松の疎林へ、その先で高山の草原へと切り替わる。

 風に銀色の穂をなびかせる〈風鈴草〉、遅咲きの〈青星花〉が群れ、雪解け水の沢は昼だけ暴れ、夜には細い糸になる。

 日中は容赦ない日射、夕暮れは一気に冷える――晩夏の山の顔だ。


 やがて視界に、白い潮のようにうねる氷舌が現れた。夏でありながら息づく氷河。その側壁の奥、黒ずんだ尖塔が氷に噛まれたまま突き出している。

 セシリアは《冷却符》を軽く叩いて起動し、体表に薄い涼気の膜を展開した。

「暑さで判断が鈍るのが一番危ない。魔力の使いどころは絞るわ」

「ああ。ここから先は足場も腹も、冷やしすぎないようにな」

 ふと、風が止んだ。


 ――世界が一拍、黙る。

 蜻蛉が空で針のように止まり、草いきれさえ音を失う。

 すぐに蝉が戻り、沢がまた喋り出したが、二人の背筋には微かな寒気だけが残った。


「……今のが、時凍の鐘の余波」

「距離があるのにこの圧だ。近づけば骨まで凍らされる」

 エヴァンは鞘に触れ、セシリアは頷く。


 氷舌の縁へ取りつく。雪はないが、薄い氷皮の下に溶水が走り、ところどころで空洞が口を開ける。

 アイゼンを利かせ、ロープを結び、夏の光と氷の冷気が交わる境を慎重に渡っていく。


 尖塔は近い。

 晩夏の陽が黒い石に斜めの輝きを落とし、氷壁の奥から、鈍い鐘の胴鳴りのような低音が、胸の奥だけを叩いた。


「見えてきたわ――氷牢修道院〈グラキエル〉」

「時が止まる祈りの場所、だな。行こう」


 晩夏の空は高く、雲は薄い。

 熱と冷気、光と静寂の継ぎ目を踏みしめながら、二人は凍れる鐘の正体へ――北境山脈の心臓部へと進んだ。



 氷河の裂け目を越えた先、漆黒の尖塔の根元には、崩れかけた石段が氷に半ば飲み込まれながら残っていた。

 その上に佇むのは、苔すら生えぬ石造の拱門。彫刻は凍てつき、修道士の祈りの姿が歪んだまま氷膜に封じられている。


「……三百年を経ても、まだ形を留めている」

 セシリアが掌をかざし、微光を放って氷壁を透かした。

「魔力が石材に編み込まれてる。単なる建築物じゃなく、祈りそのものが術式として固定されてるのね」


 エヴァンは剣に手を置いたまま、足元を踏みしめる。氷は鳴き、ひび割れた石段が低い音を返した。

「術式が残ってるなら、まだ動いてる。……つまり、鐘も眠ってはいない」



 氷に塞がれた拱門の一部を、セシリアが熱の魔力で融かし、二人は身を屈めて中へ進んだ。

 内部はひんやりとした青光に包まれていた。壁面の水晶片が自発光を放ち、空間全体が淡く明滅している。

 廊下は長く、側面には祈祷室と思しき小部屋が連なっていたが、どれも扉は凍りつき、内部は暗闇に沈んでいる。


 進むごとに、温度が下がる以上の異常があった。

 ――音が消えていく。

 靴音も、布擦れも、息の音さえも。廊下を進むたび、まるで「存在が記録されなくなる」かのように音が奪われていった。


「……気づいた?」

 セシリアが唇を動かした。声帯が震えているのに、音が届かない。

 エヴァンは眉をひそめ、剣の柄を強く握る。



 次の瞬間――廊下の奥から「鐘の余韻」が迫ってきた。

 ――カァァァン……。

 低い音が鼓膜ではなく、直接骨を震わせる。


 その一打で、時間が一拍、止まった。

 蝋燭の炎が静止し、氷の滴が宙で凍りつく。

 エヴァンが剣を抜こうとするが、抜刀の動作すら半ばで固まる。


 ただ、セシリアの瞳だけが光を失わなかった。

 彼女は魔導符を握り潰し、淡い光の膜を張る。

 ――瞬間、時間の流れが二人の周囲だけに戻った。


「……これが、時凍の鐘の影響」

 セシリアの声は震えていた。

「鐘が空間ごと記録を止めてる。放っておけば、私たちの存在すら進まなくなる」


 エヴァンは冷や汗を拭い、魔剣を抜き放つ。

「なるほど……剣で斬れる相手じゃない、かもしれんが。――それでも、俺は斬る」


 二人は視線を交わし、さらに奥へ進む。

 氷に封じられた修道院の心臓部――鐘のある中央塔を目指して。



 鐘の余韻が過ぎ去った廊下を抜けると、広間に出た。

 そこは礼拝堂の一角らしかった。石の長椅子が氷に半ば沈み、中央には祈りの台座がひっそりと残っている。

 だが異様なのは、そこに刻まれた静止だった。


 ――人影がある。

 氷に閉じ込められた修道士たちの姿。

 祈りの姿勢のまま、ある者は聖典を掲げ、ある者は合掌を保ち、またある者は鐘楼へ駆け出そうとする動作のまま。

 そのすべてが、三百年前から一歩も進めずに止められていた。


「……彼らは、まだ祈っているのね」

 セシリアが囁き、掌を氷に触れる。指先に微かな脈動が伝わった。

「生きているわけじゃない。けど、死んでもいない。時間の外に押し出されてる」


 エヴァンは歯噛みして剣を強く握る。

「……祈り続けることが救いじゃない。これは囚われだ」



 さらに奥へ進むと、鐘の響きが濃くなるにつれ、空間の歪みも増していた。

 回廊の壁に掛けられていた絵画は、途中で色が凍り付き、筆の軌跡が宙で止まったまま。

 石床にこぼれた燭台は、転がる最中で止まり、炎も揺らめいた姿で固まっている。


 エヴァンが足を踏み出すと、床石の上で雪片が宙に舞い上がり、そのまま凍りついた。

「……鐘は空間そのものを記録途中で固定している。出来事を完結させないまま、封じ込めてる」

 セシリアの声は低く、震えていた。

「ここにいる限り、私たちの動きも記録の一部にされるかもしれない」


 そのとき、広間の奥に大きな影があった。

 氷に閉じ込められた修道院長らしき人物――両手を掲げ、鐘楼の方角に祈る姿勢で、半ば叫ぶような顔のまま止まっている。

 口の形は、鐘を呼ぶ言葉を紡いでいた。


「……最後の瞬間まで、彼らは鐘に縋った」

「その果てが、この牢獄だ」


 二人は視線を交わし、さらに奥――鐘楼への螺旋階段へと歩を進める。

 鐘の響きは確実に近づいていた。



 螺旋階段へ向かう前、二人は広間の脇にある細い通路に目を止めた。

 そこには三百年前の修道士たちの氷像とは異なる、比較的新しい痕跡が残っていた。


 床に散らばる革の靴跡、折れた槍の柄、そしてまだ錆びきっていない鉄兜。

 氷に封じ込められた人影は、粗末な修道服ではなく、近隣村落の兵装に似た鎖帷子をまとっていた。

 その姿勢は――剣を抜こうとしながら、まるで時ごと切り取られたように静止している。


「……最近の行方不明者。記録局の報告にあった調査兵か」

 エヴァンが低く呟く。


 セシリアは慎重に近づき、氷越しに兵の顔を覗き込んだ。

 瞳は見開かれ、口は叫び声の形のまま。

 だが声は届かず、動きは続かない。

「助け出すことは……できない。彼らの時は鐘に奪われてる。生も死も、進めないまま」


 エヴァンは剣を抜き、氷を一閃しようとした。

 だがセシリアが腕を掴んで止めた。

「斬っても無駄よ。彼らを縛っているのは氷じゃない。鐘の響きそのもの」


 剣先が震え、エヴァンは短く息を吐く。

「……なら、鐘を止めるしかないな」



 螺旋階段は氷と石が交じり合い、途中で凍り付いた血痕が段差を赤黒く染めていた。

 足跡は上へと続き、途中で消えている。まるで、そこから先は存在ごと削り取られたかのように。


 鐘の音はもう、鼓動と同じ間隔で響いていた。

 カァァァン……と低く、骨に染み入るように。

 一度鳴るたびに、二人の周囲の空間がわずかに止まり、色彩が抜け落ちる。


 セシリアが呟いた。

「ここから先が、鐘の本体――化身の領域」

「やっと核心に触れるってわけか」

 エヴァンは剣を強く握り直し、セシリアは魔導符を胸元に当てた。


 二人は視線を交わし、螺旋階段を一歩ずつ踏みしめながら、鐘楼の最上階――鐘の化身との決戦の場へと上り詰めていく。



 螺旋階段を上りきった瞬間、二人の視界に広がったのは、石と氷に囲まれた大空間だった。

 中央には巨大な鐘が鎮座していた――はずだった。


 しかし、それはすでに「鐘」ではなかった。

 青黒い金属はひび割れ、亀裂からは氷霧が漏れ出し、鐘の胴が歪にねじれながら腕のように伸びている。

 鐘口の縁は顎のように裂け、内部からは目玉めいた光が脈打っていた。


 ――カァァァァァン……ッ!


 鐘の化身が鳴動するたびに、空間は白く凍りつき、一瞬で色彩を奪われる。

 止まった雪片が宙に浮かび、空気そのものが凍結したように動かない。

 その領域は、鐘の響きが「時間を囚える檻」として広がっていく。


「……鐘そのものが、怪物に変じているのね」

 セシリアが顔を強張らせた。

「時を止める力……生き物じゃない。これは都市ごと祈りに縫い付けられた災厄だ」


 エヴァンは魔剣を握り、低く唸る。

「なら、斬るしかない。鐘ごと、この呪いを」



 鐘の化身は腕めいた鐘胴を振り下ろした。

 その衝撃は音ではなく「停止」であり、触れた空間は瞬時に止まる。

 石床に走った亀裂が途中で固まり、瓦礫が宙に浮いたまま凍結する。


 エヴァンはその停止領域を強引に踏み破り、剣を振り上げる。

 刃が鐘胴を裂くと、内部から氷霧と共に無数の時片――「過去の一瞬」が剥離して舞い散った。

 祈る修道士、倒れた兵、陽炎に揺れる街路……数え切れない過去の断片が鐘の肉体から流れ出していく。


「……時そのものを肉体にしている!? 破壊すれば、過去が溢れ出す!」

 セシリアは杖を掲げ、即興の防御術を張る。

「《時間結界・暫定式》――! エヴァン、短期決戦しかない!」


「分かってる!」

 エヴァンはさらに踏み込み、鐘の「口」めいた裂け目に刃を突き立てた。

 だが鐘は逆鳴動を放ち、衝撃で空間が逆巻く。

 エヴァンの動きが一瞬固まり、仮死のように止まった。


「……ッ!」

 セシリアが即座に詠唱を切り替える。

「《時流逆唱》! 鐘よ、私の声では止まらない!」


 魔力の反響が鐘を揺らし、エヴァンの身体が再び動きを取り戻す。



 鐘の化身が呻くように鳴動した瞬間――。

 裂けた鐘口から、冷気と共に無数の声が溢れ出した。


 それは音ではなく、魂そのものの嘆きだった。

「助けてくれ」

「鐘が……止まらない……」

「祈りが……終われない……」

 男の声、女の声、老いた声、若い声――そして最近消息を絶ったはずの調査兵や村の兵たちの声まで、幾重にも重なり合って響いてくる。


 エヴァンは剣を構えながら顔を歪めた。

「……こいつの体内に、魂ごと囚われているのか!」


 セシリアの眼が見開かれる。

「ただの記録じゃない……彼らの時間そのものが奪われて、鐘の内に封じられてる! 過去と現在が混ざってるのよ!」


 鐘の化身は腕を振り下ろすたび、囚われた声が断末魔のように叫ぶ。

 一撃ごとに空間が止まり、彼らの叫びが切り裂かれたテープのように途切れ、また繰り返される。


「俺たちが鐘を断ち切らなければ、この声は永遠に解放されない……!」

 エヴァンは剣に力を込め、震える空気を裂くように叫んだ。

「なら斬る――この鐘も、囚われた時も!」


 セシリアは杖を構え、呪文を切り替える。

「鐘に縫い付けられた魂……外から破壊すれば、ただ消えるだけ。――私が道を開くわ! 魂が抜け出せる裂け目を!」


 杖先に青白い光が凝集し、魔力の陣が鐘口へと走った。

「――《時流縫解クロノ・リリース》!」


 鐘の亀裂が光に縫いほどかれる。

 次の瞬間、内部に押し込められていた無数の声が、裂け目から光の粒子となって溢れ出した。

 それは苦しみの叫びから、祈りや感謝の囁きへと変わってゆく。


 鐘の化身は苦悶のように震え、残った鐘胴をさらにねじり、怒りの鳴動を響かせた。

 だがその声には、もう囚われた魂の嘆きは混じっていなかった。


「……これで、戦える」

 エヴァンは短く息を吐き、魔剣を正眼に構える。

「鐘の怪物――今度はお前だけだ!」



 鐘の化身は呻き声を失い、ただ「時の打撃」だけを放つ存在となった。

 鐘胴は歪にねじれ、鐘口の奥で蒼白い光が脈打つ。

 ――カァァァァァンッ!


 響いた瞬間、時間が断たれる。

 氷の粒は宙に浮いたまま落ちず、炎は揺らめいた姿勢のまま固まり、剣を握る手さえ止まろうとする。


「……っ!」

 エヴァンの動作は半ばで拘束され、筋肉が鉄鎖に縛られるように動かない。


 セシリアが即座に符を裂き、魔力を迸らせた。

「――《時流護壁》! エヴァン、今は私の詠唱でだけ動ける!」


 結界の膜が彼の身体を包み、わずかに動きを取り戻す。

 しかし次の鳴動で再び空間が止まり、解放と停止の狭間で全身に軋むような痛みが走った。



「……くそ……! これじゃ、動いた端から止められる!」

 歯を食いしばるエヴァンに、セシリアが叫ぶ。

「動きを記録される前に、存在そのもので叩き込んで! 意志で刻むのよ!」


 エヴァンは魔剣を高く掲げた。

 刀身に流し込むのは怒りや技巧ではない。

 ――「進む」というただ一つの意志。


 次の鳴動。空間が再び白く固まる。

 だがその静止した世界の中で、魔剣の刃先だけが震えていた。


「……止まれって命令には、従わない!」


 剣が一閃する。

 凍りついた空気を裂き、時間の膜そのものに切れ目を入れた。

 刃が進む軌跡に沿って、止まっていた雪片や炎が一斉に再び動き出す。



 鐘の化身が怒りのように震え、巨大な鐘胴を振り下ろす。

 衝撃は地を砕くよりも速く「時を奪う」波として広がった。


「――私が封じる! 今よ、エヴァン!」

 セシリアが詠唱を極限まで早め、氷の中に光の楔を撃ち込む。

 鐘の響きが結界に囚われ、一瞬だけ止まった。


「もらった!」

 エヴァンは渾身の踏み込みで距離を詰め、魔剣を鐘口の裂け目に叩き込む。

 刃が亀裂を縫い裂き、内部の蒼光を曝け出した。


 ――カァァァァァンッ!

 最後の響きが炸裂する。

 しかしそれは鐘の鳴動ではなく、鐘の心臓が砕ける音だった。



 空間を縛っていた力が解け、雪は落ち、炎は揺らぎを取り戻す。

 鐘の化身は崩れ、氷の粒子となって散り、静かに消えた。


 残されたのは、ただ一つの残骸。

 ――鐘楼の石床に転がる、小さな青黒い破片。

 それはもはや時を止める力を持たず、ただ冷たい金属の欠片となっていた。


「……やっと、止まったわね」

 セシリアは深く息を吐き、杖を下ろした。

「鐘に囚われていた時間も、魂も。解放された」


 エヴァンは魔剣を振り払い、破片を見下ろす。

「残ったこれは……証拠だな。記録局に持ち帰ろう」


 二人の吐息は、氷牢の中で白く揺れ、やがて静かな余韻に溶けていった。



【王立記録局 提出報告書】


提出番号:R-GLC-3028-A

提出者:エヴァン・クロスフィールド/セシリア・ヴァレンタイン


任務名


《探索任務:北境山脈氷牢修道院〈グラキエル〉の調査》


任務目的達成報告

1:施設の現状確認


修道院構造物は氷河に半ば埋没しつつも、外郭および鐘楼は原型を保持。


内部空間は「時凍の鐘」の影響下にあり、物理的劣化よりも時間凍結による静止現象が顕著に観測された。


礼拝堂・回廊・鐘楼にて、修道士の姿が氷の中で静止状態のまま保持されていた。これらは死体ではなく、時間外存在として固定されていたものと判断される。


2:「時凍の鐘」の確認と危険度評価


鐘そのものが変質・自律化し、「鐘の化身」として顕現。


主な能力は以下:


鳴動による時間停止領域の形成


内部に人間・生物の「時間」と「魂」を取り込み、鐘胴の一部と化す現象


空間・物質を「記録途中」の状態で静止させる拘束作用


鐘の化身は戦闘の末、撃破・消滅を確認。残留物として鐘の破片を回収済。


3:行方不明者の捜索


修道院内部にて、消息を絶った村兵・調査兵の複数名が凍結状態で存在。


鐘破壊後、彼らの魂は解放されたが、肉体は既に「時の外」で静止しており、蘇生不能と判断。


生存者は確認できず。記録局への「死亡扱い報告」とする。


結論


氷牢修道院〈グラキエル〉の異常は「鐘の化身」によるものと断定。


危険度:最高位(封鎖領域指定推奨)。


今後同種の「時を封じる遺物」に遭遇する可能性あり。対処には高位魔導士と魔剣士の連携が必須。


添付資料


鐘破片(封印済)


魔力干渉波記録(セシリア作成)


内部構造の簡易写図(エヴァン記録)


魂解放時の魔力反応ログ


提出者署名:

エヴァン・クロスフィールド

セシリア・ヴァレンタイン



 報告書提出後、記録局の一室にて。


 監査官エイディル・ローランが報告書を閉じ、深くため息をつく。

「……また人ならざる災厄と遭遇したか。局内でも意見が割れている。そなたらを危険任務に投じ続けるのは酷ではないか、とな」


「俺たちがやらなければ、誰かが飲み込まれる。それだけだ」


「鐘の中に囚われていた声を、まだ耳が覚えているわ。放っておいたら……あの悲鳴は永遠に続いた」


 ローランはしばし沈黙し、机上の封蝋印に視線を落とした。

「報告内容は上層に回す。鐘の破片はこちらで封印する……だが、正直に言おう。次の依頼はさらに重い。北境山脈一帯で、鐘と同種の祈りを縫い付けた遺物が眠っているとの報が入っている」


 エヴァンとセシリアは互いに視線を交わした。

 言葉は少なくとも、その目には「また行く」という決意が揺るぎなく刻まれていた。


 ローランは小さく苦笑し、二人に頷いた。

「……やはりお前たちか。では準備を整えろ。王立記録局は次の依頼を正式に送る」



 任務を終え、報告を提出した翌日。

 王立記録局の石造建築を後にしたエヴァンとセシリアは、街の中央広場を抜け、石畳の通りを並んで歩いていた。


 空は晩夏の陽を映し、雲は白く流れている。

 北境の氷牢で凍り付いた時間の響きをまだ耳が覚えていたが、王都の喧噪はそれを遠く押し流してくれていた。



「やっと普通の時間の中に戻ってきた感じがするわ」

 セシリアは街角の露店から漂う甘い果実酒の香りを吸い込み、ふっと微笑む。

「鐘に囚われたままじゃ、味も匂いも永遠に凍りついていたでしょうね」


「……俺は、少し静かな場所で落ち着きたい」

 エヴァンはそう答えながらも、セシリアの視線の先に並ぶ果実を見て苦笑した。

「甘い酒くらいなら、悪くないか」


 二人は広場脇の小さな飲食店に入り、昼過ぎの陽射しを受けながら木の卓に腰を下ろした。

 冷えた葡萄酒と焼きたてのパンが運ばれる。



 エヴァンは杯を傾け、口を湿らせながら呟いた。

「……鐘の中に囚われていた声。あれは忘れられないな」


 セシリアは静かに頷く。

「私もよ。あの瞬間、剣や魔法だけじゃどうにもならない記録されない悲鳴を聞いた気がした。……それでも、解放できた。あなたと一緒だったから」


 彼女の言葉に、エヴァンは短く笑みを返す。

「一人じゃ到底、あの鐘には届かなかった。……俺にできるのは斬ることだけだ。道を開いたのはお前だよ」


「じゃあ、お互い様ってことで」

 セシリアは小さく杯を掲げた。



 夕刻近く、王都の街並みに橙の光が差し始める。

 二人は店を出て、屋根の上を飛ぶ鳩を眺めながら石畳を歩く。


「……監査官の言っていたさらに重い依頼。来るわね、すぐに」

「覚悟はできてる。鐘の破片が証明してるだろう。あれは一つじゃない」


 セシリアは横顔を見つめ、小さく笑った。

「なら、少しの間だけでも普通の時間を楽しみましょう。次に凍りつく前にね」


 エヴァンは無言で頷き、街の灯火に照らされながら、二人は並んで歩き続けた。

 その歩みは、次なる記録への確かな余白となっていた。

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